大正9年10月 新富座 今様薩摩歌の初演と猿之助の春秋座 | 栢莚の徒然なるままに

栢莚の徒然なるままに

戦前の歌舞伎の筋書収集家。
所有する戦前の歌舞伎の筋書を週に1回のペースで紹介しています。
他にも歌舞伎関連の本の紹介及び自分の同人サークル立華屋の宣伝も書きます。
※ブログ内の画像は無断転載禁止です。
使用する場合はコメント欄やtwitterにご一報ください。

今回は久しぶりに新富座の筋書を紹介したいと思います。
 
大正9年10月 新富座

 
 
約1年ぶりとなる新富座の筋書紹介となります。
 
前回紹介した大正7年12月公演の筋書 

 

本編に入る前にこれまで演芸画報や新演芸等の紹介の際に時折紹介してはいましたが改めてポッカリ空いた大正8年の概要だけ触れたいと思います。
 
大正8年に入っても新富座はそれまでの歌舞伎座の控え櫓兼鴈治郎の東京公演の常打ちの劇場としての役割が少し変わり3月は恒例の鴈治郎一座の上京公演になりましたが、それ以外の月で歌舞伎の公演を打ったのは7月と紹介した12月のみで後は曾我廼家劇や新派公演を打っていました。これはそれまで年間を通して新富座を使用してきた左團次一門が前年に松竹が買収した明治座へと廻った為でした。
そして大正9年間に入ると流石に明治座とのバランスが少し改善され
 
1月:新派公演
2月:曾我廼家劇
3月:歌舞伎公演(左團次、幸四郎、段四郎)
4月:新派公演
5月:歌舞伎公演(左團次一門+三升)
6月:歌舞伎公演(左團次一門+三升)
7月:文楽公演
8月:文楽公演
9月:なし
10月:歌舞伎公演(左團次一門+猿之助、中車)
11月:歌舞伎公演(鴈治郎上京公演)
12月:なし
 
と再び年6回の公演となりました。
 
そして5月公演では井伊大老の死の上演が一度は決まりながらも水戸徳川家の圧力や脅迫により中止になったのは演芸画報で既に述べた通りです。
その後同じ顔触れで6月公演を行った後に文楽に2ヶ月程貸した後に開かれたのが今回の公演に当たります。
 
主な配役一覧

 
座組としては北海道巡業から帰ってきたばかりの左團次一門に幾度も組んでいる猿之助と中車、更には前年末から東京に滞在している壽三郎も加わる等安定感溢れる一座となりました。
そして演目の方も井伊大老の死の上演に成功し勢いに乗ってる左團次一座らしく純粋な新作1本に古典物の改作2本を含めて新作で揃えるというリスクを恐れない強気のラインナップとなっています。
 
蝦夷の義経

 
一番目の蝦夷の義経は前月まで北海道巡業をしていた左團次一行が訪れた先のアイヌ人との交流がヒントとして山崎紫紅が書いた新歌舞伎の演目です。内容としては平泉で死んだ源義経が実は生きていて北海道を経由してモンゴルに渡りチンギス・ハンになったという伝説がありますがその説を取り入れて北海道に逃れた義経一行が現地のアイヌ部族と対立や戦いを経てオモダイ大王の一人娘イヲブを現地妻にして子供を身籠らせるも当の義経本人は蝦夷は征服し終わったとして中国大陸へと渡る為に別れを告げるという今となっては人種問題が絡んで絶対に再演が難しい内容となっています。
今回は源義経を左團次、イヲブを松蔦、鷲尾三郎と卿の君を亀蔵、熊井太郎を莚升、亀井六郎を八百蔵、マサラを荒次郎、トマリを壽美蔵、アンコロを紅若、アンコロの倅コヤンケを猿之助、武蔵坊弁慶とオダモイ大王を壽三郎、常陸海尊を中車がそれぞれ務めています。
さて、この珍妙な新作について劇評はどう捉えていたのかと言うと
 
見せ場は二幕目の娘の家と熊祭の場で大詰の出船は却て蛇足で、義経の女に対する残酷な心持が見えるやうでいけない。
 
作としては余り技巧に過ぎて些と冗(くど)い上に、目先の変わったアイヌの風俗熊祭りを見せるだけが、ヤマらしく優れた作ではない事は勿論である
 
と左團次が巡業先で出会ったアイヌ人から聞いた熊祭り(イオマンテ)こそ耳目を惹いたものの、それ以外は特に他の作品との区別化が計れずはっきり失敗作だと酷評されています。
そして役者についても義経を演じた左團次は
 
