明治44年9月 帝国劇場 七代目澤村長十郎襲名披露&猛優訥子出演 | 栢莚の徒然なるままに

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今回は3度目の紹介となる帝国劇場の筋書です。

 

明治44年9月 帝国劇場 七代目澤村長十郎襲名披露

 

演目:

一、夢殿        
二、源平魁躑躅        
三、心機一転        
 

久々となる襲名披露公演です。今回襲名したのは七代目澤村訥子の三男で初代澤村宗之助の実弟に当たる澤村長之助です。

澤村長十郎という名跡は中々耳にしない名前ですがかつて初代澤村宗十郎と五代目澤村宗十郎が名乗った事がある澤村家の由緒ある名跡の1つです。襲名の話が先にあったというよりも訥子親子に出演の話があり、久々に大劇場に出演する事から折角だしこれを機に襲名しようという流れで襲名披露になったというのが正しいようです。

 

ここで知らない人もいるかと思いますので七代目澤村訥子について紹介したいと思います。

元々尾張藩家老家の御側役の次男として生まれた彼は次男という事もあって家を継がずに明治9年、16歳の時に役者を目指し当時名古屋に本拠地にしてた尾上當次郎(後の七代目市川中車)の一座に加わって中村千之助を名乗って初舞台を踏みました。

そして明治12年に東京の舞台に初出演すると3年後の明治15年には江戸時代から続く名門紀伊国屋の宗家であった四代目助高屋高助の養女と結婚して婿入りし澤村宗十郎の俳名である「訥子」を譲り受けて七代目澤村訥子を襲名しました。

 

ここまでは中車同様に地方の子供芝居出身から一躍名門の婿にまで上り詰めるシンデレラの様な出世ぶりでしたがここから彼の転落(?)人生が始まります。まず明治19年2月養父の助高屋高助が巡業先の名古屋で急死した事がきっかけとなり途端に役に恵まれなくなってしまい不遇を託っていた訥子は大劇場での給金の4倍という高額の給金も約束された事から早くもその年の秋には浅草の吾妻座という小芝居の劇場に出場するいわゆる小芝居に落ちてしまいます

明治時代、特に九代目市川團十郎は劇界の地位向上に努めた功績の反面で一度小芝居に落ちた役者が再び大劇場に出演する事を蛇蝎の如く嫌う一面があり訥子もその例に漏れず、明治23年6月の歌舞伎座公演では奥役(演目の配役を決める兼揉め事相談係)の推薦で一度は出演が決まり贔屓先への配り物まで終えていざ出演という所で團十郎が出演を知って激怒し

 

訥子は元来緞帳芝居(小芝居)の俳優である。いつ大歌舞伎へ出る資格が出来た、そうむざむざと歌舞伎座の舞台を踏まれては沽券に関わる、今度の出演は断じて罷りならぬ

 

と一方的に出演中止を決められてしまうという理不尽な仕打ちを受けた事があります。(その後歌舞伎座には新派を初めて出演させて團十郎が激怒していた直後に打った11月公演に最初で最後の出演を果たしています。)

 

珍しく大石内蔵助を演じた時の七代目澤村訥子

 

上記の様に言われる背景には彼の芸風に問題がありました。

後に「猛優」というあだ名が付いた彼の芸風は一言で言うと「大衆受けを狙う荒々しくて大仰な演技と大立ち廻りだけが取り柄」であり、得意役としたのが

・高田馬場

・慶安太平記

・籠釣瓶花街酔醒

・信州川中島合戦

・須磨都源平躑躅

など全て大立ち廻りがある演目に限られています。そこに加えて台詞廻しにも癖がある役の性根を変てこりんな解釈をして他の役者ではまずやらない演技をするなどあまりに芸格が低すぎるのが彼の最大の欠点でした。

この欠点については團十郎の共演拒否ほどで無いにしろ五代目尾上菊五郎も

 

「(初代)中村芝鶴は、どうにかすれば大歌舞伎に出られる芸を持っているが、訥子の芸は生まれ変わらなければ大歌舞伎では無理だ

 

と言い放ち、同じく晩年に小芝居に落ちた四代目中村芝翫にすら

 

「(訥子が曽我十郎を演じたと聞いて)それはそそりかえ?

