明治39年10月 歌舞伎座 鴈治郎16年ぶりの出演 | 栢莚の徒然なるままに

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今回は本来なら大正6年4月の歌舞伎座を紹介する予定でしたが、1月公演同様に書いてる途中で関連深い筋書が手に入ったのでこちらを先に紹介したいと思います。
 
※注:今回の筋書に出て来る役者名は当時名乗っていた名跡で記しますのでご注意ください。
 
明治39年10月 歌舞伎座

 
 
今回紹介する公演はタイトルにも書いた様に明治23年6月以来16年ぶりに鴈治郎が歌舞伎座に出演した事が大きな話題を呼びました。
というのも、明治24年の筋書に事の顛末を書いたので詳しくはそちらをご覧いただきたいのですが、出演前から金銭トラブルによるゴタゴタが相次ぎ、まんまと田村成義に丸め込まれ無給で新富座に掛け持ち出演したものの、五代目菊五郎と高砂屋福助からの嫌がらせを受けた上に盛綱陣屋では「大阪からの新参物と共演なんて御免蒙る」と團十郎や菊五郎から共演拒否に遭うなど散々な酷い目にあった鴈治郎はすっかり懲りてしまったのかその年に東京の他の劇場に出たきり以後一度も箱根の山を越える事はなく、道頓堀を中心に活動していました。
 
参考までに明治24年の歌舞伎座の筋書


時は過ぎて明治39年、歌舞伎座の社長となった大河内輝剛は前社長である井上竹次郎の引退公演を企画しその時たまたま上京した知人の新庄屋の勧めもあって鴈治郎を招聘する事が決まりました。しかし上述の一件で歌舞伎座に不信感を抱いている鴈治郎を説得する為に井上と田村成義は井上が可愛がっていた八百蔵、及びこの頃鴈治郎の番頭代わりとして鴈治郎と手を組んだばかりの白井松次郎と共に有馬温泉に鴈治郎を招待して出演する様に説得しました。
資料によってはこの時にサクサクと出演する演目まで話が進んだという説と16年前の一件から全く進まなかったという全く正反対の説がありますが、この時の交渉が7月で2ヶ月の巡業を経て10月には出演している事から見てもかなり急ピッチで話が進んでいる事から前者の説の方が信憑性があると言えます。
余談ですがこの時今回上演する心中天網島の孫右衛門について口頭で八百蔵が演じるという話しで一旦は決まったものの、いざ上演するといった時にはこのタイミングで歌舞伎座に復帰してきた猿之助が演じる事となり八百蔵と鴈治郎の仲が一時気まずい物になったそうです。
 
川中島東郡錦絵
 
一番目の川中島東郡錦絵は以前に市村座の筋書でも取り上げた河竹黙阿弥の書いた時代物の演目となります。
 
参考までに市村座の時の筋書

 

 
話のあらすじについてはこちらをご覧下さい。
今回は武田信玄と小島弥太郎を猿之助(二代目段四郎)、上杉謙信と山本勘助を八百蔵、額岩寺昌明と牛窪大蔵を羽左衛門、村上義晴と馬場信房を訥升(七代目宗十郎)、和田喜兵衛を鴈治郎がそれぞれ務めています。
 
市村座の時にも少し触れましたがまだこの時期は團菊左による初演の舞台を観劇した人がまだ多くいて、若手の勉強芝居とある程度は加減して見てくれる市村座と違って今回は本芝居とあってか厳しい視線が向けられたらしく劇評でも
 
「川中島」は講釈種によって首のよい俳優に画面の見得をさせてまでで、史劇などという喧しい物ではないので、初演の頃とは違う今日の見物は承知しない。今度歌舞伎座を見た人でこの一番目に不平を言わぬ者はなかった。
 
と演目自体の酷評から始まり、役者についても
 
八百蔵の謙信は本願寺の法主らしく
 
猿之助の鬼小島は大味で鱶七になり
 
と非常に厳しい評価が並んで言います。しかし、全ての役者が悪かった訳でもなく中には
 
「(八百蔵の)二役勘助は手負になっての凄味に申分のない出来
 
羽左衛門の額岩寺は輪郭に欠ける處はあったが、先づ上出来の方であり、誰もが楽岩寺と台詞にいへど、羽左衛門自身はがくがん寺と確にいへり、額岩寺の砦あと信州佐久群にあり、一に額岩寺と書けばがくなる事疑ひなし、羽左衛門心ありといふべし
 
