今回の筋書紹介はこのブログで初めての紹介となる帝国劇場の筋書です。
明治44年3月 帝国劇場
演目:
一、頼朝
二、伊賀越道中双六
三、羽衣
明治38年の構想立案から足掛け6年にも及んだ帝国劇場の杮落し公演になります。
前にも少し書きましたがこの帝国劇場は当初国立劇場を予定して計画が進んだ為、多くの政財界の要人が関わっていました。
創設に関わった主な関係人物を挙げるだけでも
()内は公職や職業など
・伊藤博文(総理大臣、元老)
・西園寺公望(総理大臣、元老)
・林薫(外務大臣)
・荘田平五郎(日本郵船理事、三菱四天王の一人)
・福沢捨次郎(福沢諭吉の次男、時事新報社社長)
・福沢桃介(福沢諭吉の娘婿、大同電力初代社長)
・大倉喜八郎(大倉財閥創立者)
・日比翁助(三越呉服店専務)
・田中常徳(キリンビール会長)
・手塚猛昌(日本初の時刻表を発行し時刻表の父と呼ばれる)
・益田太郎冠者(三井物産創立者益田孝の次男、大日本製糖専務、劇作家)
・西野恵之助(山陽鉄道運輸課長)
と下2人以外はどれも日本の政界、経済を牛耳る大物ばかりでした。
下の2人に関しても実務面で帝国劇場で腕を振るう事になります。
特に専務に就任した西野の活躍ぶりは目覚ましく、
・当初築地の予定であった建設地を交通の便や観客の移動距離を考慮して丸の内にする
・江戸時代以来の歌舞伎の陋習であった芝居茶屋、出方といった中間搾取者を排除する
・観劇しやすい様に全盛椅子席にする(当時は相撲でお馴染み升席で座って見てました)
・観劇中の飲食を禁止する
・座席販売を切符制にする
と当時の劇場関係者が頭を痛めていた問題やまさに現代の歌舞伎では当たり前になっている観劇マナーを最初に作るなど当時にしては革命といわれた様々な制度・ルールを作り上げました。しかしこれは彼にとっては昔取った杵柄に過ぎませんでした。
というのも肩書にある様に彼は山陽鉄道(現在のJR西日本の山陽本線や播但線を経営していた鉄道会社)でも今では当たり前になっている特急列車や寝台車を初めて導入した人物であり、彼にしてみれば椅子席や切符制など鉄道での慣習をそのまま劇界に持ち込んだだけでした。
むしろ西野の剛腕は役者の引き抜きにおいて冴えわたりました。
かつて歌舞伎座が開場する際に座主の千葉勝五郎は守田勘彌率いる四座同盟に金を渡して半ば屈する形で役者を融通してもらったのに対して西野は歌舞伎座の田村成義が作った劇場組合に屈する事無く、
「西野は鉄道の経験で芝居をやるらしいが、同じ客でも鉄道と芝居とは違うから、きっと失敗します」
と素人呼ばわりして馬鹿にした田村に対して
「どこの会社だってはじめは素人だ、(中略)素人だって誠意誠心さえあれば成功する」
と一歩も引かない構えを見せました。
彼の取った作戦は斬新かつシンプルで
・劇場のトップクラスの役者を狙いを定めて交渉する
・上記の人脈をフル活用してタニマチ筋から依頼をする
・交渉は原則役者本人と行う
・出演条件として年5回の興行開催を保証する+劇場側事情の休演の場合は給金を支払う実質的な月給制にする
という物でした。
この引き抜き作戦によって帝国劇場へ移籍した役者は以下の様になっています。
①尾上梅幸
前にも触れた様に創立メンバーの1人、福澤捨次郎は先代菊五郎の頃からのタニマチで梅幸自身も物心両面の支援を受けていました。
そこにきて帝劇専属女優の演技学校の指導役も務めているなど既に劇場側との関係もあって福澤からの依頼を断り辛い状況にありました。
また、彼自身も常に悩みの種であった役不足問題も相まって
「福澤捨次郎さんへの義理もあって、私としちゃあ、うんと云わなきゃならない羽目になっている。木挽町にいても成駒屋といふものがあるから、女形の私にしてみればどうしても分を食ふことになる。それで、実は肚を極めて丸の内(帝国劇場)へ乗込む気になった。」
と決意を語り座頭になるのを条件に移籍を決断しました。
田村成義によれば12月29日に梅幸と対面し移籍を告げられたそうです。田村も子供の時分から知る梅幸の抱える役不足問題を知っていた事もあり、反対や理不尽な条件を付ける事もなく移籍を了承する大人の対応をしたそうです。
