今回は少し前に手に入れたお宝の筋書を紹介したいと思います。
※注:今回の筋書に出て来る役者名は当時名乗っていた名跡で記しますのでご注意ください。
明治23年1月 京都祇園館
演目:
一、だんまり
ニ、一谷嫩軍記
三、意中謎忠義画合
四、高時
五、傾城反魂香
六、六歌仙容彩
明治23年に竣工した京都祇園館の杮落とし公演の筋書になります。
時系列だとこのブログで初めて紹介した歌舞伎座の筋書の前に当たります。
明治23年4月の歌舞伎座の筋書
このリンク先でも書きましたが明治22年11月の歌舞伎座の杮落し公演に出演するも入りが微妙なままで終えた團十郎は当時歌舞伎座と対立していた守田勘彌と贔屓の1人であった井上馨の親戚の小室信夫の薦めもあり高木軍平が作った京都祇園館に出演を決めました。この背景には当時あまり財政状況が芳しくなかった團十郎家にとって1公演5,000円(現代換算で約2,900万円)と大変実入りの良い給金を提示された事も大きく影響していました。しかし、京都に着いたは良いもののそこから公演までにいくつものトラブルが待ち受けていました。
1つ目は同行した守田勘彌が鹿の子屋安田亥九郎との空約束が原因で起きた事でした。
事の発端は明治11年、三代目澤村田之助の罵倒により突如として廃業してしまった宗十郎は阪栄座の為に無給で出演するも周囲の説得を聞かずに約束の日数が過ぎると出演を取りやめた事や無給と言っておきながら何だかんだ給金を貰った事で大阪に居づらくなっていた所を勘彌が説得して東上した際に当時仕打ちであった銭屋清七と鹿の子屋安田亥九郎に対して連れ出す条件として
「團十郎を京都、大阪に連れて来る事」
という契約を当の團十郎に無断で結んでしまいました。
当然、身に覚えのない團十郎は只でさえ嫌う大阪は無論の事、京都にも行く訳がなく、勘彌もまたその契約をすっかり忘れていました。しかし、反故にする方は忘れても反故にされる方は覚えているのが世の中の道理で鹿の子屋安田亥九郎は今回の出演を知って二重の契約不履行だとして襲撃を企てたのでした。
その為勘彌は自分の尻拭い後処理を無理やり京都に連れて来た若き日の田村成義に任せ、千葉勝五郎の為に團十郎を五体満足で京都から東京まで返さなくてはならない田村は仕方なく請負い、代弁士であった経験を活かして安田へ謝罪し、團十郎が詫びを入れるという条件で手打ちにしましたが当の團十郎本人が
「自分に取って鹿の子屋とは直接何等関係がないのだから、往くのは厭だ」
とド正論を言って拒否した為。仕方なく團十郎の手土産だけを持参して鹿の子屋の待つ料亭に単身で行き、案の定怒鳴り散らされるも得意の話術で何とか矛を収めて貰う事に成功しました。
因みに行くのを拒否したのは良い團十郎ですが、当の本人は和解成立後も襲撃を恐れてか新十郎を身代りに立てて人力車を2つ用意して自身は後から出て劇場に入るなど結構なビビリな本性丸出しで開場式に出席したそうです。
2つ目は他ならぬ共演予定の鴈治郎で、急に出演を拒否し始めたのでした。こちらに関しては鴈治郎自伝によると
「私の出勤に故障を起こしたものは、時の京都の芝居関係者安田氏であった。安田氏というよりもそれは父翫雀の死後の借金がここでこんな大きな煩いをのこしたのである。翫雀に多くの金をかけていた安田氏は、その債権を私の上に押っかぶせていた。」(鴈治郎自伝)
と鴈治郎の父三代目中村翫雀が残した借金をタテに團十郎との共演を阻もうとしていました。
しかし、事の発端が借金をネタにした安田の姑息な嫌がらせだと分かると田村は関根黙庵を連れて1月6日に鴈治郎の自宅を訪れ説得し安田にも話を付けて脅すネタにしてた借金を綺麗に整理して無事鴈治郎の出演に漕ぎつけました。