と評価されている役もあり、特に羽左衛門はみんな「らくがんじ」と役名を間違える中唯一間違える事なく「がくがんじ」と読めた教養も評価されています。
 
猿之助の武田信玄
 
そして一番目に御馳走扱いで出演した鴈治郎についても
 
鴈治郎の和田喜兵衛の出に八百蔵の謙信『待兼し』の一語に、暗に今度の上京をほのめかしたるは、狂言に障らずして宜し、但しこの和田は水が違って他と調和しなかったのでした。
 
と今回の出演をネタにした台詞は受けた様ですが、演技自体は鴈治郎には慣れない黙阿弥物とあってか演じ方が分からずあまり評価が高くありませんでした。
 
この様に一番目は部分部分は悪く無かったり鴈治郎の顔出し出演自体は受けが良かったものの、総体的にはあまり評価が高くはありませんでした。
 
双蝶々曲輪日記
 
中幕の双蝶々曲輪日記は寛延2年7月に二代目竹田出雲、三好松洛、初代並木千柳等によって書かれた時代物の演目です。今回は玩辞楼十二曲の1つでもあり以前に観劇の記事でも紹介した八段目の引窓が上演されました。
 
以前に歌舞伎座で引窓を観劇した時の感想

 

 
演目の内容等についてはこちらをご覧下さい。
因みに歌舞伎座でこの演目が上演されるのは何気に今回が初でした。今でこそこの段を得意役とした初代中村吉右衛門の流れを継いで当代の吉右衛門が得意役としていますが戦前では鴈治郎の出し物の1つとしてつとに有名でした。
今回は南与兵衛を鴈治郎、濡髪を羽左衛門、与兵衛妻お早を梅幸、母お幸を松助と鴈治郎以外は皆が東京勢での上演となりました。
劇評では16年前の時を知らない為か初見状態だった様ですが鴈治郎について
 
引窓の開閉で昼夜を分つ義理話も、持って廻った古みにて、作としての感興は無かれど、これを面白く見せる鴈治郎に技芸あり、母と女房に向って、新たに侍に取立られし嬉しさを語る機を利用して『至って未熟者をこの様な結構な所へ…』云々の御目見得口上は、金屏風が省けて宜く
 
といつもながらの愛嬌たっぷりの御目見得口上を含め、見物の多くにとっては初見に近い引窓をいつもながらの芸で演じて評価されていますが、その余りに馴れすぎた演技は時に鼻に付く所もあったらしく、
 
 「鴈治郎の南方十次兵衛は侍姿でいながら、都と馴染んだ八幡の町人の趣きを見せねばならない役だが、その点は合格していた。時代と世話のせりふの変り目、これもかっきり出来たが、一、二箇所演り過ぎになった。科しにも同じ弊がある。ー巧者にしていたが、その巧者が過ぎて、性根の外れる所があるのが欠点だ。つまり性根と科白の一致に欠ける所があるから、空々しく見えるような結果を生じたのだ。
 
と演技に慢心を生んだのか所々合わない部分が散見したらしくかなり厳しい評価も見られます。
 
その一方で、手慣れている鴈治郎以外の面々は松助を除いて殆ど演じた経験が少なかった事もあってか緊張した気持ちで演じてそれが奏したのか劇評には
 
梅幸のお早は情があるのが嬉しい。されば先代菊五郎の女房役をしてきたお蔭だ。
 
羽左衛門の長五郎もよく役のしどころを呑込み、力士の悪びれぬ性根を見せたのはえらい。世間は柄ばかり攻撃して芸を見てやらぬは可哀そうだ。
 
と若手2人が評価されている他、お幸を演じた松助に至っては
 
この幕ひっくるめての難役は母のお幸だが、松助が第一の出来栄えで、初中後の情の転移に寸分の隙もないのは実に恐れ入ったものだ。とりわけ、後世の為めの金を出しても絵姿が欲しいかと言われて、体を振って泣く辺りわ、先代にすむまいと言われて、目を瞑り口を開いた顔で向うを見る辺り、妙中の妙といふべきだ。
 
