大正6年6月 帝国劇場 市村羽左衛門初出演  | 栢莚の徒然なるままに

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今回は帝国劇場の筋書を紹介したいと思います。

 

大正6年6月 帝国劇場

 

 

演目:

一、水戸黄門記
二、田舎源氏露東雲
三、江戸育お祭佐七

 

以前の帝国劇場の筋書でも触れましたが、大正5年10月から始まった歌舞伎座と帝国劇場の相互出演契約は

 

・10月の歌舞伎座に梅幸と松助が出演

 

・11月の帝国劇場に歌右衛門、福助が出演

 

・12月の帝国劇場に左團次、我童、歌六、源之助が出演

 

 

と第1弾は無事成功に終わりました。

そして第2弾の出演は双方の初春公演や帝国劇場側の市村座との提携出演や逆に市村座の引越公演、更には書き入れ時の4月公演もあり出演の話はしばらく停滞していましたが、水面下では交渉は続いていて5月には前と同じくまずは肩慣らしと言わんばかりに羽左衛門、梅幸、松助の三絶という組み合わせで横浜や名古屋を巡業しました。

そしていよいよ6月に入り市村羽左衛門が帝国劇場への出演する事が決まりました。

羽左衛門の加入により幅が生まれたのか羽左衛門の出し物であるお祭佐七を含めて帝国劇場では上演した事の無い新鮮な演目ばかりとなりました。

 

参考までに5年ぶりの共演となった横浜座の筋書

 

そして座組は羽左衛門一門が帝国劇場の専属に加わる形になり以前に書いた様に大倉喜八郎の喜寿を祝う祝賀会の余興での共演を除けば幸四郎とは明治42年11月以来8年振り、宗十郎とは明治44年1月以来6年振りの共演となりました。

この加入については劇評でも


第一、羽左衛門を入れた為に、梅幸と幸四郎が大層引き立って見えて来た。

 

とこれまで二枚目の枠を担っていた宗十郎では難しい物があった黙阿弥物や世話物においてそれらに秀でた羽左衛門の芸風が2人に良い影響を与えているとして続けて前年に出演した歌右衛門と比較して

 

第二に羽左衛門その人に歌舞伎座の慣れた舞台で見られない鮮やかな生気が表はれた。以前に歌右衛門を入れた時には、歌右衛門といふ異分子の為に多少の光を添えた様ではあったが、梅幸羽左衛門、羽左衛門幸四郎、梅幸羽左衛門幸四郎といふ組み合わせから醸し出されるいい化合物の様な妙味が見られなかった。この点で今回の興業は面白く見る事が出来た。

 

とどうしても歌右衛門だと幸四郎と宗十郎はいざ知らず、梅幸とは役柄の関係でしっくり行かない物があったのが夫婦役者の羽左衛門だとそれも解消されて3通りの良さが発揮出来ていると今回の加入を好意的に評価しています。

 

水戸黄門記

 

一番目の水戸黄門記は元々の外題を黄門記童幼講釈といい、河竹黙阿弥が書き下ろし明治10年に新富座で初演された演目です。

内容としては史実の徳川光圀が能の鍾馗を上演している最中に家老の藤井紋太夫を殺害した事件をベースに前半に犬殺しの罪に問われて死罪になりかける魚屋久五郎と息子を助けようとする父玄碩とそれに応える光圀の話を盛り込んで作られています。

因みにこの演目、後に黙阿弥を目の敵にしてた福地桜痴によって活歴テイストに改変された上で外題を俗説美談黄門記と改めて明治22年11月の歌舞伎座の杮落し公演で上演された事でも有名な演目でもあります。

今回光圀を幸四郎、藤井紋太夫を水虎の吉蔵を羽左衛門、魚屋久五郎を宗十郎、芸者お富と川口摂津守を宗之助、按摩玄碩を松助、老女筑波を梅幸がそれぞれ務めています。

 