 

と真顔で質問したと言われる有様でした。

(そそりとは大正時代まで行われた千秋楽に行う余興として上演する公演でその一環で主役を演じる幹部役者たちが端役を務めたり、逆に大部屋役者たちが大役を務めるのがお約束になっている事から芝翫は十郎という大役を訥子が務められるわけないと断定して配役が普段と逆になるそそりだから務められたのでは?と解釈しています)

 

こんな感じでかなりボロクソ言われてますが一方で大衆受けする演技をする事からも分かる様に荒々しい大立ち廻りは当時團十郎が取り組んでいた心理描写に凝りすぎて面白みが全くない活歴に対するアンチテーゼでもあり、同時に小芝居に来る層である昔ながらのくさい歌舞伎を好む観客のウケは一番良かったらしく、「どんなに寂れた劇場でも、彼が出勤(出演)すれば必ず繁盛した」(伊原敏郎、明治演劇史)と言われるほどの絶大な人気を獲得していました。

 

超クレーマ―でも團菊に並び称せられるだけの腕があった七代目市川團蔵の例もある様に、例え演技が臭かろうが芸格が低かろうが性格がひん曲がってようが興行主側からしてみれば観客を呼べる役者=正義であり、同時に大歌舞伎に出演している役者達にしてみれば長年ボロカス言われながら苦労して芸を磨いている自分達を尻目に客が呼べるという理由だけで品が無い臭すぎる訥子のような小芝居の役者が出演して美味しい役を持って行かれるのが癪に障るのは当然であり、その考えが上記のような差別を助長していた側面は大いにあります。

 

話が長くなりましたがこういう背景があるからこそいくら今までの劇界の風習に囚われないのが売りである帝国劇場とは言え、一流ばかり集めた役者の中へ訥子を出演させる事が物議を醸したのは言うまでもありませんでした。

 

主な配役一覧

 

夢殿

松平吉峯…訥子

青柳頼母…高麗蔵

春日照彌・およし…宗之助

お節…梅幸

妾お蘭の方・夢殿の天女…宗十郎

お藤の方…澤村百之助(四代目澤村鐵之助)

大村軍太夫…幸蔵
若徒八内…長十郎

 

源平魁躑躅 

熊谷…訥子

平敦盛…長十郎

姉輪平次…高麗蔵

扇屋上総…松助

木鼠忠太…幸蔵

桂子…宗之助

堤の軍次…澤村傅次郎(八代目澤村訥子)

       
心機一転

河内屋甚五兵衛…松助

息子幸之助…梅幸

息子才三郎…宗之助

未亡人ミシス・ジョルダン…高麗蔵

令嬢ルーシー・ジョルダン…宗十郎

 

夢殿は殿さまの愛妾の座を巡る争いを描いた作品で後述の理由で次の演目に全く出演しない宗十郎と梅幸に主軸が置かれた作品で梅幸が全幕でずっぱりで大活躍し、宗十郎が終盤天女で出てくるなど2人の見せ場盛沢山な内容になってます。

新作であった事もありいくらハチャメチャな役の解釈をする事がある訥子もいつもの様に暴れる事が難しく比較的穏便に役を務めた様です。

 

夢殿(奥にいるのが宗十郎の天女、手前の男性が訥子)

 

しかし、二番目の源平魁躑躅はいつもの訥子節が全開だったらしく、長十郎の襲名披露狂言であるにも関わらずあまりに下品な演目に梅幸や義弟の宗十郎は共演を拒否したらしく、高麗蔵と宗之助、松助、幸蔵のみが出演してます。

上述の様に訥子の芸風をボロクソに貶した菊五郎の養子であり芸を厳しく仕込まれた梅幸は反りが合わないのは分からなくもないですが、義弟であり一時は行動を共にすらしていた宗十郎が共演を拒否するのは意外に思えます。もっとも宗十郎からして見れば同じ境遇にありながらも苦心惨憺して小芝居で芸を磨いた結果、歌舞伎座などの大舞台に出演できるようになっただけに芸を磨こうともせず目先の給金と役に目が眩んで自堕落な役者生活を送っている義兄を一族の恥だと思っていたのは宗之助の帝劇参加に関する件からも十分考えられます。

