大正8年10月 帝国劇場 新作関ヶ原 | 栢莚の徒然なるままに

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今回は歌舞伎座と同じ月に行われた帝国劇場の筋書を紹介したいと思います。
 
大正8年10月 帝国劇場
 
演目:
一、関ヶ原
二、姑穫女
 
前回紹介した6月公演以来3ヶ月ぶりの本公演となった今回は関ヶ原、姑穫女の2つの新作を携えて臨みました。
 
関ヶ原
 
一番目の関ヶ原は高安月郊が新たに書き下ろした新歌舞伎の演目となります。
彼については以前に2度ばかし紹介しましたが、史実を重要視しながらも人間描写にも拘りを見せる硬軟併せ持った作品を書く人です。
 
江戸城明渡を上演した時の歌舞伎座の筋書 

 

 
桜時雨を上演した時の歌舞伎座の筋書

 

 
この演目については言わずもがな9年ぶりの桐一葉を上演する歌舞伎座を意識した所があった様ですが、ただ馬鹿正直に梅幸の淀君と幸四郎の片桐且元で桐一葉を競演したのではハマり役の歌右衛門や仁左衛門に太刀打ちできないと踏んでかあっちが大阪の陣ならこっちは関ヶ原だ(?)と敢えて前日譚とも捉えられるこの演目をやる事で歌舞伎座の桐一葉目当ての見物の意識をこちらに向けさせようとした戦略が垣間見えます。
 
桐一葉を上演した歌舞伎座の筋書 

 
内容としては関ヶ原の戦いの前後の人間ドラマといった内容で前田利家の死から始まり福島、加藤等による石田三成襲撃事件及び関ヶ原の戦いの後の三成の処刑までを描いていて三成は片桐且元と同じく武闘派の大名から命を狙われるも豊臣家の為に忠誠を尽くしながらも最後は処刑されてしまう立派な武士として描いています。
今回は淀君を梅幸、徳川家康と大谷義継を幸四郎、石田三成を宗十郎、前田利家を松助、浅香庄次郎と本多正信を勘彌、細川忠興を長十郎、福島正則を幸蔵、前田利長とおかめの方を丑之助、北の政所と侍女萩江を宗之助がそれぞれ務めています。
さて劇評ではこの新作について桐一葉と比べられるのを前提として
 
「(歌舞伎座の桐一葉では出番をカットされた)饗庭の局などといふのを出したのは入穿(趣向が過ぎて嫌味になる)だ、これは歌舞伎座でも影にして蜻蛉と噂ばかりだ、入らぬものはかうしなくてはいけない。
 
終りの阿弥陀が峰も三條磧もよかった、阿弥陀が峰で淀君が三成の最後の態を見下させて、磧でその最後の有様を実地で見せるはよい
 
と敢えて歌舞伎座では出ない饗庭の局を出させたり、古典ではあり得ない時間を巻き戻しての三成の最後を描写するなど技巧や新作ならではの大胆な演出で差別化を図った部分については入らない劇場のやり方だと揶揄されながらも好意的に評価されています。
続いて役者の評価についてですが歌舞伎座の歌右衛門との淀君対決となった梅幸は
 
梅幸が淀君で出て居る木挽町(歌右衛門)のほどフクラミはないが秀頼の母といふ気品はある。
 
と主役扱いの歌舞伎座とは異なりこちらはあくまで脇役に徹した事もあり、世話物染みているという批判は受けながらもかつて桐一葉で淀君を演じた経験が活きたのかそれなりに評価されています。
 
梅幸の淀君
 
そして今回の主役とも言える石田三成を演じた宗十郎は
 
宗十郎の三成、幸四郎の大谷刑部もよい、三成もかう立派な役で舞台に立つ時はかずしげ(三成の別名)と読んでやるがよい、はかりごとはみつなりみつなりが通り名では可哀想だ
 
と主役として立派な立ち振舞いが出来ているとこちらは好評でした。
対して徳川家康と大谷義継を演じた幸四郎は
 
幸四郎の家康は流石に群を抜いて見えるが大政所(北政所の間違い)へ対して形式だけでももっと敬意が欲しい。
 
幸四郎の徳川家康、例の活歴風の台詞廻し、場所によっては馬鹿に耳立つが、併し大阪城も伏見の邸も、悠々たる狸爺の態度悪くなし
 
幸四郎の二役大谷刑部が石田と密談をこんな處でするのは余りに嘘らしい、そうして大谷が福島にも石田にも自分が眼上のやうに応対して居るのも史実に遠ざかり過ぎる
 
と大谷義継の方は自然と役者の格が滲み出てしまったのか頭が高いと批判されていますが、本役の家康は師匠團十郎の演技を見て学んだ節が見受けられたらしくいかにも天下人という風格と威厳が感じられたと評価されています。
 
幸四郎の徳川家康と宗十郎の石田三成
 
そんな一長一短な出来の主役3人に対して脇役はどうだったかと言うとまず前田利家を演じた松助は
 
松助の加賀大納言、気に入ったネ、この幕は前田利家が出たところへ間に合わせに松助を煩はして前田徳善院とは何の事だ、今度の優でなくては気に入らない
 
と幹部最年長という年の功と幸四郎の家康に対抗しうる存在である前田利家の貫禄を出すには松助が年齢も含めて適任だったらしく彼に関しては評価されていますが北政所と侍女萩江を演じた宗之助は
 
