大正4年11月 新富座 六代目市川團之助襲名披露 | 栢莚の徒然なるままに

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今回は新富座の筋書を紹介したいと思います。

 

大正4年11月 新富座

 

演目:

一、鐘曳        
二、忠臣いろは文庫        
三、景清        
四、大経師昔暦        
五、モデルの女

 

本来であればこの時歌舞伎座で顔見世が行われていても不思議ではないのですが、11月10日に大正天皇の即位式典が行われた関係で休場となっていました。また本来であれば11月は恒例の鴈治郎の上京公演が組まれているのが常ですが、前月の浪花座で二代目實川延若の襲名披露公演が行われた関係で大正4年いっぱいは京阪神の劇場の襲名公演に参加する為に上京をしない為、今回の新富座は鴈治郎と歌舞伎座の代理公演の意味合いを含んでいました。

その代わりと言っては何ですが、新富座常連の左團次一門に加えて歌舞伎座から仁左衛門と歌六、大阪から多見之助、芝雀ら上方系統の役者が大挙して出演するという6月の本郷座に劣らない豪華な座組となりましたが演目のラインナップとしては左團次一門特有の新作多めの攻めの姿勢が見て取れます。

 

主な配役一覧

 

鐘曳 


鎌倉景政…福三郎

鳥海弥三郎友久…左團次

秩父の蔵人…多見之助

尾上の前…松蔦

清平武衡…又五郎

奴曽根平…團之助

 

忠臣いろは文庫

 

大星由良助…仁左衛門

清水一角/小山田庄左衛門…左團次

七大夫…歌六

千崎弥五郎…又五郎

弥作…多見之助

葉泉院/おゆき…芝雀

戸田の局…多見之助

 

景清        
 

景清…左團次

平教盛…市十郎

平経房…左升

平行盛…又五郎

平師則…米左衛門

隼太…壽美蔵

乙音…松蔦

 

大経師昔暦

茂兵衛…仁左衛門

浜田弥十郎…左團次

おさん…芝雀

つぼらの伝吉…多見之助

番頭勘八…歌六

 

モデルの女

 

高見桂伝…又五郎

秋子…松蔦

 

鐘曳

 

序幕の鐘曳は鴈治郎一門から離れて活動の拠点を東京に移した堀越福三郎が主演の景政を務める演目です。

内容としてはしてはあってないような物で景政が土中から大鐘を引き上げて秩父の蔵人と尾上の前を助けるという劇評に言わせると

 

暫の真似事の様な古風な演目

 

という単純極まりない荒事テイストの演目です。それだけに中年から役者を始めた関係で演技の部分では未熟なのが否めない福三郎でも演じる事が可能で

 

重い役を軽々と相つとめ

 

と顔見世公演の序幕の役割をきちんとこなせたようです。

また、この演目では奴曽根平の役で市川升三郎が六代目市川團之助を襲名しました。

彼について知らない方もいるかと思われますので少し説明したいと思います。

彼は明治9年に生まれて7歳の時に實川延若一門にいた實川芦鴈の養子に入り實川芦丸として初舞台を踏みました。しかし、入門から僅か2年で芦丸から見れば大師匠に当たる初代實川延若が死去した事で一門は解散状態になり、芦鴈は東京に活動の拠点を移して初代市川左團次一門に入り市川升若に改名した事で彼も市川若松となりました。余談ですが升若の名跡は初代左團次の前名に当たり彼がその名跡を与えられた事からも左團次一門においてかなり厚遇されていてもし若松がそのまま左團次一門に留まれば左團次一門において大活躍していた可能性は高かったと言えます。しかし、若松は22歳の時に養父の手を離れて明治30年に九代目市川團十郎一門に入りました。

しかし、團十郎一門にも長くはおらず明治時代後半は主に東西の小芝居を中心に出演して藝を磨いていました。そして40歳になったこの年に養父がいた一門の役者に囲まれての襲名となりました。

