演芸画報 大正9年10月号 横浜劇場の杮落し | 栢莚の徒然なるままに

栢莚の徒然なるままに

戦前の歌舞伎の筋書収集家。
所有する戦前の歌舞伎の筋書を週に1回のペースで紹介しています。
他にも歌舞伎関連の本の紹介及び自分の同人サークル立華屋の宣伝も書きます。
※ブログ内の画像は無断転載禁止です。
使用する場合はコメント欄やtwitterにご一報ください。

今回は再び演芸画報を紹介したいと思います。
 

演芸画報 大正9年10月号

 

8月号はこちら 

 

8月号に続き演芸画報の10月号となります。
残念ながらこの月の公演の筋書は1冊も持っていない為に、この月の様子も踏まえて順番に解説したいと思います。
まず、歌舞伎座ですが本来なら9月公演を開いてもおかしくはないものの、8月の曾我廼家に続いて新派に貸しての公演となりました。

喜多村緑郎の大舘妻豊子と伊井蓉蜂の謙吾

 

そして座付き役者達は何をしていたかと言うと、歌右衛門、羽左衛門、中車、傳九郎は帝国劇場の幸蔵を加えてお隣の神奈川県横浜市に作られた横浜劇場の杮落し公演に出演していました。

以前に横浜の劇場について説明した筋書はこちら 

 

リンク先にある横浜座は7月に杮落し公演を行った麻布南座と同じく既存の劇場を手直しした劇場に過ぎず、松竹側は横浜における新たな拠点として建築したのが横浜劇場でした。
立地も旧来の盛り場である曙町にあった横浜座に対して横浜劇場は当時開発が進んでいた新興の遊興地であった花咲町11-94(横浜ブルーライン高島町駅付近)に建てられており横浜駅からもほど近くこの当時松竹が推し進めたいた劇場の多店舗展開計画の目玉として位置づけられており、出演する役者の豪華さからもそれが裏付けられます。

横浜劇場

 

大体この辺

 

歌右衛門の千代姫実は女房おさよ

 

同じく都歌舞伎に出演した羽左衛門、中車、竹松、市蔵ら

 

御所桜堀川夜討での羽左衛門の弁慶、秀調のおさわ

 

この後横浜劇場は大正12年まで年に1回は歌右衛門、羽左衛門等の大幹部が訪れる横浜の旗艦劇場となりましたが関東大震災による火災で焼失し、同時に幕末から大正時代まで栄華を誇った横浜の繁華街の変貌もあり再建される事無く終わり、小芝居の劇場である横浜歌舞伎座を残して松竹は横浜の演劇関係から撤退する事になります。

 

一方で帝国劇場も8月号で触れた通り、梅幸が珍しく8月まで巡業をしていて9月を休養に充てた関係や幸四郎が左團次と北海道巡業に出ていた関係もあり、こちらも再び勘彌、松助と専属女優たちそしてゲストで加入した彦三郎による女優劇公演となり

 

西行と静

薔薇の答

明暗録

 

と7月公演に続き完全新作のみ作品で固めました。

 

勘彌の西行法師、房子の磯の禅師、浪子の静御前

 

そして、二の替りを開かない代わりに帝国劇場の傘下に入った有楽座では女優劇公演の前に同じ面子での短期公演が開かれました。

 

勘彌の蛇、美彌子の漆間の娘

 

一方で田村成義の病が重くなり菊吉の関係に不穏な空気が漂う市村座はそんな暗い先行きを払拭するかの様に秋の本公演を開き
 
種瓢真書太閤記
賤機帯
傾城三度笠
 
を上演しました。
 
菊五郎の織田信長、吉右衛門の木下藤吉郎
 
菊五郎の沖太夫、男女蔵の清之丞、三津五郎の狂女

 
この公演の特筆すべき点としては初期に市村座に在籍していた五代目岩井粂三郎が久々に出演を果たした事でした。

 

粂三郎が出演していた頃の筋書 

 

鉛毒からくる病と生来の病弱な体質もあって市村座のスケジュールについて行けずに脱退した彼でしたがこの頃の彼は小芝居等で修行を積み芸格は兎も角、場数は踏んでいたので米升がいるにも関わらず深刻な女形不足であった市村座では即戦力として登用されました。

