大正9年10月 中座 鴈治郎のいがみの権太 | 栢莚の徒然なるままに

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今回は実に久しぶりとなる中座の筋書を紹介したいと思います。

 

大正9年10月 中座

 

演目:

一、六波羅栄華物語
二、義経千本桜
三、病鴉
四、藤鞆絵
五、菊慈童
六、越後獅子

 

本編に入る前に久しぶりに上方歌舞伎について紹介したので前回から今回に至るまでの上方歌舞伎の動向を簡単に触れたいと思います。

 

前回紹介した中座の番付 

 

最後に紹介した浪花座の番付 

 

最後に中座の公演を紹介したのは大正7年12月でしたが、その後大正8年に入ると上のリンクにもある様に1月は鴈治郎一座が浪花座で初春公演を開き延若と共演しました。

続く2月は左團次と帝国劇場から幸四郎を借りての公演となりました。因みに左團次が道頓堀に出演するのは明治43年4月の弁天座以来10年ぶり、幸四郎が出演するのは前に紹介した大正5年10月の浪花座以来3年ぶりでした。

 

幸四郎が出演した浪花座の筋書

 

そして演目も幸四郎の弁慶、左團次の富樫、鴈治郎の義経という豪華な配役による勧進帳とあって非常に注目を集め無事大入りとなりました。

 

3月は恒例の鴈治郎の新富座出張公演で大阪を留守にし、代わりに十代目仁左衛門の追善公演が中座で行われ東京から仁左衛門と歌六が出演し延若、我童、壽三郎が共演して帝国劇場で上演した我童の松平長七郎や1月の歌舞伎座で上演したばかりの桜時雨を仁左衛門が上演して大当たりを取り、彼もまた気焔を吐きました。

そして何度も触れた通り、歌六はこの公演中に体調を崩して帰京後寝たきりとなり、そのまま5月に亡くなった事からこの公演が歌六の最後の公演となりました。

 

最後の舞台となった歌六

 

続く4月も中座のみ公演が開かれ仁左衛門が抜けて代わりに延若が座頭となり、右團次と璃寛も加わって当時歌舞伎界における最長老であった二代目市川眼玉の引退公演が行われ、85歳の高齢でありながら楼門五三桐で延若の久吉相手に石川五右衛門を演じ80年以上に渡る役者生活に終止符を打ちました。

 

市川眼玉の石川五右衛門

 

5月には再び鴈治郎が舞い戻っての公演となり、東京から前年11月に襲名を果たした八百蔵、小太夫の襲名披露を兼ねて久しぶりに段四郎が大正5年6月公演以来3年ぶりの出演を果たして

 

鎌倉右大臣

伊賀越道中双六

随市川鳴神曽我

花吹雪春諷

本朝廿四孝

 

上記演目を上演し、伊賀越道中双六と本朝廿四考で鴈治郎と共演を果たしました。そして段四郎もまたこれが最後の道頓堀への出演になりました。

 

6月は久しぶりに中座と浪花座の2つの劇場が開き中座は延若、雀右衛門、壽三郎、璃寛という傍流組での芝居で

 

貞任宗任

艶姿女舞衣

裏ぎり

篭釣瓶花街酔醒

 

とそれぞれの得意な出し物を出しての公演になり、この公演を最後に中座は改修工事に入りました。

因みに鴈治郎一座は南座で公演を開き歌舞伎座と帝国劇場が摂州合邦辻を競演する中、こちらも摂州合邦辻を掛けるという面白い試みをしていました。

 

南座の摂州合邦辻

 

一方で浪花座は当時京都などで青年歌舞伎として修行していた中村扇雀らが市川市蔵の補導を得ての凱旋公演になり

 

絵本太功記

鐘もろとも恨鮫鞘

道行恋の苧環

 

を上演しました。 

7月に入ると以前に演芸画報で紹介した通り、普段なら鴈治郎に従って地方巡業に出ている筈の梅玉、福助親子が珍しく別行動を取り夏場の浪花座に出演し我童、右團次、多見蔵とで共演を果たし

 

生写朝顔日記
葡萄の酒
心中刃は氷朔日
白蔵主
三人生酔 

 

上記の演目を上演しました。

 

演芸画報の記事

 

心中刃は氷朔日での珍しい我童、福助、多見蔵の組み合わせ

 

