新演芸 大正9年1月号 梅幸と羽左衛門の直侍他 | 栢莚の徒然なるままに

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今回はこのブログでは初めてとなる知る人ぞ知る演劇雑誌を紹介したいと思います。

 

新演芸 大正9年1月号

 

大正5年から14年までの間、玄文社が発行していた演芸画報と並ぶ歌舞伎の専門誌として知られた新演芸となります。

以前に演芸画報を紹介した際に演芸倶楽部という雑誌があった事は触れましたが、丁度大正2年に演芸倶楽部が買収された後に創刊されており、直接的な繋がりはないものの、演芸画報のライバル誌という意味合いでは後継誌と言えます。

一方で小芝居の劇場へのページ数が多い以外これといった特色を付けられず結局は押し負けてしまった演芸倶楽部に対して新演芸はあくまで歌舞伎を中心としつつも歌舞伎だけでなく新派や新劇、更には短期公演で行われていた自由劇場や春秋座、文芸座といった毛色の新しい公演も取り上げたり、演劇画報では大正初期以降中々取り上げなくなった小芝居の公演も網羅するなど独自色を強めた他、新作懸賞脚本を募集して帝国劇場や歌舞伎座の舞台に掛けたりするなど積極的な取り組みが目立つ雑誌でもありました。

 

文芸座の短期公演における勘彌のハムレットとかね子のオリーフィア

 
さて、概要はここまでとしてこの1月号の内容は大正8年12月の公演についてでブログでも触れた様に恒例の相互出演協定により、帝国劇場と歌舞伎座の役者の交換が行われ
 
中車、左團次、我童、壽三郎…帝国劇場に出演
 
梅幸、松助…歌舞伎座の座付き俳優と共に新富座に出演
 
幸四郎、宗十郎…鴈治郎が出演する南座の顔見世に出演
 
宗之助…帝国劇場に残留
 
勘彌…上記の画像の通り文芸座で短期公演の後巡業
 
と忙しい師走を送っていました。

 

帝国劇場の12月公演の筋書 

 

 

 

まずこれらの公演の中で一番大きな扱いとなっているのは大正7年3月の南座以来1年9ヶ月ぶり、東京では以前紹介した大正6年6月の帝国劇場以来2年半ぶりとなる羽左衛門と梅幸の競演が実現した新富座の公演でした。

 

参考までに大正6年6月の帝国劇場の筋書

 

今回は極め付けの雪暮夜入谷畦道を上演し羽左衛門の直次郎、梅幸の三千歳、松助の丈賀という三絶コンビが再び顔を揃え他に暗闇の丑松を片岡市蔵、紺屋の政五郎を段四郎、金子市之丞を中車と手堅いベテラン役者を揃えた配役になりました。

 

羽左衛門の直次郎と梅幸の三千歳

 
羽左衛門の直次郎と松助の丈賀

 
しかし、この演目に対して新演芸には名物の一つである複数の劇評家による合評があり、それにかかると
 
これは私だけの考へですが、清元情調といっても、頭のはげた老人(清元延壽太夫)が唄ってゐるのでは、ちょいと興がさめて、清元情調といふやうな言葉にふさはしくないと思ひますがね。
 
この芝居は吉原を背景としてゐるのですが、現今のやうに、吉原が写真店になってしまっては、その興味も、減じてゆくでせう。
 
「(序幕の蕎麦屋仁八ついて)一くせありげに見えた前科者に見えた。
「(女房おかよについて)佐竹っ原(現在の台東区)のあたりのバーのかみさんです。
 
「(羽左衛門の直次郎について)第一印象は見ずぼらしい。写実のせゐかも知れません。
どうも顔のつくりが汚い。
併し、出て来た所は、何にもしないで居て、直侍に見える人です。当代の直侍役者です。
「(大詰の引込みが)あらっぽいにはあらっぽいが、総評としては好い気持ちになりました。
 