因みにこの市川團之助という名跡は成田屋の名跡でも高島屋の名跡でもなく七代目市川團蔵の三河屋の名跡です。恐らく長年團蔵一門に身を寄せていた縁でこの名跡の襲名に至ったと思われますが劇中口上の席も設けられ賑やかに行われました。

彼はその後再び小芝居へと戻り関東大震災を経て小芝居が衰え始めると大歌舞伎に戻り昭和時代に初代中村吉右衛門の一門に入って脇役として長く活躍して戦後には七代目松本幸四郎没後は劇界の最長老として長きに渡る小芝居での経験を評価され人間国宝にも認定されるなど栄誉に恵まれ、更に1961年の十一代目市川團十郎の襲名披露の口上にも九代目門下の一人として出演して口上を述べたのを最後の花道に翌年85歳の天寿を全うして亡くなりました。因みにこの件について歌舞伎俳優名鑑には「九代目門下最後の生き残り」と書かれています。確かに九代目が亡くなった時点で成人していて茅ヶ崎通い等を経験していた人までを弟子と定義すれば彼は最後の生き残りとなりますが、年齢等を問わければ正式には間違いで九代目の弟子は十一代目襲名の時点で彼以外に

 

・二代目市川猿之助(1888年~1963年)

・三代目市川左團次(1898年~1969年)

・二代目市川小太夫(1902年~1976年)

・初代利根川金十郎(1897年~1985年)

 

の計4名が存命していました。

その内、九代目の没時はまだ1歳であった小太夫を除く猿之助、左團次、金十郎の3名は九代目との舞台で共演も果たしています。この事からもお判りいただけるかと思いますが彼が唯一の生き残りではないのは明白ですよ、室田くん?

 

大分話が脱線したのでこの話はこの辺りにしたいと思います。

 

忠臣いろは文庫

 

一番目の忠臣いろは文庫は元の外題を「仮名手本硯高島」といい、高島という名前から察しのいい方はピンと来るかと思いますがこちらも幕末の名優、四代目市川小團次に書き下ろした河竹版忠臣蔵作品の一つです。

こちらは十一冊(段)目の通称「徳利の別れ」、別名赤垣源蔵と呼ばれている場を十一代目片岡仁左衛門が得意として「片岡十二集」にも入れた事から度々上演していました。

今回は仁左衛門も出演している事からてっきりいつもの赤垣源蔵のみを上演すると思いきや今回は赤垣源蔵を上演せず代わりに六冊目の弥作の鎌腹及び十冊目と大尾の3つを上演する異色の上演になりました。

 

さて、いずれも中々上演されない演目ですので順を追って説明したいと思います。

まずは弥作の鎌腹ですが多見之助演じる弥作は普通のどこにでもいる百姓ですが彼の弟が千崎弥五郎である(という設定になっている)事から部外者であるにも関わらず弥五郎を巡る養子騒動に巻き込まれて斡旋先の七大夫と弥五郎の板挟みになり最後は弥五郎の仇討参加を知らせに行こうとする七大夫を銃殺してしまい責任を取って切腹しようとするも武士でないが為に刀を持っておらずあれこれ詮索するうちに仕方なく鎌で切腹するという悲劇で幕を閉じます。全体を通して悲劇でありながらも切腹する道具を探す場面では見物を笑わせるという技量を求められる難しい演目でもあります。それだけに劇評も厳しく

 

多見之助の弥作一生懸命に演(じ)てはいるが愚直と言うより阿呆になり過ぎ、時折はまた吃又じみもして持ち切れぬ

 

と難しいハラを求められる役を初役である多見之助には十分に呑み込めていない事を指摘し批判しています。

しかし、弥五郎の養子縁組話を取り下げに行くも仲介料をネコババしたいが為になんとしても縁組みを実現させたい弥作役を得意とする歌六が演じる七大夫に逆にやり込められる場になると

 

相手の歌六の七大夫が良いだけにグッと弥作も引き立てり

 

