明治36年5月 歌舞伎座 八代目市川高麗蔵襲名披露&九代目市川團十郎最後の舞台 | 栢莚の徒然なるままに

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今回は前回に引き続き歌舞伎座の筋書紹介となります。

 

明治36年5月 歌舞伎座 八代目市川高麗蔵襲名披露

演目:

一、春日局                

二、素襖落 

三、女侠駒形おせん

 

表題の通り八代目市川高麗蔵襲名披露であり同時に明治時代を代表する歌舞伎役者である九代目市川團十郎最後の舞台となります。

 

主な役割一覧

 

ご存知の方も多いかとは思いますが一応八代目市川高麗蔵こと七代目松本幸四郎について少し紹介したいと思います。

元々三重県の土建業の家に生まれた彼は両親の離婚後東京に移住しそこで九代目市川團十郎の振付を担当してた二代目藤間勘右衛門の養子となった縁で團十郎一門に入り明治22年3月に四代目市川染五郎を襲名します。

今でこそ染五郎と言えば松本幸四郎の前名として有名なのでこの時既に後の幸四郎襲名が決まっていた…と思われるかもしれませんが、江戸時代の松本幸四郎の前名は市川高麗蔵であり染五郎は「四代目松本幸四郎が名乗った事はあるが85年前に三代目が名乗ったのを最後に消えていた空き名跡の一つ」に過ぎず必ずしも松本幸四郎の名跡が約束されていた訳ではありませんでした。

そしてこの当時松本幸四郎家は江戸末期に六代目が死去して以降名乗る役者がおらず、一時六代目の養子になっていた七代目市川高麗蔵も明治7年に死去しており完全に途絶えていました。

 

その後彼は師匠の傍に付いて歌舞伎座で端役で出演する一方で時には小芝居の演技座での若手一座の公演にも出るなど芸を磨き、いつしか團門四天王の1人として数えられるほどになりました。

丁度この頃に松本幸四郎の名跡を預かっていた七代目高麗蔵の娘(九代目の姪)から「高麗蔵の名跡を継いでくれ」という話が来ており、断り続けていたもののかつては團十郎を輩出した事もあり九代目の兄も養子に行っているなど成田屋と縁が深い高麗屋を断絶させるのは不味いという周囲からの説得で折れて襲名を承諾しました。

 

役割一覧にもあるようにこの公演で高麗蔵は春日局で4役、素襖落で襲名披露、女侠駒形おせんで1役と出ずっぱりで務めています。

この内、女侠駒形おせんは「福地桜痴史上最低の駄作」と言われるほどの作品の為に紹介は省略させてもらいます。

今回も菊五郎の時同様に團十郎が襲名口上を述べる事になりましたが、菊五郎の時は異例だったとは言え、襲名する3人と團十郎が出て独立した一幕で口上を行いましたが、高麗蔵の場合は「劇中口上」という扱いが一段低い口上に加えて出演するのが團十郎のみとなりました。

この事にいくら一門の襲名とは言え、余りに扱いがぞんざい過ぎると高麗蔵の養父勘右衛門が團十郎に詰め寄ったそうです。

しかし、團十郎は以下の様に述べて口上を強行しました。

 

腕でおやり、腕で。人間は何事も自分の腕一つにある。決して他人を当てにしてはいけない。

俺の他誰も出ないのはあれの為だと思いな。獅子の子落としという例えもあるじゃないか。

 

昨今の襲名口上と言えば幹部勢ぞろいで行うのが恒常化している上にスピーチの様な内容が多く形骸化しているだけにこの團十郎の言葉は一見厳しいようでいて市川宗家に所縁ある名門の重責を継ぐ弟子への愛情が垣間見えて考えさせられるものがあります。

 

さて、肝心の出来はというと踊りの方は兎も角、この人の欠点でもあった台詞廻しは「台詞は粒が立たず、何を言っているのか一向に分からない」とかなり酷評されました。

戦前の幸四郎の芸評を読んでも必ずと言っていいほど指摘されるのがこの台詞廻しであり幸四郎を襲名した後でさえ

 

幅があるが底が無い、大きさはあるが深みが無い(中略)言葉の末がヒョロついて尻切となる事が多い(中略)声量はあるが筒抜け気味で通りが悪い」(三島霜川、役者芸風記)

 

と言われる程でした。

もっとも共演した経験がある二代目實川延若によれば「師匠團十郎の台詞廻しをついつい意識するあまり、(台詞を)妙な所で息を入れて区切る上に言葉尻を早く発音して言い捨てる」というちょっと変わった台詞廻しだったようで本人はある程度意識してやっていたようです。

もっとも台詞廻しが下手なのは本人だけに留まらず長男の十一代目市川團十郎、孫の十二代目市川團十郎も若いころは台詞廻しが壊滅的に酷いと言われて時期もあった事からも子孫代々にまでしっかり引き継がれた(?)ようです。

 

さて、タイトルにも書いたもう1つの話題でもある市川團十郎にも触れたいと思います。

高麗蔵によれば團十郎が初めて体調を崩したのは明治29年6月の明治座で立ち廻り中に誤って腰を強く打ったのが原因で腎臓を傷めたらしく明治33年3月の歌舞伎座出演中に腎臓炎を発症して休場を余儀なくされ、明治35年にも再発して半年以上の休演を続けるなど年を追うごとに体調は悪化の一途を辿っていきました。

それでも病を押して愛弟子の六代目尾上菊五郎や弟子の高麗蔵の襲名公演に参加し、もし死去していなければ10月の歌舞伎座で十五代目市村羽左衛門の襲名披露にも参加する予定でした。

しかし3月の歌舞伎座では工藤祐経と加藤清正に徳川家康と二演目・三役を演じる事が出来た團十郎もこの頃には腎臓炎の影響で顔が浮腫んでしまうほど体調が悪化し「春日局」の徳川家康と春日局の二役のみとなり高麗蔵の劇中口上もこの演目内で行われる事になりました。

そんな満身創痍の体で務めた二役も見物から

 

衰えすぎて男だか女だか区別がつかない

 

とまで酷評されてしまうほどでした。

 

因みに伝えられている所によるともし10月の歌舞伎座で務める予定だった役は十八番の勧進帳と御存鈴ヶ森を予定していたものの、8月に静養先の茅ケ崎で稽古をしようとしたが満足に出来ず「何も着ていないのにこの様では衣装を着たら持つまい」と断念し一谷嫩軍記の熊谷と新作「小楠公」に変えたようです。

どちらにせよ動きのある役を務めるのは到底不可能であった事から途中休演になるか5月以上の酷評をされるという醜態を晒す事になったに違いありませんのでそう考えると評判はどうであれきちんと千秋楽まで演じきった春日局が最後になったのは團十郎にとってある意味不幸中の幸いだったのかも知れません。

 

この公演を最後に59年もの長きに渡り團十郎の名前は歌舞伎界から姿を消します。

そしてこの時高麗蔵を襲名した七代目松本幸四郎の長男が後に團十郎の名跡を継ぐ事になります。