明治35年11月 歌舞伎座 五代目尾上菊五郎最後の舞台 | 栢莚の徒然なるままに

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今回は明治時代に一時代を築いた名優五代目尾上菊五郎最後の舞台となった歌舞伎座の筋書を紹介します。

 

明治35年11月 歌舞伎座

 

演目:

一、里見八犬伝        
二、忠臣仮名書講釈
三、高時        
四、江島育根生児菊(青砥稿花紅彩画)  

 

因みにこの時だけ上演名が通常の「青砥稿花紅彩画」ではなく江島育根生児菊となっていますが 、これは明治34年10月に深川座でこの演目が作者である河竹黙阿弥の遺族に無断で上演されたのを端に発した裁判が遺族の勝訴が決まったばかりであり、元々菊五郎が黙阿弥に頼んで書かれた作品であった事から「自分が本家本元だ!」という意味を込めて改題したそうです。

また忠臣仮名書講釈は仮名手本忠臣蔵と共に一連の忠臣蔵物の嚆矢的作品である太平記忠臣講釈を改題した物です。

 

前回少し触れましたがこの公演のちょうど1年前に当たる明治34年11月の歌舞伎座公演の最中に頭痛と左足に生ぬるい液体が流れた感触に襲われその時はそれだけだったものの、公演終了後の12月6日、予定してた食事会の前に行われた余興の最中(しかも演じたのは今回と同じ弁天小僧でした)に脳溢血で倒れました。この時は慌てふためく周囲や主治医に対して「運ぶなら(担架でなく)戸板に布団を敷いて寝かしてくれ。川に流せば音羽屋の家の狂言の四谷怪談の戸板返しになるから」と冗談を言えるほどの余裕がありましたが、自宅に戻った時には既に左半身不随の後遺症が残り一時は「このままぐずぐず生きてたら家の者の迷惑になる上に菊五郎の名を汚す」と自殺まで考えるほど追い詰められたそうです。

その後懸命なリハビリを経て明治35年5月の歌舞伎座で復帰を果たしました。

しかし、左半身不随のハンデは演じる上で大きな支障をきたす為以前のような演技は難しく精彩を欠いていたと言います。

(それでも10月公演ではあの文七元結の左官長兵衛を不自由な体で初演したというから驚異的です)

 

配役一覧

 

その10月公演に続いての今回の11月公演に至ります。菊五郎は画像にもある様に矢間喜内と十八番の弁天小僧を演じています。

とは言え半身不随で満足に動けない為、團十郎と最後の共演となった忠臣仮名書講釈では寝たきりの役という事で支障は無かったものの江島育根生児菊では今まで通りというわけにはいかず、まず浜松屋の幕では通常花道から弁天小僧が女に化けて南郷力丸と共に店を訪れるのが通常の演出ですが、この時は代わりに日本駄右衛門が花道を歩いて浜松屋に入り舞台が回ると既に弁天小僧が浜松屋の店内に座っている所から始まるという異例の演出が行われました。

大見得を決めてからの退出も舞台を回転させて退出するという苦肉の演出を強いられ、続く稲瀬川勢揃いの場も普段なら花道に五人が出てくるのを省略して最初から舞台に5人揃っている形を取ったのに加えて満足に立てない菊五郎の為に舞台に鉄の棒を拵えて棒を借りて決めセリフを言うという状態でした。

この舞台を実際に観劇した岡本綺堂は著書で

 

見るに堪えないくらいに悼ましく思った」(「ランプの下にて 明治劇談」)

 

と書いているほどです。

そこまでした無理が祟ったのか前年に倒れた日から丁度1年後の12月5日に体調を再び崩した事で千秋楽2日前でこの公演は打ち切りとなってしまい、公演成績もまあまあと名優の最後の舞台としては寂しい終わりとなってしまいました。

 

菊五郎本人はこの公演が最後だとは考えておらず、翌36年3月の歌舞伎座の公演に御所桜堀川夜討のおさわと恋飛脚大和往来の忠兵衛で出演する予定でしたが2月15日に診察で訪れた主治医の自宅で二度目の脳溢血を起こして昏睡状態に陥り18日に死去しました。

本人にとっては体調もあって異例の演出にせざるを得ず不本意だったともいますが、誰もが最後の演目を選べず意外な役で終わってしまう人が多い中で自身の出世作で十八番の弁天小僧で終われたというのはある意味役者冥利に尽きると思います。

 

詳しくは次回の時に書きますが生前菊五郎は既に自分の亡くなった後の菊五郎の名跡に関して差配をしていた事もあり、既に決まっていた演目を急遽差し替えてまで襲名が行われ亡くなってから僅か1ヶ月弱で次の菊五郎が誕生する事となります。