歌右衛門自伝 | 栢莚の徒然なるままに

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2020年最後の更新となる今回は久しぶりに歌舞伎の本を紹介で締めたいと思います。

 

歌右衛門自伝

明治から昭和にかけて歌舞伎界で活躍した名女形五代目中村歌右衛門が昭和10年に出版した自伝本です。

 

大正時代の中村歌右衛門

 

歌右衛門といえば最近何の知識も無い上に資料の丸写しと致命的な読解力の無さが取り柄の、いっぱしの評論家を気取ってる中川室田武里という人物が適当な事を本で書いていますが、今回それらのツッコミも含めてきちんと五代目中村歌右衛門について紹介したいと思います。

 

まず歌右衛門の性格についてですが舞台における彼は女形を得意とし、特に淀君などのヒステリックな気の強い女性役について定評があった人物ですが、本を読み進めて行く内に分かるのが歌右衛門自身も認めている様に「頭は切れるけど頑固且つ負けず嫌いで気の強い性格」がである事です。

それは幼少時から既に顕現していて当時團菊の相手役を務めるなど東京の歌舞伎界における名実ともにトップの立女形であった八代目岩井半四郎の養子の話を

 

なアんだ、あんなオデコの女みたいな奴の所へ養子なんか行ってやるものか

 

と思って断り、(そして皮肉にも彼も同じ女形の道を進む事に…)

 

芝翫の所なら行ってやってもいい

 

と養子に行く人間の態度とは思えないくらい(笑)の発言からも伺えます。

この頑固なエピソードはこれ以外にも文中の至る所で散見され、ややもすると晩年は「金持ちの我儘」のように囚われがちに見えますがきちんと筋を通して話さえすれば翻意する事も少なくなかった事からも決して分からず屋人間ではなく理性的な一面を持ち合わせていた事が伺えます。それ以外にも五代目歌右衛門は女形でこそあれ真女形ではなく立役も数多くこなし、競馬を趣味にして私生活では朝食に「パンとオートミールと紅茶」を嗜むというハイカラな一面を持つ男性として生活しており、真女形で書画や人形収集を趣味とし私生活でも女性のごとく振舞っていた養子の六代目歌右衛門とは親子ながら実に正反対だった事が分かります。

 

さて本は代々の歌右衛門と養父芝翫の紹介から始まり、

 

・幼少期

・芝翫の養子に入り5年にも及ぶ巡業生活

・帰京後の福助襲名から天覧歌舞伎を経て養父の死

・芝翫襲名

・團菊死後から東京座時代

・歌舞伎座への復帰

・歌右衛門襲名

・関東大震災から昭和

・妻と五代目福助の死

 

と大まかに年代順に沿って出演した舞台の感想や起こった出来事について書かれています。

といっても鴈治郎自伝の様にびっしりと事細かに書いている訳ではなく彼の印象に残った役やエピソードのなどの供述が少々あるだけで、その合間を縫って地方巡業で各地を回った話やそれに関連して福助時代の女遊びの話や趣味の競馬で賭博した事により逮捕された事件の顛末や夏の時期になると毎年のように訪れていた伊香保の話、信仰していた金光教の話など様々な逸話がユーモアを交えて所々に挿入されています。中でも私的な競馬賭博で逮捕・勾留された事については他の出来事に比べてもページ数が多く割かれて書かれており(笑)、本人にとっては芝居の事や松竹の歌舞伎座買収未遂事件、更には後述する歌右衛門襲名騒動の事よりも余程ショックだったのが伺えます。

 

そんな歌右衛門も最後のページに近づくと昭和7年に亡くなった妻のたま子と昭和8年に亡くなった養子の成駒屋五代目中村福助に関して触れる項目がありそれまでの力強い印象から一転して妻子を失った悲痛な思いが綴られています。特に福助に関しては養子でありながら3歳の時に避暑先の伊香保で肺炎を患った時には

 

