では早速紹介していきたいと思います。
現時点で自分が所持している筋書の中で一番古い筋書です。
歌舞伎座の第2回目の公演にあたります。
戦前の筋書は今の筋書よりも2/3くらいのコンパクトサイズだったのは有名ですが、まだこの頃は大きく今現在の筋書の大きさとほぼ同じくらいの大きさです。
参考までに2019年12月の筋書と並べてみると…こんな感じ
余談はさておき、この2回目の公演ですが色々な話が伝わっています。
当時全盛期を迎えていた團菊左を始め高砂屋三代目中村福助、四代目澤村源之助など一流どころの役者を集めたはずの栄えある杮落し公演がイマイチで途中で打ち切りとなってしまい九代目市川團十郎は1月から京都祇園館に出稼ぎに行きました。
京都祇園館の絵本筋書と番付はこちら
そしてここでも勘彌と京都の仕打ちである安田との間に金銭問題が発生し、何故か矛先が團十郎に向かってしまい、京都駅に降り立った團十郎の耳に安田が用意した無頼漢が十数名ほど待ち伏せして襲い掛かる計画があると告げられ顔を青くし、弟子の團七を身替りに立てて自身は変装して京都祇園館に乗り込んだという逸話があります。
更に余談ですがこの時京都祇園館の出店で働いていた後の松竹の創業者となる白井・大谷兄弟が團十郎を見て、演劇の道で食べていく決心をしたのは有名な話です。
さて、京都祇園館の興行主で團十郎にまで迷惑をかけた十二代目守田勘彌は懲りもせず自身の借金返済の為に團十郎をそのまま大阪の舞台に出演させようと画策してました。
そこで当時の歌舞伎座の座主であった千葉勝五郎は團十郎を歌舞伎座に出演させる様に様々な工作を行いました。
その中でも目を見張るのが給金で1公演6,000円(現在の価格で約3,300万円)を約束して四方八方に手を盡して團十郎を勘彌から取返し出演に漕ぎつけたそうです。
しかし、團十郎1人にこれだけの大金を払うという事は他の役者を呼ぶのは難しく、菊五郎と左團次が3月の新富座に出る事も相まって團十郎一門+坂東家橘(菊五郎の実弟)親子のみという前回とは一転して寂しい顔ぶれの一座となりました。
相馬平氏二代譚
そして内容はどうかというと一番目の相馬平氏二代譚は
近松門左衛門の書いた関八州繫馬を福地桜痴が活歴風に改作した演目になります。
團十郎は将軍太郎良門と藤原仲光とその母静穢の三役を演じてますが劇評では
「今度の一番目狂言は面白き處更になく、近松の色も無ければ、桜痴居士の新意も見えない、團十郎を見ると、未だ例の改良熱に浮かされていると見え、全然白湯を飲んでいるやうな心持がする」
「また例の持病(活歴)で(中略)さして評価する所がない」
「いくら人がいないとはいえ(仲光と母静穢の)一人二役は無理だから止めた方がいい」
と作品の内容も含めかなり不評でした。しかし、弟子であった五代目市川新蔵は逆に
「新蔵の今度の旨さは傑出した出来だともいへる」
「(團十郎に代わりに)全曲の主人公に扮せしは何らの幸いぞ」
「この度師につぐものはこの優なるべし」
「この一芝居でめっきり芸をあげたり」
と大絶賛されて團門四天王の中で一躍注目される様になり團十郎の後継者と目されるようになりました。
京鹿子娘道成寺
一方、大切の京鹿子娘道成寺は團十郎が十代の頃に毎日踊っていた上に今回が一世一代(これで最後)と謳っていたのもあり評価も一転して
「感服の他なし(中略)今回の興行のお客の半分以上はこれ目当てで来てる」
と辛口評価の劇評家が褒めたたえる出来栄えだったそうです。
團十郎の花子はその時の写真もありますが、現代の道成寺と比べてみてもあまり綺麗には見えませんが踊り始めると十代の可憐な娘に見えたというから芸の力は不思議です。
因みに團十郎は今回が一世一代と謳っておきながら6年後の明治29年2月にも一世一代と言っておきながら再び娘道成寺を演じていますがその時も59歳には思えなかったほど良かったと劇評にあります。
また画像をよく見ると所化で四代目市川染五郎(後の七代目松本幸四郎)が出演してます。
この時の染五郎は劇評で
「顔の拵え白粉濃過ぎ、(中略)美少年とは言われず(言えない)。そのくせ「道成寺」所化の美しきは何故にか」
と鋭い突込みはありますが、舞踊に関しては素養があると評価されています。
今回は道成寺の好評に加えて杮落し公演の反省からか千葉が劇場内の改良にも取り組んだ甲斐もあって前回とは正反対に33日間の予定の公演が9日間日延べするほどの大入りでした。
そしてこの公演では途中で来日していたヴィクトリア女王の第3王子でコンノート殿下といわれたアーサー公爵が歌舞伎座を観劇に訪れました。天覧歌舞伎に続く栄誉となった團十郎は天覧歌舞伎の時は貰えなかった公爵から感想を貰い大いに溜飲を下げたそうです。
劇評にもある様にこの当時團十郎はまだ活歴にこだわり続けている時期で公演によっては観客動員が悲惨な時もあったと言われています。
そして明治30年代に入り團十郎もようやく活歴の限界を悟った事で見きりを付け古典劇に専念する様にした途端、それまでの不評が手に平を返すように芸が評価され死後に「劇聖」と呼ばれるに至る様になります。
そんな團十郎の苦労と二面性が伺えるような筋書でした。