市川小團次 | 栢莚の徒然なるままに

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今回の本紹介は以前に紹介した左團次に所縁のあるこの本を紹介したいと思います。

 

市川小團次
 
大芝翫こと四代目中村芝翫と共に幕末の江戸歌舞伎の二大巨頭として活躍したばかりでなく、養子の初代市川左團次を含む明治歌舞伎の雄である團菊左を始め、あの七代目市川團蔵にも多大な影響を与えた幕末の名優四代目市川小團次について資料などを頼りにその生涯を追った本です。
著者の永井啓夫は落語研究家で知られる正岡容の弟子であり、どちらかと言うと落語関係の著書が多い方だけに異例の歌舞伎研究本となっています。
 
内容は大まかに
 
・幼少期
・初舞台から米十郎時代
・小團次襲名
 
までの前半生と襲名後から亡くなるまでの18年間が編年体の形式で構成されています。
 
この四代目市川小團次がどれくらい凄いかというと今と違い歌舞伎役者の身分がまだ名題、名題下、相中上分、相中、新相中、稲荷町と幾重にも厳しく分かれていた上に仮に2番目の名題下にまでなれたとしてもそこから名題役者になることは名門の御曹司以外ではほぼ不可能であった今の野郎歌舞伎の形となった江戸時代の歌舞伎約180年間の中で初代中村仲蔵と並び実力だけで稲荷町から名題役者まで上り詰めた2人の内の1人であり、文字通り「100年に1人の逸材」と言っても差し支えない人物でした。
 
出世作となった佐倉義民伝を演じる四代目市川小團次
 
そんな彼の歴史を紹介しつつ書いていこうと思います。
小團次は市村座などで見物に煙草を売る業者の息子として生まれました。
元々彼は役者志望ではなく、商家へ奉公に出るなど堅気の道を歩んでいました。しかし、9歳の時に実母が不倫をして駆け落ちしたことがきっかけとなり父が奉公を辞めさせてまでして無理やり大阪に移った事により役者をする事になり、七代目市川團十郎の弟子であった市川伊達蔵の弟子になり市川米蔵と名乗り伊勢の子供芝居で初舞台を踏みました。
10代を伊勢屋名古屋の子供芝居で過ごしやがて米十郎と名乗り大阪を拠点を置きつつ全国各地で活動していた約20年余りについては地方の劇場での出演が殆どであった為に活動の詳細について把握するのが非常に困難なのですが本では残された数少ない番付などの資料を丹念に調べ上げて詳しく解説しています。
 
そしてその間に有名な二代目嵐璃珏に梯子から落とされて奮起し長年にわたる好敵手になった事件や長男福太郎(初代右團次)の誕生などを経て天保の改革により江戸を追放されて当時大阪の舞台に出演していた五代目市川海老蔵(七代目市川團十郎)に改めて弟子入りした事で20年近く地方の芝居で磨いてきた腕を評価されて33歳で名題昇進と同時に四代目小團次を襲名する事になりました。
彼と同じく稲荷町から名題役者となった初代中村仲蔵が四代目市川團十郎に認められたのと同じく小團次が異例の名題役者になれたもの偏に七代目市川團十郎の威光と引き立てによるものが大きくありました。
 
大阪で海老蔵一門にいる間には後年大きな影響を及ぼす若き日の七代目團蔵(当時は二代目市川茂々太郎)に出会った他、海老蔵と一座していていたお蔭で
 
・五代目市川團蔵
 
・二代目中村富十郎
 
・四代目坂東三津五郎(十一代目守田勘彌)
 
・初代中村歌六
 
といった文化文政時代の名優の生き残りと相次いで共演した事は彼にとって大きな財産となりました。
そして36歳の時に実子福太郎との別れはあったものの海老蔵の推薦もあって27年ぶりに江戸の地を踏む事になり以後江戸を本拠地として活躍する事になりました。
江戸では海老蔵の推薦もあり彼の長男である八代目團十郎と一座しました。この頃の江戸の歌舞伎界は五代目海老蔵の好敵手であった三代目尾上菊五郎の一世一代があり、役者の世代交代を迎えていた事もあり
 
・四代目大谷友右衛門
 
・初代市川眼玉
 
・二代目市川九蔵(六代目市川團蔵)
 
・三代目岩井粂三郎(八代目岩井半四郎)
 
といった幕末から明治初期にかけての活躍した若き日の名優たちと共演する事になりました。
詳しくは本を読んで頂ければ分かりますが作者が懇切丁寧に様々な資料を用いて詳細に解説して事もあり歌舞伎を良く知らない初めての方でも読みやすい内容となっています。
 