続く8月は夏恒例の怪談物月…の筈なのですが、道頓堀では全く歌舞伎公演が開かれず役者達の殆どは夏休みに入り僅かに延若と壽三郎が南座で、扇雀が神戸中央劇場で公演を開くのみに留まりました。

9月も鴈治郎は巡業で不在で再び梅玉、福助親子が座頭となって今度は延若、璃寛と浪花座で共演し

 

木曽川治水記
寿門松
勧善懲悪孝子誉
男作浪花の達引
 

と中々道頓堀では掛からない珍しい演目ばかりを上演し、夏枯れ月の道頓堀で奮闘していました。

10月に入ると5月以来となる鴈治郎一座の公演となり

 

青葉しぐれ
藤十郎の恋
忠臣蔵
伊勢音頭恋寝刃

 

を上演しました。当時新進気鋭の作家であった菊池寛の出来立てほやほやの新作を劇化した藤十郎の恋は当時坂田藤十郎の襲名を模索していた鴈治郎の迫真の演技もあり、大当たりし当初は20日間の予定だったのを急遽日延べして11月2日までの長丁場の公演となりこれを記念して藤十郎の恋は後に玩辞楼十二曲の最後の演目として入りました。

この好評な成績に満足したのか11月公演も引き続き鴈治郎一座での公演となり

 

玉櫛笥箱崎文庫
京屋の娘
引窓  
藤十郎の恋        
吉野山

 

と大当たりの藤十郎の恋を続演した以外はすべて演目を変えて上演しました。

そして年の瀬の12月は鴈治郎一座は南座の顔見世に出演し、道頓堀では恒例の延若早替わり奮闘公演として東京座で紹介した様に五段目の登場人物全員を延若が早替わりで務める他、由良之助、師直、平右衛門、戸無瀬、神主鈴太夫の計8役を演じる一人忠臣蔵を大序から九段目迄通しで上演し、討入の代わりに忠臣蔵の外伝物である新作柱ぎりを入れるという異色の演目になり右團次と璃寛が共演しました。

 

参考までに五役を演じた東京座の筋書 

 

 

延若の勘平、戸無瀬、由良之助

 

 
 

そして大正9年に入ると折に触れて演芸画報などで中座の様子は都度紹介してきた通りです。

 

中座の杮落し公演を紹介した演芸画報

 

そして演芸画報でも触れた通り2月に新築完成し2ヶ月に渡る杮落し公演を行い、浪花座に代わり道頓堀の主たる劇場に返り咲いた中座でしたが6月公演を最後に鴈治郎は3ヶ月に渡る巡業に出かけその間中座は延若や我童、雀右衛門、右團次、多見蔵などが代わる代わる公演を開いていました。

 

7月公演や中国地方を廻った鴈治郎の巡業の様子を紹介した演芸画報

 

9月公演や北陸地方を廻った鴈治郎の巡業の様子を紹介した演芸画報

 

そして9月末に大阪へ戻ってきた鴈治郎が休む間もなく3ヶ月ぶりに公演を開いたのが今回の公演に当たります。
 

主な配役一覧

 

今回は節目の10月公演とあって杮落し公演ほど豪華にはなりませんでしたがお馴染み鴈治郎一座に加えて雀右衛門、右團次、巌笑、多見蔵等が加わっての座組となりました。

余談ですが、大正8年の時点から筋書が一新されそれまでの大阪式から東京式に統一されました。

 

お馴染み巻末のコメントも登場

 

しかし、この東京式の筋書は何故か評判があまり良くなかったらしく大正13年から再び元の大阪式に戻る事になりました。

 

六波羅栄華物語

 
一番目の六波羅栄華物語は作家の篠山吟葉が書き下ろした新歌舞伎の演目です。
内容としては平氏政権末期の治承二年、鹿ケ谷の陰謀の直後を舞台に平清盛の寵愛を一身に受けていた女性の祇園の前が皮肉にも自身が推挙した白拍子佛の方に清盛の寵愛が写ってしまい、清盛から暇を貰い西八条の庵に比丘尼となり蟄居するも嫉妬深い佛は祇園の前を捕らえようと訪れますが、清盛の勘気を蒙り同じく出家していたかつての恋人である滝口政秀に止められ互いに平家の将来を暗示するかの様な台詞を伸べて別れるという至って平凡な作品になっています。
今回は祇王の前を福助、白拍子佛を雀右衛門、妹祇女を新升、江部の三郎吾を長三郎、平清盛を市蔵、源五郎信輝を蝦十郎、滝口政秀を魁車がそれぞれ務めています。
内容を見れば何となく分かりますが、福助、雀右衛門、魁車という若手3人と更にその下の世代の新升を同じ舞台に出す為に拵えた演目だけに特に中身に見応えがある訳でもなくただ衣装や舞台道具が豪華なのと気鋭の若手4人が舞台に揃うというのだけが見所になっています。
 
