中車芸話 | 栢莚の徒然なるままに

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歌舞伎関係の本の紹介4回目はこちらの本を紹介したいと思います。

 

中車芸話

 

明治時代から昭和にかけて活躍した七代目市川中車の芸話です。

画像を見れば分かると思いますが私が持ってるのは「日本人の自伝20」に収録された物です。

昭和18年に出版された初版には舞台写真が付属しています。

芸話とありますが実際は本の半分近くが彼の名古屋の子供芝居時代や巡業での思い出や逸話が多数書かれていて、さながら江戸末期から明治にかけての地方歌舞伎の演劇史のような趣さえあります。

 

七代目中車についてはこのブログでも何回か触れましたが旅芝居の出身ながらも修行を重ねて九代目市川團十郎門下の四天王の一人と称される程の実力者にまで出世し、團十郎の死後は短期間とはいえ歌舞伎座の座頭にまで上り詰めた人物です。

とは言え中車と聞くと多くの方々がカマキリ先生九代目を思い浮かべる事が多く、お年を召した方でも名前養子になった八代目を思い出す方がほとんどだと思いますので七代目中車について東京に来るまでの生い立ちにも含む彼の役者人生について説明したいと思います。

彼は安政7年2月27日、侠客の息子として京都に生まれ芝居好きだった母の影響で元治元年に僅か4歳で四代目中山文七という役者の一門に入って初舞台を踏みました。

その後大阪に引っ越したのが縁で当時上方歌舞伎の実力者であった二代目尾上多見蔵に弟子入りし尾上當次郎の名で道頓堀の舞台に立つようになりました。そこで中車は延宗右時代の前の江戸時代末期の上方芝居を直に体験する事ができ、その経験が後に東京の役者でありながらも上方歌舞伎も順応できる腕を買われて初代中村鴈治郎の相手役に抜擢された由縁にもなりました。

しかし、その頃の京都と大阪は幕末の動乱の真っ最中でおちおち舞台を開く事もままならない状態となり仕方なく旅巡業に出たのち名古屋に移り住み地元の役者である中山喜楽という役者の一門に入り中山鶴五郎と改名して子供芝居に出演する事になりました。そこで後に新富座の座主になった六代目中村傳九郎や五代目、六代目の二代の菊五郎に仕えた四代目尾上菊三郎、そして猛優と呼ばれた七代目澤村訥子ら後に東京の舞台で活躍する役者達と芸を磨く日々が続きました。

 

 

そしてたまたま巡業の一環で東京の春木座の舞台に出演していたのを目にした中村座の出資者の一人長尾久五郎という人物の眼鏡に適って東京に招かれて明治12年7月に市川一門に古くから伝わる名跡である七代目市川八百蔵を襲名して東京の舞台へと上がる様になり、その縁で團十郎とも共演するなど顔が知られるようになり明治21年に三升会という一門会が出来たのをきっかけに弟子入りました。

本来なら弟子入り→襲名という順番が普通ですが、この当時八百蔵の名跡は市川宗家の管轄を離れて何故か十三代目中村勘三郎が預かっていた関係で襲名が出来たらしく、襲名→弟子入りというかなり変則的な形で弟子入りとなりました。

しかも市川八百蔵という名跡は初代が二代目團十郎のライバルとして活躍した大物であり、三代目、五代目がそれぞれ助高屋高助、関三十郎といった大名跡を襲名する前に名乗るなどかなり由緒ある名跡であり、上述のような経緯でも無ければ旅芝居上がりの20代の役者がいきなり名乗れるような名跡では無かっただけにその点では彼は強運に恵まれていたと言えます。

團十郎一門に弟子入り後は旅芝居で磨いた実力を買われて團十郎の相手役として活動する傍ら、歌舞伎座の舞台が無い時は所縁ある春木座や真砂座などの二流の劇場に主役で出演するといった二束草鞋のような活動を続けました。

 

得意役の一つ、太閤記十段目の武智光秀

 

と、ここまでトントン拍子で出世した彼でしたが当時の團十郎一門において彼の襲名や弟子入りの経緯を知る人にとっては面白くない人も大勢おり、特に四天王の一人で團十郎に可愛がられて十代目の筆頭候補と言われていた五代目市川新蔵はその筆頭であり、中車も少しだけ彼について触れていますがこの本には書いていない話の1つに舞台稽古の顔寄せの際に團十郎の隣の席(=一番弟子)の座を巡って猛烈な席争いをしたと前に紹介した弟弟子の七代目松本幸四郎の「一世一代」に書かれているほどでした。

 

 

そして、それまで微に入り細を穿つ様に自身の活動ぶりを饒舌に語ってきた中車ですが團菊左が亡くなる前後になると明治38年に行われた團十郎三回忌追善公演を除いては概要だけ語り話を端折り出すようになります。本来であれば團十郎亡き後、歌舞伎座の座頭にまで上り詰めた言わば人生の絶頂期といっても過言ではないはずなのに読まれていて不思議に思われる方もいらっしゃるかと思いますがそれには本人にとってもあまり触れられたくない過去がある為でした。


團十郎三回忌追善公演の筋書 

 

明治39年の歌舞伎座の回でその頃の劇界の様子について書きましたので詳細は省きますが、一つ言えるのは中車の座頭時代が短命に終わった理由の一つに彼の芸風がありました。脇役として團十郎の相手役を務めている時は何も問題なかったものの、主役としては

 

 