劇評ではまず演目その物について

 

脚本としてはあまり感心出来る物ではない。(中略)この黄門記は余りに不緊密だ。魚屋久五郎の筋と藤井紋太夫の筋とは相互関係が薄い。(中略)魚屋久五郎の筋を除っても藤井紋太夫の筋で水戸黄門記が立って行き藤井紋太夫の筋をっても魚屋久五郎の筋で水戸黄門記が立って行く、考え様によっては至って重宝な組立方とも云はれる

 

と2つの話が上手く噛み合っていない事については批判の対象となっていますが劇評では続けて

 

只、呉服橋内堤際の場に世相史的興味があるのと、能舞台鏡間の場に材料の節約によって、潔い味が沁み出している好みと、黄門、紋太夫、吉蔵、玄碩、久五郎の人物が柄に適(はま)った役者に宛てられると、材の良い柱の様に、いくらでも味の出る様に出来ているといふ点で、この脚本は長所を持っている。

 

と脚本の稚拙さは役者の演技次第で補完できる演目だと評価しています。

では肝心の役者はどうだったかと言うとまず師匠團十郎も演じた事がある水戸光圀を演じた幸四郎について

 

幸四郎の黄門は立派な黄門である。特に伝通院の場が一番疵がない。鏡間の場は羽左衛門の紋太夫と遭って両方がひき立って見えたのは嬉しい。(中略)只この上望むことは紋太夫に面を持てと命じて、紋太夫の起つのに苦しむのをぢろりと見る際に、ははあ腹を切っているな、と思ふ心が、あの動ぜぬ、喜怒を表に露はさない間にも眼の色なり顔色なりにほんのりと曇って欲しい。

 

幸四郎の水戸黄門光圀卿、伝通院門外の場へ立出玉ひしところ天下副将軍の声貌聊か憾(うら)みなきにあらねど常に少し眉を顰(ひそ)ませたまふは天下の憂に先立ちて憂ふるの賢慮のほども察しられていとかしこし、小石川館の場久五郎玄碩の飾りなき礼を受けて中心より満足の体もよし、大詰能舞台鏡の間にて鍾馗の装束をつけ、藤井紋太夫の悪事を詰責して能の面を破りしを科として紋太夫を手討とし、直に幕をかかげさせて剣を提(ひっさ)げ橋掛りへ掛りての幕は恩威わならび現れて大によし

 

ともう少し肚芸で踏み込んで欲しいという注文は付いていますが我々がTVなどで目にしてきた好々爺の光圀ではなく、必要とあらば生類憐みの令の行き過ぎた処罰を止め、必要とあらば自らの手で家臣を手討する事すら厭わない「天下の副将軍」たる威厳をその恵まれた体躯と演技で見事に演じきり高評価されています。

 

幸四郎の光圀と羽左衛門の藤井紋太夫

 

そして演目の前半の主役である魚屋久五郎と按摩玄碩の2人を演じた宗十郎と松助についても

 

宗十郎の魚屋久五郎は小石川館の場が一番神妙でよかった。この人は箇癖(くせ)を発揮し過ぎない際の方が結構である。呉服橋の處は生地の病気が如何程の病気なのかを観ているものからは診察のつきかねる憾みがあった。

 

宗十郎の魚屋久五郎、家の別れも、ここ(呉服橋での父と)の別れも、家のはよもやの悲しみ、ここは絶望の悲しみと演分けてよし、後の水戸様庭前の場は命を助かり生々(いきいき)として悦びのところ其場其場に其心見えてよし

 

松助の玄碩は楽過ぎる位適り役だけに、魚屋の内でも、橋内堤際でも小石川の館でもこの人の為に舞台が引き立っていた

 

松助の盲按摩玄碩、呉服橋内で畚に乗って来る久五郎の体を探って見ての愁嘆、(か)がれて行く久五郎のあとにまだいると思っての繰言、飴売りに教へられて水戸様に駕訴すれば万に一つ久五郎の命が助かるかも知れぬと知っての急きやうやど実地実情にて感に堪へたり