歌舞伎界の保守本流を歩んできた六代目菊五郎が小芝居の役者が嫌いであったのは多賀之丞の供述からも裏付けられていますがいくら旧知の仲とはいえ、小芝居にいた粂三郎を引っ張らなくてはならない程に市村座の女形の人材難は深刻でした。
ただ、粂三郎の病弱は決して治った訳ではなくこの後も市村座の買収まで継続して在籍はしましたが休場する事もままあった為、問題の抜本的解決には至らず他ならぬ多賀之丞が起用されたのも粂三郎に代わる即戦力という点が大きく影響していました。
 
菊五郎の作兵衛、粂三郎の槌屋梅川、米升のおとら
 
そして田村の病状は刻一刻と悪化の一途を辿り、11月公演の差配をしたのを最後の仕事に亡くなり何とか市村座を繋ぎ止めてきた最後の楔が抜け落ちる事になります。
 

そして大阪に目を向けると鴈治郎が7月から行っている巡業が3ヶ月に突入し、9月は岐阜、金沢と北陸方面を巡業していました。

 

あかね染の半七を演じる鴈治郎

 

そして道頓堀では中座のみが歌舞伎公演となり、巡業から戻った延若が座頭となり7月に引き続き我童が出演した他に帝国劇場から宗之助を借りての座組となりました。

 

額小三を演じる宗之助

 
新作生命での我童のお澄と四代目片岡愛之助の子守お市

 
 

ページ数の都合上9月号に掲載出来なかった浪花座の8月公演での延若の傾城敷島

 
この様に晴れやかな舞台写真がある一方で暗い影を落とすニュースもあり文章パートで触れられているのが五代目嵐璃寛の突然の死でした。
 
璃寛の追悼ページ
 
彼についてはこちらもご覧下さい 

 

写真にもある通り彼は7月の中座には元気な姿で出演していましたが、これが最後の舞台となり8月を休み、9月公演から出演を予定した所で病に倒れ僅か1週間の闘病生活を経て9月11日に51歳の若さで亡くなりました。
リンク先でも書いた通り生来の気の弱さが災いしその資質を活かす機会も時間も満足に無いまま亡くなってしまった彼ですが、彼に限らず似た様な境遇にいた多見蔵もまたあまり健康状態が優れず、この2人に加えて早世してしまった初代霞仙や六代目吉三郎といった鴈治郎と延魁梅の間の世代の後継者がないままの早すぎる死は上方歌舞伎の衰退に於てあまり目立たず触れられる機会は少ないものの衰運気味であった名門葉村屋の没落を決定づけてしまった事や上方特有の芸の継承の観点から見ると実はボディーブローの様に効いていたのが分かります。
 
最後の舞台となった7月の中座の石堂丸で刈萱を演じる璃寛(右)
 
さて、話を戻すと8月号は幽霊芝居と役者の夏の思い出話が特集で組まれましたが今回の文章パートの主題は古今東西の女形についてという事で大々的に特集が組まれています。
 
大正9年という時代背景もあり、まだ辛うじて田之助、三津五郎、半四郎、門之助(五代目)といった江戸末期〜明治初期に活躍した女形役者を生で見たを始めとする層が高齢ながら存命しており、彼らの生の体験談は貴重なのは言うに及ばず、我々から見れば伝説の部類に属する歌右衛門、梅幸、慶ちゃん福助、高砂屋福助、魁車、宗之助、菊次郎といった役者たちもまだ多くが現役バリバリとあって後世の遠藤為春辺りの変な色眼鏡による偏見が入っていない彼らの評価は非常に見応えがあります。
特に私生活でも女性そのままの生活をしていた半四郎の逸話は有名ですが、それとは反対に田之助や六代目三津五郎は男丸出しで舞台の宣伝も兼ねて取り巻きを連れて大はしゃぎするなど全く正反対の私生活であったと記しています。田之助が奔放であったのも割かし知られていますがあまり逸話の少ない六代目三津五郎の情報は貴重でこういった後世には伝わりにくい情報が載っているのがこの特集の第一のポイントでもあります。
 
明治初期の女形役者達
 
そして現代の女形役者に話が行くとまず東京では歌右衛門と梅幸という2人の女形がそれぞれ歌舞伎座と帝国劇場の座頭を務めていた事もあって珍しく女形がトップを占めていた時期という事もあって東京の女形特集では歌右衛門、梅幸、松蔦、成駒屋福助が写真入りでフォーカスされており東京の女形役者における当時の立ち位置、特に成駒屋福助が若手のジャンルではなく立派な若女形として数の内に入っているのが分かるのが興味深くあります。
 
