大正2年4月 東京座 大正時代の花形歌舞伎 | 栢莚の徒然なるままに

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今回紹介するのはこの前手に入った非常に興味深い筋書を紹介したいと思います。

 

大正2年4月 東京座

 

二部制でも無いのにこの演目数の多さに驚かされます。

 

演目:

一、宮島闇争

二、義経千本桜

三、鎌倉三代記

四、瓦鐘寺

五、道成寺

六、松平長七郎

七、無間の鐘

八、鈴ヶ森

九、廓鞘当

 

まず今回の劇場である東京座について説明したいと思います。

明治30年に開業したこの劇場は杮落し公演に九代目市川團十郎を呼んで華々しく開場した後、主として五代目市川壽美蔵、初代實川延二郎や金主の1人でもあった初代市川猿之助などを座頭にして公演を行いゲストに四代目市川染五郎、七代目市川八百蔵といった團門四天王や七代目市川團蔵、四代目澤村源之助といった大物を呼ぶなど歌舞伎座、明治座に次ぐ大劇場としての機能を果たしていました。

そして團菊の亡くなる明治36年に入ると明治座の経営権を巡るゴタゴタにより移籍してきた初代市川左團次や井上竹三郎と揉めた五代目中村芝翫も加入し一躍歌舞伎座と肩を並べるまでの大劇場に出世しました。明治39年の歌舞伎座の回でも書きましたがここから明治38年までが東京座の全盛期で芝翫が「桐一葉」や「乳姉妹」、「不如帰」に「牧の方」といった新作を相次いで発表し一時は歌舞伎座を凌ぐ人気を誇っていました。

 

その頃の東京座

 

しかし、無能な経営者であった井上に代わり大河内輝剛が社長に就任すると歌舞伎座に看板役者であった芝翫、高麗蔵、猿之助を相次いで引き抜かれた事で一気に弱体化してしまい明治42年には歌舞伎座の傘下に入るまでになりました。しかし、成績不振は一向に変わらず歌舞伎座の経営陣の交代もあって僅か1年で提携を解除された後は「猛優」・七代目澤村訥子が半年近く座頭になるなど小芝居の劇場へと一気に座格を下げる事になりました。

そんなこんなで4年の月日が経過し、すっかり小芝居の劇場になり下がってしまったのが大正2年の東京座でした。

 

そんな中、歌舞伎座や帝国劇場、市村座、明治座を問わず若手を集めて歌舞伎座の片岡市蔵と市川門之助を上置きに置き、脇を小芝居の役者で固めて主役に歌舞伎座に出演している菊五郎が掛け持ちで出演させて開かれたのが今回の公演となります。

今でいう所の花形歌舞伎と呼んでも差し支えないと思います。

従来、地方巡業などを除いては松竹、帝国劇場、市村座の主要な役者の共演は大正4年から始まったと思っていましたが、花形歌舞伎では大正2年の時点で早くも実現していたという事は自分でも驚きでした。

 

全演目が見取演目なので非常に数も多いですが通称を用いるなど分かりにくい部分もありますので順を追って説明したいと思います。

 

①宮島闇争

これはただの「だんまり」なので省略します。

 

②義経千本桜

こちらは狐忠信の場面で有名な河連法眼館の段です。

市村座の菊五郎一門に歌舞伎座の市蔵親子と門之助が加わる座組で下の画像にもある様に菊五郎が忠信と狐忠信の二役を務めています。菊五郎の狐忠信は明治38年12月の歌舞伎座、明治43年3月の市村座に続く3回目とあってかなり余裕を以て務めていたらしく劇評では

 

風邪をひいて時々せき込むなど苦しそうだが、演技は菊五郎は如何にも楽にやっている

 

と書かれています。

そして他の役者も

 

亀蔵の義経は歌舞伎座で女形になるより立派になる

 

門之助の静御前は若い人たちにの中に立っても若い綺麗な静御前になり得るのには敬服した

 

