大正6年12月 南座 三代目中村雀右衛門襲名披露 京都編 | 栢莚の徒然なるままに

栢莚の徒然なるままに

戦前の歌舞伎の筋書収集家。
所有する戦前の歌舞伎の筋書を週に1回のペースで紹介しています。
他にも歌舞伎関連の本の紹介及び自分の同人サークル立華屋の宣伝も書きます。
※ブログ内の画像は無断転載禁止です。
使用する場合はコメント欄やtwitterにご一報ください。

今回は大正6年の締めくくりにこの筋書を紹介したいと思います。

 

大正6年12月 南座

 

 

演目:

一、九代将軍の母
二、碁盤太平記
三、高時
四、本朝廿四孝
五、元和歌舞伎
六、京屋の娘
七、勧進帳
八、時雨の炬燵
九、二人袴

 

前年に続き南座の顔見世公演となります。10月浪花座から始まった襲名披露公演は11月の神戸中央劇場、名古屋末広座を経て12月の南座、1月の歌舞伎座、2月の明治座、3月の新富座と6ヶ月行われましたが今回はその折り返し地点に当たります。

 

今回は雀右衛門襲名披露の一環という事で鴈治郎一門に東京から前年と同じく松本幸四郎も出演し華を添えています。

 

主な出演者一覧

 
演目一覧を見て頂いてもお分かりいただけるかと思いますが、兎に角演目数が多く表紙にも左側を見ると
 
昼の部:8時半乄(開始)
 
夜の部:5時半乄
 
と書かれていてそれぞれ6時間以上に渡り上演し、夜の部には冒頭に口上も付いていて大切の二人袴が打ち出したのは午後11時50分になる程の長丁場の公演となりました。
 

九代将軍の母

 
まず最初の九代将軍の母は堀美雄原作、武江浜二郎が補綴した新作の時代物の演目で前月の名古屋末広座で初演されたばかりで今回が2度目の上演でした。堀美雄と聴き慣れない名前ですがこのブログでも幾度となく紹介してきた榎本虎彦の弟子に当たり師匠の作風を真似してか新歌舞伎物の演目を幾つか書いている人物で、武江浜二郎は鴈治郎一座のお抱え作者であった大森痴雪の別名義となっています。今回は日本の歴史においては重要な事件でありながらも歌舞伎では元寇に並び中々ネタにされない応仁の乱を題材に乱を起こす原因を作ったとされる日野富子を主人公に我が子義尚可愛さを山名宗全に付け込まれ応仁の乱を引き起こして苦悩するという話に妹鶴姫や彼女に恋をして大罪を犯す家来を絡めて描いています。
因みにこの演目は一応堀が原作となっていますが実は榎本の未完成だった脚本を堀が輔弼して、それを更に大森痴雪が脚色しており義視の西軍出奔を描くなど所々で史実に拘った節を見せていますが架空の人物は兎も角、あらすじにも「味方ではない細川勝元に~」とありますが史実では彼女はこの乱の最中は一貫して勝元の側にいる事から時代考証は途中からかなりグダグダであるのが分かります。
今回は富子を福助、富子に恋をする熊谷直定を魁車、鶴姫を新升、足利義政を右團次、熊谷直純を璃珏がそれぞれ務めています。
南座のある京都が舞台である事、事前に上演して演目を慣れさせた事、配役からも分かる様に次世代の若手に演じさせるなど気合の入った演目となっていますが劇評では
 