余談ですが、以前紹介した明治44年の歌右衛門襲名騒動の折に鴈治郎側が主張した
「翫雀の借金は鴈治郎が返済したのだから成駒屋に関する権利は自分が持っている」
としたのはこの安田の借金であり、この時険悪な仲になっていた田村からしてみれば自分が安田の主張する金額を半値に落としてまで整理してやった借金を恰も自分の力だけで返済したかの様な主張に余計に腹を立てたらしく、芸界通信 無線電話でその辺の事情を暴露するなど後々も尾を引く結果となりました。
歌右衛門襲名騒動についてはこちら
芸界通信 無線電話についてはこちら
この様に勘彌が原因で起きた突発的なクレームが幾つかありましたが勘彌はこうなるのを見越していたかの様に無理やり京都に連れて来た田村成義に片付けさせて解決し、公演へと臨みました。
最後にこれも余談ですが当時14歳であった白井松次郎、大谷竹次郎の兄弟はこの出来たばかりの祇園館の売店で働いており、この時に團十郎と鴈治郎の舞台姿を見て興行師の道を目指す事を誓ったのは余りに有名な話であり、松竹とっても縁の深い公演となります。
後に旧阪井座の跡地に移築され京都歌舞伎座となった祇園館の建物
だんまり
一谷嫩軍記
「檀特山の團十郎の熊谷につきあた私の敦盛の気苦労はたいへんなものだった。だが幸いにして、團十郎は私の敦盛をほめてくれた。」(鴈治郎自伝)
と息子の安否を確かめに陣中に赴く冒頭から息子が手柄を立てた悦びから一転して身代わりになり死んだ悲しみまで團十郎と対等に渡り合っていると最大級の賛辞を受けています。下記の画像を見れば分かる様に彼は「逆さ瓢箪」と渾名を付けられる程容姿が良くなかった事から美しさにおいては逆立ちしても勝てない歌右衛門に追い越されてしまいましたがその実力は歌右衛門が中老尾上をダダをコネて欠勤した時に團十郎直々の指名で演じるなど優れた実力の持ち主であったのは紹介した通りでまだ福助が芝翫に付き従っていた明治23年当時は菊五郎の源之助と並び共に團十郎の女房役者であったのが伺えます。
二代目坂東秀調
続いて晩年に渋い脇役で魅せた時代とは違い延宗右に次ぐ上方の花形役者としてブイブイ言わせていた頃の高砂屋三代目中村福助は義経を演じ
「一谷嫩軍記で源義経役。紫糸の腹巻に兵庫鎖りの太刀源氏相伝左り折の烏帽子御顔白々と見えさせ給ふは天晴源氏の大将軍申し分は御座なくそろ(中略)首実検に片足踏みいで扇を膝へ突立ての実験。アレは故実に違ふげな。首実検には種々な故実のあるもので彼眉間尺の首が楚王の首を打たといふ唐土話しから淵辺が大塔宮の首を持て来り首実検は真に大切なものにて陣扇を開き我咽喉を蔽ひて見るものなると。ー弥陀六の出の後。従士に呼止めさせたはさもさうづ然もありなん…が彌平兵衛と声かけてからの台詞が余り長ふて…大将軍の貫目で優美悠長でよい事はよいが余り長かったので宗清は花道ヒョコスカして居たがアレが癇癪持の宗清だったら花道を走り込んで罷了だろうと大きに心配だった。」
と品格は十分だったものの、余りに長い台詞廻しと優美とは少しずれた演技が原因で冗長になってしまったらしくかなり酷評されているのが分かります。以前紹介した四代目嵐璃寛も妙にネチっこい台詞廻しを指摘されていましたが、璃寛や福助といった鴈治郎よりも上の世代の上方役者には台詞廻しに癖がありがちだったらしく、図らずともそういった面が同じ上方役者同士なら兎も角、東京の役者である團十郎とでは余計にか悪目立ちする形になってしまいました。
そんな不評だった福助とは対照的に阿弥陀六を演じた中村傳五郎は
「一谷で弥陀六実は彌平兵衛宗清役。團十郎の前でこの大役はこの優の一世の本望たるべく諸事(師匠の三代目中村)仲蔵で大車輪の舞台勤め宗清と声かけられての立帰りからさらさらとよかりしドド念仏と一門の戒名かいたる肌抜きとなり例の懺悔話しの内我身を悔みて歯をくひしばり腕を叩かふとして。見れば一門の戒名ゆゑ打つ事もならずますます惧れ悔むさまは確かりした腕前受けた受けた。」
