大正5年2月 市村座 五代目尾上菊五郎十三回忌追善 | 栢莚の徒然なるままに

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さて、今回は新富座の筋書でも触れた市村座の筋書を紹介したいと思います。
 

大正5年2月 市村座 五代目尾上菊五郎十三回忌追善

 
絵本筋書の表紙が一月と全く同じだったりします。
 
演目:
 
大正4年8月に初めて行われた帝国劇場への市村座の引越公演が大成功に終わった事から開場からこれまでの敵対関係など何処吹く風で親密になり始めた帝国劇場と市村座は早くも11月には第2回目となる提携公演を行い帝国劇場の女優芝居にへ三津五郎、勘彌、東蔵を出演させる見返りに今度は松助を市村座に出演させてこちらも大入りになり成功しました。これに気を良くした両者は休む間もなく第3回目の提携に踏み切りました。
実験的要素が強かった過去2回とは異なり既に十分な勝算が見込めるとあって本腰を入れたらしく、いつも2月は女優芝居の関係でスケジュールが空いていて巡業等に出かけていた梅幸一門を市村座に出演させてその見返りに3月には再び市村座の引越公演を行うという内容で合意しました。
そして念願かなって明治43年4月の歌舞伎座公演以来7年振りに音羽屋の三兄弟(梅幸、菊五郎、彦三郎)が揃うとあって田村成義は前年企画しながらもお流れとなった五代目尾上菊五郎の十三回忌追善公演を開く事に決めました。
田村にとっては以前に手掛けた七回忌追善が役者の演技については兎も角、演目に関して「五代目の得意役も無ければお家芸もなく、故人の追善とは思えない」と厳しい批判を受けて忸怩たる思いだったらしく、今回は演目にもこだわりを持って臨んだそうです。
 
とこの様に寺島家の家は仏教であり、断じて菊五郎の十年祭追善なんぞは一度も行われた事なんてありませんよ、歌舞伎の知識が全くない小谷野君?
一からお勉強し直しなさい。
 
主な配役一覧
 
鼠の洞だんまり
菊平/西国次郎…菊五郎
吉平/東国太郎…吉右衛門
源平/今井兼平…彦三郎
頼豪阿闍梨…梅幸
 
一谷嫩軍記
熊谷直実…吉右衛門
平敦盛…菊五郎
阿弥陀六…松助
源義経…三津五郎
相模の方…菊次郎
藤の方…東蔵
新十郎…堤軍次
土蜘
 
智籌実は土蜘蛛…梅幸
平井保昌…彦三郎
源頼光…菊五郎
四天王…菊三郎、菊四郎、紋三郎、音蔵
 
鼠小紋春着新形        
稲葉幸蔵実は鼠小僧…菊五郎
本庄曽平次…吉右衛門
おくま…松助
お元…国太郎
おみつ…米吉
蜆売り三吉…丑之助
 
くらま獅子
郷の若…梅幸
獅子舞菊八…菊五郎
 
粟もち
道入梅仙…菊五郎
田舎侍…彦三郎
おさき…菊次郎
おまき…国太郎
惣助…東蔵
 
鼠の洞だんまり
 
その序幕の演目が鼠の洞だんまりでこちらは画像でも分かる様にだんまりの演目です。
新富座が歌右衛門と鴈治郎の共演を後に出して見物を焦らしたのに対して市村座は最初から音羽屋三兄弟を出演させるという田村らしい演出を行いました。
内容としては菊吉の演じる飛脚が比叡山の山中で酒宴を開きそこに彦三郎演じる飛脚が加わりますがそこで荷物の銀の猫を巡り喧嘩になり、設けられた仮花道を使ってのだんまりで猫を取り合います。そこに場面が変わり上記の3人に加えて梅幸の頼豪阿闍梨を始め勘彌、東蔵、丑之助、菊右衛門が加わってのだんまりになり、一旦幕を引いて再び開けると虚無僧姿で現れた梅幸が五代目追善の劇中口上を述べたそうです。
 
吉右衛門の東国太郎
 
一谷嫩軍記
 
続く一番目が一谷嫩軍記です。全然追善と関係ない演目じゃん!と思われますが、こちらは五代目追善の関係上必然的に菊五郎が主体になる為に面白くないであろう吉右衛門及び彼の贔屓の不満のガス抜きをさせる為に拵えられた様です。
ただし、今回は有名な熊谷陣屋の場だけではなく、珍しい陣屋の前の場面である陣門、組討の場も上演しています。
陣門、組討の場は敦盛と敦盛の首を狙う熊谷らのやり取りを描いた幕で後の陣屋に繋がる敦盛と小次郎のすり替えが行われる場でもあります。熊谷は敦盛を助けるという命令を守るが為に我が子を手にかけるという非常に難しいハラを要求される場でもあります。
今回陣門、組討が上演された理由としては陣屋だけになると後は藤の方や相模と言った女形役こそ見せ場がありますが立役になると目立つのはほぼ熊谷のみであり、藤の方は東蔵、相模は菊次郎、弥陀六は松助で納まるとしても肝心の菊五郎の役が義経くらいしか無いのに対して陣門、組討となれば敦盛という美味しい役がある為に菊五郎を敦盛で付き合わせて吉右衛門を納めたという理由があったそうです。(義経は三津五郎が務めています)
 