一時間おきに様子を知らせる電報を打たせる

 

容体が気になってしまい舞台に集中できずに間違えまくる

 

容体が落ち着いても心配でたまらず大金を払ってでも伊香保からその日の内に東京に帰させる

 

冬場に病院から退院してきた時には寒かろうと迎えの自動車(当時は一部の上流階級しか持っていない高級品でした)に火鉢を入れる

 

など私生活では尋常ではない親バカぶりをみせるなど我が子同様に可愛いがる一方で、舞台においては時に手を上げる事も辞さないほど厳しく教え込み六代目梅幸の息子である七代目榮三郎と「二人道成寺」を上演した際には梅幸と共に客席でハラハラドキドキしながら見守り、「君と二人でやった方が余程楽だ」と笑いあう位に期待をかけて若女形に育てあげて自身の芸の後継者であった彼に先立たれた事は精神的に大きな打撃を受けたらしく

 

(見舞いに)六代目(菊五郎)が来て「兄さん、もう何といっても慶ちゃん(福助)はダメだよ

と言ふけれども親はそう思いませんでした。寿命と病気は別だから医者が見放しても、神様の力で助かるかもしれぬと思いました。

 

「(福助が亡くなってから)私は人間が嫌になってどなたにもお目にかかりませんでした。(中略)やむを得ず(舞台を)やっていますが何の楽しみもありません。

 

 

と我が子に先立たれた悲痛な心中を吐露しています。

本は福助の死で終わっていますが補足すると文中にも書かれてるように福助に先立たれた後も次男六代目中村福助(六代目中村歌右衛門)と五代目福助の遺児である四代目中村児太郎(七代目中村芝翫)に芸の継承をさせる為に老体に鞭を打って舞台に出演していましたが、既に身体の方は鉛毒の影響で歩行する事が不可能となっており、この頃舞台でも演じた役を見ても

 

・桐一葉・沓手鳥孤城落月の淀君(しかも孤城落月は決まって座っているだけの糒庫の場のみ)

 

・暫の清原武衡(動かない為)

 

・春日局の春日局(こちらも座っているだけ)

 

・楼門五三桐の石川五右衛門(動かない為)

 

・曽我の対面の工藤祐経(同)

 

と全て座っているか動かない役のみいう有様で衰えぶりが隠すことが出来ない有様でした。

更に昭和11年以降になると私生活でも彼の権威の象徴ともいえた千駄ヶ谷御殿を手放したり、出演するのは年に1~3ヶ月程度と出演回数も激減し孫の七代目芝翫によれば最後の舞台となった昭和14年5月の歌舞伎座ではとうとう台詞を忘れて舞台上で絶句してしまうなど死因となった脳軟化症の症状が進行し舞台にも立てなくなりかつての威厳もどこやらで喜怒哀楽の感情が管理できなくなるほどになり最後の舞台から1年後の昭和15年9月12日に76歳の天寿を全うしました。
晩年こそ身内を相次いで失うという不幸に遭いましたが、息子が六代目中村歌右衛門に、孫が七代目中村芝翫をそれぞれ襲名し昭和、平成を代表する名女形になり、両名の子孫、特に七代目芝翫は子宝に恵まれて今も歌舞伎界において一大勢力になっている事は皆さんもご存知かと思います。

 

 

さて、本来ならここらで紹介が終わるのですが冒頭にも述べた様に最近歌右衛門について適当な内容を書き散らしている室田君が幾つもの己が無知をさらけ出した事を書いていますが万が一にも事実を知らないで間違ってあれの書いてるデタラメを信じてしまう方を一人でも減らしたいのでここで触れておきたいと思います。

 

・歌右衛門と團十郎の決裂について

 

この件については詳細を芝翫襲名披露興行の時に書きましたので詳しい話はまずそちらをご覧頂きたいのですが、この件について歌右衛門は室田君の宣う「書かれている事よりも書かれていない事の方が重要なのだ」という戯言を嘲笑うかの如く以下の様に自伝に記しています。