②市川高麗蔵
当時明治座にいた高麗蔵も歌舞伎座の役者と同時期に交渉を受けていました。
高麗蔵は当時矢澤弦次郎という株式仲買人(今でいうと個人で行うファンドマネージャー)だった人物が仲介者となって明治座に移籍したのですが矢澤氏は高麗蔵と契約した分の給金を勝手に歩合制に変えた上に契約時の金額の半分しか渡さないという契約不履行を行っていた為に西野本人の交渉で上記の給金保証もあって即移籍が決まったそうです。
③尾上松助
当時68歳という高齢であった松助は帝劇からの依頼というよりも梅幸からの懇願もあって移籍を決意しました。
因みに音羽屋はこれを機に梅幸一門と菊五郎一門の2つに分かれる事になりましたが、内訳をみてみると
梅幸一門
梅幸
丑之助
松助…五代目の弟子
幸蔵…五代目の弟子
蟹十郎…五代目の弟子
菊四郎…五代目の弟子
梅助…五代目の弟子 移籍後役者は引退し頭取となる
菊五郎一門
菊五郎
榮三郎…六代目の実弟
菊三郎…五代目の弟子
音蔵…五代目の弟子
紋三郎…幸蔵の実子で五代目の弟子
芙雀…六代目の弟子
伊三郎…六代目の弟子
喜代次…六代目の弟子 |
琴次…六代目の弟子
と梅幸側は自身の弟子に加えて主に古くからいる五代目の門弟を連れて移籍し、菊五郎側は自身の門弟が中心の一門となりました。
④澤村宗十郎
本役である和事や娘役に加えて立役も出来る万能役者であった宗十郎はまず夫人に対して最初の交渉があり、その後本人との直談判となり給金面で一時は交渉決裂寸前になりそうだったものの、帝国劇場側が譲歩した事や3人の息子の将来性を鑑みて移籍したようです。
因みに何故最初に夫人と交渉したかというと宗十郎夫人は舞台上でも舞台の外でも何を考えているのか分からないとすら言われた旦那とは対照的で金庫番としてお金のやりくりや非常にタニマチ作りが上手かった為にまず夫人を納得させない事には宗十郎の獲得は不可能だったからだそうです。
夫人に最初に交渉をしている事や息子の将来を考えてという点では同時期に交渉を受けた段四郎と全く同じものの、夫人と交渉したものの息子の将来を考えて断った段四郎とは答えが異なっているのが対照的です。
⑤澤村宗之助
高麗蔵と共に明治座に出演していた宗之助も福沢捨次郎氏の影響と自身が長年小芝居での辛酸を嘗め尽くしているだけに息子には大劇場で活躍してほしいという父七代目澤村訥子の決断もあって移籍しました。
田村によるとこの頃上記の理由で訥子や宗之助は度々歌舞伎座への出演を懇願していたものの親類であるはずの宗十郎の反対で頓挫していただけにその宗之助と平気で帝国劇場に一緒に出演する宗十郎の手のひら返しには流石の田村も黙然としたそうです。
⑥尾上幸蔵
松助と同じく五代目の弟子であった彼はこの頃小芝居の舞台を中心に活動していましたが、松助同様に梅幸からの依頼があった事や小芝居で鍛えられた芸風の幅広さを買われて小芝居で活動する役者達の中から同じ菊五郎門下の菊四郎と共に参加する事になりました。
と、菊五郎の残留という予想外の出来事はあったものの歌舞伎座と明治座を中心に次々と大物を引き抜くことに成功しました。
そしてこの移籍組に松竹から交渉で1公演限りの条件で中村鴈治郎が加わり杮落し公演の座組になりました。
何故鴈治郎だけが例外的に上記の条件を無視して松竹と交渉したのかは鴈治郎本人も語ってないので詳細は不明ですが松竹側の資料や関係者の証言を踏まえて推測も交えれば
①松竹は田村の作った劇場組合には加盟していないので必要な時々に応じて松竹と交渉すれば役者を貸してくれる
②帝国劇場と松竹は何の遺恨もない上に松竹も田村と敵対状態であった為に貸すのを断る理由も無いので引き抜く必要が無かった
のが大きな理由だと思われます。
一方松竹にとっても鴈治郎本人が出演に前向きなのに加えて
①新興勢力である帝国劇場に貸しを作る事は悪い話ではない
②同時に松竹が買収していた東京の牙城である新富座に鴈治郎を出演させるタイミングには持ってこいだった
③田村が新富座買収の報復に当時大阪で松竹と対立してた高木徳兵衛の持つ再建された浪花座の杮落とし公演に芝翫、羽左衛門、梅幸、宗十郎、仁左衛門などの歌舞伎座の幹部役者を送った事に対する報復