と普段の歌舞伎座の公演では回ってこないような大役を演じれるのが嬉しいのか持ち前の技芸を発揮し高評価されています。

 

義経千本桜と鎌倉三代記

 

③鎌倉三代記

こちらは絹川村閑居の段です。

三浦之助義村を澤村傅次郎、「三姫」の一つである時姫を初代中村歌門がそれぞれ務めています。知らない方もいらっしゃると思いますので説明すると澤村傅次郎はあの「猛優」・七代目澤村訥子の娘婿であり、義父と同じく大立ち廻りを得意とした役者で後に昭和に入り八代目澤村訥子を襲名して市川左團次一座に加わる事になります。

初代中村歌門は五代目中村歌右衛門の弟子で同じく歌右衛門の弟子であった二代目中村翫右衛門の息子であり、前進座の創設者である三代目中村翫右衛門(当時中村梅之助)の兄に当たります。この時期父翫右衛門や弟梅之助と共に歌舞伎座に所属していましたが、小芝居にも出演し、師匠の歌右衛門が得意とした女形役をよく演じていました。その後松竹を脱退した弟とは対照的に歌舞伎座に残り、昭和11年に三代目中村仲助を襲名し亡くなるまで成駒屋に仕える事になりました。

2人とも時たま大芝居にも出演するとは言え、当時は小芝居を活動の中心にしている役者であり劇評を書いた人がどうも小芝居が嫌いな人だったらしく、

 

非常に難しい演目を出したと思っていた。小芝居向きの物を出したものだと思っていたら案の定舞台に空き地がどっさり見える。格段下直(安物)であった。菊五郎一派の後に並べる物ではない。

 

と冷酷すぎる評価をしています。

そして役者達についても

 

歌門はまだ一生懸命にやってはいる。だが品位は皆無で恰幅良い体に高い背をしてるのにわざと猫背の様な形を取り、師匠歌右衛門の真似をすると何とも言えぬみっともない顔になった。

 

傅次郎の声は如何にも小芝居臭い

 

團升は小型にした訥子の様だ

 

総じて三崎町(東京座のあった場所)の大向こうには受けが良いだろうが田舎の芸者芝居の気がする

 

と押しなべて酷評しています。

当時の劇評家の中には四代目澤村源之助を気に入ってた折口信夫や三宅三郎(歌舞伎座の専務を務めていた三宅豹三の三男)の様に小芝居への理解がある人もいましたが、大半は小芝居の事を「緞帳芝居(小芝居では当時緞帳を使用した為)」とか「浜芝居(大阪の小芝居の劇場が道頓堀の浜側にあった事から上方の小芝居にのみ使う蔑称)」と言い軽蔑しきっていました。

劇評にも「三崎町の大向こうの受けが良い」と書いてある様にこの頃の東京座は純然たる小芝居の劇場になっており、そこに見に来る見物の層は小芝居が好きな層でもあるので今回の演目の中に敢えてこの様な小芝居演目を入れたのも劇場側からしてみればいくら大芝居の役者を呼んだ所で肝心の見物達にそっぽを向かれてしまっては困るので見物達の目を引く様な演目を入れるのはリスク管理の観点から言えばある意味当然の措置ともいえます。それだけにこの様な小芝居アレルギーを持つ人が観劇してしまった故にここまで酷評されてしまった感は否めません。

 

④瓦鐘寺

聴き慣れない名前の演目ですが、これは正式な外題を水滸伝雪挑といい、中国の四大奇書の一つ水滸伝を原作として河竹黙阿弥が書き下ろした作品で雪中の立廻りが見所の演目です。九紋龍史進を三代目澤村由次郎、花和尚魯智深を二代目市川薫がそれぞれ務めています。二代目市川薫は二代目市川権三郎(二代目河原崎権十郎)の長男、三代目澤村由次郎は七代目澤村宗十郎の次男に当たります。

