明治39年6月 歌舞伎座 芝翫の復帰と高麗蔵の勧進帳と羽左衛門の助六初演 | 栢莚の徒然なるままに

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今回は再び歌舞伎座の筋書を紹介したいと思います。

 

明治39年6月 歌舞伎座

 

 

絵本筋書

 

演目:

一、南都炎上        
二、助六所縁江戸桜        
三、勧進帳        
四、魚屋茶碗(箱書附魚屋茶碗)        

 

この公演は明治36年10月以来、3年8ヶ月ぶりに五代目中村芝翫が歌舞伎座に復帰した公演でした。

 

まずは歌舞伎座の立女形の座にあった芝翫が何故3年もの間歌舞伎座を離れていた理由から説明したいと思います。

團菊が相次いで亡くなった明治36年に芝翫は同年代の八代目市川高麗蔵六代目尾上梅幸六代目市村家橘らと出演などで行動を共にする同盟、いわゆる「四人同盟」という物を結びました。元々はこの頃台頭していた新派に対抗して結成したそうですが、この4人が新派に対抗して歌舞伎座での慈善公演を関係者への根回しをせず彼等の独断で行い成功した事が大問題に発展してしまいました。

この時歌舞伎座は幕末の事業家で有名な後藤象二郎の義弟に当たる井上竹次郎なる人物が実権を握っておりました。

彼はかなりの吝嗇で有名な人物でしたが、今まで自分たちが仕切っていた慈善公演を俳優達に勝手にやられたと立腹して芝翫と険悪な関係にあった團十郎にこの事を密告した事で彼はこの同盟の存在を知り激怒してしまい直ちに弟子の高麗蔵を脱退させ、井上も梅幸と家橘にも脱退をけしかけて同盟を崩壊に追い込みました。

孤立無援となり形勢が悪い芝翫は仕方なく5月公演が終わると東京を離れて大阪の舞台に出演してましたが、9月に團十郎が亡くなった事で事態が急変して10月の羽左衛門襲名公演に参加しました。

因みにこの時芝翫は同盟を結んでおきながら結果的に裏切る事になった3人に対して

 

約束に反き、友情を缺くやうな同業者と、将来倶に舞台へ立つ事は出来ない

 

と憤慨していたものの、その内の1人である家橘が大阪の舞台に同座する事になり、稽古をする際に芝翫と会うなり

 

「(を切る仕草をしながら)やあ、兄さん、切腹切腹

 

と本来なら会うのも気まずいはずの関係とは思えない人を食った様な屈託のない明るさで挨拶をした事で流石の芝翫も思わず笑ってしまい怒る事が出来なくなってしまいこの一件を水に流したそうです。

流石は花の橘屋…

余談はさておき、上記の一件から芝翫嫌いになっている井上竹次郎は芝翫を差し置いて自分に懐いている七代目市川八百蔵を可愛がって座頭にしたがり、芝翫はそれに反発して東京座へと移籍してしまいました。

その結果、明治37年~38年ごろの東京の歌舞伎界の勢力図は以下の様になってました。

 

歌舞伎座:八百蔵、梅幸、羽左衛門、菊五郎、吉右衛門

 

東京座:芝翫、高麗蔵、猿之助、訥升、女寅

 

歌舞伎座の方は名前だけ見るとオールスター状態ですが、この頃はまだ若手であった菊吉に梅幸と羽左衛門も漸く売れ始めたばかりの状態であり、肝心の座頭の八百蔵自身が「芸があっても華が無い」芸風も相まって観客動員は凋落の一途を辿り、明治37年7月の公演では一番目の時の物が僅か6人(当時は今と違って一幕目以降に次第に増えていく事を考慮しても恐らく2桁)という公開総稽古歌舞伎座史上未だに破られないであろう最低観客動員数を作ってしまう日もある有様でした。

