大正9年12月 南座 仮名手本忠臣蔵通し+助高屋高助&澤村田之助襲名披露@京都編 | 栢莚の徒然なるままに

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今回は大正9年の締めくくりとして久しぶりに南座の筋書を紹介したいと思います。

 

大正9年12月 南座

 

演目:

 

昼の部

一、仮名手本忠臣蔵
 

夜の部

一、神霊矢口渡
二、土屋主税
三、根元草摺曳
四、藤十郎の恋
五、文屋と喜撰

 

本編に入る前に南座について軽く振り返りすると大正5年以降帝国劇場の幹部役者が出演するのが恒例となっていた南座の顔見世ですが紹介していない大正7年、8年はそれぞれ

 

大正7年…梅幸、幸四郎

 

大正8年…幸四郎、宗十郎

 

が出演していました。

 

そして今回は前年に引き続き宗十郎の出演となりましたが前年と違う点はこの年の1月に襲名を果たした高助、田之助の2人の倅を引き連れており関西方面での襲名披露を兼ねていた点でした。

 

帝国劇場での襲名披露公演の筋書 

 

余談ですが2人の実祖父と養祖父に当たる四代目助高屋高助と三代目澤村田之助が最後に共演したのは他にらぬ明治10年2月の南座であり、高助、田之助の名前が南座のまねきに上がるのは43年ぶりの事となりました。


明治10年2月、南座での三代目澤村田之助のお富


そして偶然にも鴈治郎一座には三代目田之助の最後の弟子である市川莚女もおり、所属する会社が違うが故に一門でも中々襲名披露に立ち会えない事が当たり前だった時代に自身の師匠の名跡の襲名披露の場に偶々立ち会える事ができました。

 

主な配役一覧

 

仮名手本忠臣蔵

 

さて本編に入りますが昼の部は何と全部まるっと仮名手本忠臣蔵の通しとなっていました。

 
浪花座での通し公演の筋書 
 

長いのでリンクです。

 
因みに七段目の一力茶屋として登場する一力亭があるなどご当地物でもある忠臣蔵ですが、南座の顔見世では意外と掛からない演目で記録を遡ると番外編といえる演目は明治45年に大石良雄、大正5年に土屋主税、大正6年に清水一角が上演されていますが忠臣蔵そのものは明治41年に初代市川齊入が演じて以来12年ぶりとなる上演でした。
今回は大星由良之助と早野勘平を鴈治郎、高師直と薬師寺次郎左衛門、寺岡平右衛門を多見蔵、塩谷判官を福助、桃井若狭之助と一文字屋おさいを魁車、顔世御前と斧定九郎を市蔵、鷺坂伴内を箱登羅、千崎彌五郎を長三郎、斧九太夫を林左衛門、足利直義と大星力彌を新升、石堂右馬之丞と堀部彌次兵衛を梅玉、おかるを宗十郎がそれぞれ務めています。
 
大序

 
まず大序ですがこれまで鴈治郎の忠臣蔵では必ず塩谷判官を演じてきた福助、浪花座の時に桃井若狭之助を演じた魁車とここまでは珍しくないものの、大きく異なるのが師直と顔世御前で師直は段四郎や中車がいない関係で多見蔵、顔世御前は秀調や雀右衛門がいないので格から言っててっきり宗十郎かと思いきや理外の人選とも言える市蔵が務めている点です。
 
多見蔵についてはこちらをご覧下さい 

 

市蔵についてはこちらをご覧下さい 

 

リンクにもある様に市蔵は巡業とはいえ、碁盤太平記でおいしを演じるなど豊富な経験から女形役を加役で演じる事は時たまあったとは言え、宗十郎というこれ以上にニンが合う役者がいながらも演じたのは破格の抜擢と言えます。
そんな大抜擢の市蔵でしたが評価の方はと言うと
 
