今回は7月公演以来となる歌舞伎座の筋書を紹介したいと思います。
大正9年12月 歌舞伎座
演目:
一、一谷嫩軍記
二、色彩間苅豆
三、彦山権現誓助劒
四、目次浄瑠璃物語
井伊大老の上演を決行した7月公演の筋書
演芸画報で紹介した10月公演の様子
演芸画報でも紹介した通り、11月は鴈治郎上京の関係もあり明治神宮を訪れる客で賑わう11月公演を敢えて開かず中車と左團次を除いて大阪の中座に出演した専属組一行は代わりに12月公演を開いて大正9年の締めくくりとしました。そして10月公演との差別化を図るべく専属組に加えて12月とあって体が空いている梅幸と松助を帝国劇場から借りての座組となりました。
因みに梅幸は配役一覧を見ると分かる様に浄瑠璃物語と二人道成寺を除く全ての演目に4役も出る等ゲストとはとても思えない程の大車輪ぶりとなりました。
主な配役一覧
歌右衛門が義経役で菊吉と共演した歌舞伎座の筋書
ただ、今回の特徴は歌右衛門の出し物、つまり普段演じられている成田屋型ではなく、成駒屋の型であり四代目中村芝翫が完成させた芝翫型で演じるのが特徴でした。
芝翫型についての詳細はこちら
東京座での初役の歌右衛門の熊谷直実
因みに配役は紹介した通り熊谷直実を歌右衛門、相模を梅幸、藤の方を秀調、平忠度を市蔵、六弥太を吉三郎、梶原景高を村右衛門、堤軍次を亀蔵、弥陀六を仁左衛門がそれぞれ務めています。
そして、今回芝翫型に加えてもう1つ注目されたのが蒐原の里の場となります。この場は組討と陣屋の場の間にある場面で一谷嫩軍記のもう1つの物語である平忠度と六弥太に関する場面となります。
今日、というよりも天保12年に江戸河原崎座で出したのを最後に忠度と六弥太に関する話が主となる四段目が大劇場では上演されない事もあり、現在では研究者でも無い限り平忠度と六弥太の筋は殆ど知られていないのが現実ですのであらましを説明しますと平家の劣勢により都を離れる事を余儀なくされた平忠度でしたが和歌の道に秀でていた彼は都で和歌の師である藤原俊成の元を訪れ勅撰和歌集に自分の歌を入れて貰う事を頼んだ帰りに恋仲であった菊の前の乳母を務めていた林の故郷である摂津の菟原の里に赴きます。そこに林の不良息子の五平太と人入れ稼業の茂次兵衛が訪れ忠度が訪れている事を知り褒美欲しさに源氏方へと密告をします。そして訪れてきた菊の前との別れ話の最中に捕らえにやって来た梶原景高を追い散らした所で六彌太が訪れ無事忠度の和歌が勅撰和歌集の中に選ばれた事を告げた上で武人としての決着を戦場で行う事を誓って幕になるという内容となります。
因みに今回出て来るだけで特に何もしない五平太は四段目における中心人物となります。
さて、熊谷陣屋だけでも良いのに戦後75年の歴史の中でも僅か2回しか上演された事の無い幻の演目をわざわざ上演したのかは筋書の解説でも特に説明されていませんが、どうやら今回上方から単独で出演を果たした嵐吉三郎の為に出したと見られています。
吉三郎についてはこちらをご覧ください
そんな吉三郎の六彌太と市蔵の忠度という渋い組み合わせになったこの場についてですが劇評はどう評価したかと言うと
「忠度の菟原の里を出したのが珍しいが、根がさらさらした実のない芝居とて、片市の忠度、吉三郎の六彌太、亀蔵の菊の前も更に栄ず、且つ次の陣屋とは直接の連絡がないので意味をなさない。」
「序幕の菟原の里では吉三郎の六彌太が旨味のない誇張した芸風と、鴈治郎の声色で先づ見物をおびやかす、市蔵の忠度は相変らずふやけて煮切らぬ内に、鶴蔵の茂次兵衛がさらって行った」
と通しでもなく四段目の六弥太館の段をやるでもなく関係性が薄い熊谷陣屋の前にいきなり出したのは役者本位で出したに過ぎない上に肝心の吉三郎も市蔵も演技がまるでなっていないと酷評されており、僅かに鶴蔵の茂次兵衛が評価されている以外はこの場の評価は最低レベルでした。
そして稀に見る酷評の後に出した珍しい芝翫型の熊谷陣屋についても肝心要の歌右衛門について
「歌右衛門の熊谷が芝翫の型で演ずる、興味の中心だらうが例のヨチヨチした足許押出は立派でも腹と力の空虚なのは是非もない」
「この熊谷も團十郎型の、腹と力との満ち溢れた名優が扮したら、飽かぬ味のあるものではあらうが女形専門の歌右衛門が扮するのでは危っ気が多い」
「総て動くと熊谷らしくないが、坐って居る形の好さと力強い台詞回しが、この優の長所である」