その中でも特筆する事は彼の芸域の幅広さであり、自分がかつて紹介した二代目實川延若中村魁車といった戦前の名優さえも遥かに上回り
 
・上京して僅か1年後の嘉永2年に並み居る役者を押しのけて史上2度目の上演となった勧進帳で富樫に抜擢されて大当たり
 
・嘉永4年1月、中村座で木下曽我恵砂路で葛籠抜けの五右衛門を演じて師匠海老蔵が出演する河原崎座、八代目團十郎が出演する市村座を相手に大当たりし78日間、約2ヶ月に渡る日延べ公演となる
 
・そして嘉永4年8月には同じ中村座で東山桜荘子(佐倉義民伝)を初演して五右衛門を上回る大当たりを取り異例の104日間、3ヶ月以上の連続日延べ公演となる
 
などなど晩年に黙阿弥と出会う前から既に荒事ケレン新作時代物など全く異なる芸域の作品で大当たりを取り成田屋一門の中で数多いる兄弟弟子を押し退けて五代目海老蔵、八代目團十郎に次ぐNo.3の座を欲しいままにしていました。
 
黙阿弥との最後の作品となった曾我綉侠御所染の御所の五郎蔵
 
 しかし、そんな日々を過ごしていた小團次に良くも悪くも大きな転機が訪れたのが嘉永7年でした。
まず良い事で言えばこの年の3月に初演された都鳥廓白波において後年コンビを組む河竹黙阿弥(当時は河竹新七)と出会った事でした。
元々櫻清水清玄という作品をベースに改作したこの作品に小團次が自身の演じる役に苦情を入れた事がきっかけで新七が彼の期待に添うように書き換えた事を彼が気に入ったらしく以降亡くなるまでの12年間に渡り数々の傑作を生み出していく事になりました。
そして悪い事は8月6日に八代目團十郎が原因不明の自殺を遂げて亡くなった事でした。
二代目中村富十郎との不和が原因だともはたまた契約違反となる他劇場への出演を実父五代目海老蔵の勝手な独断で決められてしまった事への憤りが原因とも言われていますが、実子のいない彼の死で当時團十郎を継げる人はおらず、当主不在の市川家は彼の弟である九代目が襲名するまで20年間当主不在の時期を迎えました。
本ではこの頃の様子を幼少期裏方として働き、小團次の舞台を実際に見ていた歌舞伎大道具方の十四代目長谷川勘兵衛が昭和に入って演芸画報に記した証言と共に詳細に渡って書かれています。
 
その後安政年間に入り江戸は安政2年の安政江戸地震に見舞われ壊滅的な打撃を受け江戸三座も全焼し芝居どころではなくなり、小團次も復興まで巡業に出るなど苦難の日々を送る事になりました。
そして劇場が復興してきた安政3年になると彼は河竹黙阿弥と手を組み今日でも繰り返し上演される通称「黙阿弥物」と呼ばれる幾つもの新作世話物作品を初演しました。安政3年以降に上演された物を並べてみると
 
・蔦紅葉宇都谷峠
 
・鼠小紋東君新形


・網模様燈籠菊桐(小猿七之助)

・小袖曾我薊色縫

 
・黒手組曲輪達引


・三人吉三廓初買


・加賀見山再岩藤


・八幡祭小望月賑
 
・曾我綉侠御所染(御所五郎蔵)


といくら黙阿弥が小團次のニンに合わせて書いたとはいえ10年間で9作品とほぼ毎年新作を上演して殆どの作品で当たりを取るという化け物じみたスター性を発揮しました。
そして八代目の死から5年後の安政6年にはとうとう師匠の五代目海老蔵までもが亡くなり、市川宗家が不在になるという異例の事態が起こりました。小團次は名実ともに市川宗家の総代となり團十郎復活の重責を担う事になり、海老蔵の五男で團十郎の最有力候補であった河原崎権之助(九代目市川團十郎)を自身の舞台に出演させて厳しく鍛え上げると共に次世代の主役となる役者たちとの共演も多くなり始め、鼠小紋東君新形では後に彼の世話物作品の多くを継承する五代目尾上菊五郎(当時は十三代目市村羽左衛門)と共演しその素質を早くから見抜いて彼が黙阿弥の書下ろした代表作の青砥稿花紅彩画を初演した際には弁天小僧の役作りなどにおいて相談を受けるなどしてました。
 
その背景には当時小團次の置かれていた環境に起因します。彼には実子が2人(右團次、五代目小團次)もいながら養子を迎えて自身の前名米十郎を名乗らせていましたが文久元年に不和になり離縁してしまいました。50歳になって後継者を失った小團次は大阪で役者になった実子福太郎を呼び寄せて共演させたりもしましたが当時夫人であったお琴と福太郎が衝突してしまい、僅か1興行で彼は「右團次」という名跡を貰ったのを手切れに帰阪してしまいました。そんな事もあって改めて自身の芸の後継者探しも兼ねていたようです。
そんな小團次が54歳の時に目を付けたのが大阪にいた市川升若という役者でした。彼は3兄弟の次男で揃って五代目海老蔵の弟子になった只の若手の1人でしたが、当時大阪に来ていた中村座の奥役が彼を推薦した事もあり左團次の名跡を貰い小團次の元に来ました。
漸く芸の後継者を得た上に慶応元年に行われた中村座の由緒ある寿狂言では代々市川團十郎が述べるというしきたりになっている口上を市川家総代として述べるなど役者として最高の栄誉を得るなど充実していた活動をしていた小團次に悲劇が襲ったのが慶応2年で当時彼が出演していた守田座の舞台について北町奉行所から
 