「(松助の丈賀について)蕎麦屋の門口に来て「今晩は」といふあの調子は、たしかに按摩になってゐます。あれは研究の成果でせう。
直侍に大きな声を出してはいけないと制されて「ハイハイハイハイ」といふ調子などもうまいものです。
東蔵の丈賀をたびたび見てゐるので松助のをさう巧いとは思はなかった。
 
「(梅幸の三千歳について)この頃の弊(害)です。非常に写実になりました。
当代の三千歳役者として申分ない人です。
梅幸は形が悪くバサけてゐた。あれは腕の相違でせうね。
これは酷い。菊次郎以下になってしまひましたね。
「見るたびごとに面やせて」はややお化けになりました。
 
「(段四郎の紺屋の政五郎について)十手を持った佐倉宗五郎
 
「(中車の金子市之丞について)陰々としてゐる。何故でせう。
如何してあんなに沈めて演ってゐるのでせう。この人は一本でゆく人だが、もっと、はっきりした台詞でゆけば好いと思ひます。
 
「(市蔵の暗闇の丑松について)如何して市蔵を(金子市之丞に)使はないでせうね。
それは身分からいって…
立派な腕のある人です同年輩の俳優中では際立った技量を持って居る人です。
金子市之丞などは立派にゆけるでせうから。
 
と評価されている役者も勿論いながらも大半がキツイ酷評が並んでいるのが分かります。(特に延壽太夫のハゲだから情緒が失せるなんて今書いたら差別だと炎上しかねないくらい過激です)
演芸画報の様に一人の劇評家が公演全体を評価するのではなく、複数人で一つの演目について評価する合評は余裕があるのと見方の差異もあり、かなりドギツイ批判をされる一方で今回だと片岡市蔵の様な思わぬ役者が高評価されているなど複数人ならではの特色が出ているのが分かります。
 
続いてここ最近触れていなかった市村座についても紹介したいと思います。
市村座は最後に紹介した帝国劇場の引越公演中に一座の河原崎国太郎と尾上菊次郎を相次いで失う悲劇に見舞われました。
 

しかし、公演は待ってはくれず茫然自失しながらも9月公演を開く事に決め吉右衛門の相手役には実弟時蔵を起用し、菊五郎には市川米蔵を起用する事にしました。

 

米蔵についてはこちらをご覧ください 

 

 

 

しかし、菊五郎の事は万事承知であった菊次郎の後釜としては米蔵は経験も呼吸もてんで合わなかったらしく菊五郎はお家芸の世話物を殆ど出さずギクシャクした関係が漂っていました。一応菊五郎の一門には男女蔵がいましたが場数だけ言うなら米蔵よりも少なく菊五郎の相手役を演じるにはこの当時経験不足でした。

そんな菊五郎とは対照的に吉右衛門はこの12月公演では歌六譲りの奥州安達原で袖萩と安倍貞任を二役で演じるなどいつも以上に大車輪に働いていました。

 

市村座の奥州安達原で吉右衛門の袖萩とお君の米吉

 
結局、無い物ねだりしても仕方ないと思ったのか菊五郎は通常公演ではこの後大正10年に米蔵が亡くなるまでは何だかんだ起用しつつも、次の演劇画報で詳しく触れますがここぞと言う時は帝国劇場から義兄梅幸や宗之助を借りてきたりして急場を凌ぎ、次の相手役を探す事に苦心する事となります。
そして田村成義も2人を失ったにもめげず菊吉に次ぐスターを作り上げようと大正9年は大名跡の襲名を画策する一方で菊五郎一門の弟子たちの5人同時襲名を行うなど最晩年にも関わらず目まぐるしく活動する事となります。
 
そして目を西に向けると今でも年末の風物詩である南座の顔見世が大々的に組まれています。
 
ブログで紹介した大正5年の顔見世の筋書

  

同じく大正6年の顔見世の筋書

 

