大正5年3月 横浜座 羽左衛門、梅幸5年ぶりの共演 | 栢莚の徒然なるままに

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今回は前月の市村座、新富座に勝るとも劣らない大正時代の歌舞伎の歴史上に残る公演の筋書を紹介したいと思います。
 

大正5年3月 横浜座

 
演目:
ニ、茨木
 
横浜市に大正時代まであった横浜座の筋書です。
まず、横浜の歌舞伎の劇場について説明したいと思います。
幕末に結ばれた日米修好通商条約により開港した横浜は貿易業により東京に次ぐ関東の経済都市として栄え明治時代に入り全盛期を迎えました。そして都市が栄えると必然的に遊興地も発展し、官許の芝居小屋が江戸三座以外にも許可されると雨後の竹の子の如く全国各地に芝居小屋が作られ始めました。横浜もその例に漏れず下田座さの松、湊座と賑座(横浜朝日座)、喜楽座、羽衣座などが次々と建てられました。
 
在りし日の喜楽座
 
明治5年には鉄道が新橋から横浜まで開通していた事もあり大阪の役者における神戸の劇場と同じく東京の役者は頻繁に横浜の劇場に出演するようになり明治16年以降は東京以外の劇場では京都と大阪に1度ずつ出演した以外は絶対に東京以外の劇場の出演を断っていた九代目市川團十郎も何度か出演していて、明治20年代後半に入ると五代目尾上菊五郎はいつも決まって横浜蔦座で正月1日から横浜で半月公演を行った後に歌舞伎座に出演し、対抗するかのように初代市川左團次も明治座を開くまでは横浜湊(港)座で同じく正月1日から公演を打つなど東京に次ぐ主要マーケットとして成立していました。
 
しかし、蔦座と湊座の時代は長くは続かず蔦座は明治32年に焼失してしまい菊五郎の跡を継いだ梅幸、菊五郎、羽左衛門らが出演する劇場は羽衣座に受け継がれ歌舞伎座出演の合間を縫って時折出演をしていましたが、明治44年の帝国劇場の誕生により音羽屋一門が分裂するとそれも途絶えました。
一方上記の画像にある喜楽座は芝翫、左團次、團蔵などの東京の役者の定期出演は続いたものの、次第にどの劇場も新派か小芝居、あるいは当時徐々に広まり始めていた映画など多種多彩な公演が行われる様になっていました。
そして喜楽座の座主であった轟由次郎の力に陰りが見え始めたのと松竹が歌舞伎座を手に入れた事もあり定期出演は大正2年を最後に消滅してしまいました。
 
さて今回紹介する横浜座も元々は雲井座という名称で明治34年に現在の横浜市中区曙町に作られました。
私が持っている横浜開港資料館所蔵の芝居番付一覧を見てみると雲井座では無名の新派もどきの芝居などを上演していて歌舞伎などは殆ど上演しておらず言わばあまり格の高くない劇場であったようです。
その後明治36年に横浜座と名を改めて再出発をして明治39年1月には二代目左團次(当時は莚升)、小團次、時蔵、歌昇親子が、明治42年2月にも左團次一門が出演したりもしていましたが、程なく新派専用の劇場になったらしく大正4年8月に松竹が借り受けるするまでは無名の新派俳優が長期間公演をする小芝居同然の劇場となっていました。
しかし、松竹が借り受けた事で当時専属で所属していた役者達を解雇して横浜における松竹の橋頭堡の劇場として生まれ変わる事になり、再開場の時には歌舞伎座から猿之助、延二郎、芝雀などが出演するなど盛大に行われ一気に座格を上げる事になりました。そして大正4年12月には「巡業」という名目で市村座の六代目菊五郎一門が出演したのを皮切りに、今回の公演の前月の2月には帝国劇場専属の幸四郎と宗十郎がまた「巡業」という名目で出演しました。
何故、れっきとした松竹の劇場である横浜座に市村座や帝国劇場の役者が公然と出演できるの?という疑問が生まれると思いますが以前にも紹介した様に当時の劇場の専属契約は非常に緩い縛りで「東京の」本公演にきちんと出演し、他の劇場に勝手に出演しなければ問題は無く、「横浜の」松竹の劇場に「たまたま巡業で」出演したという契約の抜け穴を突いたような建前で出演する事が可能となっていました。
 