この当時権三郎親子は歌舞伎座、宗十郎親子は帝国劇場にそれぞれ所属している関係もあって共演する事はまず皆無であり、この様な特殊な座組が実現したのも偏にこの東京座という小芝居の劇場に加えて花形歌舞伎という興行ならではの結果と言えます。

因みにこの時由次郎は10歳、共演する蔦丸も14歳と完全な子供芝居であり劇評でもその辺を加味してか

 

純然たる子供芝居

 

とした上で

 

薫の魯智深は小粒でも気が勝ってきびきびしている

 

蔦丸の道成は舞台馴れしていて落ち着きがある

 

由次郎の史進は押し出しが良い。しっかりしてる

 

と随分甘めな評価をしています。

しかし、この3人のその後を知ると必ずしも子供時代の高評価が後の役者人生に繋がらないというのを如実に分からせてくれます。

まず市川薫ですが河原崎権三郎を襲名し期待の若手役者になりましたが、叔父に当たる四代目河原崎長十郎の悪影響(権十郎談)を受けて映画俳優に転身してしまい父権十郎から勘当されてしまい映画俳優として大成する事も無いまま昭和5年に夭折してしまいます。

続いて市川蔦丸ですが、二代目市川左團次一門で長く子役として活躍し後に二代目市川松蔦の前名であった莚若を襲名しました。そのまま順当に行けば左團次一座の若女形から松蔦の後継者の道が見えていましたが、昭和15年2月に左團次が急死すると一座は猿之助と壽美蔵のニ派に分裂し左團次の親類などは壽美蔵側に所属しましたが彼は猿之助側に入りました。しかし、戦時中は菊五郎劇団から移籍した四代目菊次郎に、戦後などは吉右衛門劇団から独立した時蔵にそれぞれ居場所を奪われて結果的には菊五郎劇団に流れ着き中堅の花車役や女房役が定位置に落ち着きました。3人の中では一番安定した役者生活を送り晩年も恵まれてはいましたが、新歌舞伎などを得意としていただけに本来の芸を発揮できたかというと疑問符が付きます。

澤村由次郎は父宗十郎の庇護の下で帝国劇場に出演し大正9年には幕末に一世を風靡した大叔父の名跡である五代目澤村田之助を襲名するなどこの中では一番順当な役者生活を送った方ですが、昭和4年の帝国劇場買収後は父宗十郎の低迷もあって役に恵まれなくなり初代中村吉右衛門一座に身を寄せて中堅所の女形として活動するも戦後は病気がちになり、息子に田之助の名跡を強制的に譲り渡して曙山を名乗って引退するなどその実力を十分に発揮する事は出来ないまま終わりました。

 

⑤道成寺

言うまでもなく京鹿子娘道成寺です。

白拍子花子を初役で演じているのが二代目中村児太郎です。

後の大正5年4月に歌舞伎座で成駒屋五代目中村福助を襲名する時にも演じた演目ですが言うまでもなく養父歌右衛門が得意とした演目であり、それを息子に演じさせる勉強芝居であるのがこの演目の主旨でした。

とは言え、この時児太郎は僅か13歳、しかも初めて父親の手を離れての舞台とあって親バカ歌右衛門も自分が教えては為にならないと思ったのか同じく道成寺を得意とする六代目尾上菊五郎の所にわざわざ頭を下げに言って児太郎に教えを請うたそうです。

対する菊五郎も大先輩から頭を下げられた事もあって児太郎に基礎から懇切丁寧に教えたらしく劇評でも

 

親父の悪い癖まで出るのは仕方ないが、役が合って女らしくて而して親父よりも強さがある。

 

児太郎の品位と落ち着きは帝劇の幹部以上だ

 

と言わしめる程の立派だったそうです。

 

道成寺

 

児太郎の白拍子花子


この大役を無事成功させた児太郎はその後父の舞台に端役として出演を続けていましたが、大正4年8月の若手中心の公演において「春興鏡獅子」を初演して一躍注目を集めて翌大正5年4月には父の前名成駒屋五代目中村福助を襲名し次世代の花形役者の道を歩んでいく事になります。