 

次の五月狂言が「鏡山」で團十郎の岩藤に菊五郎のお初で、私に尾上をしろといふんですから、これ以上の事は無いのですが、私が休んだので尾上は秀調がしました。

この時に私が給金にこだわって尾上をしなかったやうに言伝へられていますが、前の興行で政岡という片外しの女方をして、すぐに尾上で、片外しの役が続くから、と言い出してしまったものですから、寺島さん(菊五郎)も色々宥めてくれましたが、とうとう我を張り通してしまひました。

 

 

とこの様に事の真偽は兎も角、不仲になった説についてもきちんと言及して反論しています。

上記の様に歌右衛門の性格は基本的に頑固で負けず嫌いであり、例えそれが30年以上前の出来事であろうが、噂話であろうが自分の事を悪く言われままにされているのが我慢ならない性分であるのが分かります。この事は他の出来事においても同様で明治36年の四人同盟の件で團十郎の承諾抜きに慈善興業を主催して彼を激怒させた件についても

 

小父さん、今度の慈善興業について、大層怒ってお出でなさる様子だが。と申しますと

うむ、その事を聞いた。なぜその前に話してくれなかったと言ひますから、

実は今知らせに来た訳です。一体慈善興業ぐらいの事に小父さんまで煩はさずに済ましたいと思います。何時までも小父さんが出なければ慈善興業が出来ぬといふやうな事では済まない。なるべく小父さんの体の休まる様にしたいというのが私共の主義であります。それに興行主の今までのやり方がこれこれだから、この際に改めたいという考えであります。と詳しく事情を話しましたところやる事が良いか悪いか知らんが、言ふ事は筋が通っているものですから、堀越さんも諒解してそれならやってくれと言ふ事でありました。

 

と書いていて團十郎に無断で興行を行った説を否定してあくまで團十郎の事後承諾を得たと自説を主張しており、如何に室田君がこの自伝を見もしないで歌右衛門について書いている何よりもの証左になると思います。

 

・歌右衛門襲名について

 

そして一番触れておきたいのがこの歌右衛門襲名に関する内容です。

 

まず襲名に関する大まかな経緯とそして室田君がこの事についてどうデタラメを書いているかまとめてみるとこうなります。

 

明治25年に三代目中村歌右衛門の血を引く五代目中村鶴助が亡くなった際に加賀屋の家系図(初代、三代目の歌右衛門の屋号は加賀屋でしたのでここでは成駒屋の家系図と同じ意味合いです)と共に「お前さんの計らいで然るべき人に継がしてください」と歌右衛門を含む成駒屋の名跡に関して一任する遺言状を、三代目片岡我童、三代目片岡我當、田淵某の3人に残す。

 

その後、三代目我童と田淵某が亡くなった事で遺言状に記された名跡の裁量権は三代目片岡我當が持つ事になる。

 

時は過ぎて明治43年6月、五代目中村芝翫は東京に活動の場を移していた我當改め十一代目片岡仁左衛門から鶴助の遺言状の話を聴き、襲名を促される。

 

明治43年10月には鴈治郎側にも歌右衛門襲名の噂が出始める。

 

それに対して歌右衛門側は東京俳優組合に改名届を出して襲名を既成事実化すると共に鴈治郎、梅玉に対して襲名の通知を送って先手を打つ。

 

鴈治郎側は激怒して新聞・雑誌等で反論するも、結局は襲名を断念して明治44年11月に芝翫は歌右衛門を襲名する。

 

という流れになっています。

 

そもそもの発端を作った五代目中村鶴助


 

それに対して室田君はというと

 

・明治40年に「芝居道楽」という雑誌に鴈治郎が寄稿した文章の中で

 

私が悪かったので、今思えば鶴助さんを充分にお世話しておけばよかったと存じますが後悔先絶たずで残念な事を致しました、と申し上げる次第で改名については言い難い困難がございます」(芝居道楽)

