演芸画報 大正9年11月号 義経千本桜特集 | 栢莚の徒然なるままに

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今回はまた演芸画報を紹介したいと思います。

演芸画報 大正9年11月号


10月号に続き今回は演芸画報の11月号となります。

既にブログで紹介している新富座と中座については個々のページをご覧ください

新富座の筋書 


中座の筋書 


長かった夏の出稼ぎシーズンも終わり秋の芝居月になった10月ですが、東京の劇場では4月公演以来となる歌舞伎座、帝国劇場、市村座の三座が幕を開けました。

まず歌舞伎座は恒例の三衛門に段四郎を加えた座組で

小豆島
饅頭娘
唐人話
矢矧橋
大津絵

を上演しました。

参考までに小豆島を上演した歌舞伎座の筋書

 

吉右衛門が饅頭娘を演じた市村座の筋書 

 


こちらは主な配役は大正2年の時と同じなものの唯一門之助が演じていた侍女役を福助が演じるのがポイントの1つでしたが評価の方は役柄の強気な女性役というあまり福助にはない役が歌右衛門の息子という地位だけで抜擢されたという僻みやっかみもあり、あまり芳しくない評価でしたが下の写真にもある流血した化粧の工夫は非常に好いと変な所では評価されていました。

福助の侍女小萩



そして演目自体も歌右衛門は良かったものの羽左衛門のやる気の無さや前回も述べた様に作品の構造そのものの欠陥も相まって不評で劇評も専ら中幕の饅頭娘と矢矧橋のみに焦点が当てられていて

仁左衛門の政右衛門はその二重の腹を現はす上に、鴈治郎程虚実の技巧を恣にしない点に旨味がある

仁左衛門の政右衛門は十分な真情が溢れてゐる。床についた科に妙味がある。そして演技がいかにもよくこの作の内容に一致してゐた。作と芸に隙がなかった。更にあの柄といひ調子といひ、現在迄最上に置かれてゐた鴈治郎をさえ凌いだ出来を見せてゐる。

歌右衛門のお谷こそ一点の疵もない上出来だ。かういふ軽い女房役にあれ迄の感じを現はした事も流石だ。私は「玉藻前」の萩の方と共に得難い技芸であると思ふ。

 

二番目の「唐人話」は仁左衛門の典蔵も元来無理だ。羽左衛門の伝七も無理だ。が、同じく無理でありながら、仁左衛門は「芸」の力で或る程度迄役を仕生した。(中略)羽左衛門の伝七はその無理を覆う「芸」の力が皆無である。すべてに工夫がない。すべてに情熱がない

と饅頭娘のこそ仁左衛門と歌右衛門の優れた芸の力により劇評をも唸らせる出来栄えになっているのに対して矢矧橋は初役をやらせると高確率でしくじる羽左衛門のジンクスが当たりこちらも不評でした。
この様に当たり演目と呼べそうなのは中幕のみで後はグズグズという状態が成績にも当然響いたらしく折角の秋公演も盛り上がらずじまいで久しぶりに帝国劇場に負ける形となりました。

絶賛された仁左衛門の唐木田政右衛門、歌右衛門の女房小谷

 

対して帝国劇場も巡業帰りの幸四郎、宗十郎と避暑に出ていた梅幸が揃い幹部役者勢揃いで迎え

千姫
大森彦七
地獄
三人石橋

と新作半分、古典半分の帝劇らしい演目を並べて上演しました。

 

幸四郎の徳川秀忠、梅幸の千姫、宗之助の侍女松島、勘彌の長宗我部盛高

因みに二番目の地獄はタイトルからは想像もつきませんが心中しようとした男女2組の内、男だけが飛び込めず生き残り出家するもまたもや女に心中を言い寄られるなどして女の執着心に恐怖しこの世は地獄だととうとう発狂してしまい舌を噛み切って死んでしまうお男の悲劇を描いた物になります。

宗十郎の沙彌了観、宗之助のおつる

 

こちらは

 