福助の容姿と態度はかねてより自分の想像した上臈と大分間隔が有るのを認めた。(中略)品格の乏しき事や年配の至らぬ点でこの富子は全然失敗している。
 
魁車の熊谷源三とかも凄味の抜けた清玄法師
 
璃珏の左衛門とやらも人情の薄い弥右衛門
 
と貫禄の足りない福助や魁車はいざ知らず、熟達した脇役で知られる璃珏までもが不評と言う総崩れ状態でした。
そもそも歌右衛門あたりがニンにぴったしの日野富子を年齢こそ相応とは言えこの手の女傑役の経験が少ない福助に当てた事や目立ちたがり屋の魁車に無理に立役を任せるなど演目ありきで役者の相性を無視したが故にこの様な結果になったと言えます。また劇評では演目そのものについても大詰の錯乱しかけた富子が義尚を見て正気に戻り義尚を抱き締めて終わるという何とも煮え切らない結末や中盤の展開の部分が冗長に感じたらしく「充分に補綴が必要」と批判しています。
この様に折角の新作も榎本が端から富子に歌右衛門に充てて書かれているだけにニンの違う福助に演じさせた時点で失敗するのは目に見えていたと言えます。
また、現地物とはいえ、京都の人からしてみればハタ迷惑な戦争でしかなかった応仁の乱を題材にされても共感は呼び辛く批評にも見物にもそっぽを向かれる失敗作となりました。
 

碁盤太平記

 
続いて上演されたのが玩辞楼十二曲の一つ、碁盤太平記でした。
 
参考までにこれまでブログで紹介した十二曲の演目
 
河庄

 

 

時雨の炬燵

 

 

封印切

 

 

廓文章

 

 

敵討襤褸錦

 

 

椀久末松山

 

 

恋の湖

 

 

あかね染

 

 

土屋主税

 

 

双蝶々曲輪日記

 

 

今回の碁盤太平記は土屋主税と同じく赤穂浪士の討ち入り事件を元にした演目ですが、松浦の太鼓を鴈治郎向けに書き換えた土屋主税と違い、近松門左衛門によって作られたのは宝永7年と討ち入りからまだ8年しか経っていない時期に書かれていて内容こそ幕府を憚ったのか浅野長矩の刃傷の部分については一切触れずに世間の関心が高かった吉良邸への討ち入りの部分のみに絞り、寺岡平右衛門の話と妻お石との決意を込めた離縁、そして討ち入りと内蔵助が直接関わる話のみと至ってシンプルですが設定を太平記に仮託する部分等は後続作品の仮名手本忠臣蔵に受け継がれる等、一連の忠臣蔵物に大きな影響を与えました。
今回上演する碁盤太平記は近松の原作に鴈治郎贔屓の小説家の渡辺霞亭によって鴈治郎に合わせて脚色が加えられた形になっています。
具体的には由良之助がお石に離縁を申し渡して仇討ちに向かう場を中心にしていて出来た糟糠の妻に迷惑をかけまいと離縁して義母の打擲にも耐えて仇討ちに向かうという鴈治郎が近松物で幾度と無く演じてる辛抱立役に当て嵌めた物になっています。
こうなると鴈治郎は無類の上手さを発揮するのはご存知の通りで劇評でも
 
女房の真意の諫言、義母の位牌の打擲、酔狂を装うての離別を迫る周到の深謀遠慮、この内に夫婦親子のやさしき情愛を義理に絡めての一横一縦(中略)無意味の内に筋を運ぶ所はこれ鴈治郎の独特一寸他人の企及する所でない。
 
と鴈治郎の活殺自在の演技に大絶賛状態なのが分かります。
しかし、力弥を演じた実子長三郎は正反対に
 
力弥に至っては本役とはいえ、例の調子であるから至る所で場面の調和を害してしまう。
 
と不評でした。
 
鴈治郎の由良之助と長三郎の力弥
 
 対して脇の役者はどうかと言うと吉良川の間者として大星家に潜入している下僕岡平で付き合った幸四郎は
 
まるで失敗
 
とあまりに間者には見えないその威圧感、存在感も相まって容赦なくこき下ろされています。
 
仕掛人といってもおかしくないレベルの鋭い眼光の幸四郎の下僕岡平
 
しかし、本人の為とは言え離縁されてしまうお石を演じた雀右衛門は
 
雀右衛門のお石、品格といい、挙止といい誠に立派な国家老の奥方と見た。(中略)格好の出来栄。
 
とこちらは襲名という場もあってか普段はあまり演じない女房役においてもその演技は冴えわたっていたらしくこちらは好評でした。
 
梅玉の千寿と雀右衛門のおいし
 
この様に幸四郎みたいな失敗こそあれ、何度もこなして安定した芝居運びの鴈治郎にあまりこの演目を演じない雀右衛門が予想以上の好演をした事もありかなり好評でした。
 

 

