大正3年1月 浪花座 中村魁車襲名披露と幻の鴈治郎の勘三郎襲名計画 | 栢莚の徒然なるままに

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今回は久しぶりに大阪の劇場の筋書を紹介したいと思います。

 

大正3年1月 浪花座 中村魁車襲名披露

 

演目:

 

一、猿若
二、栗山大膳
三、虎が雨
四、心中天網島
五、社頭の杉
 

タイトルにもある様に初代中村鴈治郎の弟子である中村魁車の襲名披露公演です。

 

主な配役一覧

 

猿若

勘三郎…五代目中村明石

喜三郎…壽三郎

 

栗山大膳        
栗山大膳…鴈治郎

土井大炊頭…魁車

桐山丹後・垣内妙全尼…梅玉

黒田忠之…福助

倉八十大夫…延二郎

萩野…我童

瓜田三太夫…壽三郎

飯田角兵衛…右團次

徳川家光…多見之助

雪之局…市蔵

大涼院…巌笑

磯田才兵衛…璃珏

 

虎が雨        
抽十内…鴈治郎

大磯の虎…魁車

万壽… 四代目嵐橘三郎

薩摩治郎兵衛…多見之助

源藤太…壽三郎

丹三郎…右團次

皐月…扇雀

 

心中天網島        
紙屋治兵衛…鴈治郎

小春…福助

孫右衛門…梅玉

太兵衛…延二郎

三五郎…我童

善六…右團次

嘉助…箱登羅

 

社頭の杉

豊臣秀吉…初代市川斎入

木辻杢頭…市蔵

茶道宗中実は斎藤伊豆守…右團次

非人実は安田作兵衛…延二郎

小原女実は光秀娘千姫…我童

 

猿若

 

いきなり五代目中村明石という聴き慣れない役者が出てきたと思われるので彼について説明したいと思います。

彼は江戸三座の一つ中村座の座主として280年近く続く中村勘三郎家の子孫で十三代目中村勘三郎の実子でした。

その為、時代が時代であれば十四代目中村勘三郎を襲名すべき人でしたが時は既に明治時代に入り経営の才覚が無かった父十三代目は中村座の座元を三代目中村仲蔵に譲ってしてしまい(その為、仲蔵は実質的な中村座の座元という扱いで後に十四代目中村勘三郎を追贈されています)座元としての中村家はここで一旦途絶えてしまいました。当初は彼も座方として活動していた為、中村座から所有者を転々として猿若座と名称を変えた中村座を再建し座元になりましたが経営の才覚が無く仕方なく彼は座付き役者として出演するなど二束草鞋を履いて活動を余儀なくされました。

しかし、明治26年その猿若座も火事で全焼し遂に再建されずここで江戸時代以来250年以上続いた中村座は廃座となり、座元としての中村家も終わってしまいました。

その後は役者専業となり活動していましたが、彼の現役末期に当たる明治40年に書かれた芸壇三百人評という本にも

 

絵は上手に書くと聴けど飯喰うていくには困難なるべし、役者は下手なれどどうやら飯を喰うて行けべし、しかし役者としては誠に上品な男

 

と書かれるなど彼は役者としても才能がありませんでした。

とはいえ、中村勘三郎家の後継者とあって明石の身の上を案じた九代目市川團十郎の引き立てもあって散発的に歌舞伎座に出演した後、明治31年からは初代市川左團次の元に身を寄せて時々家の芸である猿若舞などを披露して糊口を凌いでいました。

そして初代左團次の没後も引き続き二代目左團次の一座に身を寄せて明治座に出演していましたが明治45年、とうとう左團次が明治座を売却した事で彼は出演する劇場を失いました。

既に時代は大正に入り中村座の焼失から30年が経過し中村勘三郎の威光や名跡も過去の物になり、演技が下手で役者としては何処からも声が掛からないという状態になった彼は完全に収入が無くなりました。

そんな彼に救いの手を差し伸べたのが初代中村鴈治郎でした。鴈治郎の一門にはかつて十三代目の弟子であった中村傳五郎という役者がいて彼から声が掛かり明石は大正2年12月に改築新開場した南座の顔見世に出演する事になりました。

勿論、鴈治郎本人はいざ知らず鴈治郎サイドが単なる義侠心だけで手を差し伸べたはずがなく、その背景には明石が預かっている「中村勘三郎」の名跡を譲って欲しかった為でした。当時中村芝翫と「中村歌右衛門」の名跡を巡る争いに敗れ表面上は「本家分家争いのような事はしたくない」と述べて大人の対応をしていた鴈治郎ですが、周囲はそれで黙っている訳がなく「歌右衛門が無理だったら更にその上の名跡を襲名すればいい」という考え方から團十郎に匹敵する上方和事の大名跡である坂田藤十郎の襲名話があった事は知られていますが、その中には中村家の宗家ともいうべき中村勘三郎の名も含まれていました。

 

当時の状況を知る田村成義が「一応フィクション」という建前で実際は暴露話のオンパレードであった第一次歌舞伎に掲載していた「芸界通信 無線電話」にこの一件の一部始終を書いていますがそれによると