と持ち直したらしく、七大夫銃殺の場面は

 

ここは大出来

 

と最後は一応評価されるまでになりました。

とは言え、女房おかよを演じた粂三郎は

 

「(百姓の女房としては)色気がありすぎて弥作の阿保に対しては水滸伝の武太郎の女房じみて儲からず

 

とニンが合わず不評で、弟弥五郎を演じた又五郎も

 

思ったほど実入り無し

 

とイマイチな出来で歌六以外は総崩れに近い有様で不評でした。

 

この演目は今回七大夫役を演じた歌六が弥作役を得意役とした事から彼の実子である初代中村吉右衛門に受け継がれ同じく忠臣蔵の外伝的演目である松浦の殿様と合わせて「秀山十種」に選ばれた事からこの忠臣いろは文庫の演目の中では30年に1回くらいの割合ではありますが今日でも上演される事があります。

 

さて次は仮名手本硯高島ではなく同じ黙阿弥が書いた四十七刻忠箭計の南部坂葉(瑤)泉院屋敷の場ですがこちらは打ち入り前に由良之助が主君の未亡人である葉泉院を訪ねる場です。ここで葉泉院は由良之助に仇討の報告を期待しますが、由良之助は屋敷に潜む間者の目を気にしてやる気のない様を見せて葉泉院を怒らせてしまいます。そして屋敷から退出後に高師直方の清水大学に出会い色々カマをかけられるも惚けて危難を脱し残してきた日記を読んで真意を悟った葉泉院に仇討の報告をして立ち去るという内容です。

今回由良之助を仁左衛門が、葉泉院を芝雀、戸田の局を多見之助、清水大学を左團次が務めています。

仁左衛門の由良之助と言えば以前に実録テイストで演じて大失敗したのを紹介しましたが、案の定今回も良くなかったらしく、

 

仁左衛門の由良之助が間者を騙す為とはいえ、あまりケロリとして浮大臣酒耄の体なり

 

とこき下ろされています。そして葉泉院の芝雀と多見之助の戸田の局も

 

芝雀の葉泉院は塩谷判官の奥方顔世御前としては贋首にも受け取れず

 

多見之助の戸田の局ガミガミとしてつつましからず

 

とこちらもニンに合わず評判があまり良くありませんでした。

そんな中、唯一左團次の清水大学だけは大車輪ぶりで「親勝り」と気を吐きましたが大勢を覆すには至らずこの場も不評でした。

 

そしてそのまま小山田庄左衛門変心の場に移ります。こちらは名前の通り浪士の一人である小山田庄左衛門が討ち入り直前になって脱退した史実を基に作られていて小山田庄左衛門も他と違って実在の人物の本名となっています。史実では逃亡の理由は不明ですがそこは歌舞伎の世界だけあって身を投げようとした女と一夜を過ごす内に討ち入りの時刻を過ぎてしまい思わず切腹して侘びようとする所助けた女のお雪の事を考えてそのまま市井の人になる運命を選ぶという設定となっています。一連の忠臣蔵物においても参加した浪士は兎も角、脱退した浪士について描かれる事は殆どない為に異色の場となっています。

そんなちょっとマヌケな小山田庄左衛門を左團次が、おゆきを芝雀が演じています。それまでの不評続きの中でこの場だけは

 

左團次の小山田は全く親勝りともいうべきもの

 

おゆき内の場も牛ヶ淵の場もテキパキして気の変わり目も大いによし

 

と前の清水大学役に引き続き好評で芝雀のお雪も娘役とあってか

 

芝雀のお雪もおぼこらしくてよし

 

と娘役にかけては無類の良さを誇る芝雀だけにニンもあって葉泉院とは打って変わってこちらも好評でした。

大尾の両国橋引き揚げの場は大した見せ所もない為か劇評でもちっとも触れられておらず、結局忠臣蔵物ながら好評だったのは実質最後の小山田庄左衛門変心の場のみという少々残念な結果に終わりました。

 