それに対して東京座は明治37年3月に桐一葉を上演して大ヒットを記録し、続いて乳姉妹沓手鳥弧城落月など新作を次々とヒットさせるなど絶好調であり、芝翫は桐一葉の時には給金を興行収入の歩合制にした御蔭で一財産を築いたというオマケまで付きました。

自身が打つ公演はどれも不入りが続いた結果、歌舞伎座の経営状況をみるみる悪化させてしまった井上竹次郎はとうとう芝翫を呼び戻す事を決意し今回紹介する6月公演に至りました。

 

前置きが長くなりましたが、紹介に移りたいと思います。

今回の主な配役は以下の通りとなっています。

 

南都炎上

平重衡・苅藻…芝翫

源頼朝…八百蔵

四郎永寛…高麗蔵

千手の前…梅幸

工藤祐経…羽左衛門

        
助六所縁江戸桜 

花川戸助六…羽左衛門

揚巻…梅幸

髭の意休…八百蔵

白酒売新兵衛…高麗蔵

白玉…菊五郎

曽我満江…芝翫

朝顔仙平…吉右衛門

くわんぺら門兵衛…尾上松助

福山のかつぎ…三津五郎

      
勧進帳

武蔵坊弁慶…高麗蔵

富樫…八百蔵

義経…訥升

四天王…菊五郎、吉右衛門、菊三郎、家三郎

        

魚屋茶碗

まむしの次郎吉…菊五郎

花垣七三郎…高麗蔵

手代友蔵…三津五郎

 

芝翫が主役の新作が1つと團菊が得意とした3つの演目を次世代の役者たちに演じさせるという趣向です。


勧進帳
後見には市川家のお師匠番こと三代目市川新十郎も出演しています。

まず勧進帳は東京では前年の團十郎三回忌追善公演以来であり今でも俗説で「1600回上演」と言われてる七代目松本幸四郎(当時は高麗蔵)が初めて弁慶を演じたのがこの時でした。(本当は本人が最晩年に語った1300回以上が真実だと思われます)

追善公演の時は一度は弁慶に決まりかけながらも寸前の所で猿之助夫人の泣き落としによってチャンスを逃しただけに満を以ての初主演となりました。因みにその猿之助はというと何とこの時大阪、京都、神戸で3ヶ月連続で勧進帳を演じていました

何故かというと團十郎没後から昭和初めごろまでは市川家の歌舞伎十八番を演じるには相応の版権料を市川宗家に支払うという暗黙の了解が存在していて前年の明治38年に大阪で助六が上演された時には團十郎未亡人が劇場と中村鴈治郎を告訴した事もありました。

その為、今回猿之助が勧進帳を大阪で上演すると決まった時に團十郎未亡人から巨額の版権料を要求されてしまい、興行主側も「だったら儲けを出す為にいっその事神戸や京都でも上演してしまおう」となり現在の「またかの関」と揶揄される上演乱発がここから始まりました。

さて話を戻すと元々ニンが合う上に高麗蔵も師匠が演じた時には必ず出演して見ていただけに台詞廻しや肚は師匠そっくりとの評判でした。

それだけに見物の評価は前年の猿之助の時と比較して「柄と台詞廻しは勝り、味と芸(延年の舞などの舞踊)では劣る」と評価され、「初役としては及第点」とされています。

 

高麗蔵の弁慶

 

ところで気になる残る2人についてですが富樫の八百蔵は「踊りの素養が無いこの人をこの演目に出すのは間違い」と手厳しく、義経の訥升に至っては「(芝翫と比べると)貴公子の末路には全然見えない」と散々な評価になっています。

昔の見物は今と違って超辛口ですね~

 

参考までに昭和20年に録音された勧進帳をどうぞ。

 

 


助六所縁江戸桜


一方の助六所縁江戸桜は團十郎没後初めての上演であり、助六を演じきれる二枚目役者がいなかったのもあって出演2回目にして初主演という異例の大抜擢を受けたのがリアル助六十五代目市村羽左衛門でした。

