明治44年1月 新富座 松竹の東京進出 | 栢莚の徒然なるままに

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今回は前回紹介した歌舞伎座と同じ月に行われた新富座の筋書を紹介したいと思います。

 

明治44年1月 新富座

 

演目:

一、荒木又右エ門

二、源平布滝引

三、碁盤太平記

四、恋染衣清水清玄

五、廓文章       
        
自分が持っている一番古い松竹が打った公演の筋書です。

まず何で松竹がこの新富座を拠点に活動してるのか、そもそも何故新富座が松竹の持ち物になってるのかも含めて解説したいと思います。

 

元々新富座は前身が江戸三座の一つである守田座(森田座)の系譜を引き継ぐ由緒ある劇場でした。

明治時代に守田座を新富座に改めた十二代目守田勘彌は劇場を改築して近代的な劇場を作り團菊左を始めて名だたる役者を出演させて明治歌舞伎の全盛期を築き上げ初期の歌舞伎座にも関わった歌舞伎史の歴史に残る興行主でした。

しかし、その代償として多額の借金(勘彌の死去時で80万円、現在の貨幣価値に換算して約38億円(!))を背負い遂には初代森田勘彌以来235年間もの長きに渡り代々所有してきた新富座を手放す羽目になりました。

 

松竹買収前の在りし日の新富座


その後新富座は勘彌没後の明治30年代前半は当時大流行した子供芝居の劇場としてそれなりの賑いを見せたもののあっという間に座格は凋落の一途を辿った上に所有者も転々とし明治37年11月に役者の初代中村芝鶴(六代目中村傳九郎)が1万2千円(現在の貨幣価値に換算して約450万円)で買い取りました。

改築した杮落し公演こそ中村芝翫を呼んで盛大に行ったものの、その後は明治39年11月の十三代目守田勘彌襲名披露を例外として一流の役者が出演する事は皆無となり、それどころか座主である芝鶴が出演する月以外は歌舞伎すら上演せず新派や当時流行していた曾我廼家劇を上演して何とか利益をあげているというかつての歌舞伎の中心地であった大劇場の威容の見る影もない惨憺たる有様でした。

その為に芝鶴は持て余し気味であった新富座を売却しようと考えていました。

 

 一方白井松次郎と大谷竹次郎率いる松竹はこの頃はまだ京都を本拠地にしていて初代中村鴈治郎を専属俳優にして明治37年に弁天座を借りて大阪に進出するなど新進気鋭の若手興行師といった立場でした。

少し前に触れましたが鴈治郎が明治39年に当時の歌舞伎座の経営者であった井上竹次郎の引退公演に呼ばれて15年ぶりに歌舞伎座に出演が決まった時に白井松次郎が事前交渉の際に田村成義と初めて対面し鴈治郎のマネージャーとして帯同しました。

その後明治42年10月に再び歌舞伎座に鴈治郎を招聘した際に再び帯同してきた白井は東京出身以外の全て人間を田舎者扱いして嫌ってた田村側の契約違反(歌舞伎座の技芸委員全員との共演を条件に出演を承諾したものの実際に上京してみると共演するのが芝翫、八百蔵、猿之助、高麗蔵、宗十郎のみでそれ以外は全員東京座の公演に出演が決まってたという件)に激怒してしまい、一時は出演をドタキャンする寸前まで行きかけたというトラブルがありました。

更に田村はこの時の公演に出資していた白井に配当金を渡す際に嫌がらせで全額1円札で渡すという酷い仕打ちをしました。

そういった田村の対応に「目には目を、歯に歯を」と報復を考えた白井は田村の息がかかっていない新富座に目を付け更に前もって芝鶴が新富座を売却したがってるという情報を得たのでその配当金を持って芝鶴の家を訪れてその日の内に売却交渉を成立させてしまい、権利登記を新富座がある銀座ではなくわざと歌舞伎座関係者の耳に入らない本郷で行い田村側の妨害を受けずに新富座を手に入れてものの見事に報復を成功させて田村を激怒させたのでした。
その後白井の急病もあって弟の大谷竹次郎が東京の芝居関係を手掛けるようになり明治43年3月から直営公演を開始し5月には實川延二郎(二代目實川延若)、四代目片岡愛之助、阪東長次郎(三代目阪東壽三郎)、二代目尾上卯三郎、四代目嵐璃珏ら松竹の専属俳優達を出演させて初めて歌舞伎を上演しました。

今回はその第2回目の歌舞伎公演に当たります。    

 