地方巡業の仕組みについてはこちらをご覧ください


 

大正時代の横浜曙町辺りの地図
赤丸で囲んだあたりにありました。
 
地図に赤く引かれている線は当時横浜を走っていた路面電車の路線図であり、停留所から近くに位置する事からもかなりアクセスの良い場所にあった事が伺えます。そして今回の公演を機に正式に松竹に買収されて直営の劇場としてスタートを切る事になりました。
 
在りし日の横浜座
 
さて、説明が長くなりましたが漸く本題に入りたいと思います。
大正2年の歌舞伎座を取得後、利害関係が衝突するようになった事から自然と疎遠になっていた歌舞伎座と帝国劇場でしたが、大正4年にそれまで歌舞伎座と手を組んでいた市村座が帝国劇場に鞍替えした事でそれまで続いていたバランスの均衡が急に崩れ始めました。
当時帝国劇場を事実上取り仕切っていた専務の座は西野恵之助から山本久三郎に代わっていました。彼はややもすると少々強引でもあった西野とは異なり、極めて合理的な思考の持ち主で失敗に終わったもののローシーを招いてのオペラ公演の上演や勧進帳の三座競演、そして開場以来犬猿の仲であった市村座との相互出演協定を結んだのはこの人の発案によるものでした。
しかし、山本の考えは更に先を行っていてこれまで頭を痛めていた専属俳優のマンネリ問題を解決すべく取ったのは歌舞伎座の専属俳優を出演させるべく松竹とも相互出演協定を結ぶ事でした。
しかし、上手く行った市村座の様に行くとは限らない可能性を考慮してなのか双方ともに一度実験を兼ねて双方の専属役者を共演させてみようという試みが生まれ松竹、帝国劇場の双方が「巡業の為、黙認」という建前で行われたのがまさに今回の公演でした。
 
そして懸案の共演相手として白羽の矢が立ったのが十五代目市村羽左衛門と六代目尾上梅幸でした。
五代目菊五郎の甥と養子という関係もあって若かりし頃から幾つもの演目で恋人役や夫婦役を演じ、絶世の夫婦役者と呼ばれていた2人でしたが、明治44年に役不足等の諸々の問題から梅幸が帝国劇場に移籍して以降共演は絶えたままでした。
 
そんな状態が続いていた大正2年10月26日から29日にかけて帝国劇場の取締役で大倉財閥の創設者でもあった大倉喜八郎の喜寿を祝う祝賀会が帝国劇場で開かれ歌右衛門と羽左衛門が呼ばれて祝賀会の余興で行われた船上山と元禄花見躍の2つの舞踊演目で帝国劇場の専属俳優と初めて共演を果たしたという出来事がありました。その時に久しぶりに再会した羽左衛門と梅幸の2人は
 
羽左衛門「いつか一緒になって芝居をしてみたいね
 
梅幸「私もそう思うがいつそんな時が来るだろうね
 
と語り合っていた事もあり、2人の共演を望む見物も数多くいたことから今回の顔合わせが実現する事になりました。
そんな訳で座組は羽左衛門、梅幸それぞれの一門に初代中村又五郎が加わる形となりました。
 
伽羅先代萩

 
まず一番目の伽羅先代萩から2人の共演の場があり、梅幸が乳母政岡と細川内記、羽左衛門が八汐と仁木弾正をそれぞれ演じています。
東京から程近いとはいえ本来なら一地方劇場に過ぎない横浜座の劇評は地元新聞以外では掲載されないのが常なのですが、今回に限っては羽左衛門と梅幸の共演とあって多くの見物や劇評家も東京から横浜座に足を運んだらしく劇評が残っています。
それによると
 