左團次の義経はこの優には物足りない程に、もっともっと何物か欲しいであらう。
 
とこれまで豪傑から憂慮に富んだ人物など様々な役を演じてきた左團次からしてみれば今回の役はただアイヌ人の酋長の娘を現地妻にして身籠らせた挙句、彼の存在にイヲブに絡んでアイヌ人青年2人を自死に追い込むというただの冷酷非道な人物に見えてしまったらしくかなり酷評されています。
それに対し本人は全く演じた事も無ければ恐らく生涯を通じてアイヌ人と接触すらした事のないまま義経に対抗するアイヌ人の酋長であるオダモイ大王を演じた壽三郎は
 
壽三郎のオダモイは先づよし
 
とこちらは意外にも評価されました。
 
左團次の義経と壽三郎のオダモイ大王

 
そしてこの左團次一座の中では中堅となり、やがて左團次の没後は一座の役者を二分して独立する事になる壽美蔵と猿之助はそれぞれ先代の酋長の息子で盲目故に不遇な扱いを受け義経のお陰で酋長の座に就くもイヲブが義経と結婚した事で孤独にさいなまれ海へ身投げしてしまうトマリと同じくイヲブを想い最後は自殺してしまうコヤンケを演じましたが双方とも
 
壽美蔵の前酋長の遺子トマリが盲目で終りまで働くのに同情が注がれる
 
猿之助の跛のコヤンケなど儲かり相で歯切れのしない役である
 
と両人とも車輪で出ずっぱりの割にはあまりパッとしなかった様で共にイマイチな結果に終わりました。
 
この様に作品も演じる役者もテンでお話にならない出来栄えで折角北海道土産と言うお題目で持ってきたにも関わらず失敗作になり井伊大老の死の成功で浮かれていた一座としては出鼻をくじかれる結果に終わりました。
 
琵琶名所月景清

 
中幕の琵琶名所月景清は新歌舞伎十八番の1つ、有難御江戸景清を西澤一鳳が脚色し明治22年3月に中村座で初演された活歴の演目となります。有難御江戸景清と言えば五代目市川海老蔵が江戸追放の処分を解かれ7年ぶりに江戸に戻った時に演じた演目で知られていますが、私も見た事がある有難御江戸景清は演目の序幕のだんまり部分のみが独立して後世に残った物であり今回の演目はその後に続く言わば本編部分である通称琵琶の景清を実子九代目が演じるに当たり活歴風に改めた物となります。
 
中車の兄弟子である段四郎が歌舞伎座で演じた時の筋書 

 

市村座で演じられた時の筋書 

 

約100年ぶりに歌舞伎座で上演された顔見世歌舞伎観劇の記事はこちら 

 

中車が同じ活歴演目の出世景清で景清を演じた團十郎十五年祭追善公演の筋書 

 

今回は検校千尋実は悪七兵衛景清を中車、榛沢六郎を猿之助、女仕丁お波実は阿古屋を秀調、女仕丁あざみ実は衣笠を壽美蔵、女小姓小磯実は人丸を松蔦、秩父重忠が壽三郎、伊賀平内左衛門を左升、源頼朝を左團次がそれぞれ務めています。
リンク先にもある様に出世景清での中車の景清は今一つパッとしない評価でしたが同じ景清物でも今回はどうだったかと言うと
 
当代の景清役者たる中車の主人公にして責の間締らないのは、全く作☓(判読不能)物が面白くないからであらう
 
役者の努力だけの効果が上がらない
 
と演技自体は悪くなかったとしていますが、如何せん作品その物が陳腐過ぎるというそもそもの欠点を補うまでには至りませんでした。
 
中車の検校千尋実は悪七兵衛景清と猿之助の榛沢六郎

 
 いつぞやの劇評で言われていましたが
 
日本随一の(五代目)海老蔵なればこそ宜けれ
 
とある様に7年ぶりあの大スター海老蔵が江戸に帰ってきたという強烈な角書きが無ければただの景清物の1つであり、そこに加えて九代目の芸風で無ければ合わない活歴風に改作まで施しているとなると大正時代の役者を以てして演じさせるのは失敗するのが火を見るよりも明らかであり、これは中車を始めとする役者の問題よりも演目選定に問題があったのではないかと言えます。余計な事ながら毛抜や鳴神など歌舞伎十八番に造詣があった左團次に十八番の景清を復活させて中車に演じさせたらまた違った結果になっかも知れません。
この様子から分かる様に一番目程ではないものの、こちらも当たったとは到底言えない結果に終わりました。
 
今様薩摩歌

 
二番目の今様薩摩歌は劇評家の岡鬼太郎が並木五瓶の書いた五大力恋緘の元になった人斬り事件を左團次の為に新たに再構築して書いた新歌舞伎の演目です。
 
五大力恋緘を上演した帝国劇場の筋書 

 

