今回は久しぶりに演芸画報を紹介したいと思います。
演芸画報 大正5年9月号
大正5年8月の歌舞伎座や帝国劇場の筋書を持っていれば合わせて紹介したかったのですが生憎と両方とも持っていないのでこの演芸画報で軽く紹介したいと思います。
今の演劇界はそこまで詳しく追ってはいないので断定はできませんが毎年9月号は巡業の様子を詳しく載せているのは少ないと思いますが、戦前は夏と言えば一にも二にも巡業とあって多くの幹部俳優が巡業か避暑に繰り出していました。その為か演芸画報も夏芝居を紹介しつつ各地の巡業の様子を詳細に書いていて私が同人誌で出している役者の出演記録を調べるに当たっては貴重な手がかりとなっています。
それはさておき、この年の特徴の1つに中村歌右衛門が八百蔵、秀調、片岡市蔵らと珍しく北海道に巡業に行っているのが挙げられます。
前にも紹介しましたが役者が巡業に出かける大きな動機に割増の給金といい役が演じれる2つがあると書きましたが、歌右衛門の場合は資産家と言えるほどの貯蓄を持ち、役も常に主役を演じている事もありさほど巡業に強い意欲を満たす理由が無い事や持病の鉛毒もありハードスケジュールである巡業は身体への負担が大きい為か例年8月はいつも休みにしていていつも伊香保の蓬莱館(現伊香保温泉 金太夫)を定宿にして丸々一ヶ月静養していました。
そんな歌右衛門だけに巡業に出るのは珍しく歌右衛門自伝によればこれが歌右衛門にとって最初で最後の北海道巡業だったらしくこの時は
・小樽
・札幌
・苫小牧
・室蘭
・函館
・青森
・仙台
と計7ヶ所もめぐるというかなり大掛かりの巡業でした。
出し物の都歌舞伎 歌右衛門の秀吉
因みにこの年の後も歌右衛門は都合3度ほど巡業に出ていますが健康が年々悪化していた事もあってかいずれも夏ではなく、気候の好い時期などに限られていて彼にとっては最後の夏の巡業にもなりました。
また、巡業に関しては仁左衛門、幸四郎、宗十郎で組まれた一座の様子も紹介していて以前触れたようにこの頃帝国劇場では主役を演じれるのは女優公演の補導の時などに限られ本公演では大抵脇に押しやられて不遇を囲っていた宗十郎が
「こうした縁切りは腹にないことをがまんして言うのですから、存外至難な業(わざ)です」
と役のハラに関する格言を残し、自身が高賀十種の1つに選んだ程の当たり役である伊勢音頭恋寝刃のお紺を演じていて心なしかいつもより張り切っているように見える様子も納められています。(因みに帝国劇場で彼が伊勢音頭恋寝刃を上演したのは大正4年7月の僅か1回のみでした)
仁左衛門の福岡貢と宗十郎のお紺
舞台裏の幸四郎と宗十郎、巡業先の浜松市内を観光する宗之助