演芸画報 大正9年8月号 役者達の夏 | 栢莚の徒然なるままに

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今回はお馴染み演芸画報を紹介したいと思います。

演芸画報 大正9年8月号


いつもお馴染み演芸画報の8月号となります。

歌舞伎座の7月公演の筋書はこちら 


今回はまず東京の他の劇場の様子から写真を交えて紹介したいと思います。

勘彌の漁師岩五郎実は為基と宗之助の非人実は若狭五郎

 

まず帝国劇場は6月公演の筋書でも触れた様に幸四郎、梅幸が羽左衛門を引連れて中国・九州巡業に出かけ、宗十郎もまた一家を連れて巡業に出た為に女優と宗之助、松助、勘彌による夏の女優劇公演となりました。

満潮

東城銀行

酒の始

二の替り

椰子の蔭

雨夜の曲

女天下

演目はこの様になっており帝国劇場の女優劇公演としては珍しく一つも歌舞伎の古典演目がなくすべて現代劇の新作で構成されているのが特徴で帝国劇場の10年間の歴史の中でこの様な例は僅かに大正4年2月公演があるのみで非常に珍しく画期的な試みでもありました。これはやはり移籍してきた勘彌の影響に依る所が大きく、これまで幹部役者への忖度もあって必ず1つは古典演目を入れてきた女優劇公演も市村座時代は力関係で実演できず燻っていた現代劇の上演に熱心な彼が助演する事で気にする事なく取り組める様になり、10周年を迎えて買収した有楽座での公演も勘彌主導で様々な実験的取組を行うなど歌舞伎役者の面では評価されにくい彼の知られざる功績はこちらの方面ではかなり大きな物がありました。

 

そして帝国劇場を留守にして巡業に出かけた梅幸、羽左衛門、幸四郎の3組は神戸聚楽館での公演写真が掲載されていて出番待ちで大入袋を持って写真に写る羽左衛門やガラスの前で撮影に応じる梅幸など本来の演芸画報の写真とは少し趣を異にした新演芸寄りの写真もあるなどこちらも豊富に掲載されています。
補足すると演芸画報にはごっちゃに載せられていますが個人的な研究でこの時の演目を調べてあり、演目は以下の様になっていた様です。

源平布引滝
茨木
御存知鈴ヶ森
与話情浮世横櫛
鷺娘、土佐絵、多摩川

二の替りの演目

だんまり
鬼一方眼三略巻
土蜘蛛
十六夜清心
吹取妻

清心姿で椅子に座りカメラに収まる珍しい羽左衛門

 

梅幸の十六夜

 

幸四郎の一條大蔵卿と幸蔵の播磨廣盛

 

羽左衛門の実盛

 

幸四郎の渡辺綱と梅幸の茨木童子

 

夏は余り働かない羽左衛門と梅幸にしては珍しく8月まで九州巡業を行った後に避暑へと入りましたが、アイアンマン(笑)の幸四郎はそのまま7月公演を終えて東北巡業に出た左團次一座に合流して北海道巡業に帯同し9月末まで休む間もなく巡業に明け暮れる事になります。

一方で6月公演を終えた市村座は休場し、例によって菊五郎と吉右衛門の2組に分かれての恒例の夏巡業へと出かけました。
いつもなら双方の巡業エリアを放して組むのが常なのですが今回は何故か揃って東北地方の巡業となり

吉右衛門組…仙台、盛岡、宇都宮

菊五郎組…新潟、秋田

と日程も場所もほど近い所をそれぞれ巡業していました。

菊五郎のいがみの権太

 

菊五郎組のだんまり

 

因みに演芸画報には掲載されていませんが菊五郎組の巡業には面白いネタ話が1つあります。
それは秋田県に関する話で元々仙台以北は巡業でも行きたがらない事で知られる巡業嫌いの菊五郎が珍しく秋田まで来るという事もあり今回の巡業ではかなり強気の交渉で臨んだそうですがそれに対して現地側も今回の公演に箔をつけたいが為に契約で「秋田県と青森県における公演は大館のみにする」という一文を契約に盛り込んだらしく、菊五郎の番頭もそれを承知で青森県と秋田県では大館のみ公演のみとする旅程を組んだそうですがあろうことか横手市を岩手県だと勘違いして公演を入れてしまうという大ポカをやらかしてしまい、契約違反だと怒り狂った大館市の勧進元が違約金を払えと菊五郎の宿泊する旅館にまで押し寄せてしまい、非が自分側にある為に言い訳もできず難渋した菊五郎が仕方なしに直筆の詫び状を書く事で手打ちにしたという話がありました。もしこの時の直筆の詫び状が今でも大館市に現存して居れば貴重なお宝なので是非とも公開して欲しい物であります。