と鴈治郎すら凌ぐ出来栄えだと高評価される程でした。
この様に一部問題はありながらも鴈治郎は好演し他の役者たち、特に松助などは絶賛される程の演技もあってかこちらは見物からの受けも相当良かったそうです。
 
東雲
 

中幕の東雲は三代目桜田治助が柳亭種彦が書いた人気草双紙の偐紫田舎源氏を原作に八代目市川團十郎の為に書き下ろし、嘉永4年9月に上演された源氏模様娘雛形の四幕目、通称末いろは楓褄紅を舞踊物に仕立て直した演目です。

内容としては足利光氏が意中の娘の黄昏と一夜の宿を求めて古寺に寄宿するとそこに鬼女の姿を女が現れ、光氏と仁木良清との立廻りとなり、黄昏が女の正体に気付いて自害すると女も正体を明かし黄昏の母東雲であり命を捨てて光氏が求める宝剣の在処を教えてまた彼女も自害して果てるという形で終わりを迎えます。

初演では光氏を稀代の二枚目で知られた八代目團十郎、東雲を小柄故に風采は上がらなかったものの受けを求めない渋い芸風で幅広い役をこなした六代目市川團蔵、黄昏を江戸末期に舞踊物においてその才を鳴らした初代坂東しうかが務めて大当たりを取りましたが今回は光氏を羽左衛門、東雲を梅幸、黄昏を訥升がそれぞれ務めています。

西の鴈治郎に対して二枚目役者として唯一対峙できるとされた羽左衛門が梅幸と組んだ演目だけに期待が持てそうな気がしますが劇評では

 

羽左衛門の光氏は、柄のある時代の色男役とて、悪からう筈がなく

 

「(羽左衛門が)貧相で光源氏とは受取れぬ。

 

訥升の黄昏、光氏に搦んでの所作の間、色気あって艶なり、

 

訥升の黄昏はこれも品に乏しいので、「田舎源氏」中の人らしくない。

 

と演技そのものは悪くなかったものの、羽左衛門と訥升共に平安貴族としての品には少し足りない所が見受けられたのか評価が真反対に二分しているのが分かります。

 

その一方で評価が然程変わらなかったのが東雲を演じた梅幸で

 

梅幸の東雲が総て五代目模しで、足利を覘ふ北畠の後室として、男々しき女性たるを、巧みに演じ出して好評。

 

と評価されています。

また脇で眞念を演じた菊五郎と喜代之助を演じた猿之助についても

 

菊五郎の眞念は儲役、猿之助の喜代之助も大いに良し。

 

猿之助の喜代之助は御苦労。菊五郎の伴僧は軽くて好い。

 

とこちらも脇役の本文を守っての演技を評価されています。

この様に羽左衛門と訥升こそ賛否両論でしたが、梅幸、菊五郎、猿之助の活躍もあり悪い出来では無かったそうです。

 

因みに完全な余談ですが前に浪花座の筋書で触れましたが、この時羽左衛門は3年前に起きたトラブルの意趣返しを鴈治郎に行い、鴈治郎が激怒して一時出演に黄色信号が灯りそうだったのを同行した白井松次郎の仲裁で和解したものの、この後9年に渡り共演をしなかったというしょうもない事件を起こしていました。
 
この時の詳細について触れた浪花座の筋書はこちら
羽左衛門の性分と元々の非が鴈治郎側にあるとは言え、16年前のトラブルの一件を蒸し返さない様に関係者が鴈治郎の対応に対してピリピリしている中で起こしたこの一件は劇場関係者の肝を冷やしたそうです。
 
心中天網島
 
二番目の心中天網島はもはや説明不要の鴈治郎最大の当たり役となります。今回は河庄となります。
 
大阪での河庄の筋書

 

 