それだけに劇評も辛口で
 
かなり劇的な材料を網羅した芝居だがもう倦きられた「史劇物」畑から大した踏み出した物でなく、役々の出来も存外悪い
 
とのっけから酷評し、主役の福助と雀右衛門についても
 
福助の祇王には幾分期待があったが襖に歌を描いたり琴を襌じたり芸当を演じるだけで散文的にサラサラした冷かな祇王だった
 
雀右衛門の佛御前はお家騒動物の女が少し史劇式に物堅くなった位で舞台の物が悉く色を失ふほどの光と誇に乏しい
 
と2人とも華やかな平安時代の平家の女性らしさが演じきれていないと酷評されています。
 
福助の祇王の前、新升の妹祇女

 
また、立役の方も
 
市蔵の清盛はどう見ても一編の生臭坊主、一世の栄華を誇る入道一流の貫目も根強さも傲慢もない
 
魁車の政秀も平凡な失恋武士伝統的の科や言葉の外に魁車らしい今一歩立入ったない的なものが少しもでてゐない
 
とこちらも全然お話にもならない出来栄えで総崩れ状態だと厳しく糾弾されています。
鴈治郎はいざ知らず、福助や雀右衛門、魁車はあまり新作物には向いておらず、そんな彼らに無理矢理新作を演じさせた事が裏目に出て完全に空回りしていた形となりました。
 
余談ですが、この演目では辺見義治の侍女役でひっそり初舞台を踏んだのが高嶋屋の二代目右團次の弟子である市川鶴之丞という役者でした。この名跡だと誰だか分からないかと思われますが、この人物こそ戦前は宮戸座や寿座で活躍し、戦後はかたばみ座を経て成田屋に仕え、多賀之丞亡き後の菊五郎劇団で数々の花車役や老け役を担った三代目市川福之助に当たります。
 
筋書に掲載された鶴之丞の名前

 
年配の方は舞台の上で生で見かけた方もまだいるかと思いますが、こうした現代においても活躍していた役者達が徐々に初舞台を踏み始めるのが大正時代の特徴でもあり、名跡も我々が知るのとは違うだけに筋書を見ていても思わず見逃してしまいそうになる事もありますがこうした面白味や発見は何とも言えません。
 

義経千本桜

 
中幕の義経千本桜は昨年の歌舞伎座の筋書や国立劇場での菊之助の通しが記憶に新しい三大浄瑠璃の1つです。今回はその中からいがみの権太の見取演目として上演しました。
 
羽左衛門が演じた歌舞伎座の筋書 

 

鴈治郎が巡業先の名古屋末広座で釣瓶壽斗屋の外題で演じた時の筋書 

 

今回はいがみの権太を鴈治郎、お里を雀右衛門、下男弥助実は三位維盛を福助、若葉内侍を魁車、女房小仙を紫香、倅善太郎を雀の丸、梶原景時を巌笑、母およねを莚女、寿斗屋弥左衛門を梅玉がそれぞれ務めています。
さて、巡業では紹介したものの本公演では初めての紹介となるいがみの権太ですが、かつて歌舞伎座で権太を演じた延若は音屋型と三河屋型の折衷案で独自の型を作り上げましたが鴈治郎の方はというと劇評によれば
 
後で聞きますと鴈治郎はやっぱり菊五郎の指導を受けたとの事でした
 
と明治28年6月に五代目菊五郎が浪花座に来て演じた時に彼から直接教わったとの事で上方での権太の主流であるケレンを用いない純音羽屋型で演じていたそうです。
そして明治34年に中座で初演して明治42年に再演し、今回が11年ぶり3回目となる道頓堀での権太となった鴈治郎ですが
 