尤も内容は源五郎兵衛が三五兵衛と小万を殺す以外は五大力恋鍼とは全く異なり、伝家の宝刀を巡り源五兵衛と小万が恋仲になるも三五兵衛に騙されて愛想尽かしをされて怒り狂い小万を殺すのに対してこちらは三五兵衛とおまんが恋仲でそれをふとしたアクシデントが原因で源五兵衛が2人の中に割って入り、おまんに横恋慕した独り身の源五兵衛がおまんを妻にしようと企み三五兵衛を切り殺し、おまんは後を追い失意の内に源五兵衛は切腹するという現代ではストーカー殺人とでも言えば理解しやすい様なシリアスな現代劇となっています。
今回は菱川源五兵衛を左團次、おまんを松蔦、笹野三五兵衛を猿之助、千草屋次右衛門を傅九郎、千草屋女房おあきを紅若、千草屋手代茂三郎を壽三郎、富士屋後家おきたを秀調、笹野杉斎を中車がそれぞれ務めています。
さて、今では言い方が悪いですが別に珍しくもない事案ですが当時としては古典の名作を斬新極まりない設定に変えた岡鬼太郎ですが作品そのものについては
 
これまでの小万源五兵衛とは全然趣を替た作で、大詰がキビキビして如何にも面白いが、筋に些と拵へ過ぎた處がある
 
鬼太郎氏の作としてはこれも傑作ではない
 
と斬新な設定や当時人気を獲得していた新国劇の影響なのか大詰めの激しい斬り合いなどについては一定の評価をしているものの細かい心理描写に拘り過ぎているきらいがあるとは指摘されています。
しかし、別の劇評では
 
源五兵衛の複雑な心理が、無理がなく現はされた所に我々の同館を誘ってゐる。つまり、人間の共通な欠点と予弱さとに観察点をおいて、男の心理を微細に描き出した所にこの作の真の長所がある。
 
と鬼太郎らしく源五兵衛の心情変化を新内節を使って表現したり、チョボやツケを用いるなど古典同様の技術を用いながら作品としては近代的な心理描写で且つ人間の抱える矛盾点を表現する独特さは他には見られない点だと評価しています。
 
そして悲しい三十路男の矛盾と悲哀を抱えた源五兵衛を演じた左團次に対しては
 
左團次の源五が新内を聞きながらおまんを思ふて「頻りに騒ぐ我が心」と焦々する處なども余程窮してゐる、併し相手の女を蔭にしての独り芝居で、あれだけの心持を見せたのは矢張り左團次の豪い處かも知れない。
 
これだけの作の特異な狙ひ所を現はし得た事にはかなり左團次の源五郎兵衛の力がある。作に描かれてゐるこの主人公の聡明な性格、それが寂しい境遇から女を慕ふに至る心境、唯おまんさへ得ればいいと恥を忍んで懇願する心持など、よく細かな陰影に富んだ表現によって遺憾なからしめた。が、大詰のある部分だけは、原作の白に難があるためか、左團次の悪癖ともいふべき低級な感傷主義に流れた嫌ひはある。
 
とこの複雑な心理を持つ源五兵衛を巧みに演じ分けて作者の意図した人物像を描き出せているとかなり高評価されました。
対して五大力とは違い源五兵衛に運命を狂わされ最後は三五兵衛の後を追うという悲惨な最期を迎えるおまんを演じた松蔦は
 
松蔦のおまんも仕處の多い役
 
松蔦のおまんも巧い。「冷たい」といふ松蔦の娘役の難も、「おこよ」とこの役の如き、一切影を隠してゐる。部分的にねっとりとした色気が見える事も流石だ。
 
と彼の欠点を上手く覆い隠す役所も相まって好評でした。
 
左團次の源五兵衛と松蔦のおまん

 
そして劇評では今回の陰の立役者だと高評価しているのが五大力とは違い善人でありながら源五郎兵衛により殺されてしまう三五郎兵衛を演じた猿之助で
 
猿之助の三五兵衛がもとに薩摩侍らしい處が見えて、左團次の源五との果し合に緊張味を出したのが面白く見られた
 
猿之助の三五兵衛の如きも、在来の二枚目でない、軽い程度の執着と骨とのある性格をよく現はし得た。つまり、壽美蔵などが陥り易いある種の型にはまらない点に手腕が見える。又、大詰の立廻りなど、写実的なせっぱ詰った動きも巧い。あの場の左團次の源五兵衛に人を圧する気力が見えたのも、一方、猿之助が自分を殺して、細かい技巧の用意があるからだ。一方を巨大にするために、一方が細心な注意を払ふとでもいふべき芸の上の犠牲こそ、左團次に対する場合の猿之助の巧味といふべきだ。
 