 

と宗十郎に関しては独特な芸風を病気呼ばわりされているものの好評でした。

そしてこの演目では水虎の吉蔵と藤井紋太夫というタイプの異なる二つの敵役を演じた羽左衛門は

 

羽左衛門のかっぱの吉蔵と藤井紋太夫の二役とも柄に適っている申分ないまでに鮮やかでいい出来栄えだ。只欲を言えばすべてが鮮やかにきっぱり行く為に朧な味の出なければならない点、ほんのりと行かなければならない所、暈(は)かさなければならない時も、境目がはっきり表はれ過ぎるみがある。両国広小路の場で仲間のづぶ六ぐず八対手(相手)に喧嘩する際に酔った味が身体ぢう(中)にほんのりとかからない。(中略)町奉行白洲の場で、生国を問はれて、うっかり上…と云ひかけて後を濁し、仲間達にも云ふなと密かに制する場所でも、余りにきっぱり行き過ぎている為に濁しが濁しとなり果(おお)せない、密かに制する曖昧さも表はれない。しかし、黒沼に遭っている間の悪党ぶりなり、町奉行に問はれる間の細みのあるしぶとさなり、姿なり、口跡なり、当代誰あって足もとに追ひつく人もいないかっぱの吉蔵である。紋太夫は宅の場が特によかった。着付の色合と柄と艶とにうつり合って顔が若々しく色気のあるふくらみを表はして、女狂をしていさうな人に見える、その代はり芸者に振られる人ではなく芸者にもてる、金が要る、金が要るから悪い人の企てに引き入れられて、主君をも計る大それた企てに加担する人の様に見えた

 

羽左衛門の水虎の吉蔵、ゆすりの呼吸から黒沼段右衛門に茶代まで拂はせる悪党ぶり大よしなり(中略)町奉行(詮議)での白状から舌を噛み切て落入る迄はチトと云わんとすれど舌が動かず

 

ニ役藤井紋太夫は陰腹を切ていて主君の手に掛る覚悟と懺悔の別れの情ヂット堪へて大出来

 

と得意そうな水虎の吉蔵の台詞廻しが歯切れが好すぎるが為に却って少し難があった様ですが総体的には悪くなく、また以外にもあまり演じた事の無いタイプの悪役である藤井紋太夫がニンと柄も相まって評価が高かった事、旧知の松助、幸蔵たちとの相性も良かった事からも今回の加入は吉と出ました。

 

小石川館庭前の場の幸四郎の光國と梅幸の老女筑波

 
因みにこの演目、六代目尾上菊五郎も得意とした関係で戦後も菊五郎劇団の演目として残り僅か3回ではありますが上演された事があります。最後に上演された1997年から20年以上も経過していますが黙阿弥の作品とあって立役、女形、二枚目、立敵、老役、花車とどの役柄にも均等に良い出番がある演目ですのでまた折を見て復活上演してもらいたいです。
 

田舎源氏露東雲

 

中幕の田舎源氏露東雲は少し前に歌舞伎座の筋書で紹介した田舎源氏と同じ演目となります。

演目の詳細については歌舞伎座の回で触れましたのでそちらをご覧下さい。

 

前に紹介した歌舞伎座の筋書

 

 

今回は光氏を羽左衛門、東雲を梅幸、黄昏を宗之助がそれぞれ務めています。

劇評ではまず冒頭から舞台の上で羽左衛門と宗之助が立っている様を

 

羽左衛門の光氏と宗之助の黄昏とが、芒の野を背後にして、身を寄せながら一のすだれを纏うて立ったあの絵模様が立派だった

 

国貞の絵より抜け出たる様にて美しく延壽太夫父子の浄るりと共に艶麗眼にも耳にも心よし

 

と評価するなどかなり好評でした。

 

