大正8年1月 神戸日本劇場 二の替り 巌笑と右團次の正月 | 栢莚の徒然なるままに

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今回はこのブログでも初である神戸の劇場の番付を紹介したいと思います。

 

大正8年1月 神戸日本劇場

 

演目:

一、菅原伝授手習鑑

二、朝雪晴達引

三、卅三間堂棟由来

四、戎大黒

五、三社祭

 

この番付はタイトルでも書きましたが「二の替り」という事もあり1月14日から22日までの僅か1週間のみ行われた公演でこの前の1月1日から13日までは

 

・襤褸錦

 

・絵本太功記

 

・艶姿女舞衣

 

・隅田川湊俤

 

が行われていました。

因みにこの番付は松竹大谷図書館にも演劇博物館にも無い為、今回が奇しくも初公開である貴重な資料となります。

 

本編に入る前にまず神戸における劇場の概略について説明したいと思います。幕末に開港して以来、発展を続け一躍兵庫県の主要都市となっていた神戸は東京における横浜と似た様な立ち位置にあり、興業界もまたこの新興地に目を付け明治時代の芝居小屋の規制緩和を契機に相次いで進出しました。

 

横浜の歴史についてはこちらをご覧下さい

 

そして、役者たちもまた大阪に程近く、貿易の拠点として栄えた事もあり港湾労働者などの芝居を好む層が多い土地柄もあって大芝居の役者達も好んで出演しました。

神戸に出来た劇場の中でも歴史や出演役者の格において筆頭と言えたのが今回紹介する日本劇場の前身である楠公前(現在の湊川神社前)に建てられた神戸大黒座です。調べた限りでは明治16年頃から既に公演を行って盛況を博しており明治20年代には二代目中村梅玉親子が歩合制の契約で正月に何年も続けて出演して大枚の給金を得ていて鴈治郎ですらそのおこぼれに預かろうと明治22年には道頓堀への出演を蹴って1月から3月まで大黒座に連続出演する程でした。

 

神戸大黒座(右)

 
そんな大黒座に続いて有名だったのが神戸相生座です。この劇場についてはWikipediaでは明治38年に出来たとか書かれていますが真っ赤なウソで調べた限り明治30年3月には作られているのが確認出来ます。こちらは洋風建築の劇場で明治31年9月には早くも鴈治郎が出演するなど一流劇場のステータスを獲得していて暫くはこの相生座と大黒座の2つが歌舞伎公演における常打ちの劇場となっていました。
しかしこの相生座の全盛は短く明治41年3月に七代目澤村宗十郎、四代目尾上松助、初代中村吉右衛門らが公演を行ったのをほぼ最後に大歌舞伎の役者が出演する劇場の地位の座は三の宮にあった神戸歌舞伎座に取って代わられてしまった以降は明治42年10~11月に初代中村芝鶴、明治43年11月に初代中村紫香が出演したのを最後にひっそりと映画館に商売替えしてしまいました。
そして神戸相生座に代わる形で躍り出て来た神戸歌舞伎座も何とか大正4年頃までは続いたものの、大歌舞伎の役者が公演を開くのは明治43年2月の鴈治郎一座を最後に少なくなり中村福圓や六代目嵐吉三郎が時たま公演を開く位となり勢力は下火になって行きました。
 