帝国劇場の山本専務と市村座の田村壽二郎に廊下で会った
 
と双方の劇場からトップが視察に来るほどで関係者からもいかに今回の公演に対する感心が高かったが伺えます。
 
梅幸の乳母政岡
 
因みに舞台の方はと言うと劇評家が観劇した2日目で裏方が慣れていなかったらしく、御殿の場で降りるはずの御簾が降りず、刺されている八汐役の羽左衛門が「おい、御簾はどうした?」と地声の男声且つ大声で叫ぶなとミスが結構見受けられたそうですが、見物は珍しいチョンボを見れた故か2人の共演に嬉しいのか大喜びで見ていたそうです。
 
羽左衛門の仁木弾正

 
因みにこの伽羅先代萩は羽左衛門の役を幸四郎が引き継ぐ形で翌月の帝国劇場でも上演されました。
 
茨木

 
引き続き中幕の茨木でも2人は共演し、羽左衛門が渡辺綱、梅幸が茨木童子を演じています。
演目の内容については市村座の回で紹介しましたのでそちらを参考下さい。
 
市村座の筋書

 

 

羽左衛門の渡辺綱と梅幸の茨木童子

 
休む間もなく再び顔を会わせた2人に見物は喝采しこちらも出来不出来云々を差し置いて盛り上がったそうです。
 
柳巷春着薊色縫

 
そして二番目の柳巷春着薊色縫でも2人は三度共演し羽左衛門が清心、梅幸が十六夜を演じています。
この演目は以前紹介した初演の時にも絶賛された演目で前二つの演目では敵対する役ばかり(笑)演じていた2人が恋人役で登場した際には場内が割れんばかりの歓声と掛け声が飛んだらしく、
 
見物の喜びは更に増してまるで喧嘩のようだった
 
大向ふから『いよ、御寮人』なんて奇声を発する
 
と書かれています。
 
初演の時の歌舞伎座の筋書
 
羽左衛門の清心と梅幸の十六夜
 
そしてこの演目も伽羅先代萩と同じく梅幸の役を歌右衛門に差し替えて翌月の歌舞伎座で再び上演されました。
この事から見ても今回の公演は各々の出し物を本公演に掛ける前のリハーサル的な意味合いもあったようです。
 
アラビア夜話

 
大切のアラビア夜話は榎本虎彦の新作で私が筋書を持っていない大正4年4月の歌舞伎座で初演された演目です。
これまで出ずぱっりだった羽左衛門と梅幸は流石に出演せず初代中村又五郎、四代目片岡市蔵、六代目嵐吉三郎が主演を務めています。
こちらは有名な千夜一夜物語に収録されている「目覚めさせられた睡眠者」という短編を原作に明治時代の日本の話に置き換えて書かれていています。
内容としてはお金に困った黒井夫婦が互いに死んだふりをして青山伯爵夫婦から香典を騙し取ろうとするもアクシデントで生きている姿を見られてしまうドタバタの挙句に青山伯爵夫婦がどちらが死んだのかを巡って夫婦げんかになり、両者が「二人のうちどちらが先に死んだのか教えてくれる者があれば、千円を取らせよう」という提案をしたところ夫婦揃って「私の方が先だ」と思わず叫んでしまい死んだふりがバレるという喜劇テイストな作品です。因みに初演時は死んだふりをして金銭をだまし取ろうとする黒井赤太郎とおかめ夫婦を羽左衛門と梅幸が演じていて何気に2人に縁がある演目でもあります。
元々前に上演された柳巷春着薊色縫の重たい結末を払拭する意図もあって上演されていた事もあり、見物を笑わせさえすれば良い事もあり劇評家もこのアラビア夜話については何も触れてもいません(笑)
 
 
既に述べた様に5年ぶりの羽左衛門と梅幸の共演という話題性だけでわざわざ東京から見に訪れる見物もいたことから分かるように連日大入り札止めになり共演した2人はもとより、大谷竹次郎と山本久三郎もこの結果に大変満足し無事相互出演協定を締結する事になりました。
この後、今回の横浜の二匹目のドジョウを狙おうと歌舞伎座での羽左衛門と梅幸の共演話が持ち上がり、10月に早くも実現する事になります。