今回は久しぶりに帝国劇場の筋書を紹介したいと思います。
大正5年11月 帝国劇場
演目:
一、景清
二、細川忠興の妻
三、本朝廿四孝
四、薫樹累物語
五、廓鞘当
六、菊人形
前回の帝国劇場の紹介でも書きましたが役者のマンネリによる収益の低下を憂いた山本久三郎は市村座と盟約を結んで3月と8月の引越公演を実現させただけに留まらず、松竹とも提携し横浜座での羽左衛門、梅幸の共演を実現させた後に提携を結び10月の歌舞伎座公演に梅幸、松助を貸し出して大当たりを取ったのは前にも紹介した通りです。
梅幸、松助が出演した歌舞伎座の筋書
そして今回その見返りとして11月、12月に松竹の役者を借りての顔見世、師走公演を打つ事になりました。
まず11月は歌舞伎座の技芸委員長である歌右衛門を借りての公演でした。
歌右衛門にとっては開場に際して誘われた事もあり一時は乗り気だったものの、諸事情により立ち消えになりその後横浜座の回で書いた様に帝国劇場の取締役で大倉財閥の創設者の1人でもあった大倉喜八郎の喜寿を祝う祝賀会の余興公演に呼ばれて舞台に立った事は有りましたが、通常公演に出演するのはこれが初めてでした。歌舞伎座では梅幸に付き合った演目もあった歌右衛門でしたが、今回はゲストとあってか細川忠興の妻と本朝廿四孝、廓鞘当で主役を務め梅幸がお霜、濡衣で付き合うなどあくまで自分が主役という立場を崩さなかったのが興味深いポイントでもあります。
景清
一番目の景清は歌舞伎十八番の1つとして有名な演目になります。
元々二代目市川海老蔵(二代目市川團十郎)が元文4年に初演した演目で牢屋に閉じ込められた景清が岩永の人質である娘へ拷問を掛けようとするのに激怒して牢を破って逃亡するというシンプルな荒事となります。
しかし、この演目は五代目市川海老蔵(七代目市川團十郎)が天保13年3月、河原崎座で演じた際に来ていた鎧が本物であったというイチャモンを付けられて理由で江戸追放の憂き目にあってしまいました。
その後五代目海老蔵の長男の八代目團十郎は一度演じたものの、五男である九代目團十郎は父親が追放される要因を作ってしまった景清を演じる事はなく、いつの間にか幻の演目になりかけていました。
そんな中、明治41年11月に今回も演じている七代目松本幸四郎(当時は八代目市川高麗蔵)が七代目が演じた時の台本を手に入れて66年ぶりに復活上演させました。
そんな事もあり、明治41年以来8年ぶりの上演となりました。
(左から順に)福助の人丸、宗之助の阿古屋、幸四郎の景清、梅幸の秩父重忠、幸蔵の岩永宗連
劇評はというと
「至極大まかなものもとは大薩摩長唄なりしを常盤津にせしが新しみなるべし(中略)景清は牢を破って角柱を振って士卒を追散らし(中略)重忠が『悪七兵衛景清』といふと景清が『庄司重忠』と互ひに挨拶して、さらばさらばといふ段取りが本文通りにて聞よかるべし」
「ゴタゴタしているだけ。」
と復活時同様にシンプル過ぎると思ったのか脚本通りやっている事以外は長唄を変えた事について言及しかしていません。
この劇評を書いたのは劇評家の中でも長老格であった饗庭篁村ですが彼ですら江戸時代当時のままの歌舞伎については既について行けていないのが分かります。
この事からも分かる様に江戸時代が終わってまだ半世紀も経たないこの大正5年の時点ですら既に歌舞伎が江戸時代までの大芝居から写実重視へと大きく変質している事が伺えます。
一方で景清を演じた幸四郎はというと
「二代目團十郎といふ面影もあって声柄も大きく立派この上なし当代第一の景清といふべし」