 
そして三番目の高時は以前も紹介した様に幸四郎の出し物で新歌舞伎十八番の1つである舞踊演目です。
演目の詳細については以前説明したので省略させていただきます。
 
今回は幸四郎の高時に当時15歳の扇雀が抜擢され衣笠を務めています。
初演時は師匠團十郎の芸を覚えている人が多くあまり高く評価されなかった幸四郎ですが今回に至るまで巡業や帝国劇場の本公演で回数を重ね腕を磨いた事もあり、
 
幸四郎の高時はこれまた上出来と戴いた。年配も性癖も相当によく現れ、執権職の品格充分に具はる内に無造作な殿様気分も加はりわ、怒るかと思へば忽ち従ひ、従ふと見せて忽ち怒る處、首を傾けて他を見ふ様な態度、衣笠の舞を見て時に節を取る手拍子、何れも往年の團洲を偲ぶ事が出来た。折々事更に早口の詞も中々に痛快で北条九代連綿も朗々として響き渡り、又舞踊の達人たるだけ天狗に悩ませらるる件も些かも危気無く、殊に薙刀を抱へて空を睨めての幕切に至っては、極めて自然的に而も技巧的の妙趣を初めて上方の観客に与へたものだ。この人でやや性格の単純なこの種の劇ならば、かくの如く見事に成功し得るので要するに此度(こんど)の顔見世では凡(すべ)ての場を籠めて自分はこれを圧巻と思った。
 
と前幕の不評を跳ね返した上にこの公演の中でも屈指の演技だという大絶賛を受けました。
そして幸四郎に比べて為所の少ないとはいえ衣笠に抜擢された扇雀に関しても
 
扇雀の衣笠、ちと小柄だが艶麗無比、将来の出世を暗示している。
 
と短いながらも評価されています。
この様に以前とは見違える程の成長を遂げた幸四郎の大車輪もあって見物からも受けが悪い活歴の演目にも関わらず好評でした。
 

本朝廿四孝

 
そして続く本朝廿四孝では雀右衛門の出し物で念願の三姫の一つ八重垣姫を務め、鴈治郎が勝頼、魁車が濡衣、璃珏が謙信で付き合うという豪華な配役でした。
本役である姫役でありそれまで東京でしか務められなかった大役を漸く演じれる嬉しさもあったのか普段よりも熱が入っていたのか
 
大体において上々吉の出来、但し何れかといふと前者(十種香)を採りたい。勝頼様との色合に扇子を出す時の手際は器用に出来たが、鴛鴦の池を泳ぐ姿はまるで色消しであった。
 
と狐火の場は今一つだったものの、十種香は色気たっぷりに演じて絶賛されています。
しかし、この演目は雀右衛門以外はというと総崩れ状態でまず濡衣を演じた魁車は
 
魁車の濡衣は道三といはるる人の息女にも似合わず、余りに淡白に失して原作の性格を喪っている。
 
と雀右衛門とは反対にお付き合いだと割り切っていたのか色気が無く淡白な演技を批判され、本来なら余裕で演じられそうな二枚目役の勝頼を演じた鴈治郎も
 
鴈治郎の勝頼は始めて礼服を着た田舎者の議員さんの様で、見る方で余程の同情がある程だ。文箱を開けての引込も全然気合が抜けていた。
 
とあまり演じていないのも影響したのか二枚目役が得意な鴈治郎にしては珍しく最初から最後までボロボロで不評でした。
そして二役の人形遣いに関しても
 
二役人形遣、林玉太郎真にご苦労、引抜の御手際見事見事
 
とかつて明治9年3月の南座で既に手足の殆どを失っていた三代目澤村田之助(下記画像参照)の錦祥女の黒子を務めて田之助にその英才に惚れ込み養子にならないかと誘われた経験があるだけに見事に演じたそうですが勝頼の不評を跳ね返すまでには至りませんでした。
更に福助の演じた白須賀六郎も
 