吉右衛門の武智光秀

 

三津五郎の吃又

 

一方で吉右衛門、三津五郎組には直接巡業には関係ないものの一つシリアスな話はあります。
それは市村座脱退に関する話し合いで三津五郎の養子である八代目三津五郎は「父 三津五郎」の中で
以下の様に書いています。

 

そんなこと(配役に関して六代目が口を出してそれに対して吉右衛門、三津五郎が不満を持っていた事)が、くすぶったまま、翌十年八月、たしか「坂崎出羽守」の上演の時かと思いますが、その当時、父は今戸八幡の前に家があり、波野さん(吉右衛門)は竹屋の渡しの傍に住んでいられたのですが、今戸の家へ波野さんが見えられて、いよいよ市村座脱退の決心をされて、父にも後から脱退する事を約束させて、兄弟の盃をいたしました。」(父 三津五郎より抜粋)

 

これに関して幾つか補足するとまず文中では幾つか時系列の混乱が見られ正確には以下の通りになります。

 

吉右衛門の市村座脱退…大正10年3月

坂崎出羽守初演…大正10年9月

三津五郎の市村座脱退…大正10年11月

その為、この話が大正10年8月の話だとすると吉右衛門の会話の辻褄が合わなくなる事からこの話は前年の大正9年8月前後頃の話であると推定されます。丁度8月は2人とも帝国劇場への引越公演の最中であり公演中はわざわざ自宅を訪れる必要もない事からこの話は公演前後に行われたと見られています。三津五郎以外の関係者が殆ど亡くなった戦後に出された吉右衛門自伝にも脱退については曖昧にしか書かれていない為、吉右衛門がいつ脱退を決心したのか直接な証拠はありませんが八代目三津五郎の記述を信じる限り半年以上前には決意を固め、時間差を設けて三津五郎も追従するなど用意周到に計画された物であった事が伺えます。
大正9年8月と言えば田村成義の体調が悪化していよいよ年内は持つまいと噂され始めた頃であり、相当な不満を持っていた2人も大田村の死が確実になってから脱退へ動いた事からも田村成義の権威と妨害を恐れていたのが分かります。
そしてこの謀議も突然降って湧いた話ではない事から今回の巡業においてもこれ幸いと2人の間で話が交わされていた事は十分に有り得る話であり、皮肉にも市村座の巡業体制が脱退に向けての計画作りの準備時間になってしまっていた事を菊五郎や市村座首脳部は知らず仕舞でした。

最後に松竹が中堅所の役者達を中心とした一座で東京は麻布に新たに劇場を建設し杮落し公演が行われたのもこの月でした。
劇場の名前は南座であり、京都の南座と区別する為にこちらは地名を入れて通称麻布南座と呼ばれています。
因みにこの劇場は以前紹介した小芝居の想い出によれば収容人数は僅か500人あまりと今で言うと三越劇場程度の小規模な劇場であり、麻布への本格進出というよりも元々あった麻布弥生座を手直ししただけの物であり、松竹は翌年に新たに麻布末広座を新築して南座は僅か3年で映画館にしてしまいました。

麻布南座



今回この麻布南座の杮落し公演に出演したのは

・市川松蔦

・市川壽美蔵

・市川莚升

・中村傳九郎

・中村芝鶴

・片岡市蔵

・市川八百蔵

・市川小太夫

・市川紅若

と左團次一座の中堅所と幹部役者の傳九郎と芝鶴、澤瀉屋兄弟、片市に紅若という顔触れでした。
顔触れから見ても分かる様に座頭は傳九郎であり、一番目の桔梗旗揚では光秀、神霊矢口渡では頓兵衛を務めました。
普通なら無茶な配役と思えますが、実は彼は明治30年代に得意役とした七代目團蔵と同座して彼の演技をよく見ていただけあって自身も持ち役にもしており光秀の他に仁木弾正や佐倉宗吾も演じていた程でした。
それだけになまじ市蔵や八百蔵、壽美蔵なんかよりは相性が良く劇評にも

明智光秀は故人團蔵の当り芸、その頃は年中一座して、飽きるほど見た型うつしとして、懸命な緊張した演出であった。

と一定の評価を受ける程でした。

莚升の森蘭丸と傳九郎の武知光秀



傳九郎の渡し守頓兵衛と壽美蔵の六蔵、松蔦のお舟

 