 

大正2年9月には明石の元に中村傳五郎の伝手で交渉がある

それが新聞社に漏れて報道されると東京の歌舞伎界隈ではちょっとした騒ぎになる

折しも11月には鴈治郎自身が東上して新富座に出演する月とあって関係者はそこで襲名を発表するのではとピリピリする

そんな事を鴈治郎は知って知らずか襲名を発表する事無く自ら中村家に赴いて南座や今回の浪花座出演の交渉をする

話がまとまり今回の出演に至る

 

だったそうです。

 

芸界通信 無線電話

 

 

ただ、田村は鴈治郎の事を今までの経緯から死ぬほど嫌っていた事や一方で鴈治郎一門にいた市川箱登羅が記した日記「箱登羅日記」によると

 

中村宗家(明石)の方から勘三郎の名跡を譲り渡せる人物を探してほしいという依頼が傳五郎を通じてあった

 

と正反対の内容が記されていて双方の主張はかなり食い違っています。

 

大分長くなりましたがそういう様々な思惑もあり上演した猿若舞ですが元々は正月の中村座の出し物だっただけに正月公演には持って来いの演目でした。中村家の舞踊である為、本来なら相方に元一門の傳五郎が演じても不思議ではないのですがこの時は三代目阪東壽三郎が務めました。

因みに襲名については皆さんご承知の通り鴈治郎は勘三郎を襲名する事はありませんでした。やはり由緒ある江戸歌舞伎の座元の名跡を上方歌舞伎の役者が名乗る事への反発が大きかったのと十三代目未亡人が条件に出した「中村座を再建し座元になる事」というあまりに露骨な断り文句時代錯誤すぎる条件が上方を中心に活動する鴈治郎には到底呑めない足かせとなり勘三郎襲名は幻に終わりました。

その後五代目中村明石とは2月まで共演した後に別れてしまい彼はこれを契機に廃業する決意を固め、僅かに請われて大正8年1月の帝国劇場で猿若舞を、大正9年2月に市村座で寿対丹前をそれぞれ踊ったのを最後に完全に役者を廃業しました。


一時復帰を果たした帝国劇場の筋書 


その後関東大震災で中村家所縁の家財一式を全て失い二代目中村芝鶴の自宅の一角に居候し得意の絵かきで僅かな収入を得てましたがこれを見かねた七代目松本幸四郎が亡くなるまで彼の生活の面倒を見たらしく昭和11年に新聞の取材に答えた彼は「幸四郎に勘三郎の名跡を預けた」と語っています。

しかし、幸四郎は自身を含め子供たちも誰も勘三郎を襲名せず昭和15年に明石も死去してしまい戦後に入り上記の話は無かった事になり明石の娘勝子から名跡を預かったとして松竹が四代目中村もしほに継がせて十七代目中村勘三郎が誕生する事になります。

そして五代目中村明石にも生前果たせなかった勘三郎の襲名を十五代目中村勘三郎を追贈される形でようやく果たす事になりました。

 

栗山大膳

東京の筋書の挿絵と違ってどこか劇画調なのが特徴です。

中村家の話ばかりになってしまいましたが続いて今回の主役である中村魁車の襲名披露狂言となった新作狂言2つを紹介したいと思います。栗山大膳は黒田騒動を、虎が雨は正月恒例の曽我物をそれぞれ題材にしています。

意外に思われる方もいらっしゃるかもしれませんが初代中村鴈治郎は新作の上演についてはかなり積極的な人であり、自身の代表作12種を選んだ玩辞楼十二曲の中にも

 

・恋の湖

・藤十郎の恋

・土屋主税

・あかね染

・椀久末松山

 

と5作も新作を選んでいる事からも伺えます。

 

鴈治郎の栗山大膳

 

さて今回魁車を襲名した成太郎は以前にも何回か紹介した事がありますが、二代目實川延若と並ぶ芸幅の広い役者として知られ本役は女形なのですが、立役も数多くこなし例えば「菅原伝授手習鑑」の寺子屋では鴈治郎が松王丸を演じれば源蔵や千代を演じたり、鴈治郎が源蔵を演じれば戸浪を演じるなど師匠のその時々の役に合わせて幅広く演じ分けることが出来る達者な人でした。

それだけに彼はかなり上昇志向と自己アピールが強い性格の持ち主で若いころから才気煥発で明治30年代には鴈治郎一門を飛び出して上京して一時期左團次一門に移籍した事もあるほどでした。

鴈治郎一門に戻ってきたあとも松竹の東京進出に手を貸したりするなど活躍は目覚ましくそろそろ大きな名跡を襲名という事で鴈治郎も苦慮したらしく白井松次郎と相談して成太郎に2つの名跡を打診しました。一つは鴈治郎の実父の名跡「中村翫雀」でした。本来西の成駒屋にとって鴈治郎と並ぶ大きな名跡でしたが、鴈治郎とその家族にとっては一度は自分を見捨てた父の名跡とあって敬遠されていて当時は空き名跡となっていました。