今回は冒頭にも書いた様に幸四郎と宗十郎が出演し帝国劇場で上演した関ヶ原と妹背山婦女庭訓、鴈治郎が大得意の河庄と引窓、そして得意の新作である菅公と樽屋おせんを出しその他に幸四郎と鴈治郎の顔合わせ狂言に鈴ヶ森と計8演目の大判振る舞いとなりました。
  

鴈治郎の治兵衛と雀右衛門の小春

  

幸四郎の幡随院長兵衛

 
当然ではありますが東京側の出し物は幸四郎と宗十郎しかいない為、帝国劇場では梅幸が演じた淀君は雀右衛門、宗之助が演じた浅香庄次郎は魁車、幸四郎が演じた鱶七は多見蔵といった具合に若干配役が上方役者に振られて変更になっているものの、それ以外は概ね同じ配役で演じられています。
 
 
余談ですが某掲示板に
 
「(南座は)昔っから東京の役者がここぞという役や一回きりの役をやったりしてるのですが?
 
と知ったかぶった輩が何処かで見て来たかの様な戯言を述べていましたが、ご覧の様に帝国劇場の本公演で一度掛けた演目を再び上演する事は別段珍しくなく、事実大正7年の顔見世の時も帝国劇場の本公演で掛けた雪月花の保名と鷺娘、鬼一方眼三略巻を再び掛けており稽古の時間もあまりない中での公演とあって鴈治郎も帝国劇場の役者も本公演の演目を再度演じたりするのが常でした。
 
そしてこの号の特集記事は「未来の中堅」と題して当時の10~20代の若手役者達について紹介しています。
 

未来の中堅の筆頭で紹介されているタバコを咥えたままビリヤードをする慶ちゃん福助

 

後に人間国宝、日本芸術院会員、文化功労者と栄典を極めて一番の出世頭になった片岡千代之助

 
同じく人間国宝となった市川男女蔵

 
年齢ではこの中では最年長で日本芸術院会員にはなった中村時蔵

 
澤瀉屋の市川八百蔵と小太夫兄弟
兄猿之助にそっくり

 
市村竹松

 
夭逝した梅幸の長男である尾上丑之助

 
今回紹介された世代は年代で言うと高麗屋三兄弟、勘三郎、梅幸、歌右衛門らの一つ上の世代に当たります。戦後の上記6人の活躍や栄典が眩いほどなのに対してこの世代は仁左衛門(千代之助)こそ長命もあり最晩年に6人に匹敵するほど絶賛されましたが、仁左衛門以外となると左團次(男女蔵)と時蔵がそれぞれ人間国宝に加え時蔵が芸術院会員、左團次が日本俳優協会会長と順当に栄典を得たぐらいで文化勲章や人間国宝、文化功労者などあらゆる栄典を得た6人との差は明らかです。
これは運命と言ってしまえばそれまでですがそうなった原因としていくつか理由が挙げられます。
 
①寿命
 
この世代は三右衛門の息子達がいる世代で本来であればリーダー格である慶ちゃん福助や榮三郎(丑之助)という偉大なる父親の栄光を一身に受けて立女形になっていたであろう2人が急逝している他、羽左衛門(竹松)も戦後に若くして亡くなっています。また本来であれば澤瀉屋の兄弟や写真には載ってませんが紀伊国屋の高助、田之助辺りは戦後も長く生きていたのでもっと注目されても良かったはずですが紀伊国屋の兄弟は共に酒で体を壊しフェードアウトして行き、中車(八百蔵)と小太夫は元気だったものの、中車は兄に従い2度松竹を脱退した上に中車は戦後に3度目の脱退をして東宝へ移籍し、小太夫は新興座を起こした後長らく上方歌舞伎での活動を経て復帰した事もあって既に次世代に大きく溝を開けられていた状態でした。
この様にスター性のありそうな若手は急逝し、残った面子は役者としては脇に廻る事が殆どで強いて言えば仁左衛門がいた位(彼とて脚光を浴びたのは青年歌舞伎時代の僅かな間と戦後になってから)でやはり次世代の6人比べては数の面で見劣りしてしまう部分がありました。
 
