大正8年12月 帝国劇場 左團次の鳴神 | 栢莚の徒然なるままに

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今回は大正8年の締めくくりとして再度帝国劇場の筋書を紹介したいと思います。

 

大正8年12月 帝国劇場

 

演目:

一、奇兵隊

二、安宅関

三、松平長七郎

四、鳴神

五、京人形

 

11月の歌舞伎座の筋書でちらりと触れましたが11月を大成功の内に終えた帝国劇場は例年通り松竹との相互出演協定に基づき幸四郎と宗十郎を京都南座に、梅幸を新富座にそれぞれ出演させ、見返りに例年通り左團次、我童、中車、猿之助、壽三郎等に帝国劇場から宗之助を出演させての引越公演を行う事になりました。

 

左團次、我童が初出演した帝国劇場の筋書はこちら

 

中車が初出演した帝国劇場の筋書はこちら

 

今回の面子の内、猿之助、壽三郎を除く3人は前年の12月公演の際にも実現しましたが猿之助も引越公演での出演は初、壽三郎も初めての出演であり、単独出演した際に好評だった猿之助を加えて新加入の壽三郎を入れて見物の興味関心を維持しようと劇場側の努力が伺えます。

因みに壽三郎にとっては今回の出演は以前に紹介した新富座への出演以来2年ぶりとなる東京の舞台への出演でした。

 

前回出演した新富座の筋書

 

彼についてはこちらもご覧下さい

 

更にどうでもいい余談ですが筋書の前の持ち主は12月11日に観劇したそうです。

 

 

奇兵隊

 
一番目の奇兵隊は岡本綺堂が維新の英傑である高杉晋作をテーマに書いた新歌舞伎の演目です。
元々この演目は官軍側と敗軍側という2つの立場から見た明治維新を描いていて今回の奇兵隊を前編、以前に演芸画報を紹介した時に歌舞伎座で上演していた白虎隊を後編とする1つの演目であり、維新前後という外題で明治41年10月と12月に綺堂が左團次の為に初めて書き明治座で上演された演目でもあります。
 
白虎隊が上演された時の演芸画報の記事がこちら

 

この時の公演は当時興行改革が反対派の妨害により挫折した失意と苦しい劇場経営との二重苦にある中で久しぶりに大入りとなり左團次が自信を取り戻すキッカケとなった事もあり、左團次にとっても綺堂にとっても思い出深い演目で今回はその内前半部分の奇兵隊の部分の見取演目となっています。
尤も内容的にはタイトル詐欺な所があり、奇兵隊は全く出てくる事はなく、正確には奇兵隊結成直前の高杉晋作の動向を架空の人物である井上文多や平家蟹の五郎蔵を登場させて膨らませて恭順派の襲撃を受けて致命傷を負った盟友の死を受けて倒幕の意思を固くして恭順を示す長州藩から亡命するのを決意する所で終わります。
今回は高杉晋作を左團次、井上文多を中車、芸子梅松を松蔦、若党浅吉と安満市之助を莚升、家老群内記と平家蟹の五郎蔵を猿之助、清水善平を長十郎、狂女お菊を壽美蔵、前原彦次郎を壽三郎、長州候を宗之助がそれぞれ務めています。
さて綺堂物の元祖と言うべきこの作品ですが劇評には作品そのものについては
 
新派劇ともいふべき中に尚昔の書生芝居を交ぜた様なもの
 
とまだ左團次のニンを理解して書いた後年の作品群に比べると手探りで書いてる部分や書き慣れていない経験不足の点が見られると指摘されています。
その上で配役についても書いた当時はまだ左團次一門の役者を全て理解していなかった故に役の当てはめに無理があったとして狂女お菊を演じた壽美蔵について
 
ここへ壽美蔵のお菊といふ狂女がわ出て予言めいた唄をうたふは、無理に筋へ絡ませたものにて壽美蔵気の毒
 
と評している他、初演からの持役である毛利敬親を演じた宗之助についても
 
宗之助の長州候は悠然として大守ぶっては居るが、諸士を退けて井上文多一人を残し、何か機密を論ずる様にて、その儀は一向になく「啼かずんば啼く待たう郭公(かっこう)」と何か意味ありげにいふと、中車の文多が感服して君恩を謝するので幕とは、(伊賀越道中双六の)大内記に荒木又右衛門が伝授場の趣ありてその意義なく、しかも列席の諸侍、三十六万石中の皆歴々であらうのに肩衣と衣服の紋の同じに整ひたるは少く、我童猿之助の両家老は殊に一門でありながら紋の区々(まちまち)なるはその議論の扮雑たるに似たり
 
