今回は正月元旦に紹介した九代目市川團十郎三年祭追善公演に関連して少し時代を遡って明治時代の歌舞伎座の筋書を紹介したいと思います。
※注:今回の筋書に出て来る役者名は当時名乗っていた名跡で記しますのでご注意ください。
明治44年4月 歌舞伎座
演目:
一、吉野拾遺
二、勧進帳
三、伊賀越道中双六
四、弁天小僧
こちらは時系列的に言うと以前に紹介した明治44年1月の歌舞伎座公演の後に当たり、帝国劇場の杮落し公演の翌月の公演に当たります。
参考までに1月の歌舞伎座の筋書
3月の帝国劇場の筋書
帝国劇場の筋書にも書きましたが、3月公演こそ「金持ち喧嘩せず」で帝国劇場との全面衝突を避けて公演を開かず当てつけの意味もあって幹部役者達に給金だけ支払う事で大人の対応をした田村成義ですが、内面はやはり怒り狂っており、帝国劇場が花道が無い事を良い事に花道を使う演目ばかり並べ立てるなどその反動が今回の4月公演に露骨に表れているのが特徴です。
田村成義の怒りに満ち溢れた宣言文その1
主な配役一覧
吉野拾遺
さて、話を元に戻すと一番目の吉野拾遺は榎本虎彦が書いた新作物で南北朝時代を舞台に北朝と南朝双方に所属し南北朝の統一に尽力した楠木正成の三男楠木正儀を主人公として史実と同じく南北朝の統一を願う正儀が三種の神器を奪うべく潜入した右衛門佐光康とのやり取りを経て急新派が多い南朝では両朝統一の道が遠のくとして北朝へ寝返るまでを描いています。
何かと毀誉褒貶が多い榎本作品にしては珍しく海外の翻案でもなく普通の時代物として書いていますが劇評では
「脚本としては新味がなく、狙ひ處の解からないものでありましたが、筋の運びサラサラしていて、渋滞しない處が良かったといふ事でした。」
と盛り上がる部分もない代わりにダレもしないという至って平凡な評価に終わりました。
勧進帳
そして中幕の勧進帳は御存知歌舞伎十八番の代表作の一つで前回の三年祭追善公演と同じく段四郎が弁慶を務めている他、富樫を羽左衛門、義経を菊五郎が務めるという配役になりました。記録映画になった勧進帳にも羽左衛門と菊五郎が出演している事からすっかりお馴染みに思われがちですが、羽左衛門はこの後大正6年の十五年祭追善公演を最後に
「俺は藤間(七代目松本幸四郎)の弁慶じゃなければ富樫はやらねえよ」
と語り幸四郎の時のみしか富樫を演じなくなった為にこの組み合わせは最初で最後の組み合わせとなりました。
劇評ではまず弁慶の段四郎について
「段四郎の弁慶の惜しむべきは、その風姿に於ても、科白に於ても古典式の崇重を欠いていることである。彼はややもすると下品になる。世話がかりになる。又その音調の足らぬ為、長き朗読や長き台詞が持切れぬ。しかし、富樫が引込んでからは、この人の妙所が発揮される。「終に泣かぬ弁慶も」は勇士の愁嘆らしく「判官御手」の件も情に細かく、「鎧に添ひし袖枕の悲壮な振も大きく、富樫が二度目の出になって「人の情けの盃」から「面白や山水」のあたり、流石に段四郎ならではと思はれた。この前もそうであったが、要するに上半分に失敗して下半分に成功している。」
「段四郎の弁慶はいかにも顔に威権がないので押出しが利かない。(中略)この人などはもっと芝居にしてしまう方が好いのではないか。「勧進帳を読めと仰せ候や」の思い入れ、「心得て候」の目の使いかたも大芝居だ。(中略)その代り「感心してぞ見えにける」の弁慶の元禄見得は楽にして市川流の骨方が見えた。(中略)「疑えばこそ」を緩やかにうるめて言うせりふ廻しはちょぼが入りそうだとの悪口もあるが、巧いものだ。盃事になってから愈々楽だ。(中略)何の彼のというものの、矢張りこの一幕が一番面白かった。」