 
因みにこちらも当たり前と言えば当たり前ですが引窓と同じく歌舞伎座では今回が初の上演でした。
今回は紙屋治兵衛を鴈治郎、小春を梅幸、孫右衛門を猿之助、江戸屋太兵衛を八百蔵、五貫屋善六を松助、女房お庄を訥升がそれぞれ務めています。
 
劇評ではまず鴈治郎について
 
鴈治郎の紙治ー幾分か例よりも地味な拵えー形は悪くとも腰の工合から胸肩辺りの色気というものは、確かにボケ二枚目になりきっている。この優の二枚目のこういう形には言うに言われぬ味がある。
 
鴈治郎の治兵衛は、その性格といひ、その態度といひ、東京一流の俳優に、発揮も模倣も到底出来ないものであり、流石に鴈治郎の専売で紙治その者を今の世に生れしめしかの如く、遺憾なく大阪の放蕩町人を現していた。
 
と初めて東京で河庄を出す為か幾分衣装など慎重になっている事や傷めた喉故の台詞廻しは指摘されていますが演技そのものは概ね好意的に受け入れられています。
 
次に初役であり前評判からも懐疑的な声が多かった小春を演じた梅幸については
 
梅幸の小春、容貌は好し、形もほっそりしている上に沈み方も充分だが、煙管を杖にお約束の形が、この姿の好い人としては今一工夫ありたかった。それに、さわりの間も強過ぎて、ややもすると治兵衛と均衝がとれないように思われた。(中略)善六が「ここに哀れな話」というので、一寸襦袢の袖を涙で拭ったが、それが写実を美化した演り方で、頗る情があって好かった。孫右衛門「首縊るのは」と聞く辺り、確かに小春というものを発揮していて嬉かった。ー江戸訛りのせりふ廻しが耳だって、調和しない点が往々ある。ー治兵衛が出ていく時も何も目だった科しもしない所に、悲哀の極に達した趣きが見えて気に入った。ー総て極く沈んだ演り方で、それが浄瑠璃には好く調和していた。
 
と初役故に台詞廻しの点など幾つか至らない箇所はありましたが、総体的には初役とは思えない位の演技力を発揮して当時大阪で小春役を務めていた實川正朝や中村玉七にも劣らぬ小春を演じたとして高評価されています。
 
鴈治郎の治兵衛と梅幸の小春
 
しかし、当たり前ですが悪い筈がない鴈治郎と初役にも関わらず予想以上の好演をした梅幸に対して逆に予想以上に悪かったのが孫右衛門を演じた猿之助で
 
猿之助の孫右衛門は出が余り侍を見せ過ぎるように思う。ーせりふを軽く、少し句頭を切り過ぎるので、恰も絶句するもののわ如く思わせた。その態度も終始世話に砕け過ぎるの感がある。ー柄がああいう人だから、確かに篤実な人のように行けるだろうと予想していたが、思ったようでなかった。
 
猿之助は孫右衛門は町人の侍姿という事を示す程度が解からなかったと見え、初めから底を割ったので失敗した。
 
大阪の「紙治」が百点とすれば、孫右衛門と呼吸が合わぬ為めもあろうが、先づ七十点くらいしか見えぬ。
 
とどうしても大阪の高砂屋福助に比べてお話にならない出来だったらしく物の見事に酷評されています。
 
この他、舞台巧者で知られる八百蔵、松助辺りもあまり経験の少ない近松物、とりわけ大阪弁の台詞廻しに幼少期に大阪にいた八百蔵を除いては苦戦したらしく、あまり普段の実力を思う様に発揮出来ない部分が見受けられたそうです。
 
とはいえ、無類の上手さを誇る鴈治郎にマイナス点はありながらもよく順応した梅幸の演技もあって今回の演目の中では一番見物の受けも良く、当たり演目となりました。
因みに劇中では今回の公演から名題となった市川猿十郎と市川團八の名題披露口上が八百蔵によって行われました。
この内、ここでは市川團八について軽く触れたいと思います。彼は以前に段四郎襲名公演の時に軽く触れましたが兄が四代目市川團四郎、甥が市川伊達蔵と下廻りながらも家族揃って役者一家であり、彼の実子である市川幸升も役者をやった後、この頃は歌舞伎座の頭取を務めていました。
 
