今回は少し前に手に入れた古い歌舞伎座の筋書を紹介したいと思います。
※注:今回の筋書に出て来る役者名は当時名乗っていた名跡で記しますのでご注意ください。
明治24年6月 歌舞伎座
演目:
一、春日局
二、極付幡随長兵衛
参考までに一番最初に紹介した明治23年4月の歌舞伎座の筋書
この上記の筋書からこの公演までの経緯について説明すると4月公演の後、團十郎は京都祇園館の一件以来気まずくなっていた十二代目守田勘彌との関係を修復し新富座に出演する約束をしました。それに対して歌舞伎座は若き日の初代中村鴈治郎を呼び寄せて公演を開こうと計画しました。しかしその計画を聞いた勘彌はすぐさま鴈治郎の引き抜き工作を計画しました。運がいいのか歌舞伎座側の使者である鈴木孝平なる人物が女遊びに夢中になっている事から当時の座主である千葉勝が手付金を使われない様に警戒して送金しなかった事が幸いし鴈治郎側と金銭トラブルになっていた所にやってきた田村成義が金銭を工面して鴈治郎に新富座出演を口説いた為に鴈治郎もあっさり新富座出演を約束してしまいました。結局歌舞伎座側が折れて6月公演は團十郎と鴈治郎が新富座で掛け持ちで出演する事になりました。そして次の7月公演は以前にも書きましたが七代目澤村訥子が出演予定だったのを九代目團十郎が強権を発動して出演できないようにした事件が起こった公演でした。
詳しい内容についてはこちらをご覧ください
その後11月公演は天衣紛上野初花を上演し、菊五郎の直侍に四代目澤村源之助が初役で三千歳を務め、初代市川猿之助が破門を赦され始めて歌舞伎座に出演する、團十郎が途中で休演し左團次が河内山を代演するなど話題性に富んだ公演となり無事大入りとなりました。
源之助の三千歳についてはこちらをご覧ください
そんなこんなで明治23年を終えて明治24年に入り1月公演は四代目中村芝翫、福助親子の初出演に菊五郎が気球に乗るという奇想天外な演目である風船乗評判高閣が評判を呼び大入りとなり続く3月も團十郎の葛の葉が評判を呼んで大入りと出だしから好調な勢いを続けて今回の公演に至りました。
主な配役一覧
ご覧の様に基本的に出演者は3月公演と同じ成田屋一門で固められており、そこに立女形として二代目坂東秀調が加わる形となっています。
春日局
最初の春日局は福地桜痴の書いたばかりの活歴の新作でした。前にも紹介しましたが九代目團十郎が最後に演じた演目でもあります。
團十郎最後の公演はこちら
内容としては「春日局略譜」にある家光が弟ばかり可愛がる両親に疎まれているのを儚み自害しようとするのを止めて大御所家康に命懸けで直訴しお世継ぎの指名を受けた話を基に夫や子との別れの話等を入れて膨らませて作られていて、團十郎は五代目坂東彦三郎亡き今春日局を演じきれる役者がいないとして春日局と家康の二役を兼ねて演じ家康と春日局が対面する文殊庵の場では團十郎にしては珍しく原作では対面する場面を変更して早替わりで二役を演じるなど二役を演じる事に拘りました。
劇評では苦心して二役を演じた團十郎について徳川家康の方は
「家康は毎々の役とて手に入た者なり個程の大役をキザに貫目を付ずして軽々とやる中に徳川家康忽然と彰はれてその人を見るが如し」
とニンを十分に活かして家康そのまま(?)と言わしめるほど評価されています。
ただ、満点という訳では決してなく
「「團十郎」の家康次男国千代に座を下らしめ「其方も相伴致したいか」と国千代に投るは無作法なりとの説をなすものあり、一応尤もなる批難なりいかに二男なれば迚孫は同じく孫にして世嗣ならざるも控えの君なり次男は臣下と同じとはいへど臣下に物を賜ふに会て投げやる体無し斯る振舞は信長こそせめ家康の断じてなさざる處」
と有名な菓子の一件の場面での演技が家康らしくないと批判されています。もっとも、この点に関しては福地の原作に書かれていた訳ではなく九代目がわざわざ入れる様に主張したらしく劇評でもそういった團十郎の行為に対して
「面白くも無き事を我一人承知のやうな高慢くさい顔をして演述さるるは見物の迷惑一ト方ならぬ事なり」
とボロクソ貶されています。