甚だ御気の毒の出来
 
とこれまた酷評されていて、璃珏の謙信に至っては書かれてすらいない有り様でした。
 
明暗が別れた鴈治郎の勝頼と雀右衛門の八重垣姫
 
 この総崩れの原因はやはり鴈治郎一門での上演回数の少なさが物を言っており、同時に雀右衛門が大阪であまり活躍の場が少なかったのもこうした雀右衛門が得意とする役を鴈治郎が得意ではなかった事が大きな影響を及ぼしていました。それ故雀右衛門がこの後勝頼も得意役とする等上手い下手は置いても役幅が広い延若の相手役に収まったのも双方の利害の一致による所が大きかったのが分かります。
 

元和歌舞伎

 
そして昼の部最後の演目である元和歌舞伎は1615年頃に京都で初めて歌舞伎などの興行が許されてから300年が経過した事を記念して作られた新作演目です。内容は至ってシンプルで元は関白秀次の愛妾だったという弱みを握られて今では女歌舞伎の役者をしている荻島左近が偶然息子の秀若丸と再会するも豊臣家の関係者だと知られれば殺される運命にある為に親子の名乗りをすることが出来ずに別れをするのを見ていた京都所司代の板倉勝重が不憫に思い櫓を立てて歌舞伎の公演を認可したという話しになっています。
いつぞや浪花座で紹介した安井道頓もそうですがこういった顕彰物は得てして綺麗事の様になる傾向があり、今回もそれが的中してしまい劇評には
 
すこぶる不徹底な駄作
 
と酷評されてしまい役者も軒並こき下ろされて唯一左近を顎でこき使うお辰を演じた莚女のみが
 
莚女のお辰のみが世紀末の江戸っ子訛に時代を超越しての気焔を吐いたのであった。
 
という有様で不評に終わりました。
 
ここでこの演目の中で唯一評価されるも今まで紹介してこなかった市川莚女について少し説明したいと思います。
コトバンクやWikipediaではとなっていますがこれは間違いで莚女が正解です。
彼は明治元年に三重県松坂市で生まれ、5歳の時にたまたま名古屋を訪れていた尾上多見蔵一座にいた三代目片岡我童に見込まれて実盛物語の子役として初舞台を踏み我童から片岡我久松の名を貰いました。とは言っても我童からすれば現地で調達した子役に名前をくれてやった程度という認識で大阪へは連れて帰らず我久松はそのまま名古屋に留まりました。そして翌明治9年5月、上述の南座で鴈治郎の黒子に錦祥女を務めた直後に名古屋へ来阪した稀代の女形である三代目澤村田之助にも見込まれて彼は田之助の出る明烏夢泡雪の禿役として抜擢されました。
 
その頃の三代目澤村田之助の浦里
既に両手両足が無い為に介添えが必要でした
 
そして首尾よく手足の無い田之助を助けた事からその器量を見込まれて田之助の弟子となり、澤村小田の(小田之)を名乗りました。
これは落語ではよくある名跡の付け方ですが歌舞伎ではあまり馴染みがないので説明すると「小田之助」を意味し田之助が彼を特別目にかけていたのが分かります。そして彼は師匠に付いて行き巡業先に赴き切られお富など彼の得意役を間近で見て田之助直々に教わるという英才教育を受けるチャンスに恵まれました。しかし、そんな生活も長く続かず翌10年2月に南座で演じたのを最後に田之助はバージャー病の進行により既に廃人状態となり11年に亡くなってしまい、彼は早くも劇界の孤児となります。しかし、彼はそのまま名古屋に留まり続けて修行に励み田之助の兄の助高屋高助が亡くなった後の明治22年に田之助の姉てう子の養子となり田之助の俳名である曙山を襲名し東京の舞台に現れました。この頃東京には高助の養子の訥子と源平、田之助の実子である二代目澤村由次郎がいましたが訥子は高助の没後に小芝居へ落ち、源平はまだ幼く、由次郎は曙山の上京から1年後に夭折するなどしていて一族で田之助と面識があった源之助と共に数少ない紀伊国屋の生き残りとして活動していました。
しかしそんな彼も程なく名古屋に戻り明治25年頃に養家の澤村家と不和になり離縁される憂き目に遭いました。当時の新聞にも「彼は不憫だ」と擁護されている事から彼には非が無く澤村家側に問題があったのが伺えます。そんな曙山に手を差し伸べたのが菊五郎と大阪で競い合った後に名古屋に公演に来ていた初代市川左團次で彼の境遇に同情し彼を一門に加えて東京へ連れ帰りました。そして当初は左團次の俳名の莚升を与えようとしましたが固辞して莚女を名乗りました。
 