参考までに段四郎襲名の時の筋書

 

 
そんな彼は九代目市川團十郎に仕えて舞台では端役を演じる一方で対外的な事務仕事を任されていてかつて七代目市川團蔵が小芝居の劇場に出演した時は市川宗家の使者として破門と当時彼が名乗っていた名跡の九蔵を取り上げようとしましたが團蔵に
 
九蔵の名跡は先代團蔵が七代目團十郎から直々に貰った名跡であり、その名跡を継いだ自分も親の先代團蔵も七代目の弟子だ。九代目の弟子になんかなった覚えもない。七代目に破門されるなら受け入れるが師弟関係でも何でもない九代目に破門される覚えも無ければ九蔵の名跡を取り上げられる権利もない。」(要約)
 
と例の屁理屈節が炸裂させられて何も言い返せず(笑)破門も名跡取り上げも有耶無耶になりすごすごと帰って来たという逸話もあります。
 
そんな彼ですが、他の兄弟子、弟弟子たちが次々名題になるなか師匠團十郎の死後も名題下に留まり続けていましたが、「名題になって親孝行するべき」と思ったらしく晩年に入って漸く名題となりました。
その為、弟弟子に当たる八百蔵も彼に遠慮してか
 
永年名題下に辛抱してきた團八は、他の名題俳優と違ひ、実力を以て昇進した次第にござります。
 
と述べる等少し変わった口上になった様です。
この様に晴れて名題になった團八は大正時代に入っても歌舞伎座に出演し続けましたが、大正5年4月に実子幸升に先立たれるという不幸に見舞われ、同情した幹部役者の推薦もあり役者を引退し息子の後を継いで歌舞伎座の頭取に就任しました。とはいっても既に70を越していた事もあり、実務には殆ど関与せず謂わば名誉職みたいなポジションであり大正8年に天寿を全うするまで頭取職に留まり続けました。
 
勢獅子
 
大切の勢獅子はお馴染み舞踊の演目です。このブログをよく見られている方にとってはまた澤瀉屋か~と思われたかと思いますが今回は違って菊五郎と三津五郎が演じています。
後に市村座の舞踊を一手に担い数々の新作舞踊を産み出した2人の若かりし頃あって元気一杯だったらしく、劇中にも
 
「勢獅子」で菊五郎と三津五郎は呼吸が合って、胸が透いた。
 
と評価されています。
近世劇壇史によると元々は三津五郎ではなく吉右衛門が演じる予定だったものの、病気によって三津五郎に代わったらしく、三津五郎はまたとないチャンスを何としても物にしようといつもに況して熱演したらしく、その様子を舞台袖から見ていた鴈治郎もその上手さに感嘆したそうです。
 
この様に勢獅子や鴈治郎の引窓と心中天網島の大当たりもあり、2日日延べする程の大入りとなり社長在任中は赤字の公演ばかりで一つも良いことが無かった井上竹次郎も最後の最後でようやく大入りとなり引退公演で花を飾る事が出来ました。
また、16年ぶりの出演となった鴈治郎もまた前回とは異なり主演として思う存分演じれた事に感激しながら千秋楽まで演じきり大満足しながら大阪へと帰阪しました。
その後再び大河内に請われて明治42年に再び出演するもその時の出演条件を巡り白井松次郎と田村成義の間に衝突が生じ、鴈治郎も歌舞伎座の技芸委員になっていたにも関わらず帝国劇場の杮落とし公演に出演して田村成義の逆鱗に触れた事、更には歌右衛門襲名問題といったさまざまな要因が重なり長らく東京には来ても新富座にしか出演しない日々が続きました。
 
帝国劇場の杮落とし公演の筋書 

 

 

歌右衛門襲名問題はこちらをご覧下さい

 

 

次に紹介する歌舞伎座の公演はそんな鴈治郎が8年の時を経て再び歌舞伎座に出演した記念すべき公演となりましす。次回もお楽しみにお待ち下さい。