女の執着、この作の主題になってゐる執着に悩まされる神経的な苦悩はかなり劇的な魅力がある。その主題はいかにも面白い。而も、その生き残った男が自分の神経から幻像を描いて、執着に悩まされる点が、在来の幽霊を借りた形式の芝居よりも、遥かに深刻である。(中略)が、舞台上では余りに説明的であって、いかにも印象が弱い。平面的な説明があるだけで、立体的な劇的要素が乏しい。

 

と舞台で再現するには平面的な説明に終始してしまい原作の魅力を損なっていると批判しつつも、在来の芝居の枠組みに囚われない斬新な作風はかなり評価されていて一番目の千姫こそ期待外れの結果になったものの、中幕の大森彦七や三人石橋など安定した舞踊物の出来に支えられた上での冒険が賭けに当たり入りに関しては芳しくなかった歌舞伎座とは対照的に堅調で久しぶりに秋公演で勝利を収めました。

 

栄三郎、高助、田之助の獅子の精

それにしても高助の顔はデカい(笑)

それに対してこの時、退潮気味だった市村座も菊吉三が揃い

伊達安藝盡忠録
二人猩々
三社祭
四千両小判梅葉
かつぽれ

を上演しました。

菊五郎の原田甲斐、吉右衛門の伊達安芸

 

そしてこの公演が死の床にあった田村成義が40年以上に渡る興行師生活の中で最後の差配した公演となり、よくよく演目を見て見るとこの時上演した四千両小判梅葉は遡る事35年前の明治18年に五代目尾上菊五郎の為に初めて演目の製作に関わった彼に取っても所縁の深い演目でありまるでこの公演が自らの興行師人生の最後の公演となるのを予期して有終の美を飾るべくして選んだかの様な演目選定でした。

吉右衛門の藤岡藤十郎、菊五郎の宿無富蔵

 

そしてこの10月公演終了後、再び秋の巡業シーズンとなり菊五郎は恒例の秋の狩猟で丸々休暇を取り、吉右衛門は巡業に出かけその間に田村が永眠し市村座を引き留めていた最後の支えが取れる事となり大正10年の崩壊が目の前に迫る事になります。
一方、東京では紹介した新富座の外に麻布南座が取り上げられていて「浅草の羽左衛門」の異名を取った河原崎権十郎が羽左衛門が7月の巡業でも出していた当たり役でもある源平布引滝を出して瀬尾には老優市川小團次を迎えて実盛を演じていました。

権十郎の実盛、小團次の瀬尾


因みにこの時の実盛について劇評家の三宅三郎は

実盛が一番良かったのは大正十年(9年の間違い)の麻布の南座でやったときで、瀬尾が五代目市川小團次だったからである。権三郎の生涯の中で相手の瀬尾では小團次が最上の役者であったのでさすがに一生懸命だった。」(小芝居の思い出)

 

で激賞しており、彼はこの時40歳とまさに脂ののりきった時期とあって気力も充実しており、片や70歳とは言え歴戦練磨の小團次相手に実盛を演じる大舞台に熱演してたのが伺えます。
しかし、この人気ぶりが災いしたのか羽左衛門の引き立てで大芝居に上がり歌舞伎座にも出れるようになった権十郎はこの大正9年から大正10年にかけて突然この麻布南座に固定されて出演する様になりその仕打ちに嫌気がさしたのか大正11年には彦三郎のいた公園劇場に走るも当の彦三郎が市村座に出戻りしたのを受けて彼もまた再び松竹に戻り、震災前まではもっと扱いの悪い御国座に幽閉されるなど昭和に入るまで彼は迷走を続ける事になります。

 

さて、東京の話をここまでにして関西に目を向けると中座の鴈治郎については既に紹介しましたがこの時は京阪神で公演が行われておりまず京都では南座で延若一門に嵐吉三郎が加わるほぼ無人の一座で公演を開いていました。

南座では

 

木曽川治水記
御所桜堀川夜討
勧善懲悪孝子誉
蘭平物狂
 

が上演され、延若は座頭という事もあり全ての演目に出演し、

 

新作

 

古典(但し加役で女形)

 

散切り物

 

舞踊

 

と彼の広すぎる芸幅を遺憾なく発揮した公演になりました。

 

加役で演じた延若のおさわ

 

ちょっと怖さもあるおさわです。

 

同じく延若の蘭平

 