と花道の出から勧進帳の読み上げの部分では荒事慣れしてない故か息が持たない部分を批判されつつも、舞踊で鍛えた事もあり後半の延年の舞や六法などは評価されるなど一長一短の出来栄えだったそうです。
とはいえ、段四郎は今更型を変える事はせずにこの後も師匠とは異なる芝居が入った独自の弁慶を演じて次に紹介する十五年祭追善にも演じる事となります。
余談ですが、この公演のある最中に吉原で大火があり、段四郎は自宅が全焼する憂き目に遭いました。幸いにも家族に死傷者はなく、同時に夫人が経営していた澤潟楼という遊郭も全焼してしまい、これを機に廃業した事が美談となりました。
江戸時代から遊郭と芝居小屋は「悪所」としてお上から忌み嫌われつつも「必要悪」として長きに渡り関係が強くありましたが、明治時代に入り劇場が移転し始めると関係が徐々に疎遠になりつつありましたが、この件はその事に更に拍車をかけ歌舞伎と遊郭との立ち位置の変貌が決定的になりつつあった事を伺わせてくれます。
段四郎の弁慶
そして一座に義経役においては無類の上手さを誇る芝翫がいるにも関わらず敢えて今回が勧進帳初出演にして初役で義経を演じた菊五郎は
「菊五郎の義経は、宗十郎や門之助よりも位があった。」
「菊五郎の義経、馬鹿に美しい。何処かに若輩な所も見えるが、本行では子方から出るくらいに哀れ気に見せる役としてあるから、それも好し。」
と彼の実父五代目菊五郎も義経を得意役にしていたとはいえ、彼もまた初役とは思えない品の良さを評価されました。
この時菊五郎は25歳。初役の義経が予想以上の出来だった彼は前に紹介した通り大正3年には弁慶を演じるなどその才気煥発な部分を遺憾無く発揮する事となります。
弁慶を演じた時の筋書
菊五郎の義経
この様に弁慶、富樫、義経ともに揃って評価が高く劇評にもある様に無事当たり演目となりました。
最後に羽左衛門と菊五郎にとって最後の富樫、義経でもある昭和18年11月の歌舞伎座の勧進帳の動画
伊賀越道中双六
続いて中幕の伊賀越道中双六は片岡仁左衛門の出し物で以前紹介した岡崎に対して今回は沼津が上演されています。
以前紹介した仁左衛門の岡崎を上演した時の歌舞伎座の筋書
今回は仁左衛門が当たり役の平作を演じた他、呉服屋重兵衛を羽左衛門、平作の娘のお米を芝翫、池添孫八を片岡市蔵、茶屋の娘を三保木峰子がそれぞれ務めています。
屁理屈屋で知られる仁左衛門とあってか現代では播磨屋型で上演される冒頭の棒鼻の場は沼津ではなく「三島」となっており、冒頭に重兵衛が安兵衛に用を言いつけるとすぐに平作が出て来るという少し変わった演出となっています。
そんな仁左衛門に対して劇評は手厳しく
「仁左衛門の平作は度々の老爺役で大分劇通から煩がれているようだが、実際少々飽きてきた。「平作千鳥足」の直立していることの出来ないような歩きつきも助右衛門と紹由と見飽きているからさのみ珍しくない。小揚げの件りも人形では一つの人形美をなしのだが、まさか人間では踊りもできないが、三味線を全然陰の合方にしてしまうのは働きのない話だ。前半は場当たり沢山の面白い一方で感心できなかったが、後段になるとさすがに巧い所がある。腹を切ってからは義太夫の腹が十分にある人だけに、他に一寸真似られぬ味がある。」