「幸四郎は(同月に市村座で景清を演じている)菊五郎より柄がよし」
とハラも何も関係ない荒事だけに体格その他諸々の面で恵まれている幸四郎には打ってつけだったらしく好評でした。
もし彼が生まれてくるのが江戸時代であれば荒事の名人として下手したら今以上の評価を得ていたのかも知れません。
細川忠興の妻
続く一番目の細川忠興の妻は外題から見ても分かる様に岡本綺堂の新作で関ヶ原の戦いの前哨戦の中で大阪の屋敷に攻め込まれ切支丹であった事から自害する事が出来ず介錯による死を選んだ細川ガラシャを描いた演目です。
上記の様に史実のガラシャは自害を拒み他殺での死を選びましたがいくら史実を基にしていてるとはいえ、そこは歌舞伎で今回ガラシャは信仰と武士の妻としての忠義の2つ生き方に悩む女性として描かれています。
言うまでもなくこの手の烈女物が得意の歌右衛門がガラシャを務め、脇を幸四郎が家老でガラシャの介錯を務めた小笠原昌斎、宗十郎が小西行長、梅幸はガラシャに仕える老女お霜、宗之助が川北石見、松助がハンセン病に罹った巡礼の老爺与次兵衛と帝国劇場の幹部全員で付き合う豪華な配役となっています。
劇評では
「切支丹信者にて宗門の掟として自殺する事はならぬといへど自殺せざれば武士の妻たる道が立たぬゆえ宗旨を捨て武士道の道に従ふといふにて暮れ六つの鐘、南蛮寺の祈祷の鐘「二つの鐘に一つの命」などの名句あり、これもドンチャンの陣鐘も交り、(中略)皆それぞれ新し味を出したり」
「古き型には引き付けてしまったけれどさてこの優ならではの味はたっぷり」
と短くはありますが先月の淀君とは異なる烈女を演じ他の役者共々評価されています。
歌右衛門のお玉、梅幸のお霜、宗十郎の小西行長、幸四郎の小笠原昌斎
また劇評では付き合った梅幸のお霜についても
「ちと色っぽいが仕事は確かで上出来」
とお玉に仕える局を好演して評価されている他に小笠原昌斎役の幸四郎も
「一人合点だが台詞を自然に言わんと努めてる」
と新歌舞伎の演目にはあまり縁がないにも関わらずまずまずの評価をされています。
本朝廿四孝
そして中幕では歌右衛門の十八番の一つ本朝廿四孝が演じられました。
1月の歌舞伎座とは違い十種香の場のみの見取上演となりました。
歌舞伎座の時の筋書
参考までに十種香を観劇した二月大歌舞伎の記事
そして勝頼にはこの頃不遇がちであった宗十郎が抜擢され、梅幸が濡衣、幸四郎が原小文次、松助が長尾謙信をそれぞれ務めています。
見取とあって歌右衛門もかなり余裕があったのか
「色気がポタポタ。(中略)興行師側が望むのも頷ける」
「麗しくもあり、動きもありて大によし」
といつもの気品と貫禄を称賛されています。
一方、濡衣で付き合った梅幸は
「取持振が馴れたものにて腰元ばなれがしたり」
と帝国劇場での座頭の貫禄が付いた故なのか良い意味で役不足であると評価されています。
歌右衛門の八重垣姫、梅幸の濡衣
そして久しぶりに勝頼を務めた宗十郎は和事師としての腕を見せたらしく
「持味で見せたる上出来」
「何処へでも勝頼で通用する役がら」
とこちらも好評でした。
一方で経験が少ない時代物な上にニンにない長尾謙信を務めた松助は
「兎角をいはぬ物」
と既に70歳を超えていた松助には少々荷が重かった様です。
薫樹累物語
二番目の薫樹累物語はこの前歌舞伎座でも上演された色彩間刈豆の大元に当たる演目です。元々この演目は安永7年に伽羅先代萩を元に書かれた伊達競阿国戯場という演目の一部分を独立・再構成させた物であり、累が殺される前後に重点が置かれている色彩間刈豆と比べると累が殺される前までの話に重点が置かれている事から通称「身売りの累」とも呼ばれています。
