大正4年1月 浪花座 初代市川齊入引退公演 大阪編&四代目嵐橘三郎最後の舞台 | 栢莚の徒然なるままに

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新年初めての筋書紹介は浪花座の初春公演を紹介したいと思います。

 

大正4年1月 浪花座

自分が持っているのは例の箱登羅コレクションの1つです。

 

演目:

一、豊臣秀康        
二、近江源氏先陣館        
三、採桑老        
四、けいせい恋湖水        
五、かちかち山        
六、住吉踊

 

タイトルにもありますように上方歌舞伎の長老格である初代市川齊入の引退公演に当たります。

齊入については以前に2回ほど大まかな経歴を紹介しましたのでそちらをご参照頂きたいと思います。

 

初舞台から明治中頃まで

 

齋入襲名後

 

かつては道頓堀の座頭役者として名を馳せた齊入もこの時71歳と非常に高齢となっていて、彼の他に高齢の役者と言うと彼より年上の最長老で当時80歳になる二代目市川眼玉は未だ現役だった他、年長者としては四代目嵐橘三郎(74歳)、二代目中村梅玉(73歳)がいたもののすぐ下の四代目嵐璃珏(71歳)、中村珊瑚郎(64歳)を加えても片手で数えられる位しか残っておらず加えて他の演目よりも体を酷使するケレン物を得意とする齊入にとっては非常に過酷だったらしく、奇しくも彼にケレン芸を授けてくれた二代目尾上多見蔵と同様に生前中の引退を決意しました。

 

主な出演者一覧 斎入の所には小さくですが「御名残り」と記されているのが分かります。

 

松竹はこの一代を築いた老優に対して東京からわざわざ異母弟の五代目市川小團次、米蔵親子を呼んで出演させた上に京都明治座に出演していた三代目阪東壽三郎を除く主要な上方歌舞伎俳優を全て浪花座に出演させるという最大級の敬意を表して盛大に引退公演を行いました。

この五代目市川小團次について知らない方もいらっしゃると思いますので簡単に説明したいと思います。

彼は幕末の名優四代目市川小團次と後妻お里の間に生まれました。父小團次は兄斎入同様に当初は堅気の道を歩ませようとしましたが後に彼を舞踊家にしようと考えて舞踊の修業を行っていましたが、16歳の時に実父四代目小團次が死去した事で未亡人であったお琴の意見もあって役者へと転向する事になり28歳の時に親の名跡である小團次を襲名しました。とはいえ、「市川小團次」によれば本人も役者が嫌だったらしく幼少期から習っていた舞踊などの所作事に関しては高く評価されたものの、幕末の名優と謳われた父の芸を継承することが出来ず父と組んでいた黙阿弥によって鍛えられ養父の芸と自身の芸を融合させて新たな芸風を作り上げた義兄初代市川左團次の一座に加わり脇役として主に大切の舞踊などに主演するというようなポジションに甘んじていました。

兄左團次の死後は甥の二代目左團次を助けて明治座の上置きとなり、左團次の渡欧中は座頭としてハムレットを主演した事もありましたがこれが彼の芸のピークであり、基本的には終始脇役であり劇通からは「小團次の名前を小さくした」とまで批判される有様でした。そして二代目左團次が明治座を売却して松竹に移籍すると独立して地方巡業に出たり帝国劇場に単発的に出演したりしてましたが、晩年になると再び左團次一座に合流して明治座などに出演する傍ら小芝居にも出演するといった状態になっていました。そして今回の公演にも出演している期待の若女形であった実子の二代目米升(米蔵)に先立たれて失意の中翌年に兄齊入と同じ72歳で亡くなりました。

そんな小團次親子を加えた座組で以下の演目が上演されました。

 

主な配役一覧

 

豊臣秀康

豊臣秀康…延二郎

前田利継…壽三郎

多賀谷安芸…市蔵

本多佐渡守…多見之助

海野右馬之丞…徳三郎

石川康長…璃珏

花井左門…米蔵

はた野…魁車

花枝…我童

徳川家康…小團次

 

近江源氏先陣館

佐々木盛綱…鴈治郎

佐々木小四郎…小福

野州野宗勝…福助

竹下孫八…我童

三上源八郎…魁車

六郎…延二郎

古郡新左衛門…長三郎

重井…齊入

篝火…巌笑

早瀬…市蔵

微妙…梅玉

和田秀盛…小團次

北条時政…橘三郎

 

採桑老

 

藤原道忠…鴈治郎

東儀圭方…梅玉

大江音成…小團次

橘諸高…巌笑

多の近江…右團次

立花…魁車

松ヶ枝…米蔵

秦出貞…齊入

 

けいせい恋湖水

稲野半兵衛…鴈治郎

小いね…福助

助七…延二郎

望月雄之進…梅玉

おきみ…魁車

傳右衛門…小團次

傳八…右團次

おぬい…璃珏


かちかち山

卯三吉…扇雀

狸三…菊童

       
住吉踊

齊入と橘三郎以外の名題全員

 