台詞の緩急の抑揚が乏しく、一本調子だったのが欠点」(七代目松本幸四郎、一世一代)

所詮柄にも顔にも華やかなとこ(所)は無い役者である。また柔和(やわらかみ)にも乏しい。

腕で感心はさせても、人を引き付ける力を欠いているのである。」(三島霜川、役者芸風記)

 

と座頭役者としては花が無いという致命的欠点や台詞回しの問題も相まって不適格だったのが分かります。

そうして折角獲得した座頭の座も瞬く間に芝翫に奪われ、更には立役の得意役が被る團蔵や仁左衛門が歌舞伎座に出演したり同門の幸四郎、段四郎までもが歌舞伎座に復帰した事で彼の配役にも影響を及ぼし始めこの期間に彼が演じた主な役を列挙してみると

 

・助六の意休

・高時の北条高時

・春日局の徳川家康、稲葉佐渡守

・景清の岩永左衛門

・時今桔梗旗揚の小田春長

・佐倉義民伝の幻長吉、松平伊豆守

・碁太平記白石噺の大黒屋惣六

・桐一葉の石川伊豆守

・青砥稿花紅彩画の南郷力丸

・侠客春雨傘の釣鐘庄兵衛

 

などでこの中で彼の得意役と言える役は釣鐘庄兵衛のみであり、残りの役も高時や意休、南郷力丸など幾つかの役を除けば得意役でも何でも無い損な役ばかり回って来る事になり、彼としても飼い殺しに近い状態であり書きたくても書きようのない不遇な時期でした。

文中に詳しく書いてあるので詳細は省きますが大正元年11月の歌舞伎座の公演での数々の屈辱的な仕打ちにとうとう堪忍袋の緒が切れてしまい、公演終了と同時に歌舞伎座に辞表を叩きつけて脱退し松竹に電撃移籍してしまいました。

松竹に移籍した事により、本郷座を本拠地にしていた二代目市川左團次や時折上京して新富座に出演する初代中村鴈治郎の相手役を務めるようになった事で不満であった配役問題も「流石に演じる役が多すぎる」と愚痴をこぼす程になり、上述の三島霜川も

 

頓に八百蔵が光ってきた」(役者芸風記)

 

とこの頃のやる気を取り戻した中車を称賛しています。


この頃の新富座の筋書 


そしてこの頃に二代目市川段四郎の三男(よく次男と書かれますが間違いで正確には三男です)の松尾を名前養子にして八百蔵の名跡を譲り自身は代々の八百蔵が名乗ってきた俳名である中車を襲名しました。


中車襲名披露公演の筋書 


その後も重厚な演技で歌舞伎座などで活躍しましたが昭和5年10月の歌舞伎座出演中に脳貧血で卒倒してしまいました。その時は持ち直したものの翌昭和6年5月の中座出演を最後に脳梗塞を起こして左半身麻痺と言語障害が残り半引退状態となってしまいました。

本には書かれてませんがその間には養子にした息子の病死、更には夫人の自殺など私生活での不幸が相次いだ事が舞台から遠ざかる原因になったそうです。

この本ではそれでもリハビリを重ねて5年後の昭和10年10月の歌舞伎座での復帰した所で話が終わっています。

結局この舞台が事実上の引退公演となり昭和11年7月12日に療養中の熱海の旅館で76歳の長寿を保ち亡くなりました。

そして確実な記録が残る役者としては、彼が江戸時代に舞台に立った経験がある最後の役者となりました。

 

八百蔵時代の釣鐘庄兵衛

 

上述の様に本の半分以上が彼の八百蔵襲名までの話で占められている上に後半にやたら役の芸談が入るので前半と後半のアンバランスさがやたら目立ちますが役に付いての解説は細かい技巧よりも役のハラや心理に重点を置いて書かれていて非常に分かりやすく、それ以外についても歌舞伎に必要悪とさえ言われる奥役についてや衣装、書き抜き、役について相手に教わる時の礼儀など実に多岐に渡り、中には本人の役柄ではない女形についての解説もあり、内容も三代目中村梅玉の「梅玉芸談」に書かれた内容と合致する個所もあるなど70年以上の芸歴をもつ大ベテランに相応しい博識ぶりが伺えます。

一方で中車の個人的な話も幾つか書かれていて、中でも雷が大嫌いという話は思わず笑ってしまうような逸話が書かれていて肩肘張らずに読むことが出来ます。

 

因みに中車の亡き後についてですが名前養子である八代目八百蔵は実兄二代目猿之助に従って活動してましたが昭和28年6月に養父の名跡である中車を襲名しました。そして八百蔵の名跡は七代目の弟弟子である七代目松本幸四郎の弟子であり、当時猿之助一座に在籍していた松本高麗五郎が九代目を同時に襲名しました。

そして八代目松本幸四郎が一門を率いて東宝に移籍すると中車もこれに参加して移籍する一方で八百蔵は猿之助一門に残留しました。

その後中車は1971年、八百蔵は1987年にそれぞれ死去した事で由緒ある立花屋の芸統は絶えてしまいました。その後皆さんもご存じの様に中車の名跡は八代目の死後から約40年後の2012年に大和田常務香川照之が九代目を襲名した事で復活しましたが八百蔵は依然名乗る者が出ないまま30年以上空き名跡が続いています。この本を読んだ後にこの現状を考えると少し寂しい気がします。

 

この中車芸話は現在国会図書館デジタルコレクションで無料に閲覧する事が出来ますので興味のある方は閲覧されてみてはいかがでしょうか?