冒頭の羽左衛門の光氏、宗之助の黄昏

 

しかし、良かったのはどうやら冒頭までだったらしく古寺の場に入ると

 

古寺の場に幸四郎の番僧は御馳走過ぎて気味が悪し

 

古寺の場では先づ尾形車を描いた壁が不釣合に大きく目につく、この壁が布で張ってあって鬼女が之を破って出るのは只殺風景なだけで凄味は却って殺がれる、これは寧ろ暗い處から音もなくすっと出てくる方が凄味もあり、上品でもあり怪異ではなく人間だといふ理にも合ふ。

 

と折角御馳走(特別出演)で出演した幸四郎や舞台装置の評判が芳しくありませんでした。

そして東雲で出演した梅幸については

 

梅幸の鬼女は一際優れている程に気に入っていたし、立派ではあった、が、ここに問題がある。能楽の面を付け、能楽の衣装を着けているのでああるが、これは三味線の調を基としているのであるから、能楽の形を模倣してこれに迫らうと努めないで、全然踊から工夫して出した形をつけて、この形から、能楽のだしている心持だけを出さうと努めたら如何であろうか。

 

梅幸の東雲、襖の絵の御所車を破って能の葵の上の装束にて現れ出たるところ本行にて立派、寺の縁側を橋掛りとして上手より下手へ廻り、鱗脱しの形にて被(かつぎ)を落とし打杖を振り上げて舞台の方を見込むところ物凄いがあまりに本行掛りで衣装のけばけばしさなど古寺と釣り合わず、踊りの師匠の思ひ付きとしては茶番としてから本行過ぎて大行なり、娘の自害を見て、その刀を取上げて脇腹に突き立てから芝居になって東雲らしくてよし

 

とニンと舞踊の腕前についてはどちらの劇評も評価していますが、同時に揃ってその踊りがあまりに能に行き過ぎていると指摘していて批判しています。梅幸として見れば能の装束を身に纏って光氏に襲い掛かる設定なだけに本格的に能の所作を持ち込んだようですが、それが裏目に出て却って舞踊演目であるこの演目においては不調和を生み出してしまいました。

 

羽左衛門の光氏、宗之助の黄昏、梅幸の東雲

 

この様に田舎源氏露東雲は役者のニンについて申し分ないものの、それが逆に細かな部分においてのチグハグさを悪目立ちさせてしまい不評に終わりました。

 

江戸育お祭佐七

 

大切の江戸育お祭佐七は今回加入した羽左衛門の出し物であり、理想の夫婦役者であった梅幸を相手役に迎えての共演演目になります。

元々四代目鶴屋南北が書いた心謎解色糸という先行演目を基に南北らしい奇抜な設定を省き佐七と小糸の愛想尽かしと小糸を殺害する話に焦点を絞って明治31年に三代目河竹新七が書き換えた演目となります。

今回羽左衛門が佐七、梅幸が小糸を務める他、倉田伴平を幸四郎、巴の三吉を宗之助、鷺坂伴内を竹松、おでこの伝次を幸蔵がそれぞれ務めています。

劇評では待ってました!と言わんばかりに激賞していて

 

羽左衛門、梅幸、幸四郎を中心としたこの芝居は、巧みのない率直な行き方に見えて、芝居が一桁上だといふ感じがする

 

とした上で佐七の羽左衛門について

 

羽左衛門の佐七には非の打ち處もない、姿のすっきりした處、鎌倉がし祭礼の場で腰を掛て頻りに小糸を見ている辺りが特にいい。姿においては勘彌が或いはこの墨を摩すかも知れないが勘彌には恐らくは何処かひねった處が見えて来るだろう、その上口跡では到底足もとにも及ばない。

 