團十郎の家康
一方加役の女形役である春日局については
「團十郎の春日局は申すも管にて、悪からうやうなけれど、格別とや褒めるに当らず、遠洋航海を数度もした老安針(三浦按針)が観音岬を超えるやうなもの(團十郎からすれば春日局を演じるのは何度も太平洋を航海している彼が観音岬を超えるのは楽々なのと同じという意味)にて、一向苦労なしにスッと出て来て、首を振りながら口を曲げれば、自ら春日の局ぢゃ、敬服敬服」
と悪くはないものの、取り立てて良くもなく普通という評価でした。最も團十郎自身もその事は自覚していたらしく上記でも述べた様に
「私が家康をして、故人(五代目坂東)彦三郎に春日局をさせたら、文殊庵の場はさぞかし宜からう。」
と楽屋を訪ねて来た人に語っていたらしく後に歌右衛門が二役を分けて八百蔵に家康を演じさせましたが、團十郎もまた同じ構想を抱いていたものの、当時の役者の力関係から断念した事が伺えます。
團十郎の春日局
そして團十郎以外の役者についても劇評は触れていて後年に家康を務めるものの、この時は春日局の夫稲葉佐渡守(正成)を演じた八百蔵は
「何となく品位薄くして、春日はどの烈婦の夫とはちと、如何と思はれる處無きにしもあらねど服を改めて高平の短刀を渡し、お福の方に教訓のあたり、述懐のあたり、例の朗らかなる調子にて、雄弁水の流れる如く、凛として生気ある處、真に金吾中納言が股肱と頼まれし、稲葉佐渡守正成の貫目は、この時に至って始めて現はれたり。正々堂々塁を対し、更に見劣りなきは寧声児後世畏るべきなり」
と少々品位に欠ける所はあったものの、台詞廻しなどにおいては実直な武士そのものだったらしく評価されています。
そして八百蔵以外にも
「「秀調」の御台所、別に斯々といふ科さも無ければ可否をいふ点も無し」
「「猿之助」の曽根崎五郎いかにも詫間吉蔵といふお庭の者らし過ぎて甲賀流の忍術の達人と広言吐く程の武士といふ骨柄の見えぬは残念なり。」
「「新蔵」の梅の戸大儲の役なり五郎と組んで一ト思ひに勇ましく女の仕打を捨て懸るは大いに好胸のすく程痛快で有りたり」
とそれぞれ出来不出来があった様です。
オマケで秀忠を演じた市川権十郎
この様に福地の作品にしては團十郎の変な入れ事を抜きにすれば元々二次資料にある逸話をネタにした事もありそこまでつまらない展開にもならず、團十郎、八百蔵、新蔵などの好演もあり評価は珍しく良かったそうです。
極付幡随長兵衛
次の極付幡随長兵衛は明治14年に河竹黙阿弥が書いた世話物の演目です。今も上演される演目ですがこの公演から弟子の河竹新七が輔弼し序幕に公平法問諍が加えられて我々がよく知る演目の形となりました。
内容は知っている方も多いですから省略させていただきますが、今回は幡随長兵衛を團十郎、水野十郎左衛門を権十郎、長兵衛の女房お時を秀調、唐犬権兵衛を八百蔵と主要な役は明治14年に初演した時と同じ配役で務めました。
劇評では4人の中で唯一初演以降も明治17年6月の新富座、明治20年8月の千歳座でも演じ今回が4度目となる長兵衛を演じ、公平法問諍を付け加えさせた團十郎について
「團十郎の長兵衛は既に定評のある役で、勿論悪からう筈もなく、村山座の舞台の場で、東の高土間の二から飛び出して来たのが、珍しく、観客にも大受けであった」
と序盤の公平法問諍は舞台で行われる劇中劇の村山座の舞台という設定に対して劇場という装置を十分に活かして客席から登場する演出が受けて好評でした。
また團十郎と言えば湯殿殺しの場での長兵衛の死に様について養父の河原崎権之助が強盗に殺害された時の断末魔を忠実に再現して喝采を浴びた事は有名ですが、その点についても
「一層凄みが加はったといふ評判」
とこちらも好評でした。一方前回と比べて写実重視が行き過ぎたのか水野邸に赴く際の衣装がこれまでの袴羽織ではなく柿色の裃に変えた事については
「如何といふ好みか、一向解らぬ」
と批判される場面もありました。とは言え、改変も演技や舞台の進行の妨げになる程の物ではなく、演技は抜群だった事もあり好評でした。
團十郎の幡随長兵衛
市川権十郎の水野十郎左衛門