どうして非常に元気です。鮓桶を抱へての入りなどは、壮い者も及ばない精力に満ちて居ました。
 
何処へ出しても優等賞を貰ひ得る値打のある立派なものであると思ふ
 
と60代に入っても衰えぬ元気さで演じたそうです。ただ、今回は3回目とあってか細かい部分で彼の癖である写実ベースの改変が所々見られたらしく
 
・目を塗るのをお里の茶ではなく一つ葉を挿した花活の水にする
 
・断末魔の時に頼朝の着替え自分の腹の疵を蔽う
 
・同じく断末魔の時に子供の巾着を小道具に用いる
 
・合図の笛を自分ではなくお里に吹かせる
 
・自分の妻子を内侍と六代に化けさせて引き連れて来るとき足の先で顎をあげる時に涙を拭う場面を下の写真の様にしゃがんで自分はうつむき両手で2人の顎を持ち上げる
 
といった変更があったそうです。
 
工夫の1つを見せる鴈治郎のいがみの権太、雀の丸の倅善太郎、紫香の女房小仙

 
この改変について劇評では子供の巾着袋を用いる事に関してのみ言及し
 
巾着を利用した事は好い思ひ付きで、これは今度が始めてだらうと思ひます、物語りの終りに苦悶の手を伸べる、その手首に引きかかった巾着を取り上げて、息の絶える刹那に肉親の愛を感じるのですが、真に情もあり景もあって、見物の同情を引くに足ると思ひました
 
とその改変のお陰で実の子供を犠牲にしてまで守ろうとした彼の悲哀さが伝わるとして好意的に評価しています。
そんな様に洗練された音羽型を改変しても称賛を受けた鴈治郎に対して他の役者はというと劇評では維盛を演じた福助とお里を演じた雀右衛門について取り上げそれぞれ
 
福助の弥助は弥助の間、一寸セリフが重過ぎはしないかと思はれましたが、忽ち変る御姿以降は優れた出来でした
 
雀右衛門のお里は蓋し天下一品でせう、総ての処女(多少は男を知った役でも)に扮してあれだけの気持ちと姿とを出す役者は外に類が無かろうと思はれます。この優にも座布団を持ち出したりなどする新型がありましたが全体がお里になって居ました。
 
と配役としては正に適正とあって多少の粗は気にならないほど優秀な演技であったと評価しています。
特に雀右衛門のお里は歌舞伎座で演じた時はその愛嬌が東京の見物には受けず今一つな評価でしたが本場大阪では打って変わって絶賛に近い評価となっています。
 
また、弥左衛門を演じた梅玉、およねを演じた莚女も
 
梅玉の弥左衛門は彫琢璞に復った妙があります。
 
久しく真価をかくして居た莚女が媼さんで多少の成功を収めて居たのを祝福しておきませう。
 
と円熟しきった演技で鴈治郎をサポートしていた事を評価しています。
 
しかし、唯一若葉内侍を演じた魁車だけは
 
魁車の若葉内侍は悪い役を善く見せた技量を冴えを買って遣らなければなりません、この優はまづくない、役に由っては非常の成功を見ることがありますが、その巧さは融和力に欠けた巧さで、舞台全体からいふと、一向効果は上がりませんでしたけれど、近来は技巧の進歩と共に、融和力が出て来ました。
 
と役についてきちんと考え工夫を怠らない点は非常に評価されているものの、ややもすると欠点であるスタンドプレイが悪目立ちし鴈治郎を主役として周囲がそれを支える調和を破壊する恐れがあり、徐々に歩み寄ろうとしている部分は認めつつもまだその点が足りていないと厳しく指摘されました。
 

病鴉

 
同じく中幕の病鴉はドイツ語研究で知られる大野勇が丁東詞庵のペンネームで書き下ろした新作演目になります。
彼はこの演目の他に何作か歌舞伎の為に書いていますが今回の演目はかなり特殊で内容は芝舟という遊女を巡り八五郎と与兵衛が争うというものですが一幕物の上に最初から最後まで登場人物が僅か2人のみで展開し、八五郎が一度退場し血まみれになって再登場する事で与兵衛に恋して八五郎を拒んだ柴舟を殺したと暗に示し、それに対し自分に芝舟が心中してくれるか不安だった与兵衛が男の勝負に勝ったとして涙して悦び八五郎に斬られて幕を閉じるという歌舞伎にはまず見られない独特な演出と心理描写が主となった特徴的な演目でもありました。
今回は和泉屋与兵衛を福助、立花屋八五郎を魁車が務めています。
このかなり意欲的な演目に対して劇評はどう評価したかというと
 