普段紹介する歌舞伎座などでは傳九郎は花車役が主で時折老け役も演じる事はあるものの基本は脇の役者ですが、源之助然り彼然り小芝居では座頭であった事から主役クラスの役でも平気で演じれる腕はありそういったレベルの役者が何気ない顔をして脇を固めるからこそ戦前の歌舞伎座の役者はのほほんと演じる余裕などは出来ない怖さがありました。
脇の話が出たついでに余談ですがこの公演で坂東家東を名乗って初舞台を踏んだのが当代玉三郎門下で長老格でもあった二代目坂東弥五郎であり、この辺りになると昭和はおろか平成まで活躍した役者達が初舞台を踏む時期に入ってきます。
そしてこの麻布南座は末広座と共に大正12年になると思わぬ形で一躍脚光を浴びる事になりますがそれはまた時期が来たら紹介したいと思います。

 

オマケで文字パートの劇評

 
そして目を大阪に向けると鴈治郎はいつも通り夏の巡業時期に入り7月は中国筋を回りその内姫路劇場の様子が掲載されています。
 
鴈治郎の半七

 
鉄板中の鉄板である心中天網島

 
そして道頓堀では唯一中座が歌舞伎公演で開き鴈治郎がいない初めての月となり5月以来となる我童が座頭、立女形に雀右衛門を迎えて出演しました。そしてこちらも帝国劇場と同じく
 
青嵐露夏菊
石堂丸
一切経由来
 
と中幕の舞踊以外は新作で固めるという斬新な内容になりました。
 
我童の籾負之助、雀右衛門のお菊、蝦十郎のスミット

 
雀右衛門と右團次は兎も角、我童はなまじ古典を演じるよりもこうした新作を演じると普段の冷たさもどこやらにきちんと役をこなせる利点があった事や鴈治郎向けの古典を改良しただけの名ばかり新作に比べてこちらはオリジナルティ溢れた粒揃いの新作ばかりとあって上手く普段の鴈治郎一座との差別化が図れたらしく入りの方は芳しくない7月にしては珍しく良かったそうです。
 
そして道頓堀ではもう1つ浪花座が澤田正二郎率いる新国劇公演となり、東京に負けじとこちらも井伊大老の死を上演しました。
歌舞伎座では前半の左團次が出る部分が好評だったのに対して剣劇で定評のある新国劇だけに後半の桜田門外の辺の場が良かったそうでこちらは話題性だけでも十分な上に剣劇の良さも相まって客枯れする道頓堀では中座の並んで好評な入りだったそうです。
 

そして文章パートでまずに目に入るのが夏真っ盛りとあって特集が組まれている幽霊芝居特集です。

偏に幽霊芝居といっても現代では東海道四谷怪談、真景累ヶ淵、清玄桜姫物、新作歌舞伎の部類に入る巷談宵宮雨が季節感無視で上演される程度ですが、戦前は以前も紹介した五十三駅扇宿附や怪談乳房榎、次の演芸画報で画像で紹介する怪談敷島物語など数多くの怪談物が上演され特に道頓堀では必ず夏の7~8月には幽霊芝居が上演されるなど今よりもずっと上演頻度が高い演目でした。

 

参考までに東海道四谷怪談が上演された帝国劇場の筋書 

 

同じく五十三駅扇宿附が上演された市村座の筋書 

 

怪談乳房榎が上演された中座の番付 

 

また当時東西の歌舞伎界には六代目尾上梅幸、二代目市川右團次という幽霊芝居をやらせたら右に出る者はいない役者がいた他、實川延若や市村羽左衛門なども時たま手掛けていた事から芸談もきちんと残っており今回は西の右團次にインタビューした記事が掲載されています。

 

右團次の芸談

 
文中では「阿呆らしい、親父がよくやったと云ふだけだす。」謙遜しつつも
 
幽霊と云ふ奴は誰も見た事がないのだすさかい果たして什うすればよいのやらちょっと問題だすな。歩行(あるき)やうも大股で歩行(あるい)てば足があるやうに見えますし、さりとてチョコチョコ歩行くと化物のやうに見えます。丸でつられて居るやうに波のかたちを描いてスーッと歩行くやうにせねばなりません。
 
「キキキキキキキキ」と笑ふのも却々口伝物だす、マアマア幽霊は踊のかたちで行かず、お芝居ではいかず、「幽霊スタイル」と言ふのが別にあるやうだすな。
 
幽霊には表情が一番肝心だす。お岩のやうにいろいろに手をこめて凄がらせるより、これからは自分のその儘の顔でこの表情だけで凄く凄く見せねば嘘だすな。
 
と幽霊芝居のコツをきちんと述べており、確かな技術に裏打ちされた高度な芝居演目だというのを教えてくれています。
 
 
そして竹柴其水は幽霊芝居に関する思い出について触れていて江戸時代末期の慶応3年にまだ家橘を名乗っていた五代目菊五郎が新累女千種花嫁を、明治5年に東海道四谷怪談をそれぞれ出した際に
 