市蔵の顔世御前はお附合の部に属する方
 
と目立つ粗こそないもののやはり出来の方はイマイチだった様です。本来なら宗十郎が普通におかると掛け持ちで演じれば良かったのですが配役一覧を見ると分かる様に彼も他に四役も受け持っておりおかるを犠牲にしてまで顔世御前を演じるのも考えづらくこれ以上宗十郎に負担を掛けられなかった事情を踏まえるとある意味仕方がなかった部分があるのではないかと思います。
対してこちらはある意味相応の大役と言える師直を演じた多見蔵は
 
師直は扮装も科も申分なく人間味の溢れた演出振を見せ
 
とこちらはまさに本役だと絶賛されておりこれまで華がないと言われてきた彼にしてみればこれ以上ない褒め言葉と言えます。
また、師直と対峙する若狭之助を演じる魁車もまた
 
魁車の若狭之助は肝(癇)癖な殿様としてこれも申分ない所
 
と卒無くこなせる彼らしく好評で大序から滑り出しの良いスタートを切れた様です。
 
多見蔵の師直と魁車の桃井若狭之助
 
 
三段目
 
続いて三段目ですがこちらでは普段中々目にする事が出来ない福助の判官と多見蔵の師直の掛け合いが見れたはずなのですが劇評では三段目については特に言及しておらずどの様な出来だったのかは残念ながら不明となっています。
 
四段目
 
しかし、四段目になるといよいよ京都初となる鴈治郎の由良之助が登場するとあってか一転して劇評にもかなり細かく書かれ
 
三幕目判官切腹の場揚幕からヨロメキ駆け出る意気が先づ堪らなく好い、由良之助の見世場は否忠臣蔵その物の生命はこの場から同返し明け渡しの場に至る一幕にあるだけ鴈は懸命であった。
 
とかつて京都祇園館の舞台で團十郎の由良之助を間直で目にした鴈治郎だけにこの四段目は相当に力を入れて演じていたとされ、
 
そして近来の大舞台を見せた、可なりの長丁場を科よりも腹で見せようとの努力は充分現はれ「御かたみたしかに」…の辺り寸分の隙の無い緊張した場面を見せたは嬉しかった
 
同返しの明渡で鴈は愈々当代無双の由良之助振を発揮していた蓋し幕外の引込に寒玉(杵屋寒玉、十三代目杵屋六左衛門)が送り三重の絃を用いたは故團十郎を張ったものとやら贅沢な由良之助なり
 
と今回の為にわざわざ東京から杵屋寒玉を呼び寄せるなどかなり豪華な下座に負けない程の堂々たる演技振りで沸かせたらしく、劇評もべた褒め状態となっています。
 
鴈治郎の大星由良之助
 
この様に鴈治郎礼賛の状態ですが一応彼以外についても触れていて
 
切腹場は鴈(治郎)のみでなく福助の判官も又梅玉の石堂も多見蔵の薬師寺も新升の力彌も市蔵の顔世等何れも大努力
 
と鴈治郎のみならず他の主だった役者も一様に評価されていますが個々で見ると
 
福助の塩谷判官は所謂本役で殊に切腹の場は鴈の由良之助と呼吸の合ふのが何より
 
新升はあの柄で好い力彌を見せた
 
と本役の福助は兎も角、若手の新升は予想以上の好演だったのに対してここではベテラン勢が不調でまず石堂右馬之丞を演じた梅玉は
 
梅玉の石堂は貫目で見せ
 
と12年前は元気に塩谷判官と寺岡平右衛門を演じていた梅玉も寄る年波には勝てず今回はこの石堂と端役に近い堀部役のみでしたがそこは長年の舞台勘で何とか卒なく演じたのに対し
 