宗之助の北政所は少しお気の毒だ
 
宗之助の萩江はいいが序幕の北政所は若過ぎ
 
勘彌の浅香庄次郎と勘彌の宗之助の侍女萩江は艶事を二人で引受けてあとを真面目にしたのはよい
 
と歌舞伎座の桐一葉ではカットされてしまった恋愛パートを引き受けた侍女萩江については評価されているものの、流石に北政所には無理があったらしくこちらは低評価でした。
またおかめの方を演じた丑之助も侍女の割には政治の事を喋り過ぎると無理に良い所を見せようとしたのが仇となりこちらも批判されました。
この様に若手の方こそ低評価でしたが幹部役者は安定した芝居運びで無事演じれた事もあり桐一葉にこそ敵いはしなかったものの、歌舞伎座と比べて観劇する者もいるなど見物の耳目を集めれる程度には直目を集める事に成功したそうです。
 
姑穫女
 
続いて中幕の姑穫女は右田寅彦が書き下ろした舞踊の演目です。難産の末亡くなった女性の霊が妖怪となったとされる姑穫女の話を元に土蜘に登場する源頼光の家臣である卜部季武が道すがら怪奇に出会うという設定で幽霊役に定評のある梅幸が前半後半で異なる出立で霊を演じるのがポイントとなっています。
今回は姑穫女実は梅の香を梅幸、庵主道念を松助、多田保國を勘彌、卜部季武を幸四郎がそれぞれ務めています。
劇評では梅幸の姑穫女について
 
梅幸の姑穫女実は橋本の長の娘にて我が子を季武に託する愛情、凄みもありて大いによし
 
と妖怪物に関して当代随一の腕前をもつ梅幸だけに妖怪としての怖さと母親としての愛情を併せ持つ演技を評価されています。
 
梅幸の姑穫女実は梅の香と松助の庵主道念
 
一方で他の役者はどうだったかと言うと卜部季武を演じた幸四郎は
 
幸四郎の卜部季武馬上姿の出は立派だが、うぶめに絡んだ所作は、如何いふものか、些とばさばさして荒っぽい
 
と活歴物の舞踊には定評がある幸四郎にしては珍しく今一つ評判が良くありませんでした。
残念ながら梅幸と幸四郎以外の役者の評価があまり書かれていない事もあり、今一つ全容が掴めない部分がありますが梅幸の評を見る限り悪くはなかった様です。
 
五大力恋緘
 
大詰の五大力恋緘は初代並木五瓶が書き寛政6年に京都西の芝居で初演された世話物の演目となります。
伊勢音頭恋寝刃と同じく実在した殺人事件を基に書かれた作品で主家の宝刀を探す薩摩源五兵衛が深い中になった芸者小萬から愛想尽かしをされて激怒し殺害するも愛想尽かしの目的が宝刀を持つ笹野三五兵衛に近づく為の偽りの愛想尽かしであった事を知り、最後は三五兵衛を討ち取るという内容となっています。
後に奇才四代目鶴屋南北が主筋を使って大胆にも忠臣蔵及び東海道四谷怪談の世界に書き替えて仇討の為に多くの人を殺めておきながら忠義の士として活躍する矛盾を描いた盟三五大切に仕立て上げたのは有名な話です。
今回は薩摩源五郎を宗十郎、芸者小萬を宗之助、笹野三五兵衛を幸四郎、箱廻し弥助を勘彌、武蔵屋女房お此を梅幸がそれぞれ務めています。
今回唯一の古典演目となったこの演目ですが劇評には
 
今は薩摩武士といへば意気で金持ちで訳が分かって人好一等といふ中へ、昔風に野暮堅いと分らない事を持ち込むゆゑ、趣向通らず人情うつらず、俳優の骨折の割には見物受けず聊か見物の方が古しといふべし
 
と今と違って薩長閥が政治の中枢に多くいた大正時代には生真面目で頭が固い薩摩武士という薩摩源五郎が陳腐に見えてしまったらしく、のっけから批判されています。
 
しかし、薩摩源五兵衛を演じた宗十郎は
 
宗十郎の源五兵衛は家の芸であるが堅いうちに和かみのある押出しからその人になっている(中略)「河竹」の唄で小萬と上手に引込むあたりは昔の芝居絵を見るやうだ
 
と意外にもその芸風が役柄と合致し頑固で一途な薩摩武士に成りきれていると高評価されています。
また、宗之助の芸者小萬も
 
宗之助の小萬も先づ結構
 
とこちらも言葉少ないながらも評価されています。
 
宗十郎の薩摩源五郎と宗之助の芸者小萬
 
そして敵役の三五兵衛を演じた幸四郎にも言及があり、
 
幸四郎の三五兵衛は思ひ切って安くしている
 
幸四郎の三五兵衛が、大に努めて、安手な中にちょいちょい手強く突込んで平敵の味を出してゐたのがよい
 
と普段の重厚さを抑えて敵役らしく安っぽさを前面に出して演じたらしく意外にも高評価されています。
この様にこれまで世話物演目では思う様に結果を出せていなかった宗十郎がここにきて漸く会心の出来を見せた事もありこちらの演目は歌舞伎座の世話物演目である艶姿女舞衣と互角の出来栄えだった様です。
 
この様に端から歌舞伎座に比べると演目・面子に不利であった帝国劇場でしたが、蓋を明けてみれば思った以上に善戦したらしく、日によっては売り切れの日も出る等歌舞伎座ほどでは無いものの入りは良かったそうです。
この後帝国劇場は相互出演協定に基づいて仁左衛門を再び招聘して11月公演を開く事となります。