市川莚女
 
その後、左團次一座の貴重な女形として源之助、秀調、米蔵と共に女形として活動し初代左團次没後は実子の二代目左團次に仕えて行動を共にしていました。しかし何らかの問題が起きたのか大正6年1月の明治座を最後に一門を正式に離れ大阪へと下阪しその年の内に初代中村鴈治郎の一座に加わりました。当時一座には時には花車役も出来る二代目中村梅玉や四代目嵐璃珏もいましたが、梅玉は既に74歳、璃珏も73歳といつお迎えが来てもおかしくない高齢となっていた事もあり翌大正7年に璃珏が亡くなった後は後釜として一座での花車役を一手に引き受ける事となり、梅玉も大正10年に亡くなると晩年の鴈治郎一門には欠かせない存在となり、鴈治郎没後は一座の市川箱登羅、市川市蔵と共に上方歌舞伎の長老として敬われるなど脇役ではありましたが大成し、同時に田之助、左團次、鴈治郎と多くの花形役者と行動を共にした事から特に田之助については幾つもの貴重な証言を残しており記録面においても歌舞伎界に多大な功績を残しています。

そしてここで昼の部が終わり、夜の部は雀右衛門、鴈治郎以下勢揃いでの口上から始まりました。

 

京屋の娘

 
夜の部最初の演目は昼の部と同じく新作の京屋の娘です。もう外題を見てお分かりかと思いますが雀右衛門の襲名披露演目でまんま雀右衛門の夜の部の出し物で雀右衛門のお杉が右團次演じる僧信念と道ならぬ恋に落ち、その仲を妨害しようとする徳三郎演じる手代の和助を交えつつ最後は2人が心中して果てるという筋立てになっています。
同じ新作でも昼の部の九代将軍の母と元和歌舞伎はかなり散々たる評価だったのに対してこちらは
 
中々引き締った佳作
 
と一転して評価されています。
その原因の1つは間違いなく配役であり、本朝廿四孝でもその演技を絶賛されていた雀右衛門でしたがこの演目でも
 
雀右衛門の娘は充分思い切って熱情を示し五分のすきも見え無い
 
と道ならぬ恋に焦れる生娘を演じきり絶賛されています。
対して二人の恋路を邪魔しようとする和助を演じた徳三郎も
 
徳三郎の和助もよく性格を了解し巧妙な抑揚を殆ど一人で舞台を背負って立つの趣がある。
 
とこちらも役をよく理解して演じていると評価されています。
一方で全員が好評だったではなく、お杉の母親でお杉の恋を危惧して和助に命じて阻害させたお貞を演じた璃珏は
 
折角の苦心も物足りない感がある。
 
と娘が道ならぬ恋をしているのを危惧して止めるにはあまりに淡白だと批判され、信念を演じた右團次も
 
右團次の信念に至っては僧侶か俗人か瞑目してその言ふ所を聞けば一寸分からぬ程
 
と仏門にいるが故に道ならぬ恋に苦悩して心中するというのが演目のポイントにも関わらず役をよく理解できていなく只の心中物の男になり下がっていると厳しく批判されました。ただ、一つ補足しておくとこの時73歳の璃珏は既に私生活では長らく闘病生活を続けモルヒネ無しには生きていけない程の末期状態で仕事する時のみ僅かに自我を取り戻し演じている有様だと劇評にも書かれていて淡白な演技もそういった健康問題が少なからず影響しているのがあるのではないかと言えます。
この様に出来不出来の明暗がくっきり分かれましたが雀右衛門の演技の良さが右團次の拙さを補って余りある物だったらしく襲名という御祝儀もあって見物の評判は良かったそうです。
 