と豪快な動きが魅力の芝翫型において例の鉛毒がここでも足を引っ張る形となり、厳しい評価が並ぶ形となりました。
今回の歌右衛門の熊谷直実
そして、この不評を受けてか後歌右衛門は熊谷を演じる事は無くなり後継者である慶ちゃん福助も六代目歌右衛門も女形であった為か熊谷を手掛ける事は無く、直系での継承は絶えてしまいましたが立役の弟子であった友右衛門や竹三郎が覚えて受け継いだ事もあり35年後の昭和30年に竹三郎から教わった二代目尾上松緑が1度だけ芝翫型で演じた後、その時の記録を元に当代芝翫が手掛けたのは実に83年後の平成15年の事になります。
当代芝翫は何かと私生活の事ばかり話題に上がりますが個人的には柄には恵まれているだけに成駒屋の大芝翫が手掛けて歌右衛門が演じる事が適わなかった役々を復活させて欲しいと思っています。
この様に歌右衛門の熊谷は失敗に終わりましたが良くも悪くもインパクトを残したのが初役で弥陀六を演じた仁左衛門でした。
いくら得意の老け役とは言え、初役となると決まって古い型と称して自己流に走って数々の舞台をぶち壊して来た前科がある彼でしたが今回の被害出来はどうだったかと言うと
「仁左の弥陀六は呼び留められて「恐ろしい眼力」で肌を脱がず鎧櫃を背負って立上るにも標札を杖にせずといふ、頑丈一点のこの優一流の演り方」
「仁左衛門の弥陀六は初役といふ事だが、かうした人形味の型物にかけては、寸分の隙も見せない、練れた技巧である」
と案の定、写実を地で行く彼らしく平家一族の名前が入った着物も見せず標札を杖代わりにも使わない独自の型で演じたそうですが演技に関しては文句の付けようのない出来栄えだと歌右衛門とは正反対に絶賛されました。
因みに他の役者についても
「梅幸の相模秀調の藤の方羽左の義経何れもよし」
「羽左衛門の義経は役所で、秀調の藤の方も気を張ってしてゐる」
「梅幸の相模は他流試合のせいもあらう、繊細な科と自在な動きと、それに子を喪うた母親らしい実感実情を滲み出させてゐる」
と適役中の適役である羽左衛門の義経を始め、相模を演じるのは明治45年3月の帝国劇場での初演以来9年ぶり2度目と経験は仁左衛門に次いで少ないものの、そこは地力で補った梅幸、歌右衛門が熊谷に廻ったお陰で藤の方という大役が来た秀調の何れも高評価されており、それだけに序幕の蒐原の里の場と肝心要の歌右衛門の熊谷の不出来が浮き彫りになってしまい何とも煮え切らない結果に終わりました。もし歌右衛門が10年前に手掛けていたり、或いは熊谷を演じた時にその舞台姿を高評価されていた幸四郎を借りる等して團十郎型での熊谷を演じさせていれば当時最高の熊谷陣屋が見れたであろうだけに画竜点睛を欠く形になってしまいました。
余談ですがこの後歌舞伎座では一谷嫩軍記は暫く掛からなくなり次に上演されるのは6年後の昭和2年9月まで待つ事になり、この時は上記の通り幸四郎が熊谷を演じる事になります。
因みにこの時の復活に関してはかなり知られていますが、何故70年以上も絶えていた演目がここにきて突然復活したのかについては書かれていないのでここで記すとかつて東会(舞踊会)で掛かったのを偶然にも大谷竹次郎が見ていていつか歌舞伎でも復活させたいと思っていた所、今回の羽左衛門と梅幸の共演に際して梅幸の出し物として音羽屋所縁の舞踊として復活させたいと羽左衛門と梅幸側から申し出があった事もあり快諾して復活が決まり清元の曲とあってこれまた音羽屋との縁が深い清元延寿太夫が唄を担当する黄金コンビでの上演となりました。
仁左衛門が主演した国立劇場の観劇の記事
こちらは中車の出し物になり毛谷村六助を中車、おそのを梅幸、微塵弾正実は京極内匠を段四郎、老母お幸を松助がそれぞれ務めています。
今迄戦前の歌舞伎紹介で中々紹介する機会に恵まれなかったこの演目ですが今回の中車の演技はどうだったかと言うと
「中車の六助は、矢張、体に弾線が入ってゐるやうに確かりして居り、白にもたるんだ處がない、孤児彌三松をあやしてゐる辺りには、、人情の優しみが見える」
「中車の六助は相変らず堅実の舞台で、彌三松をあやして居るあたり、人情の優しみが見えて、特に宜かったと。」
と華はないものの、如何にも武士らしい堅実な部分と師匠の忘れ形見である彌三松を慰める辺りの優しさが滲み出ている所の対比が上手く評価されています。
また、帝国劇場では六助を演じれる役者がいなかった事もあり一度も上演しなかった事もあり演じるのは明治34年12月に御園座で中車と初演して以来何と19年ぶりのおそのであった梅幸も