とまだ練れていないだけに古典物からの換骨奪胎や毛利家家臣達の衣服のミスまでかなり厳しく批判されています。その上で今回は高杉晋作の盟友でその死が高杉に重大な決意を与える事となる井上文多を演じる中車も
 
中車の井上文多は開国論者だが、様子(判別不能)らは旧式武士にて
 
第一に中車の井上文多がこの人では洋行帰りの若いあばれ者とは何うしても見えぬ(中略)中車がこの役を買った事が第一の失敗である
 
と心理描写を必要とする綺堂物の新歌舞伎にはミスマッチだったのか余り芳しい評価ではありませんでした。
一方で主役である高杉晋作を演じた左團次は
 
左團次の高杉は改革家らしい處がある
 
左團次の高杉が頭を剃った僧形で東国へ走る別れを、一寸稲川振で見せて、戸外に人音がするので、一室に隠れて、蔭で坊主になりて衣形で前原に逢ふは手順も目先もかはりてよし
 
と流石に当てはめて書かれた事もあり普通に評価されています。
 
左團次の高杉晋作と猿之助の平家蟹の五郎蔵、中車の井上文多と松蔦の梅松
 
そしてこの中で左團次以上の評価を受けたのが意外にも壽三郎で
 
久しぶりに上京した壽三郎が前原をして居る以前に見たとは(違って)大いに舞台が締まって来た
 
と2年ぶりとなる東京での舞台、更には初出演となる帝国劇場でも臆する事なく修行の日々のお陰で培った演技を評価されています。
この様に左團次や壽三郎こそ良かったものの、演目全体としては作品の未熟さや他の役者の演技も相まってそこまで評価は高くありませんでした。
尤もこの演目について一つ擁護するとやはり外題にもなってる奇兵隊がネックでした。というのも綺堂が執筆した明治41年の時点では山県有朋を始めまだ多くの関係者が政府の重鎮として存命していました。
その為、下手に奇兵隊の事を書こうものならば警察庁の検閲に引っ掛かるor上演中止になる可能性が高く今回宗之助が演じた毛利敬親を「毛利候」と濁していたり、中車が演じた井上文多も初演時は江戸時代さながらに「櫻井文多」となっていたり、闇討ちを受ける設定にする等「フィクション」である事を強調しなければなりませんでした。(言うまでもなくこの井上文多のモデルは大正4年に亡くなった井上聞多こと明治の元勲の1人で歌舞伎とも関係が深い井上薫です。)
それ故に変に尻切れトンボみたいな形で終わり白虎隊に話が繋がる形になっている関係上、前半だけ見ると消化不良極まりない演目になります。
これに関してはどう見ても演目の選択ミスなのが否めず、一概に役者側の責任だけとは言い難い部分があります。
 

安宅関

 
続いて中幕の安宅関は前月に歌舞伎座と帝国劇場でも作品が上演された榎本虎彦が明治37年11月に自身の名義で初めて書いた新歌舞伎の演目です。
内容は外題から何となくお察し出来る様に勧進帳の舞台である義経一行の安宅関超えの話を描いた近松門左衛門の殩静胎内捃という演目を再構成した物となり、勧進帳の様に勧進帳の読み上げが成功するも通りかかる義経に嫌疑が掛かり素性がバレない様に弁慶が敢えて義経を打擲するという展開ではなく、富樫に偽の勧進帳がバレて弁慶が囚われの身となりそこに義経一行が駆けつけるも主君を守る為に弁慶が緊縛された身でありながら義経を踏みつけてシラを切り通そうとする姿を見て富樫は義経一行だと悟るも敢えて見逃すという少し変わっているのが特徴なのと延年の舞や飛び六法といった舞踊の要素が一切省かれているのが特徴でもあります。

これは他の團門四天王である段四郎や幸四郎と比べて舞踊の才が無いが故に終生勧進帳の弁慶を演じられなかった中車の為に敢えて舞踊部分を省いている為でさながら中車版勧進帳とも言える代物です。

今回は弁慶を中車、富樫を左團次、源義経を壽美蔵、伊勢三郎を莚升、駿河次郎を荒次郎、亀井六郎を紅若、常陸坊海尊を左升がそれぞれ務めています。
初演の際には苦手な舞踊が省かれ主君を守る忠義の武士という単調な性格の役柄が中車のニンにピタリと合って「一代の傑作」と絶賛された程でしたが今回は
 