神戸相生座

 
そして神戸の劇場の中では一番知名度が高いと言えるのが神戸聚楽館です。こちらは上記2つと異なり大正2年に建てられた本格的な洋風劇場でした。というのもこの劇場は元々建設に至る迄の経緯があり、武岡豊太を筆頭とする地元の財界有力者たちに帝国劇場の創業メンバーの1人、大倉喜八郎が噛んでいました。何故に大倉が絡んできたかと言うと彼は帝国劇場の成功に味をシメて「西の帝国劇場」というコンセプトで劇場設計を計画しており要するに既に関西に進出し大阪を寡占状態していた松竹が神戸を独占する前に神戸の中でも新興の遊興地である新開地に劇場を建てて「帝国劇場の西の拠点」にしたいという目論見がありました。
この点は歌舞伎座の成功で味をしめた福地桜痴が大阪の財界人を焚き付けて初代大阪歌舞伎座を建設したのと全く同じ流れであり見ていて面白い物があります。
そういった経緯もある為、杮落とし公演は帝国劇場から梅幸、幸四郎らを呼んで華々しく行われましたが、しばらくすると思わぬ欠点が露呈しました。一つは経営で帝国劇場の様に専務が実質的に取り仕切るのと違い出資者達の合議制になっていて出資者たちにはそれぞれ本業があり、しかも芸能には精通してても劇場の経営には疎い人達が多かった事から運営を巡り意見が一致せず混乱を見せていました。
そしてもう1つは専属の役者、俳優がいない事でした。帝国劇場は歌舞伎役者と女優がいましたが、こちらは作ってから新人養成を始める状態で養成所に集まった人の中には後に作家佐藤紅緑の後妻となり佐藤愛子を産んだ三笠万里子もいましたが、結果的に二流の新派俳優もどきみたいになって終わり大成した役者は皆無で専属の役者達での自主公演では利益が出せず、創立間もない大正3年には早くも巡業中の帝国劇場の役者が立ち寄って公演を行ったりする他は二流の新派や浪曲等も公演を打っていたり、市村座から菊五郎を呼んだりする等して実質的な貸し劇場となっていました。
 

神戸聚楽館

 
この様に明治時代末期にはほぼ神戸大黒座一強状態となり大正時代に入りましたが、神戸〜大阪間が余りにも距離が短く且つ大きな競争相手もいなかった事もあり大阪をほぼ制覇した松竹が神戸へと侵攻したのは意外にも遅く大正6年8月にかつて買収したものの、土地柄的に赤字続きだった堂島座の土地を毎日新聞に売却して得た金で買収し堂島座の資材を用いて湊川公園の南側に神戸中央劇場を建てたのが最初でした。
それに対して旧来の劇場も変革を余儀なくされ、大黒座が大正6年に改築・改称したのがこの日本劇場となります。
さて神戸の劇場の歴史はこの辺にして本題に入ると今回出演している主な役者は
 
・二代目市川右團次
 
・五代目嵐璃寛
 
・林長三郎
 
・嵐巌笑
 
・三代目阪東壽三郎
 
となります。長三郎を除いてはいずれも以前に紹介した事がありますがお世辞にも主流とは言い難い面子であり、道頓堀では無く神戸で初春公演を迎えている事からも上方における彼らの微妙な立ち位置が透けて見えます。
 
参考までに二代目市川右團次について紹介した筋書

 

続いて五代目嵐璃寛と嵐巌笑について紹介した筋書

 

最後に三代目阪東壽三郎について紹介した筋書

 

とは言え、実力的には3人とも申し分のない役者であり、特に壽三郎は1日から14日の最初の公演には出演しておらずこの番付である二の替りから浪花座との掛け持ちで急遽出演する事になりました。
 

菅原伝授手習鑑

 
一番目の菅原伝授手習鑑は何度も紹介してお馴染みの義太夫三大狂言の内の1つです。
今回は珍しく車引、賀の祝、寺小屋の通しに加えて三段目の車引の前に四段目の北嵯峨の段が付く変則的な流れになっています。
今回は松王丸を巌笑、梅王丸を右團次、桜丸を長三郎、源蔵を璃寛、時平を蝦十郎、松王女房千代を広三郎、源蔵女房戸浪を實川八百蔵、白太夫を浅尾大吉がそれぞれ務めています。
そして本来ならここで劇評でも引きたい所ですが地方の劇場あるあるで劇評の類いが当時の新聞なども当たって見ましたが殆ど残っておらずどんな演技をしていたのかが今一つ分かりません。
 

朝雪晴達引

 
中幕の朝雪晴達引は聞き慣れない外題ですが元の外題を富岡恋山開といい、寛政10年1月に江戸桐座で初演された世話物の演目です。
内容としては所帯持ちの商人玉屋新兵衛と小女郎の小糸の絡みとお糸の兄で乱暴狼藉の限りを尽くす九十郎に小糸の件で弱みを握られて散々に無理難題を押し付けられ酷い目に遭ますが、とうとう我慢の限界を超えた新兵衛が九十郎を殺害するというすこしハードな結末を迎えるのが特徴です、
今回は玉屋新兵衛を右團次、鵜飼九十郎を璃寛、出村新兵衛を巌笑、小女郎小糸を広三郎、産毛金太郎を長三郎がそれぞれ務めています。大劇場では明治29年1月に歌舞伎座で演じられて以降ぱったり上演が絶えていた演目だけに非常に珍しく気になりますがこちらも詳しい劇評は残されておりません。
 

