今回紹介するのは今から107年前に松竹が買収後初めての公演となった歌舞伎座の筋書です。
大正2年10月 歌舞伎座
演目:
一、象引
二、忠貞奇談
三、絵本太功記
四、裏表心曲尺
五、紅葉狩
明治43年の東京進出から一度は手に入る寸前まで行きながら田村成義の巻き返しにより涙を呑んだ事はあったものの、それから4年の間にあっという間に力を付けて歌舞伎の本拠地歌舞伎座を手に入れた松竹は初の公演とあって今までにない力の入れようで様々な改革を行いました。
筋書もその一つで今まで演目名と役者の絵という定番パターンを始めて崩して上記のような現代にも繋がる斬新な表紙となった他、絵本番付と筋書を一つにして見物の利便性を図る、現在でも行われている役者の芸談やコメントを掲載するなど帝国劇場にすらない従来とは異なる斬新な方法を導入しました。
この時から始まった楽屋話
また、今まで極度のマンネリと化していた座組も従来の面子に東京専属組の八百蔵、左團次に加えて上方から初代實川延二郎と四代目中村芝雀がゲストで加入するなど新鮮な顔ぶれになりました。
主な配役一覧
象引
大伴褐麿…左團次
箕田源二猛…段四郎
豊嶋葵之助…芝雀
堀川勘解由…新十郎
生津我善坊…猿之助
船方兵衛…歌六
息女彌生姫…門之助
忠貞奇談
門番貞助実は山吹…歌右衛門
巽大炊之助…羽左衛門
六角左京之亮…仁左衛門
赤松九座衛門…段四郎
牢番六助…左團次
門番辰三…延二郎
牢番娘おまつ…門之助
絵本太功記
武智光秀…仁左衛門
真柴久吉…羽左衛門
加藤正清…段四郎
武智光義…延二郎
皐月…八百蔵
操…歌右衛門
初菊…芝雀
裏表心曲尺
藤井宮内…段四郎
松浪伊織…八百蔵
おつや…歌右衛門
清次…羽左衛門
東兵衛…仁左衛門
伊勢屋善之助…延二郎
おしげ…芝雀
お栄…門之助
おかつ…芝鶴
紅葉狩
維茂…八百蔵
運平…猿之助
更科姫実は鬼女…羽左衛門
演目も復活狂言を加えると五演目中三演目が新作という攻めの姿勢であるのが伺えます。
象引
まず序幕の象引は歌舞伎十八番の一つで名前の通りただ単純に象を引っ張り合うという演目で有名ですが、歌舞伎研究家で国立劇場で復活狂言に取り組んだ故服部幸雄氏によれば象引と呼ばれる確固とした演目は実在せず文化9年に出版された一枚の覆刻絵を根拠にして「物を引き合う」という荒事芸の一つとして選ばれた可能性があると指摘しています。
元々存在が怪しい演目だけに復活上演に当たっても根拠となるのは上記の絵1枚の為、殆ど新作と言っていい状態で復活上演されたらしく劇評では「(同じ歌舞伎十八番の)毛抜と暫を混ぜ合わせたような物」、「暫そっくり」だったそうです。
歌舞伎十八番の復活上演とあって市川家一門からは毛抜と鳴神の復活上演に携わった左團次、同じく鎌髭の復活上演に携わった段四郎・猿之助親子、更には門之助と市村座からの助っ人でご意見番の三代目市川新十郎が加わっての上演となりました。
劇評では
左團次「左團次の大伴の大臣はやや生(写実)に過ぎた様だったが(中略)調和が取れぬというほどでもない」
段四郎「重みがあった」
猿之助「活動振りもきびきびしていて面白かった」
とそれぞれ好評でした。
因みにこの演目では段四郎の三男である喜熨斗倭貞が初代市川松尾を名乗って東京での初舞台を踏んでいます。
中車芸話でも触れましたがこの松尾は後に七代目市川八百蔵の名前養子となって八代目市川八百蔵を襲名し戦後東宝で舞台・映画等で活躍した八代目市川中車となります。
忠貞奇談
続く一番目の忠貞奇談は左團次の盟友、小山内薫がベートーヴェンの作品であるフィデリオの歌劇を原作に書き下ろした新作です。
