今日5月3日は昨年にブログを開始して丸1年となりました。多くの方の閲覧を頂き開始した当初は月に三桁にも満たなかった閲覧数が今では10倍以上にも増えました。ありがとうございます。これからも持っている筋書を全て紹介していきたいと思いますので宜しくお願いいたします。
さて、一周年を記念して今回は浪花座の筋書を紹介したいと思います。
大正4年10月 浪花座 二代目實川延若襲名披露
余談ですが自分はこの筋書2冊持っていて前に書いた箱登羅コレクションと鴈治郎の判が押してある物の2種類があります。
鴈治郎の判の物
演目:
タイトルにもある様に鴈治郎に並び明治から昭和にかけて上方歌舞伎を支えた名優、二代目實川延若の襲名披露公演となります。
延若については前に彼の本について紹介したので宜しければ合わせてお読みください。
延若芸話
さて、今回の襲名は彼の父である初代實川延若の没後30年という節目の年でもあった事から回忌でこそ無いものの追善の意味合いもあったようです。その為、初代延若の弟子であった初代鴈治郎を始め、歌舞伎座に出演している多見之助と芝雀、地方巡業に出ていた壽三郎と我童を除く上方歌舞伎の名題役者が出演し更には東京から七代目市川八百蔵も出演するという1月の斎入引退公演に勝るとも劣らぬ豪華な座組となりました。
とここでふと「何でわざわざ中途半端な10月に襲名公演をやるんだろう?顔見世の11月に行えば良いじゃん?」と疑問に思う方もいるかと思いますがこの頃の上方歌舞伎には顔見世という概念がありませんでした。明治時代中頃辺りまでは存在したものの、この頃は廃れてしまい顔見世というのは12月の京都南座の顔見世を意味していました。
その為か上方歌舞伎では1月、5月、10月が重要な公演という位置付けになっていました。
その証左に明治後期から昭和20年までの主な襲名や初舞台、杮落しといった公演は主にこの3つの月で行われており、
・明治40年1月の角座での十一代目片岡仁左衛門襲名
・明治40年10月の角座での二代目中村梅玉襲名
・明治42年1月の中座での初代市川齋入襲名
・大正3年1月の浪花座での中村魁車襲名
・大正4年1月の浪花座での初代市川斎入の引退公演
・大正5年1月の浪花座での高砂屋五代目中村福助の初舞台
・大正6年5月の浪花座での歌右衛門と鴈治郎の共演
・大正6年10月の浪花座での三代目中村雀右衛門襲名
・大正7年5月の中座での五代目嵐璃寛襲名
・大正10年10月の中座でのニ代目中村成太郎襲名
・大正11年10月の中座での中村章景の初舞台
・大正13年1月の中座での歌右衛門と幸四郎、鴈治郎の共演
・大正14年1月の中座でのニ代目中村霞仙襲名
・昭和7年10月に大阪歌舞伎座の柿落とし公演
・昭和10年1月の中座の三代目中村梅玉、高砂屋五代目中村福助襲名
・昭和12年1月の中座での二代市川右之助襲名
・昭和15年10月の大阪歌舞伎座での五代目片岡我當の初舞台
・昭和16年10月の角座での四代目中村翫雀襲名
・昭和17年10月の大阪歌舞伎座での二代目林又一郎襲名
と重要なイベントはこの3つの月に集中しているのがお分かり頂けると思います。数少ない例外は
・明治43年11月の浪花座の杮落し公演
・大正6年11月の十三代目片岡我童の初舞台
・大正7年2月の浪花座での三代目尾上多見蔵襲名
・大正8年4月の中座での二代目市川眼玉引退公演
・大正9年2月の中座の杮落し公演
ぐらいといえます。
因みに中座の杮落とし公演は工事の遅れにより2月になったのであり、本来は1月に行う予定であった事からも上記の月が重要視されていたのが分かります。
そして昭和10年2月に初代中村鴈治郎が亡くなると大事な月の中に2月が鴈治郎追善という形で加わる事になります。
出演俳優一覧
まず一番目の安井道頓ですが、名前の道頓からもお分かり頂けると思いますが、大阪の経済と娯楽の中心地である道頓堀川の開発に関わった人物です。大坂夏の陣(1615年)に参戦して戦死した為、奇しくも大正4年(1915年)が没後300年という事もあって叙勲された事から顕彰も兼ねて作られた作品です。叙勲自体は既に1年前に行われた後だったものの、丁度公演直前の9月に石碑の設立の地鎮祭が行われそこに白井松次郎、延二郎、二代目右團次、五代目嘉七らが参加するなどタイアップも行われるなどちょっとした時事ネタ的な要素が強い演目でした。
延若の道卜と八百蔵の道頓