福助と魁車二人切で女は出ず近々ニ三十分の一寸眼先の変った気の利いたもの
 
とこちらは一番目とは正反対に無駄を極限にまで削り取ったシンプルな構成が二人の世界観を上手く構成していると評価されました。
そして一番目の女形役ではやる気がないと言われた福助と表面的な演技に終始していると言われた魁車もここでは
 
福助の弱い与次郎(与兵衛)、魁車の強い八五郎いづれも上乗
 
と台詞劇に故に誤魔化しの利かない人物の演じ方を上手く出来たらしく一番目とは打って変わって好評でした。
どうしても我々現代の人間は2人を「女形」として見る癖が付いてしまっていますので魁車が立役、福助が女形という組み合わせがたまにあるものの、今回の様な2人とも立役でのぶつかり合いはとても新鮮に感じられます。
ただ、鴈治郎亡き後は魁車は鎖が解き放たれた犬の様に一座から独立しての行動が多くなり、福助と共演しても立役どうしでの共演はほぼ皆無になり今回の成功を次に活かす事が出来なかったのが残念でもあります。
 
福助の和泉屋与兵衛と魁車の立花屋八五郎

 
 

藤鞆絵

 
二番目の藤鞆絵は大森痴雪が鴈治郎の為に書き下ろした恒例の新作演目に当たります。
内容は大阪の両替商面屋の跡を巡って酒色に溺れる長男誠太郎と後妻時代の子供で実は親戚の山﨑三右衛門との間に生まれた子供で次男として届け出た喜三郎のお家騒動にお蝶という女性と喜三郎の恋模様を少し絡め、最後は兄に家督を継いでもらいたい喜三郎の思惑とは裏腹に実の子に家督を継がせたい三右衛門の陰謀で誠太郎を差し置いて後継者になってしまい、喜三郎は出生の秘密を知らないまま実の父親である三右衛門を殺害していしまうという悲劇となっています。
今回は面屋喜三郎を鴈治郎、お蝶を雀右衛門、仲居おきくを福助、芸妓来葉を魁車、手代新七を右團次、手代友七を新升、手代与七を紫香、丁稚清吉を政治郎、面屋誠太郎を市蔵、布屋重兵衛を蝦十郎、老僕又一を卯三郎、女中お香を巌笑、後家時代を莚女、幇間むら作を箱登羅、山﨑三右衛門を多見蔵がそれぞれ務めています。
さて、溢れんばかりの色気を醸しだす鴈治郎が珍しく恋に落ちたり、手を付けるといった真似をせず愚兄を引き立てる実直な好青年を演じたのがポイントでもある今回の新作ですが劇評には
 
継子と継兄への義理立てを縦に継子の意地くねを横に織合したもの(中略)新派畑らしい種で、この作者として不出来
 
とこれまで恋の湖、あかね染、お夏清十郎、藤十郎の恋といった鴈治郎に合った数々の新作を書いて来た彼の作品として見ると珍しく散漫な内容だったと不評でした。
理由の1つにはやはりお蝶を巡る兄弟の関係(お蝶は喜三郎に恋をしていて、誠太郎はお蝶に恋をしているという三角関係)で折角恋する少女を熱演できる役者である雀右衛門を配置しながらも喜三郎がお蝶をどう思っているのかが不明瞭であった事で描き切れていなかった事が悲劇の輪郭をぼやけた物にしてしまったようです。
 
その為、鴈治郎についても
 
余に行儀正しく余に怜悧しく又余に呑込顔
 
と純正なキャラ設定が却ってキャラを殺す事になり鴈治郎には合わないとここ最近では珍しく不評でした。
そして一番目で不釣り合いな平清盛を演じて酷評された市蔵が兄の誠太郎を演じましたがこちらも
 
市蔵の誠太郎はひねくれは好いが失恋の方にもモッとヒントが欲しく
 
とやはりお蝶への愛情表現に物足りない所があったと指摘されました。
 
鴈治郎の面屋喜三郎と雀右衛門のお蝶

 
一方お蝶を演じた雀右衛門については一転して
 
雀右のお蝶は蓮葉なお里と違って良家の娘らしく
 
とお里との演じ分けもきちんと出来ていると評価されており、余計にか立役陣の不調が目立つ形になりました。
前年に藤十郎の恋を大ヒットさせた痴雪でしたが、この辺あたりから次第にヒット作を書けなくなっており晩年の鴈治郎の活動に微妙な影響を与える事となります。
 