「梅幸のお園が他流試合の故もあらう、細かな科と自在な動きとが、一々技巧の型に裏附けて見せる、丁寧な上出来であった」
「梅幸のお園は出が余りに男になり過ぎ、又名乗合ってからは色気が多過ぎて、少々淫婦の形が見えたが、極り極りの姿のいいのと、武家の娘の凛とした中に、役の性格が浮き出されてゐたのがよかった。」
と冒頭の虚無僧姿での出が男っぽさが出過ぎたのと色気が多過ぎと窘められている点はあるものの一度組んだ中車とのコンビとあってとても2度目とは思えない安定感ある演技を評価されています。
中車の毛谷村六助と梅幸のおその
同じく中幕の浄瑠璃物語は今様薩摩歌を書き下ろしたばかりの岡鬼太郎が今公演唯一の新作演目です。
今回は小野のお通を歌右衛門、澤住七郎右衛門を中車、老僕東六を段四郎、東六の倅捨松を八百蔵、栗狭宮内を吉三郎、お巨摩を秀調、お千代を福助がそれぞれ務めています。
さて、今様薩摩歌はその斬新な設定が一定の評価を受けたのに対してこちらはどうだったかと言うと
「阿通が重器の琵琶を焚いて燃え立たせる赫かしい一瞬間の火の光で無く照らして見せる点が作者の狙ひ所であるらしい、狙ひ所は面白いが、これを大舞台の上でかうした方法で取扱はうとしたのが失敗である」
「失明せんとする澤住検校の名人気質と、中年の女の淋しさを芸能にまぎらさんとするお通の心持とを書いたものだが、あまりに淡々としてヤマがないため、歌右衛門中車の努力も取ろうに終ったやうだ、折角技量ある作者の濫作を戒めたい」
と賢女役に固執する歌右衛門と色物をやらせるには余りに色気の乏しい中車を何とか恋愛物にする心理描写の努力工夫は評価されているものの、それが却って舞台上では地味になり過ぎてしまい榎本虎彦の作品のやうな捉え所のない内容になってしまっているとかなり厳しく批判されてしまいました。
その為、役者も
「中車の澤住は、忠実に又熱心に努力してゐるのはよく分かるが、その労が酬いられないのは気の毒である」
「歌右衛門の阿通も真面目に、心がけてやってゐながらもその割に引立たない」
「その他も皆、自分のすべき事丈はそれぞれにしてゐる」
と決して手を抜いている訳ではないものの、原作の拙さを補う程の演技ではなく埋没してしまっていると低評価でした。
因みに歌右衛門は2年前の新富座の12月公演でも歌右衛門は古典の大岡越前に当時新作の鎮西八幡為朝を演じてどれも酷評を喰らっていましたが今回も同じ轍を踏む羽目になり羽左衛門と梅幸の出し物が2つとも当たったのに対して歌右衛門は2つとも大外れになってしまい明暗を分ける形になりました。
2年前の新富座の筋書
三絶で共演した歌舞伎座の筋書
言わずもがな与三郎を羽左衛門、お富を梅幸、蝙蝠安を松助が演じた他、和泉屋多左衛門を中車、番頭藤八を幸蔵がそれぞれ務めています。
さて、劇評にもはっきり「大向の騒ぐのも無理ない」と書かれる位に期待度が高い演目でしたが3人はその期待に潰れる事無く飄々と演じたらしく
「羽左の与三は今度は余程科に派手な技巧を用ひてゐる、「釜の下は灰までも」と安にいふ處などが殊に目に着いた」
「梅幸のお富に今でも妖艶な味が抜けないのと、松助の安に天下一品を叫ばせるだけの旨味の失せない事は、矢張り名人の至芸である。」
と何れも高評価されました。特に3度目の一世一代を謳った松助の蝙蝠安については別の劇評でも
「松助の蝙蝠安はこの小悪漢の猾さ小悧巧さ、図太さ、弱さのさまざまの性格の表裏を隅から隅まで活発し盡して、所謂名人の至芸である、芸は老いずとはかうしたのをいふのであらう」
と絶賛されていてケチのつけようの無い出来栄えだったようです。
完全におしどり夫婦感すらある羽左衛門の与三郎と梅幸のお富
最後に大切の二人道成寺は以前紹介した通り京鹿子娘道成寺を2人で踊る舞踊演目となります。
歌舞伎座の筋書
今回は梅幸が歌舞伎座に来た関係で息子の榮三郎も襲名後初めての歌舞伎座出演となり、襲名披露代わりに歌右衛門の息子である福助とのW主演での出し物となりました。
榮三郎の白拍子(左)、櫻子福助の白拍子花子(右)
「親の梅幸に先きだった榮三郎と(福助が)、歌舞伎座で「二人道成寺」をした時でした。私は梅幸と並んで見て居て、「アゝやらなくちゃいけない」、「かうやらなくちゃいけない」、と二人で気を揉んで、結局「君と二人でやった方がよほどラクだ」と笑ひました。」(歌右衛門自伝)