さて、順番に演目について紹介していきたいと思います。

一番目の豊臣秀康は徳川秀忠の兄である結城秀康を主人公に据えた新作です。

 

あらすじ

 

豊臣秀康

 

主人公の豊臣秀康を演じているのは高砂屋福助で共に謀反をたくらむ前田利継に實川延二郎と共に今でいう花形歌舞伎世代の2人が主演する演目で作品自体は三幕で謀反の決意から徳三郎演じる右馬之丞と我童演じる花枝との恋愛、秀康の毒殺までを一挙に描くのは無理があったらしく「三幕に収めているので十分に色彩や情緒が出なかった」と出来は良く無かった様ですが、「福助と延二郎は謀反人役をスケール一杯に演じていて良かった」と演技自体は評価されています。

 

徳三郎の右馬之丞と我童の花枝

 

この時福助40歳、延二郎38歳と脂が乗りきっている頃であり、ポスト鴈治郎として注目され始めていました。福助こそ養父梅玉が長命だった事もあって襲名は昭和になりましたが、延二郎は魁車に続いてこの翌年に実父の大名跡である延若を襲名する事になります。


延若襲名披露公演の筋書はこちら 

 

 二番目は鴈治郎お得意の近江源氏先陣館の盛綱陣屋です。今では二代目中村吉右衛門、二代目松本白鸚、十五代目片岡仁左衛門が得意としている演目ですが、戦前は東の羽左衛門、西の鴈治郎が双璧と並び称されるほど得意にしていました。

劇評によるとどうやらこの演目は「鴈治郎に演じてほしい作品」を投票で決めたらしく、見物側からも非常に期待が寄せられていたのが分かります。

その鴈治郎の盛綱は期待を損なうことなく良かった様で「次第に鰭が浮いて貫禄が増した」と劇評も評価される程でした。

 

近江源氏先陣館  

 

そのほかの役者も一人で座頭が務まりそうな癖のある役者ばかり揃っている為か

 

延二郎「勇ましい注進は罷り違えば盛綱にでも斬りつけてかかりそうな勢い

巌笑「篝火は何処までも似顔絵式の風情を見せた

梅玉「微妙は適り役だけに楽に演じて豊かな気分を見せていた

福助、右團次、魁車、徳三郎「粒を揃えて立派

 

と軒並み好評でした。

しかし、異母兄の引退公演という事で特別に出演し普段は到底演じられないであろう和田兵衛という大役で出演した小團次だけは

 

そんな語調と勇気が足りない。大体が安っぽい人だから畑違いである

 

と芸格の低さを指摘され情け容赦なくこき下ろされています。

 

 

採桑老

 

そして齊入の御名残り狂言として上演されたのが採桑老でした。

話としてはとある能楽師が能の秘曲である採桑老を踊って引退する話と彼の周辺を巡る仇討を絡めた話となっています。

この演目では鴈治郎を筆頭に上方歌舞伎の名題役者が殆ど出演して脇を固める豪華な演目となっています。

齊入は引退する能楽師、秦出貞を演じていて普段は世辞辛い劇評も

 

齊入の引退興行には侘びのある優の趣味性を満たす格好のものであろう、鴈治郎、梅玉以下が之に付き合うのはとにかく光栄ある六十年の歴史を有してかつては関西一人といわれた優人を見送る記念に然うありそうな事である

 

と批評抜きに引退する齊入に対して賛辞を送っています。

 

齊入の秦出貞

 

因みにこの採桑老という曲、近年になってTV番組で「舞うと死ぬ」という言い伝えが特集された事で「呪われた曲」というオカルトじみた設定が少し有名になりました。事実関係だけ言うと、確かに齊入はこの演目で採桑老を演じた丁度約1年後に死去していますが、年齢も72歳であり正直呪いで死んだというより天寿を全うしたとしか思えないので果たして本当に呪いがあるのか少々疑わしい所でもあります。

 

けいせい恋湖水

 

そして四番目のけいせい恋湖水はこれも鴈治郎主演の新作です。

食満南北と並ぶ鴈治郎のブレーン作家でもあった大森痴雪によって書かれた作品で今回が初演でもありました。

 

鴈治郎の稲野屋半兵衛

 

作品の内容としては古くから存在する小稲・半兵衛物というシリーズ物を鴈治郎に合わせて作りなおした物で鴈治郎が得意とする上方和事の系統に属する物ですが、上演するに当たり様々な脚色を施し半兵衛が士分の資格を得ている事や半兵衛が止む無く人を殺害してしまいその為に心中するという設定が加えられました。

このような埋もれた古典作品に脚色を加えて上演する事は歌舞伎十八番の復活上演を始め歌舞伎の世界ではよくある事ですが多くは無理に設定を加えすぎて上手く行かない事が多いのですが今回のこの作品に関して吉と出て劇評にも

 

鴈治郎が町人ともつかず士ともつかぬ其間を行く二枚目は目新しいに違いない

 