卅三間堂棟由来

 
二番目の卅三間堂棟由来はこちらも今ではあまり耳にしませんが若竹笛躬と中邑阿契によって書かれ文政8年7月に初演された時代物の演目です。元は宝暦10年に初演された祇園女御九重錦という演目の三段目が独立した演目となります。
内容は平安時代末期に柳の精であるお柳がふとした事がきっかけで人間化して横曾根平太郎と結ばれ子供の緑丸を儲けるも白河法皇の頭痛を解決すべく占ったらお柳の本体(?)である柳の木が原因と分かり柳の木は三十三間堂を建ててその梁に使用する事となり、木が伐られた事でお柳は平太郎の前で苦しみながら正体を明かして姿が消えてしまいます。そして翌日伐られた木を運ぼうとするも木は一向に動かず、平太郎は自分と緑丸に別れを告げたいと分かり木遣音頭を唄いながら運ぶとびくともしなかった木がするする動き親子の別れをするという話になっています。
今回はお柳を璃寛、横曾根平太郎を壽三郎、緑丸を實川みのるがそれぞれ務めています。
上記のリンク先でも触れましたが璃寛は立役の本役としながらも加役で女形役も務める事が出来、この二の替りの出し物は女形としてでした。同じくリンク先でも触れた様に徳三郎時代は気の弱さから本番前に駆け落ちする事もしばしばあった璃寛ですが、前年に養父の名跡を襲名した事もあってか、はたまた鴈治郎、仁左衛門、延若といった頭の上らない怖い先輩もいない神戸でのんびりやれるという事もあったのか駆け落ちする事無く千秋楽まで演じ通せたようです。
 

戎大黒

三社祭

 
大切の戎大黒と三社祭は言わずと知れた舞踊演目です。今回は戎と善玉を長三郎、大黒天と悪玉を右團次がそれぞれ務めています。これまで全く劇評が無かったこの演目ですが最後のこの演目だけは一言レベルながら劇評が存在し、
 
右團次、長三郎は大喝采
 
と若き上方歌舞伎を担う(はずだった)2人の舞踊を評価しています。
神戸の劇場は大正時代に入ると大歌舞伎の役者が正月公演に出る事は稀になった事もあってなのか、大阪ではぞんないな扱いを受ける事が多かった右團次、巌笑、璃寛でも出てくれただけ大歓迎だったらしく、新聞記事にも
 
正月三が日はどの劇場も盛況」(1/4)
 
引き続き好人気」(1/8)
 
と盛況な様子が書かれていて大阪では不遇を託っていた彼らも神戸では大人気であった事が伺えます。
この様に壽三郎も新たに加わった二の替りの入りについてですが当時の新聞をつぶさに見る限り1週間の全てで大入りを記録し元旦からの衰えぬ神戸の見物の熱い支持ぶりが伺えます。
そしてこの二の替りも好評で大入り続きであった事から23日から30日まで三の替りを実施し、
 
・仮名手本忠臣蔵
 
・文屋と喜撰
 
が上演されこちらも最後まで活況を呈したそうです。
なおこの右團次と巌笑のペアについてはまた少ししたら今度は別の神戸の劇場で行われた公演でも共演しているのでまた紹介したいと思います。
余談ですがこの日本劇場はその後大正10年頃まではこの名称で公演を続け大正11年頃に八千代座と再度改称しましたが時代が映画全盛となるに連れ押され始め、遂には昭和2年から4年に松竹が借り受けて中央劇場が焼失した後に再建・改称した松竹劇場が出来上がるまでの間劇場として使用された後、映画館になりました。歴史ある神戸の老舗劇場の栄枯盛衰ぶりが伺えますが今回は大正時代における貴重な1コマと言えると思います。