景清

 

 

中幕の景清は左團次の盟友であった岡本綺堂の新作です。歌舞伎における景清と言えば歌舞伎十八番における景清や関羽のイメージからもお分かりただける様に悪七兵衛の異名を持ち豪勇の武将として有名ですが今回は史実にこだわりを見せる綺堂だけに従来の景清とはかなり異なり物静かで密かに平家再興を試みる武人として描かれています。

 

左團次の景清

 

そして、作品の内容も壇ノ浦の戦いで平家が滅亡した後、難を逃れた教盛、経房、行盛、師則の4名とその家族が肥後の五個の庄(今の熊本県八代市)の山奥で暮らしている事から始まります。実際の五家庄には平家の落人の伝説が伝わる事から綺堂もそこから作品のヒントを得た様です。通常の歌舞伎の演目であればここで源氏の追手が迫り、立ち廻りの末に悲劇的な最期を迎える…みたいな話になりそうですが、綺堂はちょっと捻くれていて、平氏の中で再興を夢見る者は景清以外はおらず、残り全員が逃亡先の平穏を享受していて景清はその有様に歯がゆさを感じている設定となっています。

 

参考までに八代市五家庄の地図

2020年現在公共交通機関でここを訪れる事は不可能となっています。

 

そこに郎党の1人隼太に恋する乙音が人里離れた潜伏先にたどり着いた事で景清は信念さえあれば困難を克服できるとして頼朝殺害を目指して下山を決意する事にします。そして一緒に付いて下山して来た隼太と乙音を潜伏先の秘密を漏らす可能性があるとして殺害してしまうというショッキングな結末で終わるという暗い作品となっています。

この様な内容からお分かりいただけるようにあまりに設定に凝りすぎてちっとも受けず劇評も一切触れないほど不評でした。

 

大経師昔暦

 

 

二番目の大経師昔暦は上方狂言お得意の心中物である「おさん茂兵衛」物の一つで言わずもがな仁左衛門の出し物です。

これまで古典も新作も不評続きでしたが、冒頭にも書いた様に仁左衛門、多見之助、芝雀、歌六ら上方系統の役者が多く出演している関係で珍しく純上方式の演目になったらしく、

 

仁左衛門の茂兵衛は持芸にてこの前の時も『知らーん』の追詞(アドリブ?)が流行詞になった程の物

 

と詳しくは言及していないものの手の入った役だけに良かったらしく好評でした。

そして意外にも歌六の番頭勘八が良かったらしく

 

歌六の勘八が大はしゃぎ、自分も面白うにて見物も面白がりたり今度は歌六の大当たり

 

と生まれ育ちが上方だけにニンにぴったりで「祝杯を挙げるべし」と書かれるまで良かったようです。

また芝雀、多見之助、松蔦といった脇も皆卒なく演じた事で今回の興行で唯一の当たり演目になったそうです。

 

モデルの女

 

 

大切のモデルの女はタイトルからも分かる様に新派物の作品で若き男女の恋愛を画家が取り持つ、ただそれだけの作品です。

よって景清同様に劇評では上演されなかったかの如く触れられていません。

 

この様に5作品並べて当たったのが僅かに忠臣いろは文庫の小山田庄左衛門変心の場と大経師昔暦のみという有様で見物の入りも不入りではないものの芳しくなかったようです。

今回の公演の後仁左衛門は12月を丸々休み、左團次一門は休むことなく12月も地方巡業に赴きました。

大正時代の左團次は明治時代と比べて金銭的苦境こそ脱したものの、役者としては新歌舞伎の新作を岡本綺堂から提供されて毎年の様に当たり作品を出していて一見すると順風満帆の様にも見えますが、中には今回みたいな大失敗の時も当然ありました。

しかし、上記の様に座主で無い事から大入り不入りによる金銭的心配が無い分この後も試行錯誤を繰り返しながら独自の路線を築いていく事になります。今回はそんな数ある失敗の内の1つと言えます。