②環境
 
次世代には戦前には青年歌舞伎、戦後には三越歌舞伎という若手育成の土壌がきちんと揃っていたのに対してこの世代はそういった集団での技芸向上の場がありませんでした。これには更に上の世代である猿之助や勘彌とかが自主公演を行って脚光を浴びていた事もあってか慶ちゃん福助が羽衣会を主催して注目されたり、小太夫が昭和に入って新興座を起こすなど個々の自主的な動きは活発にあったものの、次世代を一堂に集めて演じさせるという機会は無かった事は影響していると言えます。
また、青年歌舞伎の主な顔ぶれを見て見ると
 
六代目歌右衛門…五代目の次男
 
十七代目勘三郎…吉右衛門の異母弟(22歳年下)
 
四代目富十郎…二代目坂東彦十郎の三男
 
八代目宗十郎…七代目の三男
 
十四代目勘彌…十三代目の養子(親は既に死去)
 
と何れも次男や三男、あるいはほかの兄弟と大きく年が離れていたり、後ろ盾になる親がいなかったりと自身が奮起しなければ中々チャンスが得られない立場にあった人が大きかったのに対してこちらの世代は
 
慶ちゃん福助…五代目歌右衛門の長男
 
十三代目仁左衛門…十一代目の養子
 
十六代目羽左衛門…十五代目の養子
 
七代目榮三郎…六代目梅幸の長男
 
三代目時蔵…吉右衛門の次弟
 
三代目左團次…門之助の養子(親は既に死去)
 
八代目中車、二代目小太夫…いずれも猿之助の弟
 
五代目高助、五代目田之助…七代目宗十郎の長男、次男
 
と左團次以外はいずれも長男であったり、偉大な父親or兄の下で良い役が貰えるポジションにあり、無理して頑張らなくてもいいという恵まれた立場が多く青年歌舞伎の面子の様な必死さに欠けるものがありました。その結果、父や兄の死後役が付かなくなったりそれまでの立場が脆く崩れ去るという人物もおり、親や兄がいなくなった後に大成した次世代とは対照的でした。
(そういう意味ではこちらの世代にいながらも若くして親を亡くした事もあり青年歌舞伎に座頭で出演していた仁左衛門や若くして市村座に所属し菊五郎の相手役に抜擢された左團次はイレギュラーな立ち位置にいました。)
 
こういった部分を踏まえて見ると運不運はあるとは言え人間万事塞翁が馬という諺を思い出さずにはいられません。
暗い話はここまでにしてこの特集はグラビアだけではなく、インタビューもあり、それぞれ当たり障りの無い事を述べている中で、唯一丑之助だけが趣味について
 
車でドライブ
 
とまだ車を個人所有している人が少ない大正時代にしてはかなりボンボンちっくな趣味を書いていたり、当時目新しかったスケートに熱中してしまい、両親にせびって買って貰ったスケートで遊びたいあまり自宅の風呂場で散々練習し過ぎて風呂場のたたきを修復不可能になるまで破壊してしまい、梅幸に大目玉を喰らったというかなりヤンチャだった逸話を述べていて大正デモクラシーの中で新しい文化を享受する明治末年生まれの彼らの日常が分かる点では非常に楽しめる資料でもあります。
 
歌舞伎の雑誌と言うと演芸画報~演劇界が長らく主流を占めていた事もあり、あまり他の雑誌は幕間などを除くとあまり注目されませんがこの新演芸は演芸画報では拾いきれない情報や面白い企画もあり充分見応えがある雑誌です。閲覧するには演劇博物館や国会図書館、あるいは松竹大谷図書館など大きな施設に行かないと中々見れませんが、たまにヤフオクなどにお手ごろな値段で転がってたりするので興味のある方は是非購入してみてはいかがでしょうか?
新演芸は後数冊は持っていますのでまた改めて紹介したいと思います。