今回は筋書が無くて紹介出来なかった大正8年7月の歌舞伎界の様子を久しぶりに紹介するこの雑誌で振り返ってみたいと思います。
演芸画報 大正8年8月号
ご存知の通り昨年休刊となった演劇雑誌「演劇界」の前身に当たる雑誌です。
参考までに前回紹介した演芸画報
まず東京の劇場からですが歌舞伎座では前年の失敗が響いたのかはたまた幹部役者の都合があった為か分かりませんが歌舞伎の公演は行わず約1年ぶりに新派の公演が開かれました。
河合武雄の春日井お花と伊井蓉峰の春日井博造
因みに成績の方はと言うと真夏とあって非常に苦戦したらしく僅か17日間で打ち切るなど新派を以てしても夏場の公演は苦戦した模様です。
そして歌舞伎座に準じる劇場である新富座では左團次一座に中車、傳九郎、権之助ら歌舞伎座の常連組を加えた座組で
鵺退治
木曽川治水記
義経腰越状
雨夜の曲
大山詣各區掛額
といった演目を上演しました。
左團次の金井景正と松蔦の靹絵太夫
中車の五斗兵衛
対して残る東京の三大劇場である帝国劇場と市村座はというとまず市村座は休場していて吉右衛門は巡業、菊五郎と三津五郎は横浜座に出演し歌舞伎座側から6月も共演していた段四郎と羽左衛門が出演し
忠臣いろは日記
芋堀長者
百音鳥雨夜簑笠
と中々東京では掛からない珍しい演目を上演していました。
菊五郎のお旅の清次
段四郎の斎藤太郎左衛門と三津五郎の寺岡平右衛門
そして残る帝国劇場はいつもの女優劇公演となり、5月に続いて守田勘彌が主となり宗之助、松助も残留して女優たちと共演しました。
新作兜の星影での松助の中山主膳と宗之助の難波田忠一
勘彌の忠兵衛、嘉久子の梅川
写真にもある様に梅川を女優に演じさせ勘彌が封印切の忠兵衛に挑戦するなどかなりの冒険チックな配役等もあり不入りに悩む歌舞伎座よりかは幾分成績も良かった様です。
一方で帝国劇場の幹部たちはと言うとこの月は揃って夏場の巡業に出掛けていて宇都宮に出来た大正座の杮落とし公演と神戸聚楽館での公演の様子が掲載されています。
幸四郎の梶浦兵馬、泰次郎の智月、梅幸の堀江妙海尼
幸四郎の鳥居進左衛門、宗十郎の黒手組助六
いつもながらですが帝国劇場では中々大役が付きにくい宗十郎も巡業となれば話は別で今回も助六役者である幸四郎を差し置いて向いているかは兎も角黒手組助六を堂々と演じています。
そして場所を東京から離れて関西方面に目を向けるとページの関係で本来なら前月号に載る筈だった6月の南座の公演の様子が掲載されています。
こちらでは以前紹介しましたが同月に東京で歌舞伎座と帝国劇場が摂州合邦辻を競演していましたが、何と南座でも摂州合邦辻を掛けていて福助が玉手御前を演じています。
参考までに歌舞伎座の筋書
同じく帝国劇場の筋書
福助の玉手御前、長三郎の俊徳丸、梅玉の合邦、魁車の若徒入平
残念ながらこの号には劇評が載ってはいませんが、同じ演目が東京と京都の3つの劇場で同時に行われているのは今では考えられない事です。
また、鴈治郎も鴈治郎で6月にはかつて歌舞伎座でも上演された大石良雄で大石内蔵助を演じているのですが、7月の山陰地方での巡業では今度は碁盤太平記で再び大石内蔵助を演じており、異なる演目で同じ役を演じるという珍しい様子が伺えます。
南座で大石良雄で大石内蔵助を演じる鴈治郎
南座が終わった直後の7月には鳥取で碁盤太平記の大石内蔵助を演じる鴈治郎
そしてそのまま7月の京阪神の公演の様子も掲載されているのですが、鴈治郎は上記の通り山陰地方への巡業に出かけましたが一方でいつもなら鴈治郎に常にべったり付き添う高砂屋親子は7月は珍しく鴈治郎とは別行動で大阪に残留し右團次、我童、多見蔵らと浪花座で共演しました。
珍しい福助、多見蔵、我童の組み合わせ
我童の深雪、福助の駒澤次郎左衛門、多見蔵の岩代多喜太
この様にグラビアページは大変充実していますが、文章ページの方はと言うとこの当時の編集部の意向なのか劇評が全くと言っていい程掲載されておらず折角写真で楽しめてもどの様な舞台であったのかが今一つ不鮮明となっています。
因みにこの号には動静が全く載っていない
・歌右衛門
・仁左衛門
の両名はそれぞれ伊香保へ湯治、大磯の別荘へ避暑に出掛けていました。
特に歌右衛門はこの頃伊香保温泉を大変に気に入っていて足が悪いにも関わらず当時まだ少なかった自動車を駆使して山の旅館を定宿として2ヶ月近くも滞在している事もありました。
嵐の前の静寂とはよく言いますが、この翌月に起こる市村座連の悲劇や2年後の歌舞伎座焼失と4年後の関東大震災、更に言えば翌年の反動恐慌により終焉を迎えた第一次世界大戦に端を発した大戦景気を含めこの大正8年7月は華やかな大正時代の文化面での絶頂期にあったと同時に歌舞伎界もまた絶頂期にありました。
そんな全盛期の様子を偲ぶ資料として見るとまた感慨深い物があります。