さて、今回は歌舞伎座の筋書を紹介したいと思います。
大正6年10月 歌舞伎座
演目:
一、女大蔵宮島絵巻
二、仮名手本忠臣蔵
三、黒手組曲輪達引
四、紅葉狩
7、8月の夏公演を終えた歌舞伎座は9月を休みとして、他の座が舞台を開ける1週間前の9月22日(←ここ重要)から10月公演をスタートさせました。
これはいつぞやの市村座同様に1週間早く開ける事で集客面で優位に立とうとする戦略でしたが、これが後述する問題で明暗を分ける事になるとは誰も考えてはいませんでした。
主な配役一覧
座組としては3月公演以来となる片岡仁左衛門が半年ぶりに出演して三衛門が揃った他、八百蔵、段四郎等も加わり座付き幹部が勢揃いとなりました。
さて、上述した大問題は幕を空けてから9日目、全日程の約1/3が終わった9月30日に起こりました。
折しも9月25日にフィリピンで台風が発生し、猛スピードで発達しながら5日間で日本に接近し30日から10月1日にかけて東京に上陸しました。この時の台風の強さは2019年に東日本に甚大な被害をもたらした令和元年東日本台風の台風19号の955hPaすら上回る952.7hPaという未だ嘗て破られていない猛烈な物でした。
そして運悪く接近時が満潮と重なった事により、記録的な高潮が発生しました。
高潮被害を報じる10月1日の朝日新聞の号外記事
この高潮により横浜湾や東京湾沿岸の京橋区、深川区、本所区は水没、冠水など特に甚大な被害を蒙りました。
歌舞伎座と新富座は京橋区に位置しており、歌舞伎座自体は幸いにも大きな被害を免れましたが見物の安全を第一に考え災害当日の9月30日及び付近一帯が水没してしまった事もあり翌10月1日は臨時休場する事になりました。
この事は他の劇場を含めて10月公演の成績に大きな影響を及ぼす事になりました。
さて、一番目の女大蔵宮島絵巻は演劇雑誌「新演芸」が募集した脚本で西川芳渓の書いた新作物です。
女大蔵とありますが、歌右衛門がかつて演じた桐大蔵とは一切関係なく、歌右衛門が演じる花園姫が狂ったふりをして悪人を切る場面があり、それを一條大蔵譚に見立てて女大蔵としたそうです。内容としては戦国時代の中国地方を舞台とし、毛利元就と陶晴賢の2人の戦国大名が争う中で大内家の姫である花園姫は発狂した振りをして世間の目を欺き逃げおおし、大内家に仕えながら陶方にも毛利方にも通じている久芳隆方が毛利方に与して陶晴賢を討ち取り、厳島神社で戦勝祝いをしている最中に斬りかかり討ち取り大内家の無念を晴らすといった物語です。
劇評にも突っ込まれていますが一條大蔵譚は「作り阿呆」であって「偽気違(狂ったふり)」ではないので、この外題のネーミングセンスは少し的外れな気がしなくもありません。
上記の様に花園姫を歌右衛門、久芳隆方を羽左衛門、陶晴賢を段四郎、広中隆家を八百蔵、大内義長を福助、呉竹姫を秀調、毛利元就を仁左衛門がそれぞれ務める豪華な配役となっています。
この様な新作はこの年の1月にも出陣で酷評されていましたが、今回の演目もご多分に漏れず劇評では
「この作の欠点は見た目の変化を努めて中心点を失っていたのと事件がスラスラ進行しすぎて、看客に緊張した感じを起させる處がなかった」
「歌右衛門の花園姫は長い間偽気狂ひで、正気になった處で直ぐお終ひになる。委員長を要する役でもないやう」
「羽左衛門の久芳左衛門は二股武士で、魂胆のありさうな役でいながら、それ程の事もなく、一向要領を得ない役」
と仮花道を設けて舞台全体を厳島神社に見立てるといった舞台装置に関しては評価されているものの、肝心の演技面では偽気違いの部分に拘った割には山場が無い上に役者のニンに合わない役ばかりとこき下ろされています。
不評だった羽左衛門の久芳隆方と歌右衛門の花園姫
この様に2作続けて募集脚本の舞台化は失敗に終わりましたが、この後もめげずに(?)舞台化は何度か行われる事になります。
仮名手本忠臣蔵
そして中幕は御存知の仮名手本忠臣蔵で、今回は九段目の山科閑居の段が上演されました。
他の段に比べると上演頻度が少し落ちるこの段ですが今回は仁左衛門が初役で本蔵を務めるというのが売りだった様です。
その為、本蔵を仁左衛門、戸無瀬を歌右衛門、お石を源之助、戸浪を福助と一番目に負けず劣らずの豪華な配役となりました。
尤も劇評や見物の脳裏を過ったのは過去の死屍累々たる「七代目の型~」という大義名分を振りかざして行われる仁左衛門の珍型の演技による失敗の数々でした。
忠臣蔵での失敗その1
忠臣蔵での失敗その2
その為かまた珍型を披露するのではないかと皆半信半疑だったそうですが、何が起こったのか今回は至極全うな従来の型で演じたそうです。
その為か劇評でも
「義太夫腹のある優とて台詞のメリハリもよく気持ちも十分でよい本蔵なり。(中略)しかし、物が物ゆえ律儀にしてくれたは嬉しい事なり、虚無僧姿で門外に立ち後向に尺八を吹く形からその人物になっていたり、開場前には何か仁左衛門が新手を出して上下(かみしも)を着けて由良之助と応対するなどとの噂を聞いたが六日目に見た時には左様な珍型はなく在来りの儘であったは変痴気論の種にならずしてこれもよし。」