とこの頃立て続けに老け役を演じていた為に少々食傷気味だったらしく手厳しい評価が目立ちますが、それでも後半部分は流石は得意役とあって劇評を唸らせる出来栄えだったそうです。
一方で仁左衛門に付き合う形とは言え、今まで演じた事がない重兵衛を演じた羽左衛門は
「重兵衛は鎌倉の商人といふのが、江戸っ子の商人を利かしたのだから、大いに気の利いている處は人物に嵌っている」
と意外にも相性が良い部分があったようですがその一方で
「矢っ張り上方狂言の腹で行かうとするのと、江戸っ子との不調和が目立ったので、好い出来とは言い難い。」
と上方狂言には合わなかったらしく不評でした。
そしてこれまたニンにないお米を演じた芝翫も
「松葉屋の瀬川といふ位はあったが、重兵衛が通りすがりに見惚れて、その家に泊り込む程の濃艶な趣を欠いていた。」
と元遊女としての品位は合ったものの、やはり世話物の役には不向きな部分は隠し難く一長一短の出来でした。
芝翫のお米
結果的に脇の役者はどれもニンにない役を演じて不評で折角得意役を演じた仁左衛門もまた劇評や劇通などにそっぽを向かれてあまり評価は芳しくありませんでした。
この様に東京ではあまり芳しくない評価でしたが、本場大阪では無類の良さを誇ったのは言うまでもなく、この後に紹介する中座の紹介で改めて触れたいと思います。
弁天小僧
そして二番目の弁天小僧は言うまでもなく羽左衛門の出し物です。今回は弁天小僧菊之助を羽左衛門、南郷力丸を八百蔵、忠信利平を芝翫、赤星十三を門之助、日本駄右衛門を仁左衛門、浜松屋幸兵衛を段四郎がそれぞれ務めています。
羽左衛門の弁天小僧菊之助
本来であれば得意役中の得意役のはずの弁天小僧を演じた羽左衛門でしたが何故か劇評では一様に厳しく
「如何にしたのか羽左衛門がいつも程に脂が乗らず」
「羽左衛門の弁天小僧は当時での菊之助役者には相違ないが、何だか一体にがさつで例のこの人の世話物程に油が乗らなかった。」
と今一つな評価となっています。また以前にも書いた様に変てこりんに日本駄右衛門を演じた仁左衛門も予想通り
「仁左衛門の駄右衛門も台詞が変則」
「仁左衛門の駄右衛門はせりふ廻し面白からず、弁天との呼吸も合わず失敗であった。」
と相変わらず酷評の嵐でした。
後年の大正4年に本郷座で弁天小僧を演じた時の筋書
そして本郷座の時と同じく今回も本来なら花道で5人揃ってつらねを述べる稲瀬川勢揃いの場を何故か幕を切ると舞台上に5人揃っていて述べる形に変えられており、
「勢揃いは花道へ一人一人並ぶので形容の美があるのだが、先代菊五郎の歩けなくなってからの苦しいのに倣ったのは健康の人の勢揃いとしては無意味な話だ。こんなやっつけの勢揃いなら無きに如かずだ。」
と劇評にも厳しく批判されています。
この様に勧進帳を除けば本来なら鉄板の得意役演目である伊賀越道中双六と弁天小僧が思わぬ不評でしたが、2ヶ月ぶりの本公演である事、何よりも勧進帳が当たった事、出来たばかりの帝国劇場やこの頃新富座を傘下に抑えて東京に進出していた松竹など大河内時代と異なる三座鼎立が生まれた事など見物の関心が非常に高まった事も相まって25日間大入りという成功に繋がり冒頭の文章に恥じない歌舞伎座の威厳ぶりを示しました。今振り返って見るとこの公演から松竹による買収未遂を経て行われた歌右衛門襲名公演までが田村時代最後の盛況であり、その中で強敵の帝国劇場と松竹を相手に敢闘したこの公演は第1期歌舞伎座の有終の美を飾るに相応しい公演だったと言えると思います。