「(多見蔵の)薬師寺は要するに附合の部
 
と概ね好評の中、多見蔵のみ師直で刃傷を演じたばかりですぐ役替えして演じた薬師寺は師直ほどの評価を得る事は出来ず、不評でした。
 
五段目、六段目
 
続いて東京で演じた時は物議を呼んだ五段目及び六段目ですがこちらは
 
初日は五段目と六段目を抜いたので鴈の勘平を見る事出来なかった
 
と劇評が見たのが初日とあって初日特定狂言のしわ寄せをここが被る形で預りとなってしまい見ておらず何一つ触れられませんでした。因みにこの公演、鴈治郎の由良之助は南座初とあって背景や道具類に贅を尽くした結果、完成が間に合わず急遽初日を1日ずらして(12月3日を4日に変更)おり、どうやら大道具の遅延もあってやたら道具が多いここの場が被害を受ける形になりました。
 
後日の鴈治郎の勘平と市蔵の斧定九郎
 
余談ですが南座では確かに由良之助は初めて(12年前は桃井若狭之助と勘平、石堂右馬之丞)だったものの、勘平は明治41年の時も演じた他、30年前に九代目市川團十郎が京都祇園館に乗り込んだ時に二の替りで演じていた縁のある役であり、それだけに前評判も非常に高かっただけに預りとなった事に対する落胆は大きかった様です。
 
七段目
 
そして昼の部のクライマックスである七段目は前段から続いて宗十郎がおかる、多見蔵が三役目の寺岡平右衛門を演じているのが見所であり、劇評でも2人について
 
平右衛門ではグッド大味な所を見せるのが却って面白くこれは嵌り役だ
 
宗十郎のおかるに至っては根が東京役者には珍らしい程情のある優とてこれも嵌り役、殊に上方風排油に交っても油に水に交ったような感じが少しもしないだけでも結構であらう
 
と普段は絶対に実現しない顔合わせの妙が上手く行っている事を褒めており、普段はその演技を酷評される事が多い宗十郎も絶賛されています。
 
多見蔵の寺岡平右衛門と宗十郎のおかる

 
また、鴈治郎の由良之助についても
 
大詰茶屋場の由良之助は本役鴈にしてはジットして居てもその柄は自然この場の由良サンにして呉れる訳である、楽々と演じて居た」 
 
と女遊びは日常茶飯事だった彼だけに私生活そのままに自然体で演じて評価されています。
 
鴈治郎の由良之助と林左衛門の斧九太夫

 
ただ、この段は鴈治郎がかつて五段目、六段目で物議を醸した演出変更をこの七段目でも行った事が問題があったらしく
 

・序盤の酒宴~力彌の密書→全部カット

 

・三人侍は出ては来るも由良之助と会わずにそのまま奥へ退場と仕出し扱い

 

・九太夫が床下に隠れる下りから始まりいきなり由良之助が懐中から密書を取り出して読む

 

と七段目の前半パートをほぼバッサリカットしてしまっておりこの演出変更は劇評も
 
是迄とは大分筋の運びを省略して力彌の文運びもなければ三人侍が極く軽い役になって例の諫言立もなく由良之助としての演所は少なくアッサリしてる
 
と酷評しており画像に載ってる林左衛門や新升、箱登羅も出番がほぼ消滅してしまう形となりました。
 
類例として吉右衛門の体調及びコロナの影響で変則的な上演になった時の観劇の記事

 

竜頭蛇尾では無いですが何とも格好が付かない終わり方だなと思ってしまいます。

因みにこの演出はこの南座だけの特別演出ではないかと思われる人もいるかと思いますが約1年後に再び忠臣蔵を上演した時も全く同じ演出で演じており、どうやら七段目に対して鴈治郎はどうも我々とは全く違う考え方を持っていたとしか思えない物があります。

 

ここで昼の部は終わり夜の部は内容をガラリと変えての演目となりました。

 

神霊矢口渡

 
まず夜の部の出だしは宗十郎の出し物で既に何度か紹介している神霊矢口渡となります。
 
今回出演している高砂屋親子で演じた新富座の筋書 

 