「台詞にヨタがあって聞き苦しかったが、その替わりにこんどは目まぐるしい動作が無かったのが良く」
と変な変痴気論に走らずに正統に演じた事も含めて絶賛されているのが分かります。
仁左衛門の加古川本蔵
そんな立派な仁左衛門に対して福助を小浪に演じさせて自身は戸無瀬を演じた歌右衛門も
「歌右衛門の戸無瀬は上出来」
「福助の小浪は最初の台詞が胴間声で、大分見物の感じを悪くさせたが、絹帽子をぬいだ時の顔が美しかったので、最初の悪声を取り返した」
と歌右衛門は圧倒的な貫禄と品格の良さで戸無瀬を演じきり、福助は変声期故の台詞廻しの拙さで損した分、時分の花である美しさで補いどちらも評価されています。
歌右衛門の戸無瀬と福助の小浪
この様に仁左衛門、歌右衛門はかなり良かったものの、対して他の役者はというとまず大石主税を演じた羽左衛門は
「羽左衛門の力弥は本筋」
「羽左衛門の力弥はまた若々しく綺麗にて且慎んでいるところ大によし」
と本役の二枚目とあって余裕ある演技で好評でしたが、一方で由良之助を演じた八百蔵は
「八百蔵の由良之助、ただ上下を付けて義者張って座ったぎり、山科閑居の場にあらずして大星閑居の場といふべきなり」
と完全に仁左衛門に喰われてしまい、為所が無く今一つでした。
しかしお石を演じた源之助は
「源之助のお石も三方を出しての詰開きが立派なりし」
と歌右衛門の戸無瀬に喰われる事無く貫禄たっぷりにお石を演じて苦手な時代物では珍しく評価されています。
源之助のお石
とこの様に九段目の性質上仕方ないとはいえ、為所のない八百蔵の由良之助を除いてはどれも好評でした。
ニ幕目の黒手組曲輪達引は安政5年に河竹黙阿弥が当時コンビを組んでいた
四代目市川小團次に助六を演じさせようと当てはめて書いた世話物の演目で通称黒手組助六と呼ばれています。
後に処女翫浮名横櫛を書いて大当たりを取るなど書き換え物には定評がある黙阿弥が助六所縁江戸桜を世話物に脚色しただけに早変わりなどの要素を取り込んだ単なるパロディ物の枠に留まらずに独自の演目として成立しているのが特徴でもあります。
今回は前に本家の助六を演じた時同様に助六と権九郎を羽左衛門、揚巻を歌右衛門が務めた他、鳥居新左衛門を八百蔵、白酒売を歌六、白玉を秀調、三浦屋女房お市を市之丞がそれぞれ務めています。
言わずもがなですが本家の助六で既に2回も演じ劇評からも評価された羽左衛門だけに世話物である黒手組の助六も無論良く
「羽左衛門の権九郎は思い切って軽くしている處が好く、引込みに時事問題の「づくし」をいふなど、茶気漫々として見物を喜ばせていました。助六は男前といひ歯切れのした處が絶品で格子先などは無類」
と劇評からも好評でした。
羽左衛門の助六
それに対し本家の助六の揚巻は折り紙付きなものの、黒手組の揚巻はあまり演じていない歌右衛門でしたが、それでも
「申し分ない出来」
と慣れないながらも巧く演じたらしく評価されています。
大切の紅葉狩は九代目團十郎と五代目菊五郎の映像が残る事で有名な舞踊です。
九代目團十郎と五代目菊五郎の紅葉狩
今回は平惟茂を羽左衛門、更科姫実は鬼女を福助が務めています。
羽左衛門が前回更科姫を演じた松竹初公演の歌舞伎座の筋書
今回初役で更科姫を務めた福助でしたが劇評には
「例に因って色気は無かったが、美しく大人びて見え、鬼になってからも危な気はなかった」
「この役始まって以来の姫形にて舞の間もふつくしくしてよく、鬼女になっても物凄くて大出来大手柄」
と京鹿子娘道成寺、春興鏡獅子に続く舞踊の大役を初役にしては上手く行ったらしく、評価されています。
対して前回は慣れない更科姫を演じて不評でしたが今回は親と子供並みに年が離れた福助相手だった故か
「ホンのお附合いに出ているといふ風な、迷惑さが見えていました。」
と良く言えば余裕のある、悪く言えば福助だからと手を抜いた演技だったようです。
羽左衛門の平惟茂と福助の更級姫
羽左衛門にとっては不本意な演目になった様ですがこの様に前途著しい福助の躍進ぶりが伺える一幕でした。
この様に一番目の新作を除いてはどの演目も決して悪い出来では無かったのですが、やはり冒頭に書いた様に死者が3,000人を超えて陸軍が出動するレベルの高潮による浸水被害が尋常ではなく、見物も芝居見物どころの余裕では無くなってしまい再開した2日以降の動員が伸び悩み不入りでこそないものの、満足行く結果には至らないで終わりました。しかし、30日や1日が初日でありいきなり休場に追い込まれた挙げ句に開場しても悲惨な入りになった他の劇場に比べると1週間早く開いた事が幸いしてかその分の入りが良かっただけにまだ恵まれていた様です。
この様に災害という予期せぬアクシデントで皆伸び悩んだ劇界は巻き返すべく乾坤一擲の11月公演に臨む事となります。