などの理由もあり、鴈治郎の帝国劇場出演を認めたのではないかと思われます。
話が大分長くなりましたが、いよいよ杮落し公演に触れてみたいと思います。
主な配役は以下の通り。
頼朝
源頼朝…高麗蔵
北条時政…松助
北条義時…宗之助
加藤景廉…宗十郎
関屋八郎…幸蔵
北条政子…梅幸
浦代姫…森律子
伊賀越道中双六
唐木政右ヱ門…鴈治郎
誉田大内記…高麗蔵
お谷…宗十郎
宇佐美五右衛門…松助
桜田林左衛門…幸蔵
乳母松江…梅幸
志津馬…長三郎
おのち…扇雀
羽衣
羽衣天女…梅幸
三保蔵…高麗蔵
伯了…宗十郎
磯七…宗之助
頼朝
一番目の頼朝は懸賞応募に当選した新作です。曽我物語という軍記物に記された話を基に頼朝と政子のW主演という体裁で作られていて高麗蔵と梅幸という二枚看板を出演させるのに打ってつけだった為選ばれたようです。
因みに頼朝と羽衣には帝国劇場附属技芸学校出身で専属女優の森律子、初瀬波子、村田嘉久子などが女性役で出演しているのも帝国劇場ならではの特色と言えます。
頼朝の高麗蔵と梅幸の政子
梅幸の政子
後に帝国劇場では女優劇も上演するようになり、歌舞伎の演目にも支障が無い限り出演するなど独自の路線を売りにしました。
伊賀越道中双六
伊賀越
鴈治郎の唐木政右ヱ門
続いて二番目の伊賀越道中双六は鴈治郎の得意役ですが、今日でも繰り返し上演される沼津ではなく敢えて国立劇場の通し上演でも無い限り滅多に上演されない前半の奉書試合と饅頭娘を上演しているのがポイントです。
何故沼津や岡崎を上演しなかったのかについては劇評にもあるように帝国劇場故の欠点があったからと言われています。
この劇場は歌舞伎以外にも女優劇やオペラといった他ジャンルの演劇を上演する事を想定してか歌舞伎にとっては無くてはならない花道が仮設で取り外しできるようになっていました。それだけなら兎も角、その花道が斜めに傾斜している上に通常より短いという致命的な欠点がありました。ご存知の方も多いかと思いますが沼津は演出上花道と客席を使うだけにこの時は断念し、花道の重要度が高くない奉書試合と饅頭娘を選んだのではないかと思われます。
こういった劇場の構造故の欠点はあったものの、新劇場の開場という期待に応えて客演の鴈治郎を始め専属俳優達も、
鴈治郎…「第一に形がいい。全て廉々が格に入ってた」
宗十郎…「親の許さぬ不義をして家出したという(役)所がはまっていた」
と手放しで褒められています。
そして羽衣では「もしこの興行が失敗に終わったら役者を廃業し田舎へ引っ込もう」とさえ決意していた梅幸も
「宗十郎の伯了の他、高麗蔵と宗之助が漁師の振事は当座の粋を抜いて良く、梅幸の天人は第一位に(品)位のあるのを良しとする」
と高評価で興行収入も6日間日延べする大入りとなり座頭としての面目を保ち、楽屋でシャンパンを抜いて祝うほどの喜びようでした。
空飛ぶ五代目菊五郎空飛ぶ六代目梅幸の天人
一方表面上は幹部俳優の引き抜きなどにも大人の対応をしていた田村成義ですが、内心はやはり腸が煮えくりかえっていたらしく帝国劇場への当て擦りの様に
・杮落し公演の行われた3月は休演し、役者達には1ヶ月分の給金を支払う(帝国劇場の給金保証のパクリ)
・4月以降の歌舞伎座公演で帝国劇場が花道を使用する演目に難があるのを知ってわざと花道をよく使う演目を上演する
など玄人としての意地悪を見せた他、当時雑誌に連載し後年出版した事実上の暴露本「芸界通信 無線電話」の中でこの時の公演を
「(頼朝の評価について小道具の)鳩が一番の出来でした。」
「(会場に際して行われた式三番について)ローマ字で看板を書いたようなもの(歌舞伎好きにも能好きにも不評で受けないという意味)
とボロクソに罵っていまて余程腹が立っていたのが分かります。
因みにわざと花道をよく使う演目ばかりを上演した歌舞伎座の筋書はこちら
田村の書いた芸界通信 無線電話
そんな田村の怒りをよそに帝国劇場は成功の勢いに乗って劇場を休ませる事無く4月、5月の公演を新派や女優劇を上演し6月に再び歌舞伎公演を行いました。
その6月公演の筋書を次回紹介する予定です。