実はこの演目、宗十郎が最晩年に制定した高賀十種の中に入っている程のお家芸であり、宗十郎は巡業含めてかなりの頻度で出していた鉄板演目の1つでした。 

今回は渡守頓兵衛を多見蔵、おふねを宗十郎、新田義峰を魁車、傾城うてなを新升、下男六蔵を市蔵がそれぞれ務めています。

さて、昼の部の七段目で兄妹役を演じていた多見蔵と宗十郎が夜の部では親子になるのが歌舞伎の面白い所ですが劇評はそうは思わなかったらしく

 

昼之部の大詰茶屋場で多見蔵と宗十郎の平右衛門にお軽を見せながら折返し夜之部の一番目にこの狂言を据え同じニ優を活躍さしたのは狂言の配列上確かに愚策だ折角の珍味もかう重なれば時に食傷しないとも限らないなど言ふものの、両優の努力を買う

 

と安易な二人の共演には否定的な評価を下しています。

ただ、個々の演技として見る分には

 

宗十郎のお舟は処女らしい色気も充分ノッケの義峰を見初めて「貴郎様の事ならお泊め申さいでなんとしませう」の辺り持味が溢れるしトド手負になって太鼓を打つ幕切れの見得も艶、流石に土産にした十八番物と得心させたがあれだけ派手に演るなら櫓へ上る處を人形振りで見せたら一層面白かったらうに尤も六蔵が門口で人形振を見せていたのでそれにツクから差控へたのかも知れんが根が操り浄瑠璃から出た狂言兎角は型に趣味のあるものだけに存分に古典的な處を見せた方が可い

 

多見蔵の頓兵衛も嵌り役だ、而して大時代に演じているのが嬉しい元来この爺っあん「この年迄仕込んだ性根たとへに釈迦様が還俗して侘証文書こうとも…」喃漢と大きな口を利くが多少三枚目懸った所が理屈抜きに面白い役なんだが多見蔵はこの点を合点していた、例の合図の烽火を上げて花道に駆込む所は車輪、好い型を見せる

 

とそれぞれ好意的には評価しており、あくまで二人の共演を乱発する制作側の姿勢に対して批判しているのが分かります。

 
兄妹役の直後に父娘を演じる多見蔵の渡守頓兵衛と宗十郎のおふね

 
因みに何故普段は顔を合わず事すらない両者の共演をここまでごり押されているのかと言うと前年の大正8年の顔見世の際に宗十郎のお三輪に多見蔵が鱶七で付き合ったのが見物にかなり好評であったからだそうです。
そして少し先のネタバレになりますが今回の共演もまた評価が高かった事から多見蔵と宗十郎の共演は2年後の大正11年の顔見世でも再度実現し、結果的にこの時が最後の共演となりました。
 
そんな2人の熱演に対し脇の役者はどうだったかと言うと
 
市蔵の六蔵はどうかと思ったが案外軽く「行かんとせしが待て暫し」の人形振りで大に儲ける。魁車の義峰、新升のうてなはともに神妙に附合って居るは可し
 
と普段鴈治郎一座ではあまり掛からない演目だけに心配されていたのも杞憂に終わり、2人の演技に水を差す事無く務め上げ、演目としては上々の出来だったそうです。
そして神霊矢口渡が終わると今回の目玉である高助と田之助の襲名披露口上となり舞台には紀伊国屋親子と鴈治郎のみが出演する人数の少ない古風な口上だったらしく
 
宗十郎父子に後見として鴈治郎が列し頗る形式離れした口上で大向を唸らすも顔見世気分
 
と南座では前回紹介した雀右衛門以来の襲名口上とあって見物も珍しい鴈治郎の口上が見れた事でご機嫌だった模様です。
 

土屋主税

 
続いては大正5年の時にも演じられた土屋主税が上演されました。
 
4年前に演じた顔見世の筋書 

 