と従来の芸風に加えて新たな芸域を開拓した事を評価されています。

以前にも書きましたがこの頃の鴈治郎も歌右衛門も既にこの当時の平均寿命を超えていて従来の持ち役に加えて実年齢に合った新たな当たり役を求めて試行錯誤を重ねている状態でした。そんな中、鴈治郎はライバル歌右衛門よりも一足早く新たな当たり役に出会い晩年の活動を従来の古典作品と新作上演を織り交ぜて演じるようになります。

そして今回も鴈治郎の相手役となった小稲役の福助も

 

色模様は喜劇染みるようにもあるが双方の気が合って心中し兼ねぬ情が絡んだ濃厚な色彩が浮いて出た

 

と鴈治郎の要望に応えて好評でした。

また、半兵衛の人殺しの罪を背負い自害する家来の助七を演じた延二郎も

 

よく主人想いの心が現れて隙も怠りもなく演じたてた(中略)一は主を思い、一は家来を憐れむ心と心が活きて動くかとも疑われた、恐らく(興行の中で)一日中の見せ場であろう

 

と熱演ぶりが絶賛されています。

 

鴈治郎の半兵衛と延二郎の助七

  

この演目の当たりによって大森は更に鴈治郎の為に幾つもの新作を書き下ろし、その内今回の恋の湖、あかね染、藤十郎の恋の3作品はいずれも大当たりして鴈治郎も幾度となく再演してお家芸をまとめた玩辞楼十二曲に選ばれています。

 

かちかち山

住吉踊

 

 

最後の舞踊演目二つは若手の勉強舞踊という趣だったようで最初のかちかち山は鴈治郎の息子扇雀、住吉踊は同じく鴈治郎の息子の長三郎と齊入の息子右團次が主演で一番目で主演した2人よりも更に若い3人の出し物という事で鴈治郎を筆頭に住吉踊りで全員出演するというのが売りだったそうです。

 

成績は言うまでもなく齊入の引退公演とあってあまりに見物が押し寄せた上に贔屓筋の総見も相次ぐなどした結果3日間日延べするほどの大入りとなり、嘉永5年の初舞台以来63年間の長きに及び活躍してきた大阪の舞台で最後の花道を飾ることが出来ました。

この後、齊入は息子右團次と共に上京して東京での引退公演として生涯唯一となる歌舞伎座出演を果たす事となります。

 

ところで、タイトルにも書いた様に奇しくも齊入の引退と同時に最後となった舞台を務めながらも齊入と正反対に誰からも祝福される事無く役者人生をひっそりと終えた役者がいました。その役者は四代目嵐橘三郎です。

江戸末期~明治時代の上方の名優である三桝大五郎の舞台で初舞台を踏んだのち中村梅花に弟子入りした後、四代目嵐璃寛一門に入り明治4年に嵐一門の名跡である橘三郎を襲名しました。彼の全盛期は襲名した明治4年頃から中期にかけてであり特に同い年である高砂屋三代目中村福助との番付の書き出し(若手の人気役者のポジション)の位置を巡る人気争いは凄まじく、興行が行われる度に双方の贔屓による苦情が相次ぎとうとう明治7年の公演では座主側が双方の贔屓を宥める為に書き出しの部分をそれぞれ福助と橘三郎にした2種類の番付を発行せざるを得ない事態にまで発展してしまいました。

 

全盛期の四代目嵐橘三郎

 

しかし、そこまで加熱した人気も明治10年代後半に初代中村鴈治郎が現れるとあっという間に奪われてしまいました。それでも明治20年代は朝日座や弁天座と言った座格は落ちるものの、道頓堀の劇場に座頭の地位で迎え入れられてそれなりの存在感を示していましたがその座も明治30年代に入ると若手に奪われてしまいました。

同じ頃にライバルとして覇を競った福助が鴈治郎一門に入って脇役は脇役でも鴈治郎の相手役というかなり美味しいポジションに収まり、同じく同年代の市川齊入も一線を退き一座の上置きの座を確保したのとは対照的に橘三郎はただの一脇役にまで転落しすっかり落ちぶれてしまいました。師匠璃寛の晩年と似た様な状態となり、本人にしてみれば色々思う所はあったかと思いますが中村珊瑚郎の様に鴈治郎の独裁状態に異を唱えて役者を辞める事もなく、移動するのが極端に嫌いな性格とあってか眼玉の様に地方巡業に明け暮れる事もなく長生きの甲斐もあってか長老の1人して時々鴈治郎一座の公演などに出演するなどして淡々と晩年を穏やかに過ごしていました。

そして引退する齊入の為に特別出演したと言ってもいい今回の初春公演終了後、特に他の舞台に出演する事無く過ごしていましたが4月に入り急に体調を崩して4月20日に73歳の生涯を終えました。

 

明治の上方歌舞伎を率いた延宗右の最後の一人である齊入の引退と同年代の橘三郎の最後の舞台、そして斎入らの後を継いで全盛期であった鴈治郎も役者生活の晩年に差し掛かり新しい道を模索し始め、次世代の福助、延二郎、魁車らが台頭するという上方歌舞伎の世代交代の様相がありありと浮かび上がった公演だったと言えると思います。