主な配役は以下の通り。

荒木又右エ門

荒木又右エ門…卯三郎

大黒屋長次郎…成太郎

桜井甚右衛門…勘五郎

庄吉…長次郎

松蔵…延二郎

 

源平布滝引

斎藤実盛…成太郎

瀬尾兼氏…璃珏

九郎助…勘五郎

小万…長次郎

奴淀平…卯三郎

 

碁盤太平記

大石内蔵助…延二郎

大石力弥…初代中村鴈童(初代中村鴈治郎の弟子)

お石…成太郎

千寿…璃珏

 

恋染衣清水清玄

清玄…璃珏

桜姫…成太郎

奴淀平…延二郎

 

廓文章

伊左衛門…延二郎

夕霧…九蔵

 

初回の5月公演の面子から愛之助が抜けて代わりに初代中村成太郎(中村魁車)が参加していて延二郎、成太郎の若手2人を二枚看板に脇を卯三郎、寿三郎で固めて上置きに璃珏を据えた座組となっています。

芸幅が無尽蔵に広い事で知られている両名共に殆ど出ずっぱりで主演(と相手役)を2演目づつ演じています。

また今回は東京の俳優から四代目市川九蔵と十二代目中村勘五郎が加わっているのが特徴です。

市川九蔵は前に紹介した七代目市川團蔵の実子で、中村勘五郎は十三代目中村勘三郎及び三代目中村仲蔵の弟子であった人で舞踊に秀でていたものの演技が人を小馬鹿にした様などこか投げ気味に見られるという芸風が損をして実力はあるにも関わらず小芝居を中心に活動していました。この人を小馬鹿にした風に見える演技は今回の劇評でも指摘されているのでどうやら本当にそう見えた様です。

 

劇評の話が出たついでに他の出演俳優の評価を見てみると

成太郎…巧いと思うだけで貫目、品格が乏しい(中略)重宝な役者だと思った。(徳田秋声)

延二郎…(役)幅も出来てきたし、芸も円熟してきた。(徳田秋声)

角々の決まりの芝居をして面白く演ってくれたのは全く延二郎の手腕。(関根黙庵)

卯三郎…(作)(作)共に相応の腕を持ちながら、兎角写実かぶれになりたがるので困る。(関根黙庵)

璃珏…演じる事も台詞もてきぱきしていて小型ながらに力があった。(徳田秋声)

芝居をせぬところに価値があるのに(中略)ああ無性でも困る。(関根黙庵)

と延二郎は概ね高評価なものの、残りの面々は劇評家の好みもあり一長一短といった感じです。

 

演目としては延二郎主演の碁盤太平記と璃珏主演の恋染衣清水清玄が最も評判が良かったそうです。

 

中幕

 

この様に新進気鋭の若手役者2人の活躍もあって大入りとまでは行かないまでもかなり入りは良かったそうです。

因みに2回目の公演にも若手のみで大看板の役者が1人も出演していない事からも分かる様に松竹はこの時期に後述する妨害行為もあるのを見越して東京の劇場関係者及び見物の反感を買うのを恐れて出演すれば大入り間違いなしである初代中村鴈治郎をあえて新富座に出演させようとはしませんでした。

しかし、今回を含む2回の実験的な公演を経て見物の反応も悪くないと確かめた上で帝国劇場へのゲスト出演に託けてこの年の5月の第3回目の歌舞伎公演では遂に鴈治郎が新富座に出演する事になります。

それによって松竹の東京進出は本格化する事になり今回の公演は言わばその橋頭堡を築く為であったといっても過言ではありません。

 

因みに今回の公演には実はもう1人東京の役者が出演する予定でした。

それは新富座に縁の深い十三代目守田勘彌で何でも新開場に当たり修築した際にタダでさえ風当たりの強い東京の見物への配慮なのか建物の正面に掲げられた守田家の定紋である片喰紋を残してくれたことに感激しての出演の予定でした。

しかし、当時彼は歌舞伎座の支店といえる市村座に属していた事もあり、田村成義が只でさえ癪に障る松竹の舞台に自分育てる若手が出演する事など許してくれるはずもなく激怒して没となり、勘彌が出演予定だった荒木又右エ門に穴が空きかけたそうです。(本来脇役の卯三郎が主役である荒木又右エ門を演じているのはその為です)

他にも出演する予定だった役者もいたそうですが、田村の妨害を受けて出演出来なくなったらしく本来女形ではない九蔵が夕霧を務めているのもそういった事情が関係しているそうです。

そんな妨害を受けながらも着々と東京での足場を踏み固め松竹が歌舞伎座を手にするのは初進出から4年後の事になります。