 

と述べている事から鴈治郎は鶴助を邪険に扱ったと勝手に妄想をでっちあげる。

後に出した本でも

 

鴈治郎は明言していないが鶴助は仁左衛門への遺言として「鴈治郎だけには継がせるな、そうでないと俺は浮かばれない」と言ったらしい」(歌舞伎 家と血と藝)

 

 

と根拠となるソースも出さずにあたかも事実かの様に喧伝する。

 

・更にそれに飽き足らず後に出した本では

 

鶴助に対しては舞台や舞台裏でかなり邪険にしたらしい(松竹と東宝)

「鴈治郎だけには継がせるな、そうでないと俺は浮かばれない」と遺言した(同)

 

言ってもいない鶴助のイタコになってさも鶴助本人が言ったかのように更に勝手に話を作り上げる。

 

 

・後述する二代目中村梅玉の襲名に関して歌右衛門側がこの歌右衛門自伝にすら書いていないのに勝手に襲名を黙認したと書く。

 

さてどこから突っ込めばいいのか困惑するくらいですが、ここは室田君本人が宣った「書かれている事よりも書かれていない事の方が重要なのだ」という御託を借りて資料を書き写して言い回しを変えるので精一杯の室田君に代わって幾つか考察したいと思います。

まずは下記の2つの画像をご覧ください。

 

歌右衛門が載せている中村家の家系図1

家系図2

 

これは歌右衛門自伝に掲載されている成駒屋の家系図です。

この問題を論じる上で人物関係が複雑なので家系図を見つつご覧ください。

 

①双方の主張について

芝翫(歌右衛門)、鴈治郎ともに新聞や演芸画報などで自分が成駒屋の後継者だと主張したのですが双方の言い分をまとめると以下の様になります。

 

芝翫

・養父四代目中村芝翫は四代目中村歌右衛門の養子となり、その後四代目の帰阪に同行せず江戸に残り、自分を養子にした。

よって戸籍上にも「中村歌右衛門長男中村芝翫」と書いてある芝翫の養子である自分にこそ継承権がある。

 

・てんかんが原因で四代目歌右衛門から四代目芝翫が離縁された証拠はない。

もし離縁されたのであれば名跡も返上し屋号も変えなければならないはずだが四代目芝翫は四代目歌右衛門が帰阪してからも初代中村福助の名跡を返上せず、歌右衛門没後には歌右衛門の俳名である芝翫を襲名し亡くなるまで芝翫を名乗り続け屋号も成駒屋であり続けた。

 

・鶴助の遺言により歌右衛門の名跡を預かっているのは片岡仁左衛門であり、その仁左衛門から名跡と加賀屋の系図を譲られている。

 

・鴈治郎の実父である三代目中村翫雀は四代目歌右衛門の死後10年も経過してから未亡人の位牌養子として成駒屋に入った人物であり、生前に四代目の弟子にすらなった事の無い人物である事から翫雀に継承権は無くその息子である鴈治郎にもまた継承権は無い。

 

・明治36年に芝翫、鴈治郎、梅玉の3人は今後門弟を含む襲名に関して同名になる事を防ぐ目的で事前に協議と承諾が必要である契約を結んだが、明治40年に高砂屋三代目中村福助が芝翫の承諾を得ないまま二代目中村梅玉及び政次郎の高砂屋四代目中村福助を襲名した為にこの協定は反古になったので鴈治郎と梅玉には事後通知をした。

 

鴈治郎

・四代目芝翫はてんかんの症状があって四代目歌右衛門から離縁された為に江戸に残ったのであり、継承権を失っている。

その後、歌右衛門は二代目中村翫雀、三代目中村翫雀を弟子にしており三代目翫雀の実子である鴈治郎が実父翫雀などの成駒屋に関係する借金を完済して成駒屋に関する権利一切を取り戻している事から鴈治郎が継承権を持っている。

 