と従来の役にない性格、肚を吞み込み表現しながらも左團次の源五兵衛を立てて引き立てる事を忘れていない配慮も含めて高評価しています。戦後の彼の行動や第二次春秋座立ち上げによる松竹独立などの動きだけを見ていると如何にもお山の大将らしいイメージが浮かびますが、実際は幼い頃から猿之助襲名までは父段四郎と、襲名してからは左團次と常に誰かの引き立てに廻る事が多くそこで得た相手に合わせる技術力は確かな物があり、2回も松竹を抜けたにもかかわらず短期間で出戻れて且つ長期間飼い殺しにもならなかった背景には彼自身の人気もさることながらそうした技量を惜しんだ左團次が2度に渡り松竹に口添えした事もありました。
そういう意味では左團次にとって8歳年下の猿之助の存在は彼の苦手とする舞踊をこなせる他、相手役にも使える、左團次にはない初代左團次の芸風に近い大立廻りなどを持っており欠かす事の出来ない役者であったのが分かります。
 
猿之助の三五兵衛と左團次の源五兵衛

 
そしてこの3人以外の脇を支える役者たちについても劇評は
 
中車の杉齋は一場だけだが、如何にも実直な神官らしく
 
傳九郎の次右衛門、秀調後家おきた壽三郎の手代茂三郎など勿体ない程で
 
荒次郎の仲間も巧妙を極めた。あの巧さがあるために、源五兵衛の話も効果が増してくる。
 
とベテランから若手まで適材適所に配置された役柄をこなしきり評価されており、斬新な原作を役者側が見事に調理して舞台上に再現できた事により内容的に不甲斐ない結果が続いた今公演で唯一の当たり演目となりました。
 
勢獅子

 
大切の勢獅子はこのブログでも以前に紹介した舞踊縁の演目です。
言わずもがなこちらは段四郎に代わり舞踊枠を担う猿之助の出し物であり、鳶の者亀吉を演じた他、鳶の者由松を壽美蔵、鳶の者長八を荒次郎、手古舞市松を莚升、手古舞仇吉を八百蔵、鳶の小倅千太を團子がそれぞれ務めています。
 
父の段四郎が演じた新富座の筋書 

 

前に演芸画報で猿之助の特集記事を紹介しましたが彼は欧州留学を経てこの時32歳と丁度脂が乗り始めてきた時期に差し掛かり、歌舞伎座では慶ちゃん福助の優遇がある関係でまだ自分の出し物をは持てないものの、段四郎に代わり舞踊物を務める事も多くなり新富座などの格下の劇場では既に舞踊の出し物を出す等、着実にステップアップを重ねていました。

 

猿之助の亀吉と壽美蔵の由松

 
しかし、劇評は今回も素っ気なく
 
遺憾ながら見逃した
 
と例によって観ておらず別の劇評にも
 
賑やかにて面白し
 
とあるのみでした。
しかし、当時の猿之助の創造性はこんな扱い程度ではめげる事は無く、この公演終了後の10月25日から27日までの3日間、左團次の自由劇用に触発された猿之助は初となる自主公演である春秋座の第1回公演を行い
 
法成寺物語
父帰る
名立崩れ
 
を上演しました。
 
法成寺物語
 
父帰る
 
名立崩れ
 
出演した役者も松蔦、壽美蔵、壽三郎と左團次一門や新作物を得意とする面子ばかりで従来の時代劇から脱して谷崎潤一郎の法成寺物語と菊池寛の父帰るという当時の現代物の新作を舞台化して臨み原作者の菊池寛も芥川竜之介や久米正雄を引き連れて観劇し
 
芝居が進むにつれて涙が溢れて仕様がなかった、自分一人かと思ってゐたら横にいた芥川迄泣いて居た。
 
と原作者や芥川龍之介までもを泣かせるほどの熱演ぶりだったと菊池が記す程でした。
本公演の扱いとは裏腹にこの自主公演の成功に自信を持った猿之助は春秋座の名の通り年に春秋の2回の公演開催を企画しやがて前進座にまで発展する自主公演を経て従来の演目に拘らない革新的な演劇を模索していく事になります。
 
さてこの様に一番目、中幕と不評で二番目も創作性は高く評価されているものの、こちらだけでは大勢を覆すまでには至らず、3日間売切となった短期公演の春秋座に対して大入広告も出なかった事からあまり芳しい入りでは無かったそうです。尤もこの月は歌舞伎座も帝国劇場も市村座も微妙な入りでどこかの一人勝ちという事はありませんでした。
その背景は4月公演の時に触れた反動不況の影響で到来からおよそ半年を経て不況の波も歌舞伎界に到達し各劇場の入にじわじわとボディーブローの様に効いてきた為でもありました。
この後歌舞伎界は関東大震災が起こるまで慢性的な不況に苦闘しつつも経営をする事を余儀なくされます。
この様に成績には恵まれなかったものの、左團次は井伊大老の死に次いで新歌舞伎の佳作を生み、猿之助は劇界の革命児と呼ばれる第一歩を踏み出す等、双方にとっては実りある公演となりました。