因みにこの南座の公演は半月公演で残りは名古屋末広座での公演を行っています。

参考までにこの年の延若の出演状況を見てみると

 

1月:浪花座

2月:中座

3月:中座

4月:地方巡業

5月:地方巡業

6月:地方巡業

7月:地方巡業

8月:浪花座

9月:中座

10月:南座、名古屋末広座

11月:神戸中央劇場

12月:浪花座

 

となっており、1年の始まりと終わりのみ大阪で秋は京都、名古屋、神戸と主要地域を廻り後は巡業に充てるというスケジュールになっています。流石に鴈治郎と違って5月や10月といった節目の月には道頓堀には出演できないものの、2月~3月の中座の杮落し公演には参加出来た他、襲名前の様に年の半数以上を東京にいるといった事は無くなり道頓堀にいる事も増え確実にポスト鴈治郎にほど近付いていたのがこの頃の延若でした。

そんな延若とは対照的だったのがこの月は神戸中央劇場に出ていた我童でした。

こちらも自身の一門と浅尾大吉が加わっただけの無人の一座で

 

艶容女舞衣

松平長七郎

伊勢音頭恋寝刃

 

を上演していました。

 

我童の福岡貢と浅尾大吉の仲居万野

 

しかも加役で女形も演じた延若とは対照的に女形役は浅尾大吉、中村福之助(成駒屋の名跡とは無関係です)、片岡愛之助に演じさせて自身は立役のみ演じるというスタンスでした。無論これは立役であれば主役が出来るという分かりやすい理由もありますが私自身が邪推するにこの頃の我童は東京でも大阪でも何処か宙ぶらりんの様な扱いが多くそれに対する抵抗意識があったのではないかと思われます。

 

参考までに以前紹介した我童の巡業の番付 

 

4月に出演してた歌舞伎座の筋書 


横浜座で桜鍔恨鮫鞘を演じていたのを紹介した演芸画報 

 

リンク先にもある通り歌舞伎座などでも美味しい役は廻っては来ず、あっても脇の女形役などが多くその反動でか横浜座や閑散月の道頓堀など融通が利いて自身の出し物が出せる時の芝居ではこれでもかという位に立役を演じており、資質はあるものの「冷たい」といったネガティブな評価も多い女形よりもその弱点が隠しやすい二枚目や立役に活路を見出して盛んに演じる事で普段の鬱憤を晴らしたり、同時に役幅を広げようと必死であったのではないかと思われてなりません。更に踏み込んで言えば桐一葉に出演した時に指摘されていた様に彼には女形役者でありながら相手の役者に合わせずに演じる悪癖があり、そういった面を踏まえると本質的に彼は立役向きであったのではないかと思う節があります。

しかし、そんな努力も虚しくこの年の彼の出演歴を見て見ても

 

1月:歌舞伎座

2月:横浜座

3月:地方巡業

4月:歌舞伎座

5月:中座

6月:神戸中央劇場

7月:中座

8月:地方巡業

9月:中座

10月:神戸中央劇場

11月:不明

12月:浪花座

 

と徐々にではありますが鴈治郎に近づきつつあった延若とは正反対に我童は節目の5月公演こそ中座に出演して久しぶりに鴈治郎と共演したものの、それ以外は相変らずの東京行きや地方回りが主でありこの後もパッとしない状態が昭和に入るまでズルズル続くことになります。

 

グラビア紹介はここまでにして文字ページの紹介に移ると今回は中座での義経千本桜に因んで義経千本桜特集が大々的に組まれましたがあって

 

義経千本桜の特集

 

画像にもある様に当時の俳優(古くは五代目菊五郎から)における役々の優劣をそれぞれ劇評家が述べる所から始まります。

これは中々面白く少し列挙して見ると

 

川尻清潭

碇知盛

弁慶…段四郎、次点は小團次(将来的には幸四郎と片岡市蔵が有望)

土佐正尊…市川新十郎

平知盛…幸四郎、次点は中車(羽左衛門は論外、菊五郎は恐らく拙い)

典侍局…歌右衛門一択

源義経…宗十郎、羽左衛門、三津五郎。大阪なら魁車、福助。小芝居なら三升。

相模五郎…菊五郎(将来的には猿之助)