昼の部で忠臣蔵を演じておきながら夜の部に外伝の、しかも4年前に出したばかりの土屋主税をまた出してしまう節操のなさは凄いですがやはり鴈治郎の出し物として無理が通ってしまう辺り松竹の鴈治郎への偏重があけすけに見えます。
そして配役も土屋主税を鴈治郎、大高源吾を魁車、其角を梅玉、お園を福助と4年前と寸分違わず同じ配役となっています。
そのせいか昼の部では鴈治郎をベタ褒めしていた劇評も
 
玩辞楼十二曲の内とある極印付きの代物、もう幾度と手に掛けしもの(中略)当時の脚色を覆へして勝田惣左衛門妹と改訂されているから第一場向島其角寓居は全曲に何の意味もなさないし其角や其月が大高源吾の不甲斐なさを憤って土屋邸へお園の暇を貰ひに来るなど愈々お節介な話で坊主憎けりゃ袈裟迄も斯う薬が利いては莫迦々々しく劇全体が下らなくもなれば俳優にしても演じ悪くそうであった(中略)主人公の主税は鴈治郎でなければあれだけ演ぜられないし又こんな狂言も鴈以外の人は出す勇気も持ち合わはさなかったらうと妙な處に感心した
 
と全否定レベルで酷評しており鴈治郎の土屋主税にしてもあまり芳しい評価をされていませんでした。これに関しては私も歌舞伎座で見たので言えますがやはりオリジナルの松浦の太鼓に比べると物語の構成で劣る演目であり、初代鴈治郎の愛嬌故に命脈を保っていた部分が大きく近代の役者が演じようとしてもやはり無理があるのは止むを得ないと言えます。
 

根元草摺曳

 
そして3番目に演じられた根元草摺曳は帝国劇場の筋書でも紹介した様に高助と田之助の襲名披露狂言となりました。
今回も帝国劇場の時と同じく小林朝比奈を高助、曽我五郎を田之助がそれぞれ務めています。
そもそも襲名披露を抜きにしても根元草摺曳自体が京都で掛かるのは珍しかったらしく
 
形式美を基調とした誇張的な例の江戸荒事、随分茶痴臭いものだがその訳なく華やかな所に又捨て難い味の有りと申そう
 
と皮肉交じりではありますが面白い演目だとした上で
 
所謂吉例物、若い元気に任せて溌剌と演っ付ける所を買う可く、地の文句通り「互ひに争ふ勢ひは前代未聞当世無双」と迄はよし行かず共極り極りの形は流石に面白く見た眼に痛快なり、江戸趣味の具象化としてこんなものタマには好し
 
と若さ故の溌剌さで勢いよく演じている点は評価しています。
戦後すぐから歌舞伎を見られている古老の目から見たら晩年の高助、田之助の零落ぶりを見ているだけに襲名当時のこの扱いは俄に信じ難い物があると思いますが当時の2人への期待の高さを伺える記錄として見ると考えさせられる物があります。

 

藤十郎の恋

 
そして襲名披露と並ぶ夜の部のハイライトと言える演目が京都初お披露目となったこの藤十郎の恋でした。
この演目は小説家菊池寛が上方の伝説の名優である初代坂田藤十郎が浮気をする役の役作りの為に人妻を誘惑し役の心を掴んだ所で女性をアッサリ捨ててしまったという逸話を膨らませて書かれた物で藤十郎の役作りの踏み台にされた婦人を宗清のお梶として藤十郎に偽りの恋をした事に対する満足とけじめで命を断ってしまうという心中物のアレンジを入れつつも、従来の鴈治郎が演じてた作品とは異なり修善寺物語の夜叉王よろしく芸術至上主義者である藤十郎を描く点で独自性を出しているのが特徴です。
鴈治郎は大正8年10月の浪花座で初演した所、大ヒットとなり続く11月公演でも見物からの声が殺到した事で異例の2ヶ月連続で演じたほどでした。
因みに後に菊池自身が戯曲化させて同名で上演させましたが、今回は大森痴雪が菊池の原作を元に劇化した物で坂田藤十郎を鴈治郎、切浪千壽を魁車、宗清のお梶を福助、丹波屋吉兵衛を宗十郎がそれぞれ務めています。
 