とこちらは最初から最後まで三代目中村仲蔵式で演じ満点評価を与えられています。
傳五郎と聞いてピンと来ない方もいると思いますので少し書きますが以前に浪花座の筋書を紹介した時にチラリと触れた舞鶴屋一門の生き残りの1人になります。
浪花座の筋書
彼は仲蔵の死後下阪して鴈治郎一門に加わっていましたが、元はと言えば東京で活躍し團十郎などとも共演していた人だけあって上方側でありながらも東京側と対等に演じる事が可能で福助とはそこで明暗を分ける形となりました。
そして最後に今回藤の方を演じる志げ松について少し紹介したいと思います。
この志げ松という役者名はあまり馴染みがありませんが彼は二代目岩井志げ松(繁松)といい、三代目澤村田之助と並び称された明治初期の名女形である八代目岩井半四郎の弟子に当たります。弟子とは言っても元々は八代目半四郎の祖父に当たる五代目岩井半四郎の弟子で入った後に八代目門下になった人で師匠よりも3歳年上でした。
八代目半四郎一門と言うと以前私のTwitterでも紹介しましたが
・三代目岩井紫若
・四代目岩井紫若
・四代目岩井松之助
・四代目岩井粂三郎
・三代目岩井小紫
らが有名ですが、志げ松はこれら直弟子よりも上の古参弟子で師匠亡き後も後進の弟子たちのお師匠番として師匠の芸を教えたり、自身も女形として活動していました。その豊富な経験を買われての出演だったらしいですが劇評には
「一谷で御台所藤の局役。着つけはあれでもあらうが御顔は左官が掛かっても何分皴が延びきれぬといったさうで本舞台へつっ立った所ではどうでも熊手を持て。」
と既にこの時64歳と一座の中で最高齢とあって化粧では誤魔化せない年齢の波があったのと動きが緩慢であった事は批判されています。また台詞廻しと演技についても
「院の御所の御胤この乳母がお育て申した無官太夫敦盛様を熊谷殿が討ったわいのと文句を訂正すべしとの事なり序でにいふこの場に用いる蒔絵の盥と湯桶に就て既に総評に評したるある好劇家が見てあれは古い型にある事」
と台詞も間違えれば(御台所なのにこの乳母と言ってしまっている)、型もかなり古い型で演じる等、大芝居に受けたとは言え写実好みの團十郎とのギャップの差が小道具などでも浮き彫りになっていた様です。
ただ、劇評は古い型での演技については
「今日の改良傾むきにもかまはず依然用いるは琴柱に膠なり時代物で改められぬやぼは余儀なし改ためて差支なきに飽迄旧習を墨守するは東京俳優(はいゆう)イナ何処の俳優(やくしゃ)にしろとらざる處なり。」
と團十郎が推し進めていた写実への偏りに古い役者である志げ松がついて行けず古い型や小道具に拘ってしまうのは止むを得ない事だと擁護しています。
因みに志げ松はこの公演の後も役者を続けましたが3年後の明治26年4月3日に突如倒れ67歳で死去しました。
この様に脇役の役者はかなり酷評されていますが團十郎、鴈治郎、秀調、傳五郎という主要メンバーは軒並み高評価で東京の大立物がどんな物かと品定めしていた見物にもその技量は伝わったらしく一番目としては無事合格ラインに達する出来栄えだったそうです。
意中謎忠義画合
高時
今回は高時を團十郎、大佛陸奥守貞直を福助、衣笠を染五郎、長崎高貞を勘五郎、秋田延岡を傳五郎、母渚を志げ松、小天狗を雷蔵、天狗を團七、升六、團五郎、しゃこ六などがそれぞれ務めています。
さて、他の活歴物は軒並み酷評されていた團十郎でしたが素襖落、紅葉狩など舞踊に関する演目では一部で高い評価を受けていただけに世辞辛い京都の見物にもイけると踏んだのかは定かではないですが劇評では