中車の弁慶もとより大出来また大骨折、これほどに身の入る技芸はまことに他優にもとむべからず、幕外になり関守の武運長久を祈念し悦びの法螺の音三たび立ての蔭入は立派この上なし
 
とやはり今回も素晴らしい演技だったらしく、大絶賛されています。よく中車は九代目團十郎の時代物の骨太な演技を受け継いだと書かれたりしてますが松居松葉の指摘の様に肚が単純明快な一本調子な役においてはその才能を発揮する役者だったらしく、肚芸による緻密な性格描写を得意とする團十郎とは似て非なる役者であった事が分かります。
 
中車の弁慶と壽美蔵の義経
 
そして本家勧進帳でも富樫が持役である左團次もまた
 
左團次の富樫も立派にてなかなかよし、弁慶を諌めし縄を取上げて右の手に捧げて忠義のほどを密に敬ふ心持もよし
 
とこちらも武士の道理が分かる富樫を大きく演じきり評価は本家と変わらず好評でした。
残念ながら壽美蔵の義経や他の役者については「衣装が新しいので立派この上なし」としか触れられておらず暗にあまり良い出来ではなかった(だから衣装しか褒める所がない)様でしたが、上記の新富座で触れた様に非常に相性が良い左團次と中車の良さが十二分に発揮する事が出来たらしく一番目の不評を差し引いてもお釣が来る位の当たり演目となりました。
 

松平長七郎

 

同じく中幕の松平長七郎は我童の出し物で以前に東京座の筋書で紹介した片岡十二集の1つである馬切りの登場人物である松平長七郎を主人公に大森痴雪が書き下ろした新歌舞伎の演目です。

 

参考までに東京座の筋書

 

新作という事から薄々わかる様に内容としてはあくまで実録風(松平長七郎という人物は実在しない為)に描いているとの事ですがのが実際はと言うと舞台を岐阜から長崎に移して長七郎がいたとされる江戸時代前期に起きた国姓爺合戦でお馴染み鄭成功の台湾占拠に関連付けて馬切りを国姓爺こと鄭成功の軍事行動の為の軍資金獲得の為としたり侠客の平戸の清蔵の絡みや遊女松浦の絡みなどを入れてみたりと鴈治郎に向けて書いた新作物の焼き直しみたいな展開になっている等、元々荒唐無稽な原作を何とか理屈に合った作品にしようと苦心した形跡は伺えますがそれでもかなり無理がある話になっているのが実情です。 
今回は松平長七郎を我童、遊女松浦を松蔦、伊達富九郎右衛門を紅若、奴太郎助を左升、外男松蔵を長十郎、平戸の清蔵を壽三郎がそれぞれ務めています。
さて新作を好みたがる帝国劇場の見物に合わせてなのか前年の新朝顔日記に続いての自身の当たり役のリメイクに挑んだ我童でしたが劇評には
 
我童の長七郎鷹揚にて大いによし、国姓爺が台湾にて軍用金が入るといふのに同情して三千両を送らんとするも大腹中なり
 
と流石はお家芸とあって多少無理のある展開でも原作にもある天下の御落胤という風情は見られたらしくその点は評価されています。
 
我童の松平長七郎

 
そして劇評では我童の長七郎に比肩する働きぶりであったとして評価されているのが平戸の清蔵を演じた壽三郎で
 
壽三郎の平戸の清蔵も国姓爺の味方で軍用金調達の大事を引受ける大役の外に、松蔦の松浦といふ花魁に惚れられて居る色男にて大儲けなり
 
と大阪では中々回って来ない美味しい役とあってかいつも以上に車輪で演じた事もあってかなり高く評価されているのが分かります。
 
壽三郎の平戸の清蔵と松蔦の遊女松浦
 
余談ですがこの頃松竹における壽三郎の扱いはどんな感じだったというと
 
大正8年
 
1月:浪花座、神戸日本劇場
2月:南座
3月:中座
4月:南座、静岡若竹座
5月:南座 
6月:中座
7月:岡山劇場、神戸日本劇場
8月:南座
9月:浪花座
10月:地方巡業
11月:地方巡業
12月:帝国劇場
 
と1月、9月の浪花座と12月の帝国劇場以外は当時二流の劇場である中座や顔見世以外の南座などが多く、9月の浪花座も鴈治郎はおらず延若、梅玉、右團次、多見蔵との同座という事で鴈治郎と共演したのは1月のみとお世辞にも良い扱いではないのが見て取れます。
 