勧進帳

 
そして夜の部のハイライトとも言えるのが幸四郎の出し物である勧進帳です。意外にも長い南座の歴史の中で勧進帳が上演されたのは今回が初めてであり、京都での上演としても明治41年8月の京都明治座で幸四郎が演じて以来実に9年ぶりの事でした。
今回は幸四郎の弁慶に、富樫を鴈治郎、義経を徳三郎がそれぞれ務めています。
まず、この年は1月、11月に続き3回目となる弁慶を演じた幸四郎ですが、前月に続いての弁慶でややお疲れ気味だったのもあったのか
 
今度の高麗屋は、なるほど形貌の末は得たり精神は未だ伝えざるの遺憾の念が、頻りに湧いて出るのである。例えば充分に錬磨せる台詞廻しは却って聞き苦しく、瀧の水の舞振も足の繁き割には振も振るはず、判官以下を立去らしむる大様のこなしも思の外に面白からず、殊に幕外の片六法では一方ならぬ失望を感じたのである。
 
と師匠團十郎と比較されてあれこれ批判されています。
ただ岡鬼太郎も書いていましたが、幸四郎や段四郎は既に團十郎の模倣を終えて自分の弁慶像を作っており、それを今さら能の安宅に近付けていた晩年の團十郎と比べるのは少々的外れな指摘な気がしてなりません。
 
幸四郎の弁慶
 
 そして、このブログを見てる方は恐らく初めて見て驚いたと思うのが鴈治郎の富樫です。歌舞伎十八番とは一番縁が遠いと思われる鴈治郎ですが事実その通りで富樫以外では明治37年6月に弁天座で助六を1回演じたのみであり、それすらもます未亡人と翠扇がその事を知って版権料を払わず無許可で上演したとして鴈治郎相手に訴訟を起こした事もあり鴈治郎も敬遠していました。しかし、この富樫のみは例外でかつて宗家に無断で上演して破門された段四郎が来阪し意趣返しで明治17年1月に中座で無許可で勧進帳を上演した際に初めて富樫で付き合って以来、明治39年や大正3年に段四郎が宗家公認済みで演じた時も富樫を演じていました。
この様に富樫自体は既に5回(明治39年に3回演じてる為)幸四郎とは今回は初めてでした。
しかし、いくら3年振りというのを考慮しても左團次や羽左衛門に比べるとお話にならなかったらしく
 
問題の富樫(鴈治郎)は予想よりは上出来でもあらうか、例の粘調子の優に、呼止めや問答では到底多きを望む事は出来ぬ(中略)ああらむづかしや問答むえきと来ては、意気溌剌たる故莚升(初代左團次)の名調子とは頭から比較するのも無益である。
 
と予想してたより悪く無かったとしながらもこちらも名富樫の評判が高い初代左團次と比較されてしまい勝頼同様に酷評されています。
しかし、そもそもニンに無い役に加えて今まで付き合っていた段四郎とは違い幸四郎とは今回が初めてであった事を踏まえると少々酷過ぎる気は否めません。
因みにこの酷評も気にする事無く鴈治郎は大正12年に起こった関東大震災で自宅と仕事場を失い大阪に身を寄せていた幸四郎と再び組んで大正13年の1月から帝国劇場が再建される直前の9月までほぼ連続して勧進帳を上演した他、その後も昭和2年、3年、5年、6年にも再び付き合い分かってるだけで219回以上も富樫を演じる等、幸四郎との相性は最も多く富樫を務めた羽左衛門に次いでかなり抜群だったりします。
 
鴈治郎の富樫
 
そしてこの時最初で最後となる義経を務めた徳三郎はというと
 
徳三郎の判官義経、前の和助と違ってこれはまた散々の不出来、品位も貫目もあったものに非ず
 
とまぁ、初役であるのを考慮してもニンに無い大役を演じさせるのには無理があったらしく不評でした。
 
徳三郎の義経
 
この様に南座初の勧進帳は散々な出来でしたが、幸四郎は決してこれにめげずに昭和の顔見世では計7回に渡り勧進帳を上演して評価を上げて行き、戦前の顔見世での風物詩と言われるまでに持っていきました。
 

