大正8年3月 神戸中央劇場 二の替り 右團次の児雷也と巌笑の仁木弾正 | 栢莚の徒然なるままに

栢莚の徒然なるままに

戦前の歌舞伎の筋書収集家。
所有する戦前の歌舞伎の筋書を週に1回のペースで紹介しています。
他にも歌舞伎関連の本の紹介及び自分の同人サークル立華屋の宣伝も書きます。
※ブログ内の画像は無断転載禁止です。
使用する場合はコメント欄やtwitterにご一報ください。

今回は少し前に紹介した神戸日本劇場に続いて再び神戸の劇場の番付を紹介したいと思います。

 

大正8年3月 神戸中央劇場

 

演目:

一、児雷也

二、伽羅先代萩

三、石井常右衛門

 

前回の神戸日本劇場の番付 

 

前回の番付でも触れましたが、大正6年8月に大阪にあった堂島座を売却した資金と資材を使って建てられたのがこの神戸中央劇場です。

本来ならば杮落とし公演には鴈治郎辺りでも呼んで華々しくやれば格好が付いたのですが、8月という地方巡業の書き入れ時というタイミングの悪さもあり鴈治郎には既に北海道での巡業の予定が入ってしまっており、その代わりに鴈治郎の相手役である高砂屋親子を上置きに南座に出演していた多見之助、右團次、嘉七といった面子での杮落とし公演となりました。その後鴈治郎による公演は11月に雀右衛門襲名披露の一環でようやく実現しましたがその後は間が空き次に鴈治郎が再びこの劇場で公演をするのは杮落としから2年後のこの公演の後になる大正8年6月になってからでした。


杮落し公演の時の神戸中央劇場

 

この公演の翌月に鴈治郎は初めて神戸中央劇場に来ました 

 

そして折角作ったにも関わらずこの劇場は元々が新たな新築の劇場が出来るまでの間中古で手に入れた堂島座の資材を転用しただけの「仮普請」のつもりだったのか、はたまた地元の劇場主との軋轢を避けてなのか開場からこの時まで歌舞伎公演では僅かに二代目市川左團次一座が公演した以外は東京の幹部役者は出演する事なく、上方役者も今回出演している右團次、巌笑の他は嵐吉三郎、我童といったよく言えば花形、悪く言えば二軍といった面々や若手の扇雀率いる青年歌舞伎一座が使っていて、その合間を縫って新派や新国劇といった他の演劇ジャンルが使っている状態でした。その証左に前回紹介した1年でも一番客が入る正月に自分たちの専属役者が他の劇場に出ているのに自前の劇場である神戸中央劇場では新派の成美団の公演を開いていました。

さて、話を元に戻すと1月に神戸日本劇場で初春公演を行っていた右團次と巌笑が僅か1ヶ月で再び神戸に戻った訳ですが、初春公演の時の様に林長三郎や阪東壽三郎は今回出演しておらず2人の他は嵐広三郎、市川蝦十郎がいる以外は弟子、一門のみの正真正銘無人の一座でした。

またタイトルにも書きましたがこの番付は二の替りでこの前に3月7日から16日まで

 

・ひらかな盛衰記

・お染久松色読販 

 

を演じていて右團次がお染の七役を見事に演じきって大入りになる日もあった様です。

 

雑誌に載っていたこの時の右團次のお染と久松

 

そしてこの二の替りは17日から25日までの1週間上演された様です。因みにこの番付も松竹大谷図書館や演劇博物館には所蔵されておらず

今回が初公開となります。

 

児雷也

 
一番目の児雷也は以前に歌舞伎座で紹介した児雷也豪傑譚を基に大阪時事新聞に掲載された小説を舞台化した物となります。
 
今回は巫女船路実は児雷也を右團次、召使深雪を広三郎、扇ヶ谷八右衛門を蝦十郎、夜叉五郎を扇釣、高砂勇美之助を巌笑がそれぞれ務めています。
歌舞伎座では作品が微妙に違うとはいえ「何しろ思ひ切って詰まらぬ芝居だ。今は役者で見せる程の役者がいない。」と酷評されていましたが、大阪で児雷也をケレンたっぷりに演じて一躍評判を取った二代目尾上多見蔵のケレンの演技を受け継いでいる右團次とあってか今回もかなり大車輪に演じたらしくいつもながらまとまった劇評こそないものの、地元の新聞には僅か1行ですが
 
右團次の児雷也、好評。
 
と評価されています。
 

伽羅先代萩

 
中幕の伽羅先代萩は説明不要の時代物の名作です。
画像を見ても分かる様に古き良き江戸時代などの番付ではよくあった別窓(特別扱い)となっている巌笑の出し物で何故か評定がなく床下までの簡易版となっています。今回は仁木弾正と乳母政岡を巌笑、荒男之助と八汐を右團次がそれぞれ務めています。
こちらも他の役者についての言及はありませんが主役の巌笑についてはほんの少しだけ言及があり
 
巌笑の政岡、仁木も好評
 
と落ちぶれたとは言え、若き日は鴈治郎と覇を競っただけの事はあるベテランとあって彼もまた評価されています。
 

石井常右衛門

 
二番目の石井常右衛門は今では知らないの方が多いかと思われますが、文政9年1月に春色梅児誉美の作者として有名な為永春水によって書かれた西国順礼女敵討という作品に代表される常右衛門物の1つとなります。
内容としては同僚の横領の罪に連座して彦根藩から放逐されるも伝手を頼って酒田藩に再仕官に成功しますがそれを妬んだ同僚によって闇討ちに会い返り討ちにするという話となっています。
本来はこの後藩にいられなくなり百姓となった常右衛門は浪人に試し切りにされ殺された妻の敵討と殺された妻から生まれた娘も母の敵討をすべく探し回り偶然にも父娘が再会して最後は浪人に仇討するという仇討物となりますが今回の作品はその前半部分のみを再構築した実録物となっています。実はこの実録の方は明治13年に京都の道場芝居で初演されていてその時常右衛門を演じていたのが今回も演じている巌笑で彼の得意役の1つでした。
巌笑以外は下部市助を右團次、逸藤左仲太を瀧十郎、傾城高尾を広三郎がそれぞれ務めています。
残念ながらこちらは新聞にもどうだったか言及はなく今一つ詳細が分かっていません。
 
さて、あまり詳しく解説できませんでしたが当時の新聞を見る限り客足はかなり良かったらしく二の替りでも大入りとなる日があった事が新聞に書かれています。因みにこの大正8年の右團次の出演記録を追ってみると
 
1月:神戸日本劇場
2月:浪花座
3月:神戸中央劇場
4月:中座
5月:地方巡業
6月:地方巡業
7月:浪花座
8月:不明
9月:浪花座
10月:南座(半月)と地方巡業(半月)
11月:浪花座
12月:浪花座
 
と道頓堀に出れるのは不入り月のみと誰がどう見ても冷や飯食い状態なのは明らかでした。それでもまだ道頓堀に出れるだけ彼は良い方で巌笑に至ってはこの年で判明している記録は全て地方巡業と1回も道頓堀に出演する事が出来ない有様でした。
今回は衰え知らずの鴈治郎の蔭で不遇を託っていた2人の境遇がよく分かる公演だったと言えます。