東京の主たる女形役者
 
続いて特集では若手や小芝居で活躍する女形役者にもページを割いて触れており、別格であった源之助を除いて当時宮戸座等で活躍していた中村歌門や市村座に出ている岩井粂三郎についても言及されています。因みに中村歌門は前進座の創設者の一人中村翫右衛門の実兄であり前に紹介した小芝居の想い出には
 
歌門は、ほとんど女形専門であった。いろいろの役をやったが、よく師匠歌右衛門のやり方を覚えていた。(中略)昔から薬の中毒で悩んでいたが、昭和の仲助になってから、明治座で猿翁が「大地」を上演したとき、中国の阿片中毒の婦人をやったのは真に迫った。」(小芝居の想い出)
 
と記されていて 女形としては優れた技芸を持っていたものの、鉛毒の治療を端に発したモルヒネ中毒であったらしく芸が伸び悩み昭和に入り弟が松竹を去ったした後に大歌舞伎に戻り三代目中村仲助を襲名しましたが昭和16年に52歳の若さで亡くなりました。
 
小芝居や若手の女形役者
 
晩年の中村歌門

 
 
因みに右下の市川吉三郎は中車の弟子で明治43年6月に襲名して中車の弟子の中ではいち早く名題に上がった人でした。しかし、そこからは今一つパッとせず、役者芸風記には
 
自分が見た限りでは未だ此うと取り立てていふ程の役をしたこともなければ、従って腕をみせたこともないないやうだ。(中略)まァ四五人並んで出る若い女形ばかりやってゐる。と謂って歌門のやうに小芝居で売込むでゐるといふでもないから格別人気もなければ舞台に出て目立つといふこともない。」(役者芸風記)
 
と辛辣に書かれる始末でした。結局彼も大成はせず、昭和7年10月に師匠に先立ち53歳の若さで亡くなりました。
こうして見て見ると若手4人の中で何とか一人前になり名を残せたのは二代目中村芝鶴のみであり、栄枯盛衰が激しいとは言え世辞辛い物があります。
 
そして上方の女形については福助、魁車、雀右衛門、我童の4人がリストアップされています。
この内、魁車と我童は立役も兼ねる役者ですが女形役者にカテゴライズされており、東京に比べると意外と純然たる女形役者が少ないのが分かります。
 
上方の主たる女形役者

 
東京の福助の事を考えればここは本来2人に代わりこの頃右團次や我童の相手役を務めていた嵐吉三郎や若手として売り出していた扇雀の扇雀の相手役を演じていた中村太郎(二代目中村成太郎)、あるいは中村紫香(二代目中村霞仙)などを入れてもおかしくは無いのですがそうにはならない辺りが当時の上方女形の構造的な歪みが見て取れます。
結果論とは言え、こちらもこの4人の内雀右衛門がいち早く昭和2年に急逝し、魁車が昭和20年、我童が21年に相次いで亡くなり福助のみが残る形となりました。特に4人の中で1人だけ明治15年生まれ(残る3人は全員明治8年生まれ)の我童が後10年は働けそうな矢先に不慮の死を遂げたのは後継者育成の面で大きな損失になりました。
そしてこの4人の後継者を見て見ると一番最後まで存命した福助の養子である五代目福助は立役と親の芸風を受け継がず、実子の政治郎も戦後の上方歌舞伎に失望して廃業してしまい芸統は早くに絶えた他、雀右衛門の実子の章景は戦前に戦死してしまい、彼の芸統もまた早くに絶え、魁車の養子の成太郎と我童の養子である十三代目我童のみ残りましたが、成太郎は戦後の混乱もあり女形というよりは花車役への起用ばかりとなり大成出来ず、純然たる女形の後継者は十三代目我童ただ1人だけになってしまったのはあまり語られていませんが上方歌舞伎衰退の過程において大きなポイントの1つと言えます。
因みに東京の女形4人の内、梅幸の子孫は皆早死にして芸統は絶えてしまいましたが、松蔦の家系は一応は存続し当代の門之助も女形を演じるなど芸統は受け継ぎませんでしたが辛うじて家は存続している他、歌右衛門も福助には先立たれたものの養子である六代目歌右衛門や福助の実子である七代目芝翫がいた事により不完全でありながらも芸統が残った事は大阪との大きな違いと言えます。
 
最期は少し暗い話となりましたが、今歌舞伎に興味のある人の中で米吉や梅枝、あるいは莟玉といった女形役者に興味のある方には蘊蓄を含めかなり楽しめる本ではありますので県立図書館辺りで復刻版を手に取って読まれると面白いかと思います。
 
そして演芸画報は引き続き11月号も持っているのでまた紹介したいと思います。