その為、主役の道頓は東京から参加した八百蔵が務め、襲名した延若、福助、魁車など若手が脇を固める形になりました。
元々叙勲されたという前提での作品と言う要素が強いのとそもそも道頓についてはあまり細かな経歴が伝わっていない事も相まってかなりいい事ばかりを美化されて描かれたらしく劇評にも
「道頓兄弟をあまり大軍人大忠臣に仕揚げ過た結果、一寸途惑ひの形がある」
とあまりに作品に深みが無い事をチクリと指摘しています。
そして役者についても
八百蔵「口で勝り」
延若「活気が見られる」
福助「悪くない」
魁車「良かった」
といつもの様な細かい解説も素っ気もなく曖昧な評価になっています。
梶原平三試名劔
二番目の梶原平三試名劔は10月の歌舞伎座で上演された梶原平三誉石切で鴈治郎がこの演目を得意とした関係で独自の外題を付けています。この演目は戦前は十五代目市村羽左衛門と初代中村鴈治郎の2人が得意役としてそれぞれ独自の外題(羽左衛門の方は名橘誉石切としていました)を付けるほどでした。後に初代中村吉右衛門が得意役として加えて今ではこの三者の型が残されています。
鴈治郎型については今現在中々演じる役者が少なく分かりづらいですが、三者の型の中で一番古風を留めているようです。
劇評によれば鴈治郎がこの演目を上演するのは明治30年以来実に18年ぶりだったらしくそれに加えて前回六部太夫と梢を演じた梅玉と福助がそのまま再演するという事もあり前評判も非常に高かったそうです。
そして劇評でもこの3人についてのみ言及されていてまず続投した梅玉、福助親子について
「充実な所と福助の優しい品やかな点とかがよく調和されて舞台の気分を洗濯する」
「切られたと思った父が無事であった事を見た時の梢の喜び、死んだと思った自分が生きているのに仰天する表情(中略)2人とも90点以上をあげて良い。」
と先ほどとは偉い違いに詳細に渡り梅玉親子を高評価しています。
そして梶原平三を務める鴈治郎はというと
「折り紙を付ける芸、座に着くなり落ち着きを四方に払ったのは流石に争えぬ芸の成功(中略)息もつかせぬ快感を見物に与えたのは近頃の成功」
と18年ぶりにも関わらず圧巻の演技力で劇評を唸らせる出来栄えだったそうです。
今回の上演での好評で鴈治郎も気を良くしたのか間を置かず翌年の2月の恒例の新富座での上京公演では再び上演する事になります。
鐘もろとも恨鮫鞘
大切の鐘もろとも恨鮫鞘は今回の主役である二代目實川延若の襲名披露狂言です。
それだけに筋書の中でも特にページを割かれていて詳しく調べていないので恐らくとしか言えませんが、戦前の松竹の筋書では多分初めてとなる初演の上演記録が掲載されています。
貴重な戦前の上演記録
約50年前の初演時に梅玉がいるのに驚きます
「『縁切り』の辛抱立役に類した役(中略)色々ある役の内でも、特に骨の折れるものでございます。と申しますのは、こういう役は舞台に出たが最後、幕が切れるまで寸分の間も息が抜けない。始終に緊張していなければならぬからでございます」
とこの役を得意とした仁左衛門同様に八郎兵衛を辛抱立役として捉えており、余りの堪えぶりに終演後には首の筋肉が強張るほどの役に入れ込んでいたそうです。
延若の八郎兵衛
今回師匠の息子の襲名とあってかまたは初演時に実父三代目中村翫雀が務めた縁なのか幾つかの例外を除けば普段は絶対に主役で無ければ納得しない鴈治郎が香具師弥兵衛で付き合っている所もポイントです。
さて、気になる出来についてですが
「先代の妙所を受け継いでいる。台詞廻しは先代に少し艶を付けた様」
と体型も異なる上に何一つも直接芸を教わっていないにもかかわらず先代を彷彿させる出来栄えだったそうです。
そして
「延若の熱心と技量でその(作品の)欠点を補った」
と前半の辛抱立役の部分から後半の吹っ切れた後の斬殺や大切の千日前墓場の場で珍しく脇で出た鴈治郎とと共に熱演ぶりを高評価されています。2人の熱演の甲斐もあってこちらも大成功だったようです。
この様に蓋を開ければ一番目の安井道頓こそ今一つでしたが残り2つの演目が当たった事もあり、連日大入りとなりました。
延若は今回の公演終了後も休む事なく襲名披露の巡業に出て11月は神戸聚楽館、12月は京都南座と京阪神の劇場を回り、翌大正5年1月には上京して歌舞伎座での襲名披露に臨む事になります。
歌舞伎座の様子については筋書を持っていますのでまた改めて紹介したいと思います。