「高時に北条相模入道高時役。これが市川家の新歌舞伎十八番。高時も九代(執権ではなく北条得宗家として)我も(市川宗家)九代。北条は滅亡するとも天覧を忝じけなくせし市川家の滅亡すべきやとタット睨んで出来上がった脚色。気つけ万端悪からう筈もなし五ツ衣緋の袴の中に薄柿色三つ鱗ちらしの小袖、白の袴とは渋い渋い。(中略)この場は高時が驕者と暴政を見せる積りの由に團洲が腹の中の芸道にて天狗の舞は頗ぶる目先の変ったもの。」
と衣装については評価しているものの、肝心の演技については天狗舞が少し変わっていると指摘している以外何も触れておらずどうやら劇評家が見てもさして評価する程の物でも無かった様です。
因みに北条得宗家九代目の高時と市川宗家九代目の團十郎が重なると揶揄していますが後に本当に両者とも両家の最後の人間になってしまったのは笑えない偶然です。(高時は子供はいましたが戦死で滅亡しています)
明治20年7月、新富座の時の團十郎の高時
傾城反魂香
今回子役で出てた八十助こと三津五郎が巡業で演じた時の筋書
今回は又平を團十郎、おとくを福助、土佐将監を鶴蔵、修理之助を染五郎、雅楽之助を勘五郎がそれぞれ務めています。
まず高時に続き主役の又平を演じた團十郎は東京で趣味の釣りをする際に舟を借りていた宿の息子が吃音持ちだった事からその人の様子を見て写実で完璧に真似たらしく
「吃又にて吃の又平役。軽ひ軽ひ軽妙真に迫るといふ中にも普通にはツキ吃にて発音所謂るアと言出してあ…と引は容易なれどこの優にの演ずる處はヒキ吃にて発音より吃りて出でざる至ってむつかしき語呂合なりと鰻を遣ふ身振。寅を書消す願ひ。百姓供に侮られての腹立。修理之助を止める身の働らき。愚直なる廃人の様子大受け大受け。」
と後年幸四郎が真似した吃音持ちでも発音ではなく吃る方に焦点を置いた役作りや少々頭に問題がある人間ぶりをあくまで等身大で演じていて当時の見物にはかなり好評であった様です。
明治15年7月、市村座で又平を演じる團十郎
そして高時の時にも触れましたが4年以上の東京滞在の折に團十郎の又平にお徳で付き合いその控え目な人柄を團十郎に称賛されていた福助は再びお徳で付き合い
「けいせい反魂香に又平女房お徳役。(中略)おしゃべりから始終良人を気扱ふ女房振り上京前とは打って変った仕打関心感心(中略)殊更手水鉢を見る時。又平に見せる時とも大出来大出来。タダ腰をぬかして又平を招く手が余り沢山で…又その前にも又平の怒りを止るとて「これマあるわいな」がいけぬと初日以来不服の見物もある様子ここは一生懸命言葉に艶など決して入らぬ。鼓は驚いたお手際。八足見送りに膝を打て嬉しき思入十分受けた受けた。」
と團十郎は息ぴったしとあって例の変な台詞廻しを除けば上京前よりも上手くなったと言わしめる程の成長ぶりを評価されています。
そして今回修理之助を務めた染五郎と狩野雅楽之助を務めた勘五郎、土佐将監を務めた鶴蔵は
「吃又で狩野修理之助役。初日には前髪かづら。その後スグに元服して立派な男振りー見違へたが嫌味でなくてサラサラしてとよろし。」
「吃又で狩野雅楽之助役。とり役でうまい上に舞台を達者でつとめてよく出来た但し顔が」
「吃又で土佐将監役。嫌気はちっともないが何分陰気」
と鶴蔵は暗くて今一つだった様ですが勘五郎と染五郎はそれぞれベテラン、若手として役を卒なく演じ好評でした。
この様に團十郎と福助の息の合った演技振りに脇も東京で上演した時の面子そのままに演じた事で他の演目の様な違和感にも襲われる事なく安定した芝居運びが出来たらしくこちらも高時が分かりにくかった分、反動で見物の反応も良かったそうです。
六歌仙容彩
「なんだ、今のざまは、まるでなってゐねえぢゃないか。」(芸談 一世一代より)