色彩間刈豆を梅幸と羽左衛門が大正9年に復活させて大当たりを取り以後人気演目になったのは有名な話ですがその4年前に身売りの累を復活させていたことは意外にもあまり知られていません。
前二つでは歌右衛門に付き合い脇に収まっていた梅幸でしたがこの演目では自分が座頭と云わんばかりに熱演したらしく劇評には
「梅幸の累、身売りから土橋の殺されまで真情にて、幽霊になりての引戻しも物凄く、直ぐに腰元姿に替わってだんまりの立廻りまで大出来大よしなり」
「殺しの場より家の場の方がよし」
「良人に別れの愁嘆、鏡を見ての驚き、それからの嘆き何処も十分面白し」
と五代目直伝の幽霊役を含め情念の宿る累を演じきり歌右衛門に負けず劣らず絶賛されています。
また与右衛門を務めた幸四郎も
「幸四郎の絹川与右衛門も相撲上りといふ武士の腹ありてよく」
「情愛もありその人柄もありて失礼ながら存外の出来」
とニンにない世話物の色男を予想に反して上手く演じ、それまで癩病の老人やら長尾謙信やら損な役やニンに合わない役を演じさせられていた松助も
「大いに松助の技芸を発揮して見物を悦ばしてくれたり」
と世話物とあって水を得た魚の如く活き活きと演じて評価されています。
梅幸の累、幸四郎の与右衛門
この様に歌右衛門に負けてはいられないと意地があったのか予想外の好演をした幸四郎を含め主要幹部の熱演もあり、こちらも当たり演目になりました。
今回の成功が5年後の色彩間刈豆の復活上演に大きく影響を及ぼしていた事は云うまでもありません。
廓鞘当
菊人形
大切の廓鞘当と菊人形は画像を見ても分かる様に舞踊演目ですが、注目すべきはこの頃既に鉛毒により既に大芝翫から教わった数々の舞踊演目を演じれなくなりつつあった歌右衛門が出演している事です。
劇評にも
「幸四郎の伴左エ門に宗十郎の山三、歌右衛門の留女にて錦絵風の大芝居」
「少々食い足らない。歌右衛門の留女は(前月の歌舞伎座で梅幸に2つの演目で付き合わせた礼もあって出た為か)要領を得たような得ぬような演技」
と踊りの素養がある幸四郎、宗十郎を相手に不自由な体ながらも何とか演じたようです。。
詳しくは調べていないので断定はできませんが歌右衛門が舞踊演目に何とか出れたのはこの頃がギリギリなので恐らく最後、の舞踊物の出演であったと思われます。
歌右衛門のお駒、幸四郎の伴左エ門(右)、宗十郎の山三(左)
この様に本朝廿四孝と累の当たりもあり、珍しく歌右衛門が舞踊まで披露したという事もあってか好奇にそそられて多くの見物が押し寄せたらしく、歌舞伎座ほどまでは行かなかったものの大入りとなり2回目の提携公演も成功に終わりました。
提携が持ち上がった当初は出演に対し並々ならぬ意気込みを見せた歌右衛門でしたが、実際に出演して見ると満足してしまったのかはたまた求めていたものと違ったのか、あるいは健康面での余裕がなかったのか歌右衛門これ以降は8年後の歌舞伎座が完成する直前である大正13年11月に再度出演したのみでした。
一方の帝国劇場も帝国劇場で既に老境に差し掛かかり、役の上でも梅幸と被ってしまう歌右衛門をわざわざ役納めに苦労してまで呼ぶメリットが無かったのか帝国劇場は翌大正6年6月に梅幸の相手役として羽左衛門を迎えて大当たりをして以降は毎年6月に羽左衛門を呼ぶ様になりました。
僅か2回に終わってしまった歌右衛門の帝国劇場への出演ですが、松竹と帝国劇場の提携においてはこれ以上ない貢献をした事から見てもこの公演も大正の歌舞伎の歴史に残る公演だったと言えます。