・四代目芝翫の離縁状も手元にある。

 

・鶴助の遺言状はあくまで加賀屋の名跡・祭祀の管理を一任する遺言状であって仁左衛門が加賀屋の後継者に二代目中村玉七を襲名させた時点で加賀屋の名跡を管理する権利は玉七に移っており、玉七が亡き今誰も所有権を持っておらず仁左衛門が決める権利はない。

 

・明治36年に結んだ協定に関して明治40年の梅玉襲名は芝翫側は事前に承諾していたので断じて無断ではなく、効力は今もあり芝翫の襲名はこの協定にも違反し認められない。

 

となっています。この主張を基に以下の点について考察してみたいと思います。

 

②「四代目中村芝翫は養子関係を解消されていて、五代目芝翫には継承権は無いのか?」

 

この点に関しては両者が己が説を主張していますが芝翫側が指摘している様に

 

江戸に残った後も四代目歌右衛門の追善興行を行ったり四代目芝翫の名跡を襲名したり成駒屋の屋号を名乗っている事

 

鴈治郎の父の三代目中村翫雀が東京の舞台に出演した際も四代目芝翫を兄、翫雀を弟にして兄弟の盃を交わしているおり、また五代目中村鶴助もまた東京の舞台に出演していた時には芝翫宅に寄寓しており、西の成駒屋及び加賀屋は芝翫を成駒屋の一族として認知している事

 

他ならぬ鴈治郎自身が梅玉と共に五代目芝翫(歌右衛門)の襲名の際に贈り物を送ったり明治36年の契約を結ぶ際に親戚扱いをしている事

 

からも仮に四代目歌右衛門が四代目芝翫を離縁していたとしても西の成駒屋は代々四代目芝翫や五代目芝翫を成駒屋として認知している以上、離縁によって継承権がないと主張するのはいささか無理がある主張と言えます。

また鴈治郎側は新聞上に持っている離縁状を公表したそうですが、その内容に

 

天保元年寅年和助殿お世話を以て云々

 

という四代目芝翫が歌右衛門の養子に入った時期に関する一文があったらしく、芝翫側が

 

鴈治郎側は四代目芝翫が顔が似てるのみならず踊りが出来るという事から養子にしたがてんかんが原因で離縁したと主張しているが天保2年生まれの当時1歳の芝翫が顔が似ているかは兎も角、踊りが出来るわけがあるまい

 

と離縁状の内容の誤りを指摘し、その離縁状は本物ではないと主張した事で鴈治郎側は離縁云々に関してはあまり強く主張できなくなりました。むしろ、これに関して言えば逆に四代目歌右衛門の死後に位牌養子となった翫雀にこそ継承権はあるのか?という芝翫側の質問に対して鴈治郎側が「未亡人及び翫雀の作った借金を返済しているから鴈治郎に継承権がある」という苦し紛れに近い返答しか出来ていないのも鴈治郎側が不利であるのが分かります。

 

③「五代目中村鶴助の遺言は有効なのか?」

 

この点についても書いていこうと思います。

まず室田君がイタコになって書いた内容は無視するとして、鶴助の遺言は歌右衛門自伝に書いてある様に「歌右衛門を含む加賀屋(成駒屋)の名跡の管理を一任する」という内容でした。

芝翫側の主張ではこの遺言の効力は生きていると主張し、鴈治郎側の主張ではこの内容は明治27年5月に二代目中村玉七が襲名した時点で加賀屋の祭祀管理も玉七が引き継いだ事から効力は消滅し無効だとしています。

玉七については⑤で詳しく述べますのでここでは省略しますが、この主張に関しては続く④における三者の結んだ契約破りも絡んで両者ともに不利になる資料が存在します。

それが大阪歴史資料博物館所属の澤井浩一氏が論文で紹介している 明治40年に行われた二代目中村梅玉襲名時に関係者に配られた摺物です。(6Pに画像が掲載されています)

 