ニンだけなら高麗蔵の弁慶以上に恵まれ上記の逸話にもある様に天性の明るい性格からくる独特で華やかな芸風で技芸で劣る部分を補ってしまうとさえ言われた彼も初役の主役とあってか團十郎の娘である二代目市川翠扇にも教えを請いて臨んだそうですがこの時はあまりに九代目市川團十郎を意識しすぎたらしく、劇評にも

 

手探りで(演技)している。

 

台詞廻しも團十郎調ではなく市村調で艶を付けて言って欲しかった

 

という意見が並びました。

とは言え、日にちを置いて再度見た人によれば「大分見直し(持ち直し)てきて(る)(中略)芸にかけて巧者な所がある」とまで評価されるなど持ち前の華やかさを遺憾なく発揮して何とか無事務め上げたようです。

そして揚巻は本来であれば團十郎の最後の上演時にも務めた芝翫が演じてもおかしくはないのですが、この時は3年間離れている間に歌舞伎座の立女形の座にいた梅幸に遠慮してか揚巻を梅幸が務めて芝翫は曽我満江を演じました。

 

羽左衛門の助六

梅幸の揚巻も初役とあってか「時々台詞が世話(物)調になる」という欠点はあったものの、初役にしては上出来というくらいの演技で3年間歌舞伎座の立女形を務めた意地を見せこれまで実績において頭一つ先を行かれていた芝翫に漸く肩を並べる位にまでなりました。

 

梅幸の揚巻

 

その芝翫はというと「まるで明治時代の未亡人に見えて曽我の母には見えない」と意外にも評価は高くありませんでした。

勧進帳では散々だった八百蔵の意休も「所によっては(前回演じた)四代目芝翫より勝っている」と何とか名誉挽回する事が出来た様です。

意外にも高評価なのが白玉を演じた六代目菊五郎で「台詞廻しも良く、女になっていて余裕も色気もありよく研究している。(ニンに無い)大時代の遊女の趣を見せたのを褒めておきます。」とべた褒めされています。彼は後にくわんぺら門兵衛や助六、揚巻を得意役として戦後に至るまで何度も演じていますが白玉を務めたのはこの時1回のみであり後の歌舞伎界の頂点を極める大物の片鱗が伺えます。

 

 

南都炎上

 

そして鳴り物入りで復帰した芝翫は得意とする義経や揚巻を他人に譲る代わりに榎本虎彦が自身の為に書き下ろした新作「南都炎上」で主役二役を務めています。絵本番付を見ると主要な場面は芝翫演じる重衡はどれも座っている場面ばかりであり、二役の苅藻が天狗に責められるという新歌舞伎十八番の「高時」の換骨奪胎の様な見せ場もあるなど既にこの頃には鉛毒の影響で歩行を伴う演技に難があった芝翫でも演じやすい様に工夫されているのが本人も気に入ったのかその後大正4年4月、大正10年2月、昭和5年10月と都合3回にも渡って再演している事からもかなりお気に入りの演目であった事が伺えます。それだけに歌右衛門の死後は誰も演じなくなってしまい春日局同様に今では幻の演目となってしまっているのは残念です。

因みに芝翫は復帰にあたって東京座の時と同じく給金を歩合制にする事を条件とした為、自身の得意とする役を他者へ譲った事でこの興行が評判を呼び25日間の公演を8日間日延べして33日間打った大入りとなりまたも大金を得たそうです。

 

芝翫の平重衡

 
芝翫の苅藻
 

この後井上竹次郎は上手くいかない経営に飽き飽きしてた所に当時の元老であった伊藤博文提唱の国立劇場(後の帝国劇場)設立の話が持ち上がるや損したくないとばかりに株を売却して大阪から中村鴈治郎を呼んで引退公演を打ちさっさと引退してしまいました。

そして歌舞伎座は團菊が亡くなってから3年が経過し漸く次世代の主役と言える高麗蔵、羽左衛門、梅幸が漸く大役の主役を務め始めると共にいよいよ中村芝翫が座頭として君臨していくようになります。