劇評ではまず主人公である坂田藤十郎が京都出身である事を強調した上で
 
鴈のこの役は東京でも期待してをるされば先月新富座乗込の節も彼地の好劇家は只管(ひたすら)この狂言をと望んでいたらしいがそれだけ鴈は大事を取ってとうとう出さなかった事左様に当人としては取って置の当たり狂言を今度の顔見世に上演した
 
と新作物の上演では必ずと言って良いほど東京の後に回されがちな京都で珍しく東京に先んじて上演された事が嬉しかったのかかなり甘めの評価になっており、鴈治郎演じる坂田藤十郎についても
 
全曲に緊張味が溢れ鴈がこの歳になって形よりも内面的に一歩踏み込んだ心理描写を主とした演出法に努力し出した点が明らかに窺はれた、第一にその研究的態度が嬉しかったがそしてそれが成功しているのも確かである、元より部分部分には鴈一流の愛嬌が邪魔をして常套的な類型的な芸が飛び出す点がないでもない、それに宗清の小座敷で梶に偽りの恋をし向ける所はどうかすると心から口説いて居るんではないかと思はれもしたがこの場の藤十郎の心理は頗る複雑であるだけ或る瞬間は眞の恋少なくも「恋をする男」に成り得たかもしれないから鴈のあの表現も自然そのままの気分の発露だと善解出来なく事もない(中略)都萬太夫座の楽屋の藤十郎は完璧に近い傑作だった、お梶の死を知って耐へ切れない胸中の苦悶を強いて押し付けている不安さも自然だったが遂に思ひ切って「サアー千壽どの舞台じゃ」と相手女形の手を取る所、芸術至上主義の藤十郎の面目斯くも有ったろうと思はせる、鴈の手を懸けた近来の新作物中では矢張りこの役は力強い印象を与へる
 
と酷評された土屋主税とは打って変わって役の為に偽りの恋をしてまで役を掴もうとする冷酷ささえ漂う役者馬鹿の役をややいつもの演技が出る部分は見えつつも最後の萬太夫座の楽屋でお梶の遺体に眼を遣りつつも割り切って舞台へ出てあくまで役者を貫くというまんま鴈治郎そのものと言えるこの役がピタリと嵌まったと大絶賛されました。
 
鴈治郎の藤十郎と福助の宗清のお梶

 
坂田藤十郎と言えば鴈治郎は歌右衛門の襲名に失敗した後、中村勘三郎の襲名を画策した後に一時期襲名を本気で検討していたのは知る人ぞ知る有名な話でもあります。
言うまでもなく上方和事の創始者であり、歌右衛門はおろか市川團十郎にも匹敵する大名跡であり鴈治郎から見れば格としても芸風からしても打ってつけであり、今回の藤十郎の恋の大当たりもありかなり真剣に襲名を考えていたそうです。しかし、贔屓筋の1人から
 
誰かの名跡を継ごうなんて色気を出さずに鴈治郎の名を一代で大名跡にすべきだ
 
と意見された事もあり最終的には襲名を諦めたと本人自身が書いています。
それだけに後年になり孫があっさり鴈治郎の名を捨てて四代目を襲名した事実を黄泉の国で知ったらどういう反応を示すのかなとつい想像してしまいたくなります。 
鴈治郎の話はここまでにして劇評では鴈治郎に匹敵する功労者として評価しているのが宗清のお梶を演じた福助で
 
福助のお梶が役柄を理解して忠実な舞台振を見せた事は或は鴈以上の殊勲者である
 
と道ならぬ恋、しかも相手は芝居の役作りの為の偽りの恋と知りながら恋に落ちて最後は悲劇的な最期を遂げるという美味しいながらも複雑な役を見事に演じた事を絶賛されています。
この様に酷評された土屋主税に代表される古典演目のリメイク新作ではなく、かと言って封印切や河庄といった洗練され過ぎた古典でもない純粋なオリジナル作品で見事に演じきった事を含め昼の部の四段目に匹敵する今公演の当たり演目となりました。