内容についてはリンク先をご覧頂きたいのですが、この中で俳優や関係者の祝いの俳句が添えられていますが、その先頭は十一代目片岡仁左衛門となっており、以下の文章と襲名を祝う俳句が記されております。

 

梅玉の名跡相続人の撰定委頼を受け 居しか彼是梨園を眺め三代福助ぬしを おきて他にあらず縣らは仝丈へ相続せられん事 進めまひらすになん

 

預りし園の古梅植かへて

 

言うまでもなくこれは仁左衛門が梅玉襲名において高砂屋三代目中村福助を推薦しており、他ならぬ鶴助の遺言に基づいて成駒屋の名跡において仁左衛門が関与している証拠となっています。しかも、この摺物には下段に襲名する梅玉に続いて鴈治郎、芝翫も俳句を寄せていてこの事を認知している事からも明治27年の玉七の襲名と共に効力を失ったとする鴈治郎側の主張は荒唐無稽なものであるという事に他ならないのが分かります。

更に言うと2023年に新たに閲覧した高砂屋文書にも仁左衛門の直筆で福助に梅玉襲名を勧める手紙があり仁左衛門の関与は物証面でも裏付けられました。

その一方で芝翫の襲名通知文には鶴助の名前は何処に書いておらず仁左衛門も「中村家に縁深き者」と言及があるのみでその仁左衛門からも「先代(芝翫)の遺旨に基き襲名の儀頻りに勧誘相受候」とあくまで先代芝翫の遺志を継ぐべきだとしか言われておらず芝翫側にとっては鶴助の遺言自体大して意味があるとは思っていなかったのが分かります。

 

因みに室田君が御丁寧に自説の論拠にしている芝居道楽に鴈治郎が寄せた手記が書かれたのも明治40年と丁度梅玉襲名の年に当たる事から実父翫雀の借金返済さえ終われば障害はないと思っていた矢先に梅玉襲名において仁左衛門が遺言状に基づいて関与してきた事で鴈治郎も鶴助の遺言状の存在を知り、「今思えば鶴助さんを充分にお世話しておけばよかったと存じますが後悔先絶たずで残念な事を致しました」という文章の意味も鶴助に対しては舞台や舞台裏でかなり邪険にしたらしいなどという突飛な妄想ではなく、鶴助の生活の面倒を見ていた見返りに名跡の管理を仁左衛門の手に委ねられた事を知り素直に鶴助の世話をしていればこの様な事態にならずに済んだと後悔している心境を述べたのだと思われます。

 

余談ですが無知な室田君は歌右衛門襲名を巡る一件で

 

関西では仁左衛門が芝翫側に付いたことで批判された。この名優は関西に居づらくなり、東京の歌舞伎座に入る」(松竹と東宝)

 

なんて最初から最後まで全部デタラメな事を書いています。どれだけデタラメかというとまず襲名問題が表面化したのはどれだけ両者の主張を遡っても前述の明治43年6月以降であり、片岡仁左衛門が活動の拠点を大阪から東京の明治座に移したのはその1年以上前の明治42年2月です。この背景について室田君は当然読んでもいないでしょうし資料の存在すらも知らないであろう「明治座物語」には

 

松竹合名社と不和になり、出勤する座さえ決まっていないので『明治座なら行って見やう』といふ色気あり」(明治座物語)

 

と当時鴈治郎と組んで大阪に進出してきていた松竹との不和が原因であると記されています。

理由はいうまでもなく、松竹が鴈治郎と手を組んでいてあからさまに彼を優遇している姿勢が気に食わなかった事が見て取れます。

また大文字で記したように仁左衛門が移籍したのは明治座であり、その後歌舞伎座に入るのは以前書いた様に明治43年1月になります。

 

この記事に明治座から歌舞伎座に移籍した経緯について書いてありますので

参考までにお読みいただけたらと思います。

 

以上の事からみても仁左衛門の東京への活動の場を求めたのは襲名騒動と全く無関係である事がお分かり頂けるかと思います。

 

