今回は新富座の筋書で少し触れましたが帝国劇場の筋書を紹介したいと思います。
大正7年6月 帝国劇場
演目:
冒頭にも述べましたがこの時帝国劇場では松竹との相互出演協定に基づいて市川八百蔵が初めて帝国劇場に出演しました。本来であれば帝国劇場にだけ出演する筈だったのですが同月新富座で勃発した仁左衛門降板事件を受けた事で急遽掛け持ち出演となった事は既に触れた通りです。また今回は市村座からも唯一彦三郎が出演をしています。余談ですが彦三郎もこの年の12月公演を最後に市村座を脱退して小芝居の演技座へ行くのですが、この6月から通例の引越公演を含めて3ヶ月連続で帝国劇場に出演していて明らかに市村座の他の連中とは別行動を取っており、市村座脱退後も帝国劇場での市村座の引越公演に何食わぬ顔をして加わったりそれ以外にも定期的に出演するなど勘彌と同様に帝国劇場の専属俳優を模索していた節が見受けられますが山本専務直々の推薦で専属契約を結んだ勘彌とは異なり彦三郎は羽左衛門を歌舞伎座から借りれば十分と眼鏡に適わなかったのか大正9年に初代又五郎亡き後の公園劇場の専属となります。
同月の新富座の筋書
話を元に戻すと仁左衛門の事件の為にいつもなら午後3時開演の帝国劇場なのですが今回加入した八百蔵が午後1時開演の新富座の序幕だけ出る事に関係でいつもより1時間ほど開演を遅らせて午後4時から始めて新作の栗山大膳と形見草四谷怪談に出演する事になりました。
その為、いつもなら午後11時過ぎには終わるはずの公演のお尻が伸びてしまい最後の勢肌祭揃衣を終えた時には日付を跨いでしまったそうです。
まず黒田騒動の概要について話すと福岡藩二代目藩主黒田忠之と側近の倉八正俊を家老の栗山利章が「謀反の気あり」と徳川幕府に訴えた事で端に発し、徳川家光の裁可の結果、謀反の気はなしとされ栗山と倉八がそれぞれ追放され家のお取り潰しを免れたという話になります。江戸時代にこの話はお家騒動物として格好のネタですぐ様歌舞伎のネタにされしらぬひ譚を始め多くの演目が作られました。
歌舞伎では概ね栗山利章(演目では栗山大膳)を奸臣と暗愚な主君による暴政による改易を食い止めようと立ち上がるお家の忠臣として描き、倉八正俊(演目では倉八重太夫)は暗愚な主君の寵愛を買い藩政を牛耳り、領民を困らす悪人といかにもテンプレ的な描き方で描かれています。
4月公演の彦左衛門武蔵鐙の時も出演する役者に均等に出番を振り分ける為に加筆した右田ですが今回も宗十郎や梅幸の出番を作ろうと従来の歌舞伎演目から主要部分を取った上で冒頭に史実でも謀反の理由の一つとなった幕府に無許可に造営した軍船の鳳凰丸(演目内では乾神丸)の為に村の神木を切り倒そうとする重太夫が反対する村民を黙らせようと巫女の小梅が好意を抱いている毛谷主水を差し向け色仕掛けで小梅をまんまと騙し神木を切り倒しますが姉の松枝が事の次第を知り妹を斬首し事の次第を栗山大膳に知らせようとするも彼女もまた重太夫に殺されてしまうという一件を盛り込んでいます。
今回は栗山大膳を八百蔵、倉橋重太夫を幸四郎、小梅の姉松枝と黒田忠之を梅幸、妾お秀の方と毛谷主水を宗十郎、巫女小梅と奥方梅の方を宗之助、箕浦左膳を彦三郎、吉鷹大和を松助がそれぞれ務めています。
劇評ではまず宗十郎と梅幸の為に新たに付け加えた序幕と二幕目について
「序幕の作事小屋は唯だその筋を売るだけです。そして筋の売り方が、今の観客に納得される様、総て理詰になり過ぎてゐる為、お秀の方は巧慧な女、重太夫は策士の腕利といふだけで、悪人ー謀反人といふ事が、如何にも無理強の様に思はれます。」
「二幕目明神社頭へ巫女と問答の為め、宗十郎は毛谷主水で現はれます。ここの問答が又理詰で、今の観客の頭には、迷信を斥ける主水の言分の方が、何うしても合理的に響きます。」
と迷信を信じる余り神木を切る事に反対する村民と重太夫側とのやり取りを現代の人である右田が書いたが為にどうしても現代風の合理的な考えになりがちで本来であれば明確な謀反の意図があって造船するという話しが単に牢固頑迷な村民を知恵が回る武士が上手く騙したかの様にしか見えずお家騒動物の雰囲気が欠けている言わば蛇足だと批判されています。
この様に内容そのものが足を引っ張ったのか役者の演技についても