花道へ水を張って是を川に見立て、附際の所が土手で、ここへ累の土左衛門が流れてくるといふ凄い所です。
 
と幽霊物でも花道に水を張って土手に見立てる創意工夫を忘れない菊五郎の努力を触れたかと思えば何かと祟りがある恐れられている四谷怪談の稽古を夜遅くに蝋燭だけでやっていた所天井に置いてあったお櫃くらいの石が腐った木材が折れた事で舞台上に落下し迫真の稽古をしていた菊五郎が思わず腰を抜かすほど驚いたという幽霊芝居に付き物の怖い話を書いています。
 
稽古で腰を抜かしかけた時の初演の菊五郎のお岩
 
 
そして田之助の敷島に関しては体付き、ほっそりした顔立ちに加えて既に右足を切断していた事もあり、「幽霊なんぞは凄味があって善うござんした」と否が応でも幽霊味たっぷりで評判が良いなのに
 
田之助の敷島が仏壇から現はれる所が凄うござんした。何しろ片足無い人が、いろいろ工夫して清元をつかって、兎に角口説模様を見せるんですから驚きます。それから洲崎の土手の葛籠ヌケは前にお話ししましたが、足の無い人が幽霊とお玉の早替りを鮮やかにやったんだから評判でした。左團次の源四郎が葛籠の蓋を開けると、髪を振り乱した敷島がスーッと出るところは、凄いもんでしたよ。
 
こちらは片足が無いのに葛籠ヌケに早替わりととんでもない工夫で見物を驚かせた田之助の幽霊物での意外な腕前を語っています。
 
田之助の敷島の番付絵
 
一方で劇評パートも今回は珍しく充実していて井伊大老の死は各場面を挿絵で紹介する豪華な物でした。
 
江戸城廊下の場
 
よくやる井伊大老とは異なる井伊家書院の場
 
桜田門外の場
 
劇評の内容については歌舞伎座の記事を見ていただければと思いますが、スキャンダル性云々を抜きにしてもこの時期の左團次は先進性には目を見張る物があり、これまでも修善寺物語や頼豪阿闍梨、佐々木高綱の様に古典とは異なる歴史上の事件を史実を元に再構築した短編演目は幾つか手掛けていましたがこの頃からこの長編演目を手掛ける傾向は良い意味で強まって行き、この後の真山青果とタッグを組んだ元禄忠臣蔵や江戸城総攻の様な昭和時代の取り組みにも影響を及ぼす事になります。
そして幽霊芝居特集の次にページを多く割かれているのが夏と言えば巡業や避暑という事で役者の夏の思い出話が組まれています。こちらは東西、所属、年齢を問わず総勢30名にインタビューしており歌右衛門の様に避暑先での趣味の満喫といったエピソードもありますが大半が巡業先での思い出話となっています。
 
ビリヤードについて語りつくす歌右衛門の話
 
九州の飯は美味く東北の飯は大味でマズイとしれっと書いている幸四郎の話
 
大正2年の台湾での珍道中を語る羽左衛門の話
 
Xで前に書いた摂州合邦辻が見物のせいで消火器が誤作動し芝居が滅茶苦茶になってしまった事を書いてる高砂屋福助の話
 
滑川の砂浜の上にあった芝居小屋の話を書く宗十郎の話
 
巡業のポリシーや旅先で甘いモノを食べるのが楽しみという鴈治郎の話
 
化粧用の紅にリスリン(グリセリン)を入れられてしまい化粧が乾かずに舞台に出て怒る気も失せた梅玉の話
 
旅先で偽物とニアミスした壽美蔵の話
 
この様に一部を取り上げるだけでも笑い転げそうな話ばかり載っており、幽霊芝居特集とこれだけで購入費用の元は取れたと思える程面白いです。
 
今では巡業に出る役者も少なくこうした話のネタも無い為にこうした特集も組めないどころか掲載する媒体すらないのが現状です。そういう意味でも懐古主義ではありませんが誰かこうした特集だけを集めて本にでもしたら歌舞伎への面白みや理解の一助になるのではないかなと見てて思った次第です。
演芸画報は10月号も持っていますのでまた紹介したいと思います。