時雨の炬燵

 
そして勧進帳と並ぶ夜の部の見世物が玩辞楼十二曲の一つ、炬燵の時雨でした。今回は鴈治郎の治兵衛におさんを福助、小春を雀右衛門という珍しい組み合わせになりました。この演目は以前にも少し説明しましたが役の重さで言うと小春よりもおさんが重い役であり、襲名とあってか小春を雀右衛門が務め、お気に入りの福助がおさんを務めています。
まず自ら得意芸と謳っている治兵衛の鴈治郎については
 
一旦世間に好評を博しても、更に研鑽に研鑽を重ねて、万に違算なきを期して毫も倦まざる蹇々たる努力は充分賞揚すべき美徳だと思ふ。(中略)他の俳優がただ故人の遺型を追って纔によくその風貌に類するの頃には、この優は偉大なる技芸の発達を為すであらう。殊に今回紙治の演出には思切って全く従来の場当たりや誇張を避け、極めて真面目に、而も円熟の域も突喊して、ここに当代無類の芸術品を提供している、最も感じたその一例は女房と顔見合せて両人隻語なく、只呆然として微に口元の動く有り様、満場只感に打たれたのは無理はない
 
と河庄と違い自身の創意工夫を加えて得意役にしただけあって研究を怠らず極めて写実的な芝居で耽美で頽廃感も含む治兵衛を演じきり先ほどの富樫とは正反対に大絶賛されています。
 
鴈治郎の治兵衛
 
そして九代将軍の母ではニンにない富子を宛がわれて散々に酷評された福助ですが今回のおさんはというと
 
福助のおさん、技芸を益す上達し動作も治兵衛と相待って精緻を極め、この前の興行(大正4年の顔見世公演)よりは見違える程貫目もついて実に当代のおさんである。
 
とこちらも相手役である鴈治郎のレベルの高さに引っ張られる形でメキメキと腕を上げたらしく富子と正反対に高評価でした。
 
福助のおさん
 
そして小春を務めた雀右衛門はというと
 
雀右衛門の小春は之(福助)に反して殆んど進境を認め得ない事、梅玉老人の孫右衛門と同様である。
 
と梅玉の孫右衛門同様既に役が完成しきっているとしてあまり変化が見られないと評されています。河庄に比べると炬燵の時雨での小春は本の気持ち程度の出番でしかない為に少々割を食う形になりました。
 
雀右衛門の小春
 
とはいえ、鴈治郎と福助の円熟した演技も相まって夜の部の中では勧進帳を上回る人気ぶりだったようです。
 

二人袴

 
そして大切の二人袴は以前に帝国劇場でも紹介した福地桜痴の舞踊演目になります。
今回も幸四郎が高砂尉兵衛を務めた他に雛鶴を新升、右馬助を長三郎を務めています。
劇評も長丁場で疲れていたのか短く
 
所作では幸四郎の尉兵衛が八島合戦の物語であった。
 
とやはり幸四郎が一番出来が良かったらしく、劇評を書いた人はかつて幸四郎が團十郎の尉兵衛に右馬助を務めていた記憶を思い出しながら役者の成長ぶりを評価しています。
 
とこの様に全9演目中、九代将軍の母と元和歌舞伎は不評、勧進帳は思った程でもなく、本朝廿四孝は雀右衛門以外総崩れと半分は訳アリでしたが残り半分はいずれも好評で雀右衛門襲名の御祝儀と16日間という半月の公演日数が功を奏したのかほぼ全日程で大入りとなっり京阪神及び名古屋での襲名披露公演はいずれも成功裏に幕を閉じました。
この後雀右衛門は3ヶ月に渡る鴈治郎との襲名披露公演を終えて年が明けてから今度は東京での襲名披露に臨み、幸四郎は帝国劇場、鴈治郎は大阪にそれぞれ戻って大正7年を迎える事になります。