もう一つは明治初期に「延宗右」と呼ばれ鴈治郎自身もあれこれ親身になって芸を教えてもらった恩人でもある上方歌舞伎の大名跡「中村宗十郎」でした。こちらは位牌養子に初代中村霞仙がいましたが若くして亡くなり霞仙の遺児紫香も幼い事から空き名跡になっていました。

いずれも名跡の重さで言えば鴈治郎に劣らない重い名跡ばかりでいかに鴈治郎が成太郎に気を遣っているかが見て取れます。

しかし、成太郎の返答はそのいずれでもなく師匠同様に一代で名前を大きくしたいという希望から代数が付かない名跡を希望しました。そこで彼の贔屓であった文人画家である富岡鉄斎が考えてくれた「魁車」を選んで襲名することになりました。

 

虎が雨

 

 

今回も栗山大膳では立役の土井大炊頭を、虎が雨では女形の大磯の虎をそれぞれ演じるなど実に芸達者である一面を見せてます。

 

大磯の虎の魁車

 

 

この様に何の役でも演じられる腕を持つ彼だけに本来なら鴈治郎一座の立女形の座にいても不思議ではないのですが鴈治郎が相手役によく選んだのは魁車からすれば大根役者にしか見えない高砂屋三代目中村福助でした。

何故鴈治郎が魁車を一座の立女形に据えなかったのか?それにはいくつか理由がありました。

 

①芸風

魁車は上述の様に立役も女形もこなせる芸幅と目立ちがりやの性格も相まって下手すると女形で出演しているにも関わらず立役を差し置いて自分が主役の如く演じてしまうほどでした。

流石に師匠である鴈治郎の前ではそこまで出しゃばった真似はしなかったものの、その傾向は滲み出ていたようで自分が絶対的な主役でなければ気が済まない鴈治郎は演じづらく役者が嫌い故に向上心皆無なので出しゃばらず淡々と鴈治郎の演じやすい様に務める福助が気に入られるのは無理もない事でした。

 

②性格

また、鴈治郎はその我儘さゆえに毎日演技を変える芸風の人で周りにもその日の気分であれこれ変更するよう求めていました。上記の様に福助は基本相手に合わせるタイプなのでどんな無理難題にも出来るだけ応えていましたが魁車は上記の逸話からも伺えるように自我が強い為まるで鴈治郎のいう事を聴こうとはしなかったらしく、次男の二代目中村鴈治郎は自著「役者馬鹿」の中で魁車について

 

注意してその時は直してもいつかまた自分のやりたいように戻ってしまうらしく諦めていたようです。

 

と記しています。

 

その為、何をやらしても卒なく出来る一方で初代鴈治郎に言わせると「これという(はまり役の)決定版が無かった」という事で立女形の座を福助に奪われ時たま相手役になる位で後はその都度空いている役を振られる便利屋のようなポジションに甘んじる事になりました。

鴈治郎存命時こそは師匠の一座で大人しく(?)していましたが鴈治郎の死後は独立して女形としては主に二代目實川延若の相手役や東京に上京して女房役者の松蔦の病気療養により相手役が不足していた旧知の二代目市川左團次と組んだり、立役としては自分が座頭になって巡業に赴くなど師匠から解放されて昭和20年に亡くなるまでの10年間を自由気儘な役者生活を貫く事になります。

 

そんな事情もあり魁車の襲名興行にも関わらず上記の2演目で体よく魁車を押し込めて鴈治郎は正妻福助を相手役に十八番である心中天網島を上演しました。

頬かむりの中に 日本一の顔」とまで謳われた鴈治郎の出来は言うまでもなく、孫右衛門の梅玉に小春の福助という適材適所の配役もあって「(見物が)感動しすぎて(幕が閉じても)手も鳴らせない有様」という程の大好評でした。

 

心中天網島

 

この時の写真を持ってない為、参考までに1年後の大正4年12月の南座の写真

(治兵衛(左)、小春(右)は今回と同じ配役です)

 

(孫右衛門(左)、三五郎(右)も今回と同じ配役です)

 

 

社頭の杉

 

最後の社頭の杉は今回の座組の上置きである初代市川斎入の為に拵えた演目で斎入の垢ぬけた演技と舞踊もあって「正月に相応しい陽気な舞台」だったそうです。

因みにこの時初代市川斎入は70歳とかなりの高齢で同年代の二代目中村梅玉(73歳)こそいましたが既に足腰の衰えもあり翌大正4年に引退公演を開く事になります。

 

この様に襲名披露に鴈治郎の心中天網島の上演もあって近年稀に見る大入りとなったらしく、上述の「箱登羅日記」によると26日間の公演中、実に22日間満員だったらしく、残る4日も見物は8割~9割という驚異的な数字となったと記されています。

 

この年は魁車の襲名披露を兼ねて翌月から神戸、名古屋、岡山、広島、京都と旅に明け暮れ為に新富座に出演したのは11月の僅か1ヶ月のみでした。その新富座での襲名披露の筋書も持っていますのでまた改めて紹介したいと思います。