 

 

いがみの権太

権太…形の上では羽左衛門、演技は菊五郎。(将来的には勘彌と猿之助)

若葉内侍…梅幸

小金吾…二代目尾上菊之助(将来的には時蔵と男女蔵、もしかしたら三津五郎)

小せん…二代目坂東秀調、次点梅幸。

お里…梅幸、次点歌右衛門。続いて雀右衛門。

平維盛…二代目尾上菊之助、羽左衛門はちょっと軽い、梅幸はギスギスしている。当代では勘彌、きちんとやれば菊五郎も出来る

弥左衛門…三代目中村仲蔵。当代では松助、段四郎、友右衛門。中車は固過ぎ。

お倉…中村傳九郎。莚女は色気あり過ぎ。

梶原景時…見た仁左衛門と左團次は下手。吉右衛門は良いと思う。

 

道行

狐忠信…九代目團十郎。当代なら菊五郎。羽左衛門は荒っぽい。宗十郎はただのお浚い。

静御前…團十郎。当代では菊五郎。

 

四ノ切

狐忠信…團十郎。当代では羽左衛門。

静御前…歌右衛門、次点梅幸。当代では慶ちゃん福助。

横川覺範…四代目中村芝翫。当代だと吉右衛門。(将来的には幸四郎)

 

碇知盛

弁慶…該当者なし。

土佐正尊…該当者なし。

平知盛…該当者なし。敢えて言えば多見蔵。

典侍局…福助一択。強いて言えば雀右衛門。

源義経…該当者なし。

相模五郎…魁車。しかし、少し堅い。

 

 

いがみの権太

権太…鴈治郎(五代目式)、延若(ハマり役)、卯三郎(写実過ぎて下手糞)。(将来的に扇雀)

若葉内侍…該当者なし。

小金吾…該当者なし。

小せん…該当者なし。

お里…雀右衛門一択。

平維盛…福助一択。我童は微妙。(将来的に長三郎)

弥左衛門…梅玉一択。(将来的に卯三郎)

お倉…嵐璃珏。当代では莚女と林左衛門だが前者は婆に見えない、後者はデカ過ぎ。

梶原景時…梅玉、巌笑、多見蔵。但し誰でもできる。

 

道行

狐忠信…長三郎

 

四ノ切

狐忠信…右團次。道行も出来ると思う

静御前…福助、雀右衛門、魁車。

横川覺範…該当者なし。

 

となっています。

東京ではてっきり菊五郎や羽左衛門が絶賛されているかと思いきや決してそうではなく、狐忠信は九代目團十郎が五代目菊五郎より上手いと言われていたり二代目尾上菊之助が梅幸より上手かったとされていたりと思わぬ名前が飛び出してくるのが興味深くあります。

一方大阪の方は該当者なしが多いですが、この内、渡海屋に関しては大阪で出す役者がいないというのも影響している部分はあります。近年では獅童の権太が賛否両論を呼びましたがやはり昔に比べるとやる演目が固定化し過ぎていてこの様な見比べをする事も難しくなってきているのをひしひしと感じます。

 

四ノ切のケレンについてのページ

 

そして今では澤瀉屋が復活させた宙乗りが主流になりつつある四ノ切ですが元を辿れば市川斎入が考案した横川覺範との早替わりの型を段四郎が教わりそこから

 

段四郎

二代目猿之助

三代目延若

三代目猿之助

 

と伝わり現代に至る事や名人小團次がこの四ノ切のケレンを生み出していたのが分かり、また斎入が他にも編み出した三味線胴抜け、見台抜けという亜流のアレンジまで編み出した事や果ては訥子の弟子である澤村金十郎が見せたという灯籠抜け、植木鉢抜けという完全に軽業(奇術)じみた型まであると記されており、四ノ切も奥が深い事が分かります。

昨年の国立劇場での菊之助の熱演を見た方にはこうした特集でより知識を深めるのも今後の観劇の一助になるのではないかと思います。

 

この号はこの特集以外これと言って目ぼしい企画がないのでこれで終わりになりますがまだ12月号がありますので少し置いてからまた紹介したいと思います。