 

いくら過去の行動に問題があるとはいえ、関係ない息子の襲名披露の演目に出演拒否をされるという惨い仕打ちを受けた訥子に劇評でも「相手を毛嫌いするほどの名人でもあるまいと訥子に同情する」と慰められ、同時に幹部役者で唯一共演を嫌がらずに出演した高麗蔵に対しても「高麗蔵の姉輪は格幅はあり、調子はあり、身体を惜しまず働くので一幕中での出来であった(中略)(訥子と共演する)美しい心がけに敬服する」と手を抜かない演技と誠実な性格を褒められています。

 

得意役の一つ、源平魁躑躅(扇谷熊谷)


また劇評ではこの演目に出演していた役者についても書いていて梅幸と同じく菊五郎の教えを受けていて訥子が嫌いだった松助は「松助も(舞台を)投げてしまっている(適当に演じている)」と書かれるなど完全にやる気がなかった様子が伺える一方で同じ菊五郎門下でも小芝居で長年活躍していた幸蔵は手を抜かず「(高麗蔵と共に)大舞台であった」ときちんと演じていたそうです。

さて肝心の訥子の熊谷ですが、杮落し公演でも触れた帝国劇場の弱点である花道問題が功を奏した(?)のか舞台上は兎も角、通常の長い花道ですら走ってすぐ入ってしまう訥子にはあまりに短すぎて思うように暴れられなかったらしく劇評でも


こういう狂言になるといよいよ花道の無いのが面白みを減ずる


訥子の熊谷も矢張り花道が無いので食い足りない


と言及されています。

ただ、得意の大立ち廻りが封じられた為かはたまた栄えある帝国劇場での息子の晴れの場である為か変な性根の解釈もせずに至って真面目に演じたらしく辛口の劇評で知られる岡鬼太郎が珍しく


訥子の熊谷、正に團十郎以上である


と九代目が聞いたら憤怒しかねないほどの高評価をしています。

 

大切の心機一転は音羽屋の大番頭松助が主役の木綿問屋の老隠居役で梅幸扮するアメリカ帰りの長男の言葉を真に受けて何故かアメリカ人のと国際結婚をする決意をして未亡人のミシス・ジョルダンの家を訪れて起こるドタバタコメディです。

あらすじを見ると未亡人役の高麗蔵が松助にキスを迫るグロシーンがあったり、舞台で拳銃を発砲したりするなど完全に俳優祭のノリのハチャメチャなテンションで演じたらしく、どの劇評にもあたかもそんな演目は上演されなかったかの如く誰も触れてすらいない点でお察しできるかと思います。

 

心機一転(中央が梅幸、梅幸の左が松助、一番右が高麗蔵)

 

この後長十郎は専属契約を交わして帝国劇場に出演する事になり、立役、女形を本役にしつつ美形を生かして帝劇の女優劇では主役などを務めました。そして関東大震災が起きた大正12年に帝国劇場から脱退し小芝居へと活動の場を移しました。そして兄宗之助の急死や父訥子の死後も出演を続け小芝居が震災や昭和恐慌により徐々に衰退していく中、管見の限り昭和11年7月までは東京で活動していたのが確認できます。その後は千葉県勝浦市で網元になったという情報がある以外は長らく消息不明となりますがたまたま土呂市にある鳳凰座という地元の芝居小屋を訪れた人のHPを拝見した所、戦後の昭和22年7月に五代目市川三升と共に出演している事が分かりました。

何故この巡業に参加したのか経緯は不明ですが宿泊した家に戦後の日本を憂いた書や絵を揮毫するなどしており、演目では親譲りの慶安太平記を演じたのが確認できます。また、その後の調査で静岡県にも巡業で訪れていて東海道を巡業していたのが分かります。

一方父訥子は大正2年9月公演に再び出演するなど大正時代には散発的に新富座、明治座、本郷座に出演する事はありましたが基本的には小芝居の劇場を中心に出演し続ける事になり父子は別々の道を歩む事になります。