三津五郎の義経
 
松助の弥陀六

 
吉右衛門の熊谷直実
 
吉右衛門は陣屋に関しては明治43年6月の御園座で初役で務めて以来、44年6月の京都明治座、45年7月の新富座と都合3度演じていてすっかり役を自家薬籠中の物にしていましたが陣門、組討は今回が初役でした。
 
劇評では
 
「(九代目)團十郎の改造した活歴式の豪快な型を避けて、かなり忠実に丸本の敷写しをやっている。わざと團十郎の模倣と称せられるのを恐れて努めてその足跡を踏むまいとしているように私は見えた
 
「(陣屋において)例の幕外の引っ込みを廃して、丸本通り舞台だけお約束の書面の見得で幕を切ったのは目先が変わって面白い
 
とこの時は我々がよく知る團十郎型ではなくどちらかと言うと四代目芝翫の型に近い形で上演したそうです。
 
そして吉右衛門について
 
長所はいうまでもなく隙間無く小刻みに刻んでいく情緒的な芸風であって(中略)快い圧迫を感ずるのである。また短所はあまりに、それと狙った一つの情念につきすぎて単調になり、概念的になることである。
 
と長短をそれぞれあったことを述べた上で総合的には菊次郎の相模と共に好意的に評価されています。
 
菊五郎の敦盛と吉右衛門の熊谷
 
相模の菊次郎、藤の方の東蔵、新十郎の堤軍次
 
言わずもがなですが、吉右衛門はこの役を生涯の当たり役として團十郎型で何度も上演し戦後も記録映像に撮影した他、生涯最後の舞台でも務めるなど長きに渡り上演していく事になります。
 
土蜘
 
中幕には七回忌追善の反省からか「新古演劇十種」から土蜘が上演されました。
こちらは五代目の追善演目として音羽三兄弟による主演で僧智籌実は土蜘の精を梅幸、源頼光を菊五郎、平井保昌を彦三郎がそれぞれ務めた他、吉右衛門、三津五郎、勘彌、東蔵が並び役で出演する追善に相応しい豪華な配役となっています。
 
後年の梅幸の蜘蛛の精
 
茨木、身替り座禅と並んで新古演劇十種の中でも上演頻度が高い演目で菊五郎、梅幸の双方が受け継ぎましたが、肚芸を重視する團十郎に師事した影響か人間でない役が苦手であった菊五郎よりも妖怪物に秀でていた梅幸が得意としていました。
元々この演目は三代目尾上菊五郎の追善公演で初演された演目だけに五代目尾上菊五郎の追善には持ってこいの演目で劇評でも
 
梅幸は言うに及ばず、菊五郎は叔父家橘の面影がある。
 
と梅幸、菊五郎の演技に先代菊五郎兄弟を彷彿させたそうです。
 
鼠小紋春着新形
 
二番目に上演されたのは鼠小紋春着新形です。こちらは御存知の方も多い「鼠小僧次郎吉」を題材に河竹黙阿弥が安政4年に四代目市川小團次に書き下ろした作品です。
この演目には初演時に四代目尾上菊五郎がお高・松山・若草の三役を演じた他、まだ十三代目市村羽左衛門を名乗り子役であった五代目菊五郎が蜆売りの三吉を務め、研究熱心な五代目は役が決まると毎日深川で実際の蜆売りを観察して癖や歩き方、商売文句を覚えて舞台で再現し大向こうや小團次さえも唸らせる出来栄えでこの好演が黙阿弥の眼にも留まり、19歳の時の弁天小僧の大抜擢に繋がるきっかけだったそうです。その為、音羽屋にとっても実に所縁のある演目と言えます。
とはいえわざわざこの演目を持ち出したのはもう1つ明確な理由があり、それは1月に歌舞伎座が黙阿弥生誕100周年という事で三人吉三を復活させて大当たりを取った事でした。
 
その時の筋書がこちら

 

 

 

その様子を目の当たりにした田村は「そっちが三人吉三ならこちらは鼠小僧だ!」と全力で二匹目のどじょうを狙ったのが真相だそうです(笑)
理由はどうであれ、久々の上演となったこの演目ですが、劇評では
 