室田君、いくら無知だからって適当なウソを書くのは辞めましょう?知らないなら知らないときちんと言える大人になりましょうね(笑)

 

④中村会で三者が結んだ契約について

 

室田君はいつ作られたのか分からないという無知ぶりをさらけ出していた芝翫、鴈治郎、梅玉によって明治36年8月16日に結ばれた契約についてですが、高砂屋の子孫に当たる方から契約書の原本の画像を見せて頂いたのでそちらには

 

家名の関する事柄及び改名幸不幸号号其都度訊速に指道し且つ協力同心して熟慮し上諸事相譲歩して可決する事

 

と襲名に関しては三者が協議して解決する事が謳われています。

これに関して上記の明治40年の二代目中村梅玉襲名の一件に関して芝翫側は承諾していないとして契約が破られたと主張し、鴈治郎側は芝翫も襲名に関して承諾しており契約は今も有効だと真っ向から対立しています。ですが、③の資料にもある様に梅玉襲名の摺物に理由はどうであれ芝翫名義でしっかり襲名を祝う俳句まで出している事からも襲名を承諾しているのは明らかです。

これについては、2023年に新たに見せて頂いた資料によれば芝翫は年月不詳の10月3日付の手紙で政次郎の福助襲名を理由に襲名に反対の姿勢を明確にしており、梅玉襲名ではなく福助襲名を巡り考えを翻したのが明確になりました。

今まで襲名に関する主張でも有利であった芝翫でしたが、これに関しては明らかに鴈治郎側に理があるのが伺えます。


双方の主張はいずれも「未承諾」or「承諾済み」であり、断じて芝翫側は「黙認」したのではありませんよ、室田君?きちんと資料を読みましょう。

 

⑤二代目中村玉七について

 

③で突然出てきたこの名前に「誰?」と思われた方も多いかと思います。上記の家系図1に書いてある様に五代目中村鶴助の実兄である初代中村玉七の位牌養子に当たる人物です。元々は二代目中村梅玉の弟子で中村福松郎と名乗っていた役者でした。

何故この人が加賀屋の後継者の1人して選ばれたのか、詳細は不明ですのでここからはあくまで推察ですが鶴助が亡くなった事で加賀屋の血統は絶えてしまいました。そこでかつて初代玉七の弟子であった二代目梅玉の弟子の中から家系図にも記されている様に「仁左衛門の推挙により」選ばれて鶴助の三回忌に当たる明治27年に襲名に至ったと思われます。

襲名披露狂言でも牛若丸を演じるなど加賀屋の後継者として重要な役を演じている事からも分かる様に弟子と言いながらも、師匠からは独立し襲名前も神霊矢口渡では南瀬六郎を務めるなどそれなりのポジションにいて明治32年に初代中村鴈治郎一座に加わると伊賀越道中双六ではお米、新薄雪物語では梅の方など演じて女形として三代目中村梅玉が加わるまで鴈治郎の相手役を務め、また、立役としても仮名手本忠臣蔵の寺岡平右衛門は絶品だったらしく折口信夫によれば

 

其為に生まれて来たかと思わせる程だった。(中略)(平右衛門役を得意役とした)誉の梅玉も、此役では、弟子玉七に譲らなければならなかった。」(實川延若讃)

 

と云わしめる程であり鴈治郎一座においても重要な役者とでありました。

 

二代目中村玉七


いくら本家加賀屋の祭祀を継いだとは言え、何故この人物がそこまでクローズアップされるのか?