近年、世話狂言、人情を穿ち過ぎ、風俗に拘る事なれば、以来は万事濃くなく色気なども薄くするやう
 
と演出について注意が下りました。
この時の江戸は幕末の動乱の真っ最中という事もあって治安が悪化していた事もあり奉行所は天保の改革の様に意図的に歌舞伎を弾圧するつもりはなく、あくまで風紀の取り締まりを意図して命令したそうですが、この言葉が小團次には致命的打撃となってしまい、命令を伝えに来た黙阿弥に対して
 
え、そんな事ですか。それじゃあこの小團次を殺して仕舞ふやうなものだ。ネエお前さん、モット人情を細かに演て見せろ、モット真個のやうに仕組めと云ってこそ芝居が勧善懲悪にもなるんぢゃあ有りませんか。見物が見につまされないやうなことをして芝居が何の役に立ちます。私は病気が助かっても舞台の方は死んだやうなものだ…
 
どうも詰まらねえことになったもんだ
 
という言葉を残して事実上の憤死に近い形で亡くなりました。
突然の養父の死に左團次は後ろ盾を失い、まだ芸も拙かったが故にお琴未亡人は一度は離縁しようとまで考えたものの、小團次の忘れ形見という事で長年のパートナーであった河竹黙阿弥が彼の後見人となって指導し左團次は小團次とは違った男前の芸風で一世を風靡する事になりました。
 
最初にも書いたように
 
・市川家の総代として歌舞伎十八番などの荒事を九代目團十郎
 
・最初の出世作である佐倉義民伝などの時代物を七代目團蔵
 
・晩年に河竹黙阿弥によって書かれた世話物などの多くを五代目菊五郎
 
にそれぞれ芸を継承させて明治時代に活躍した役者の殆どに大なり小なり影響を与えた小團次ですが、皮肉にも家の後継者である初代左團次、初代右團次、五代目小團次には殆ど自身の芸を継承させることも無く亡くなりました。
その為、残された子供達は
 
初代左團次…小團次と組んでいた河竹黙阿弥の新作時代物
 
初代右團次…ケレン芸と舞踊及び新作物
 
五代目小團次…舞踊
 
と僅かに小團次が若かりし日に影響を受けたケレン芸を得意とする二代目尾上多見蔵に可愛がられ彼から直接ケレン芸を伝授されて受け継いだ初代右團次以外はそれぞれ父とは全く異なる芸風で活動し父の恩恵を受けること無く叩き上げで名を成しました。
しかし、時代は移り変り高島屋の三兄弟の内、左團次の血統は昭和時代に、五代目小團次の血統は平成時代にそれぞれ途絶え今では小團次の血筋を劇界で受け継ぐ役者は玄孫に当たる二代目市川齋入ただ1人となっています。
斎入には実子の後継者はおらず、齋入亡き後は名門高島屋の血統は全て絶えてしまう事を考えると劇界の栄枯盛衰の激しさが伺えます。
 
自分は主に明治~終戦までの歌舞伎を取り上げて紹介している事もあり江戸時代の歌舞伎役者についてはこれまでブログでもあまり書いてきませんでした。しかし、小團次はその芸風・作品などから明治時代の歌舞伎に多大な影響を及ぼしている事から今回紹介させていただきました。自分が持っているこのハードカバー本は初版本ですが、今では再版され読みやすくなっている上に手に入りやすくもあります。
余談ですが現在二代目中村吉右衛門、二代目松本白鸚が得意とする時代物、七代目尾上菊五郎率いる音羽屋が得意としている黙阿弥物といった一連の世話物関係、四代目市川猿之助率いる澤瀉屋が得意としているケレン芸も元を辿れば
 
時代物
四代目小團次
七代目團蔵
初代吉右衛門
初代白鸚
二代目吉右衛門、二代目白鸚
 
黙阿弥物
四代目小團次
五代目菊五郎
六代目菊五郎
七代目梅幸、二代目松緑
七代目菊五郎
 
ケレン芸
二代目多見蔵、四代目小團次
初代斎入(初代右團次)
二代目右團次、二代目延若
三代目延若
二代目猿翁
四代目猿之助
 
といった具合に現代においても脈々と小團次の作り上げた芸が脈々と受け継がれているのがお分かりいただけると思います。
そんな彼の軌跡を追った極めて価値の高い本なのでお読みいただけると中川の書いているインチキ本を読むよりも歌舞伎についてより理解が深まると思います。