「(初期の作品故に)舞台の段取りに何となく辿々しい幼いところが見える。
 
と後年の数々の傑作と比べると今一つ構成が甘く感じられたそうです。
 
菊五郎の稲葉幸蔵
 
一方で役者はと言うと
 
菊五郎の鼠小僧には生まれつきの身体のこなしが」「意気」といふ様式に固まってしまうことが出来ないだけ、先代よりは書下しの小團次という人を偶ばせるような「実」の味が相応に籠っていた
 
と先代菊五郎とは異なった部分があるとした上で六代目なりの色を出せている事を評価しています。
また菊次郎の松山も
 
歌麿式な半四郎の似顔絵を見るように思われたのは嬉しかった
 
と役作りが上手く出来ていることを高評価されています。
この様に原作の欠点を役者の演技で上手く補った事からこちらも当たり演目になったようです。
 
 
余談ですが、六代目菊五郎も丑之助時代の明治34年1月に演じた際に父五代目から自身の出世芸となった蜆売りの三吉の役を厳しく教わった事から大正14年3月に市村座で養子の七代目尾上梅幸に三吉を演じさせた時も同じく非常に厳しく教えた事が梅幸の自伝「梅と菊」に書いてあり少し長いですがそこの部分だけ抜粋したいと思います。
 
『おい、誠三(梅幸の本名)、三吉の出だ』その声に『ハイ』といって私は揚幕から花道へかかる心で座敷の隅へいき、そこから寒そうなしぐさで歩き始めた。とたんに父が叫ぶ『おっといけねえ、もう一ぺんやってみな』(中略)何回繰り返しても父は首をタテに振らない。十回くらい繰り返したころ、ついに父の雷が落ちた。
『バカヤロ、そりゃ畳の上の歩き方だ。おめえの役は蜆売りの三吉だぞ。(中略)蜆売りという役が全然ハラに入ってねえじゃねえかおれがやって見せるからよく見ておきねえ』
そういいながら子供が雪のなかを寒そうに歩くしぐさをたくみにやってのける。(中略)それはまさに蜆売りの三吉そのままで、いならぶ祖母たちまでほれぼれと見とれてる。(中略)私は半泣きで切り返す。『いけねえ、いけねえ』じれ出した父は(吹雪いている)庭の雪に気づき、裸足になって雪の中を歩けと言い出す。(中略)私は涙をこらえて北風が吹きすさぶ庭の雪の上を裸足で歩いた。十歩も歩くと寒いというより痛みを感じた。二分ほどたつとすっかり足の感覚がなくなる。それでも苦しさをこらえて庭の隅から隅まで歩いた。五分…十分…十五分…どうにでもなれという気になってくるうち、父の許しが出たらしく(弟子の)鯉三郎が戸をあけて私を呼んでいる。(中略)
『おい、誠三、おめえそのままでもう一ぺん歩いて見ねえ』
という。母は足をあたためてからというのに、父はあたためてからでは気分が元へ戻るからそのまま歩けという。私は死ぬ気で畳の上を歩く。
『おお、できた。そのイキでやるんだ。いまの気持ちを決して忘れちゃいけねえぜ…誠三、さぞ寒かっただろうな』
もう一度歩こうとする私を引き止めて、ぎゅっと抱いてくれたその時の父の温かい感触はいまでも覚えている。」(梅と菊)
 
今やったら間違いなく児童虐待で訴えられそうですが、「可愛い子には旅をさせよ」を地で行くような六代目の厳しい中にも我が子にしっかりと役のハラを覚えさせたい愛情が垣間見えます。
 
因みにこの時は梅幸の息子である丑之助が三吉を演じてます。
 
 
くらま獅子
粟もち
 
大切は2つの舞踊演目です。
こちらは音羽屋三兄弟を始め吉右衛門と松助を除く主要役者が勢揃いで出演しています。
こちらは舞踊とあって言葉少なめですが「変化があって面白かった」と評価されています。
 
この様に七回忌追善とは違いきちんと故人所縁の演目も上演して好評だった事に加えて吉右衛門の熊谷陣屋も大当たりした事から新富座を相手に大入りを記録するなど3回目の提携も成功裏に終わりました。
因みに五代目菊五郎の追善公演はこの後菊五郎のいる市村座の衰退もあって十七回忌、ニ十三回忌、ニ十七回忌の時には行われず(厳密に言うとニ十三回忌は大正14年4月に帝国劇場の土蜘に「ニ十三回忌に因み」と銘打ってはいますが)昭和10年に行われた三十三回忌追善公演まで待つ事になり、その公演を以て引退を宣言しながらも公演直前に急逝した梅幸にとっては最後の追善公演参加となりました。
しかし、この時百戦錬磨の田村成義を上回るようなサプライズを仕掛けまんまと漁夫の利を得たのは帝国劇場の山本専務でした。
彼が3月に仕掛けたとっておきの秘策についても後程紹介したいと思います。