それはこの襲名騒動が玉七の死を待って行われた形跡があるからです。知識がない室田君はそこを深く考えずに仁左衛門が鶴助の遺言状を受け取ってそれを芝翫に見せて襲名を勧めたとしか書いていませんが、これには大きな謎が横たわっています。

何故なら鶴助が亡くなったのは明治25年、遺言状の存在を芝翫に知らせたのは明治43年と実に18年間も間が空いているからです。

仮に仁左衛門が自分自身の裁量だけで歌右衛門の名跡を誰かに襲名させることが出来るのであれば明治32年まで存命していて文句のつけようがない後継者の最有力候補であった四代目芝翫にこの遺言状の存在を明らかにしなかったのも不自然ですし、四代目芝翫の死後に後継者となり芝翫の名跡を襲名した五代目芝翫に対しても大阪や東京で何度も共演をした明治36年から明治37年の時点や三者契約が破られたと主張している明治38年の時点で遺言状の存在を明らかにして襲名を主張しても良いはずです。

なのに何故それを実行しなかったのか?言うまでもなくそこには二代目中村玉七の存在を無視できなかったからに他ありません。上記の梅玉襲名における摺物にも役者の格を示す寄せた俳句の位置が芝翫と鴈治郎の間にある事からも成駒屋の中における玉七の存在が決して軽くない事を示しています。

 

仁左衛門は明治38年の段階で福助に梅玉襲名を勧めるなど成駒屋の名跡の襲名に積極的に動いていたようですが襲名するのが成駒屋に所縁の深い高砂屋三代目中村福助であり、名跡も歌右衛門の俳名であった梅玉であった事から特に玉七の反対もなく襲名できました。

しかし成駒屋の本家本元の名跡である歌右衛門を譲るとなると候補者は人気・実力共にある芝翫・鴈治郎の2人のどちらかとなります。

そして第一に芝翫が東京側の人間である事、第二に他ならぬ自分が推挙して襲名させた玉七が鴈治郎一座にいる以上は玉七が鴈治郎に肩入れする事は明白でありいくら裁量権を持つ仁左衛門も本家加賀屋の祭祀を引き継いでいる玉七の意向を無視してまで芝翫に歌右衛門の名跡を譲る事を強行するのが出来なかったのではないかと推察されます。

しかし、皮肉にも鴈治郎にとっても遺言状の存在に加えて一座に玉七がいる事が足かせとなって自分から襲名が言い出せなくなった可能性があります。つまり玉七の存在こそが両者にとって目の上のたん瘤の様な存在になっていたのでした。

 

その証左に玉七が明治42年9月の中座の出演中に倒れて丁度1年後の明治43年9月に亡くなるや否や鴈治郎側は慌てて襲名に向けて動き出したという話が演芸画報の明治43年11月号(つまり10月中に動き出している)に掲載され、仁左衛門も亡くなる数ヶ月前の明治43年6月の時点で芝翫に遺言状の存在を明らかにして襲名を勧め、亡くなって2ヶ月後の11月12日付の大阪朝日新聞の取材に芝翫が襲名を決意したと表明するなど玉七の死がきっかけとなり襲名騒動が勃発したというのは決して論理の飛躍とは言えないかと思います。

 

上記の考察をまとめると必ずしも全ての点において正統性があるとはいかないものの、歌右衛門なりにきちんと筋を通して歌右衛門を襲名した事が分かります。

いかに室田君がロクに調べもせずに一連の事を書いているかがお分かりいただけるかと思います、

 

歌右衛門に関しては死後の昭和25年に他に芸談をまとめた「魁玉夜話 歌舞伎の型」や昭和に入って10年間ほど家政婦を務めていた女性が晩年に私生活における歌右衛門について語った「私の歌右衛門」という本、また加賀山直三が養子の五代目中村福助について記した「ある女形の一生」も出ていますので興味のある方はそちらとセットで読んで頂くと室田君の情報汚染に染まる事無く五代目中村歌右衛門という人物がより知る事が出来ると思います。

 

最後に普段ならあまりガタガタ言わないのですが、何せ私は一度前のブログで書いた内容を日経オンラインで丸々盗作された経験がある事や相手が既存の資料を言い回しだけ少し変えて丸写しするのが得意な室田君の為に一応記載しときます。

 

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