流石に歌舞伎座に見来る見物にベートーヴェンを理解しろというのは難しく演目としては不評だったそうですが例によって新作に対して消極的な姿勢である歌右衛門と羽左衛門が主役なものの、自由劇場での翻案作品での実績がある左團次も出演している事もあって劇評でも「洋劇の調子が張り出して不調和ではあったものの一番働いてる」と皮肉交じりではありますが評価されています。
また歌右衛門の山吹は「女の気持ちを始終離れずいた」、「例の凛とした張も品位もある優特得の列女の本職を発揮する事ができた」と評価されている他、羽左衛門の炊之亮も「色気もありこの役には最も適当」と2人とも今までの新作に比べればニンに合っている役だった事もあり「今まで(の新作)よりかはマシ」という微妙な評価となっています。
絵本太功記
しかし、そんな2つの演目で続いていた良い雰囲気をぶち壊ししてしまったのが中幕の絵本太功記でした。
この時武智光秀を演じたのが過去何度かとんでもない役の性根の解釈と突飛な演技で舞台をぶち壊しにした仁左衛門で今回もその例に漏れず、亡父八代目仁左衛門の型だという
「金ぴかの鎧に総髪、付け髭といういつもの光秀とはだいぶ異なるいでたち」
に加えて演技においても息子光義に戦況を聞いて光秀が動揺の余り二重屋体の上から足を踏み外すお決まりの型がありますが、仁左衛門はその場面で何故か踏み外したあと尻もちを付いた上にしかめっ面をするという珍型を披露したらしく劇評でも
「滑稽だった」
「褒めようがない」
「(当たり役にしていた七代目)團蔵と比べたら(役の性根を)根本からはき違えている」
とボロクソ状態に酷評されています。
折角、「台詞の柔らかみがあって物腰も初々しい(中略)芝雀の初菊ともども東京にはない浄瑠璃の情緒を浮彫してみせた」と評価された延二郎と芝雀の上方組の好演も虚しく不評に終わりました。
裏表心曲尺
そして二番目の裏表心曲尺は翻案作品で毎度おなじみ榎本虎彦がフランスの劇作家ウジェーヌ・ブリューのレ・ホンプレッソン(邦訳すると身代り)という作品を翻案したもので深川の資産家伊勢屋の財産を巡って繰り広げられる騒動を描いた世話物系の新作です。
左團次以外の幹部役者が全員出演する豪華な演目ですが、例によって主人公を羽左衛門と歌右衛門に据えるという愚をまたも犯し劇評でも僅かに「従って選ぶ脚本も新しいとも古いともつかぬ生温いもの」と批判されている以外は特に触れられもしない有様でした。
紅葉狩
大切の紅葉狩は珍しく羽左衛門が女形役の更科姫を演じる事や以前踊りの素養がないからそういう演目には出すなと批判された事すらある八百蔵が維茂を務めるという珍しい組み合わせです。
舞踊に付いても五代目から厳しく躾けられた羽左衛門が好評で八百蔵が不評…と思いきや結果は逆で
羽左衛門「味が乏しく温味もない」
八百蔵「品位もあり、勇気もあり、落ち着きもあり一人で舞台を締めていた」
と劇評に書かれています。
下馬評と実際の出来が異なるのは歌舞伎の醍醐味の1つではありますが、ここまで明暗が分かれるのは珍しく羽左衛門も新作はやる気がないと言われ古典物を演じたら悪洒落と言われるなど女房役の梅幸がいないのが影響していたのかややスランプ気味などが分かります。
蓋を開ければ好評だったのは序幕と大切のみで普通だった一番目、大不評だった二幕目と中幕と今一つな内容でしたが、見物は初めての松竹の興行という話題性やマンネリ状態だった座組に八百蔵、左團次、延二郎、芝雀といった新鮮な顔ぶれが見れるといった期待もあったのか内容に相違して入りとしては大入りを記録しました。
基本的に毎月芝居を打つという姿勢をモットーとしている松竹は11月こそ諸般の事情で歌舞伎座では公演を打ちませんでしたが顔ぶれを一新してすぐに12月公演を開くなど独自路線を早くも歩み始める事になります。そんななか良い点、悪い点の双方の課題が残った記念すべき第1回目の公演となりました。