1月に出演した神戸日本劇場の番付はこちら 

 

それだけに2年ぶりの東京の舞台、しかも芸風が合う左團次一座に混じっての出演だけに水を得た魚の様な状態になったのもある意味当然と言えば当然の結果でした。その事を踏まえるとこのは作品は内容こそ稚拙ですが日頃大阪で不遇を託っている我童と壽三郎の大車輪ぶりでその内容を補ったらしくこちらもまずまずの出来になったそうです。
 

鳴神

 
二番目の鳴神は再び左團次の出し物で言わずと知れた歌舞伎十八番の1つです。
 

参考までに女鳴神を上演した歌舞伎座の筋書

 

これまでの新作続きから打って変わって古典演目であるこの鳴神は今回出てる市川左團次が明治43年に初めて復活させた歌舞伎十八番の演目であり、以来毛抜と合わせて幾度となく上演を重ねてきました。
 
初演の左團次の鳴神上人

 
毛抜を上演した新富座の筋書はこちら

 

今回も左團次が鳴神上人を演じた他、初役となる雲のたえま姫を宗之助、白雲坊を猿之助、黒雲坊を壽美蔵がそれぞれ務めています。
さて、古典演目の中では得意役の部類に入る役を演じた左團次ですが意外な事に劇評には
 
左團次初々しく台詞につまづきあり
 
と明朗な台詞廻しに定評があった彼にしては珍しく台詞廻しでトチったらしく批判されています。
そして雲のたえま姫を演じた宗之助も
 
宗之助の雲の絶間は美しけれど、これも水切れの体あり
 
とこちらもあまり芳しい評価ではありませんでした。

 

左團次の鳴神上人と宗之助の雲のたえま姫

 
初役の宗之助はいざ知らず、復活を手掛けた左團次までもが不評なのは珍しくここまで順当に評価されていた左團次も土がつく結果に終わりました。
 

京人形

 
大切の京人形は3年前の歌舞伎座でも上演した舞踊の演目です。
 
参考までに歌舞伎座の筋書

 

昨年の六月大歌舞伎の観劇記事

 

今回は京人形の精を我童、左甚五郎を猿之助がそれぞれ務めています。

この組合せは互いの所属や出し物の違いもあり同じ松竹の専属役者でありながら中々実現しなかった組合せでした。

余談ですがこの2人は昭和に入り、猿之助が2度の松竹からの脱退を経て左團次一座の衣鉢を継いで一座を率いる立場になり、我童も仁左衛門を継ぐもその性格故に共演者が段々と彼を敬遠した事もあり、互いのデメリット(猿之助には一座に対等の女形役者がいない、仁左衛門は相手がいない)を補える事から度々共演を繰り返す間柄になりました。

そんな先の話はさておき、出来の方はどうだったかと言うと

 

「京人形」も皆よしよし

 

と僅か9文字で処理されている事からも分かる様に既に4つもの演目を見た後で見る為か、かなり食傷気味であまり突っ込んだ評価が無く折角の初の組み合わせの結果は今一つ曖昧な状態でした。

 

片岡我童の人形の精と猿之助と左甚五郎

 
この様に本来目玉となるはずであった奇兵隊と鳴神は今一つパッとしない結果に終わりましたが、意外にも中車、我童の出し物である中幕の演目は予想以上の好評であった事もあり梅幸と羽左衛門の久しぶりの共演で沸く新富座相手に入りとしては善戦し悪くなかったそうです。こうして勘彌の加入など久々に劇界の話題を浚う様な出来事が多かった帝国劇場は前年度の同じ時期に比べ4万円ほど増収しトータルでは40万円(現代価格で約6億円)のプラスと過去最高益を記録し大正8年を終える事が出来ました。
そして左團次と中車はすっかり帝国劇場への出演も恒例化し羽左衛門、仁左衛門に次ぐ帝国劇場のドル箱になったのは言うまでもないですがそれ以上に成果を上げたのが久しぶりに東京の舞台に出演し一番目や中幕でその実力を遺憾なく発揮した壽三郎です。元々左團次寄りの彼の芸風が帝国劇場には馬が合った事がこの時の出演で関係者にも認知されたらしくこの公演を始まりとして大正11年2月まで都合4年に渡って東京に拠点を移し関東大震災が起こる大正12年まで必ず年1回は帝国劇場に出演する様になる等これまで東京の舞台には縁が薄かった彼にとっても大きなプラスに働きました。
帝国劇場の筋書は大正9年度も数多く持っているのでこれからも紹介していく予定です。