 

文屋と喜撰

 

大切の文屋と喜撰は以前何度か紹介した六歌仙容彩から文屋と喜撰の場面だけを独立化させた舞踊の演目となります。

 
歌右衛門が芝翫襲名披露で演じた時の歌舞伎座の筋書

  

今回は文屋康秀を長三郎、梅の局を林左衛門、祇園おかじを新升、所化雲年坊を高助、所化当年坊を田之助、喜撰法師を宗十郎がそれぞれ務めています。
こちらはお決まりの長三郎の出し物となりますが今回は舞踊にも定評がある宗十郎が客演しており劇評にも
 
長三郎の文屋と宗十郎の喜撰が大に活躍する
 
とし、長三郎については
 
長三郎はいよいよ舞踊役者として好い素質を見せ優の適く可き道を示している
 
とまだ伸びつつある舞踊の腕前を評価された上で親の鴈治郎のコピーではない独自の役者像を築けていている事も言及されています。
大阪では舞踊の評価が総体的に低い故にあまり評価されていなかった長三郎ですが京阪最大の歓楽街である祇園を持ち初代中村富十郎を輩出するなど元々舞踊については厳しい批評眼と重きを置く土地柄である京都においては高く評価されていたのが分かります。
一歩既に舞踊には定評のある宗十郎については
 
宗十郎は喜撰は今更兎や角言ふ迄もなく、これも敬意を評すべき代物
 
と隠れた舞踊の腕前に文句を付ける訳が無いと高評価されていますがそれだけに長三郎との共演だけでは物足りなかったらしく
 
尤も優の出し物としてはチト軽き憾みあり踊のない羽左すら先月大阪中座で堂々保名を出したさへあるに喜撰辺りで茶を濁すはサボリ過ぎたり
 
と彼のみで一本舞踊の出し物が出来る腕前がありながら長三郎と合わせて一本という実力を存分に発揮出来ない現状を口惜しがられています。
宗十郎の舞踊の腕前は以前にもブログで紹介しましたが当時トップの実力テストを誇る菊五郎や梅幸、幸四郎と比べても遜色ないレベルの持主でもありました。
 
菊五郎と二人道成寺を踊った歌舞伎座の筋書 

  

幸四郎、梅幸と共に更科姫を演じた帝国劇場の筋書 

 

しかし、これ程の腕前を持ちながらも技芸では劣るものの前月に中座で保名を出せた羽左衛門と比較しても当時の宗十郎の不遇ぶりは明らかであり、歴史にIfは禁物ですがもし宗十郎が歌舞伎座に残留していれば段四郎の老いた後福助が台頭してくるまで中継ぎとして舞踊枠で脚光を浴びた可能性もありますし、定期的に上方に出て踊り手不足の上方で活躍出来たかも知れないだけに彼は台詞回しなどのマイナスポイントばかり強調され過小評価され過ぎた役者ではなかったのかなと思う所があります。さて、かなり話題盛り沢山な公演でしたが入りの方はというと紀伊国屋の襲名披露や仮名手本忠臣蔵の通し、更には藤十郎の恋の初上演と話題性十分だった事もあり、全日程瞬殺という満員大入りを記録しました。
こうして鴈治郎と宗十郎は大正9年を無事終えてそれぞれ別れましたが宗十郎と鴈治郎という一見合わなそうで実は親和性がある謎コンビは京都ではかなり受けな良かったらしく大正11年まで計4年に渡り鴈治郎との共演が続く事になった他、大正11年2月には中座でも共演が実現するなど地味にドル箱カードとなりました。
残念ながら暫く中座や南座の筋書を持っていないので紹介は出来ませんが、演芸画報は持っているので2人の様子は時々紹介したいと思います。