菊慈童

越後獅子

 
大切の菊慈童は新古演劇十種の1つ、越後獅子は長唄の舞踊演目です。
 
菊五郎が菊慈童を演じた市村座の筋書 

 

今回は越後獅子を長三郎と右團次、女太夫を新升と紫香、鹿島の事ぶれを政治郎がそれぞれ務めています。

ここでこれまで紹介しそびれていた中村紫香について軽く触れたいと思います。

紫香という名跡については馴染みが薄い方も多いと思いますが二代目中村霞仙と聴けばピンと来る方もいるかも知れません。彼は鴈治郎の第二の師と言える末広屋こと中村宗十郎家の後継者に当たります。

この経緯を大まかなに話すと宗十郎が明治22年に死去した時には明確な後継者はおらず、一門はバラバラになりました。しかし、未亡人は弟子の1人である中村翫童の才覚を見込んで彼を位牌養子にして宗十郎の本名藤井重兵衛と宗十郎の俳名である霞仙を名跡として名乗らせました。霞仙は未亡人の期待によく応え師匠が得意とした和事などの芸風を受継ぎ下記のリンク先でも書いたように封印切で忠兵衛を務めた事もあり第二の鴈治郎になり得る逸材として注目されていましたが突如病に倒れ明治36年8月21日、35歳の若さで亡くなりました。

 

実父初代霞仙が出演していた頃の中座の筋書

 

そして僅か10歳で父親に先立たれた息子の彼は父の死の翌年の明治37年5月、角座で中村紫香を名乗り初舞台を踏みました。しかし、宗十郎を尊敬し、父親とも共演していた鴈治郎は彼に対しては冷淡そのもので引き立てもせず、そんな梨園の孤児となった彼の面倒を見たのが義侠心に富んだ十一代目片岡仁左衛門でした。しかし、その仁左衛門も程なくして東京に拠点を移してしまった事から道頓堀にはいられなくなり、大阪でも二流の小屋である玉造座や堂島座、或いは京都明治座や京都歌舞伎座や神戸相生座、果ては東京の明治座や歌舞伎座等にも子役で出演するなど各地を巡業して辛酸を甞めること約10年、大正5年には一度役者業から足を洗い堅気になる事もあった苦しい経験を経てこの大正9年から役者に復帰し養祖父や実父と異なり若女形として漸く道頓堀にも出れる様になり今回の出演に繋がりました。

彼についてはまた時折紹介したいと思います。

さて、こちらの方はどうだったかというと大阪の見物の舞踊への興味の薄さもあってかやはりと言うべきかどの劇評にも言及は皆無でした。

 

蓋を開けてみれば一番目と二番目が不出来で中幕のみが高評価と明暗を分ける形になりましたが、気になる入りはというとこの時道頓堀の四座はそれぞれ

 

中座:鴈治郎一座

 

角座:源之助、紋三郎、團九郎等の御国座専属役者の出張公演

 

浪花座:新国劇公演

 

弁天座:新派公演

 

と大歌舞伎、小芝居、新国劇、新派と見事に色分けされており、互いの劇場の客入りには影響を及ぼさない様に絶妙に配置されていた事と大阪の見物も3ヶ月ぶりの鴈治郎に飢えていた事もあって中身の出来に反して無事大入りになりました。

以前紹介しましたが一時期東京からのゲストとの共演ばかりの座組がマンネリ化し見物に飽きられがちになっていた鴈治郎も松竹全面バックアップの新作上演とこの様な巧みなスケジュール配置により何とか人気を回復・維持する事が出来ていました。そしてその例に違わずこの大正9年は既に1、2、3、5、6月と中座の2ヶ月に渡る杮落し公演もあり既に5ヶ月も大阪で公演を打っていて今回の10月を加えると例年よりも1ヶ月多い6ヶ月になる事からこの年の大阪での公演はこれで最後になり、11月は恒例の新富座上京公演を行い、12月は南座の顔見世に出演する事になります。11月の新富座の筋書は生憎持っていませんが南座の筋書は所有していますのでまた紹介したいと思います。