羽左衛門のお祭り佐七、出たばかりですっきりして天下一品なり、藤井紋太夫と水虎の吉蔵で一番目を持ち、中幕で光氏の色っぽいところを見せ、ここでまた加之(おまけ)にこの役をつとめることはこれがホンのおまけに佐七だが、それがおまけといって後(しり)の腐った蜜柑の類でない、天下一品なるは誠によい役者といふべし

 

と褒め称えています。

 

羽左衛門の佐七

 
そして前月の巡業で入念に下準備をした梅幸も
 
梅幸の小糸はこの人にこれだけの若々しさと艶気と柔らかさあったのかと驚く位である。佐七借家の場が特にいい。長襦袢の上へ褞袍を羽織って、髪に手拭をのせた意気で艶(なまめ)きのある姿、佐七に対する恋女房振の生きた味は羽左衛門と分かれていた十年ほどの間にはこの人には見出されなかった美しさである。羽左衛門と源之助と夫婦役になっていると、源之助の繊細さに反映して線の太さだけ目立って生きた人情が二人の間に湧かない憾みががあるが、梅幸を相手にすると生き生きとした情が二人の間に沁み出たり、湧いたりする。
 
と明治44年の別離から7年の月日を経て互いに様々な相手役を迎えて演技する内に互いに互いの良さを痛感した上での役の上だけでない細やかな情が舞台にも反映されていたとこちらも褒め称えています。
 

梅幸の小糸

 
その他に脇で出ている幸四郎や松助に関しても
 
幸四郎の倉田伴平と段四郎が演り、彦三郎が演り、若く翫助が演ったとしてその場合を思ひ比べて見ても、幸四郎には幸四郎の面白さが出ていて、この人が演っただけの甲斐はある。堀端の場で、一度塀の内に逃げ込んでから、又小走りに出てくる所が特に面白かった。重々しい役を演る際に、いつもこの足の軽さが荘重の意を殺ぐ憾みがあったがこの足の軽さが、この際には大いに面白さを添えた。
 
松助のお鉄には鬘と額との間に、芝居の遣手につき纏ふしたたかな意地悪さが表はれていた。これと同じ趣きが役全体を通じて表れていたことを喜ぶ
 
といずれも高評価でこの演目は見物、劇評揃って絶賛する当たり演目になりました。
 
因みにこの演目の序幕の礼祭の場には御馳走として清元延壽太夫と実子の榮壽太夫の親子が役者として出演しました。
彼の名は清元の名人として、歌舞伎においては累の復活上演に寄与したとしてその名を広く知られていますが、実は音羽屋とは深い関係にあり、彼の実弟が残菊物語の主人公で五代目尾上菊五郎の養子になった二代目尾上菊之助に当たります。更に言えば後年に彼の孫に当たる六代目清元延壽太夫が六代目菊五郎の次女と結婚した事で名実共に音羽屋の身内になっています。
そういう関係なだけに音羽屋一門の羽左衛門、梅幸が揃ったこの演目への祝儀として普段なら絶対にやらない御馳走を買って出たそうです。
 

有名な小糸殺しの場

 
この様に羽左衛門加入による上演演目の広がり、他の役者との相性の良さ、そして女房役者梅幸との共演を望む見物のニーズといった様々な面で相乗効果を産み出し、その結果は不入り月と言われていた6月において連日札止め大入りと前年の歌舞伎座同様に素晴らしい成績を収めました。この事は帝国劇場が公式に出した帝劇十年史にも
 
前後の二期(大正6年度)」を通算せば、大凡七十万円(現在の貨幣価値に換算して約18億6千万円)の大収入にして、帝劇開場以来の最良成績也
 
と今月の公演の売上が貢献している事が伺えます。
 
帝国劇場もこの結果に大変満足したらしく、これ以降昭和4年の買収までほぼ毎年最低1回は羽左衛門を招いて公演を行う程のドル箱公演となりました。開場から7年が経ちそれまでの強硬姿勢から一転しての融和政策が花開いた戦前の帝国劇場の歴史の中でも最も華やか一場面となりました。