「梅幸の姉松枝は、伯父の自害を介抱から、妹に邂逅(めぐりあっ)ての折檻、激しい立廻りの後、トド重太夫に斬れる迄、拵へた役だけれど身分の立つだけには出来てゐた。」
「宗之助の小梅は役柄も演る事も現代的でした、恋に盲となった浅墓な女はなまじっか悔悟などせずに、その儘姉の手に蒐った方が、寧そ徹底的で好かったかも知れません」
「幸四郎の重太夫は、立派な立敵に見えましたが余計な口など利(きか)ずに、無言の儘ヌッと一太刀浴せる事にしたら、もっと凄味が加わったらうと思ひます。」
と何処か歯切れの悪い評価となっています。
しかしながら、八百蔵演じる栗山大膳が出て来る三幕目以降になると持ち直したらしく、まず八百蔵は
「近習に支へられながら揚幕を出た處は、幅に乏しいこの人の恰幅でチト淋しく見えたけれど、諫言になってからは、言語明晰底力のある白廻しに熱情が籠って、遉がに一座を厚するの概があった。諫言を終って、更めて殿の前に一礼して、上席を薦める物腰にも、ホロリとさせる真情が見えた」
「「四谷怪談」のお岩にいたっては豊志賀の数倍も怖かった。ある時、帝劇の楽屋へそば屋の出前がきて、伯父の(亡霊姿の)お岩の姿を見て気絶したほどである。役者同士でさえこわかったのだから、素人のそば屋が気絶するのは当然だ。それ以来、伯父はお岩をやる時、化粧したあとはベールをかぶって人に見せないようにしていた。」(七代目尾上梅幸、梅と菊)
晩年に脳卒中で倒れた後の昭和5年に収録された梅幸の声(梅幸の声は1:20から)
梅幸の悪声はかなり有名でありましたが、晩年に脳卒中で倒れた後の声と比べるとまだこの頃はそこまで悪くはない様に聞こえますがお岩の陰惨さが上手く表現しきれなかったようです。
梅幸のお岩と松助の宅悦
この様に台詞廻しを除いては文句のつけようの無い好評な梅幸のお岩でしたが実はもう1人これぞ当たり役という役者がいました。それが宅悦を演じている松助です。彼は明治15年に五代目菊五郎の形見草四谷怪談で宅悦を初演して以来今回が通算5回目の宅悦でした。
彼は以前に演芸画報の取材でこの役の性根について
「ただ金を貰つて頼まれてお岩様を口説き、姦通といふのを廉に伊右衛門がお岩様を放逐さうといふ狂言のタマにつかはれるのでございますから、別段非常な悪人と申すほどの者でもございません。然うかといつて、金ヅクでそんなことをたのまれて為やうといふ位の奴でございますから決して善人ではないので、いはば欲張つた、図々しい不正直な男なのでございませう(中略)頼まれてお岩様を口説くのは口説いたが、もともと尻ッ腰のない奴ですから、斬るといはれて驚き、いくぢなくたくみを白状して了ふという極チヤチなのでございます」(演芸画報、大正3年8月号)
と述べていて劇評と同じく宅悦の役の性根は同じ南北の「桜姫東文章」の残月、あるいは黙阿弥物辺りに出てきそうな強欲ながら小心者の小悪党の様な部分だとしています。因みに松助はこの後高齢(当時75歳)とあって今回を最後に宅悦を演じておらず言わば一世一代の演技でした。
さて、劇評ではどうだったかと言うと
「松助の宅悦は無論結構でした。長丁場を締め弛めつダレさせない為に用ひられた種々の舞台技巧をよく、活し、よく引立てて、骨身を惜しまず働いて呉たのが、殊に嬉しかったと思ひます、一幕で二時間余といへば、大抵飽々する観客に、些とも長いと思はせなかった手柄の一半は、この人に譲らなければなりません。」
と5回に渡り演じ続けて来た技芸を惜しみなく披露した甲斐もあり、劇評も手放しで絶賛する程の出来栄えで無事に一世一代の花道を飾れたそうです。
この2人に加えて物語のカギを握る伊右衛門を演じた幸四郎も
「幸四郎の伊右衛門は悪党振の加わって来た處が立派でした」
と好評でした。この様に主役3名の素晴らしい演技振りもあってか、この公演最大の当たり演目となりました。
この様に中幕は不評だったものの、それ以外は多少の問題はあったものの、一番目は八百蔵加入の効果もあり当たり、殊に二番目の四谷怪談も優れたていた事もあり無事大入りとなったそうです。この後、八百蔵は羽左衛門、仁左衛門、左團次程ではないにせよ帝国劇場との相性が合ったのか1回づつしか出演しなかった同年代の歌右衛門、段四郎に対して彼は大正10年まで毎年12月に1回づつ出演する様になりました。
仁左衛門が原因で思わぬトラブルはあったものの、無事に掛け持ちをこなし実りある出演となりました。