 

参考までに五代目中村福助の襲名した歌舞伎座の筋書

 

 

⑥松平長七郎

こちらは正式な外題を三千両黄金蔵入といい、架空の人物である徳川忠長の息子の松平長七郎を主人公とする時代物の作品です。

ややこしい事に大森痴雪の書いた同名の作品がありますがそれとは無関係でありTV好きの方には1980年代に放映された「長七郎江戸日記」に登場する松平長七郎と言えばピンとくる方も多いかもしれません。

江戸時代に作られた古くからある作品ですがいくらフィクションとはいえ、徳川家関連の人物を上演する事は不可能であった為に江戸時代は織田信長の三男、織田信孝に当てはめて上演していましたが明治時代に入って本来の松平長七郎になりました。

この時上演されたのは「馬切」と呼ばれる場面で、宝刀を探す松平長七郎は三千両を馬に乗せた大叔父頼宣が藩主を務める紀州藩の宰領達を見つけて、「馬を宿まで引いて参れ」と命じて三千両を強奪しようとして宰領達と争い、そのうちの一人を殺害してしまいますが召し捕りに現れた同心達や留守居役たちを前にして自分が将軍家の親類、松平長七郎である事を告げて全員恐れをなして平伏する。

という極悪水戸黄門みたいな筋の作品です。

 

主役の松平長七郎を片岡千代之助(十三代目片岡仁左衛門)が、大阪留守居役小池弾正左衛門を市川薫が務めています。この配役にも勿論理由があり、千代之介の養父、十一代目片岡仁左衛門がこの役を得意としてお家芸である片岡十二集にも選んでる事から道成寺同様に父親の得意役を息子に演じさせる勉強芝居でした。

大絶賛された児太郎に対して千代之助の評価はというと

 

私は千代之助の将来を考えさせられる。お父さんの道楽を未来ある千代之助に染み込ませてこせこせした(些細な事にこだわって、ゆとりや落ち着きがない)物にはして欲しくない

 

と上手い下手ではなく何故か将来を心配されています。

推測ではありますがこの人はこの東京座の舞台を見る前日に歌舞伎座の芝居も見たとの事で、そこで訳の分からない突飛な性根の解釈をして舞台をよくぶち壊す父仁左衛門を見た翌日に父の当たり役をさせられている千代之助を見た事で上記の発言になったとみられています。皆さんご存知の様に幸いにもこの人の心配は杞憂に終わり千代之助は父十一代目に似る事無く最晩年には「神品」とまで呼ばれるほどの品格のある正統的な役者になりました。

 

 

千代之助の松平長七郎

可愛いですね。

 

因みにこの演目は片岡十二集の中でも特に重要視されていて後の十二代目仁左衛門が襲名披露と最後の舞台で演じた他、今回長七郎を演じた千代之助も自身の十三代目片岡仁左衛門襲名興行でも演じているお家芸でした。

十三代目の存命中は何度か演じられましたが十五代目の襲名披露では残念ながら演じられず、近年では2014年1月の国立劇場で尾上菊五郎劇団によって復活上演された以外は上演されていません。筋書を見ても単純で分かりやすい演目だけに当代の仁左衛門にも演じてもらいたい作品でもあります。

 

 

松平長七郎と無間の鐘

よく見ると役名はきちんと長七郎になっているのに絵では江戸時代の設定のまま小田信孝になってしまってます。

 

⑦無間の鐘

こちらはひらかな盛衰記の四段目、神崎揚屋の事です。

しかも今回は人形振りで演じており、主役の梅ヶ枝を二代目中村米吉(三代目中村時蔵)が、人形振りで演じる為の人形の黒衣役を市川九蔵が務めています。

 

「源太勘当」や「逆櫓」と比べるとあまりに上演される回数が少ない演目ですので紹介すると

「源太勘当」で母延寿に勘当された梶原景時の愛人千鳥は景時の為に遊郭に身を落とし梅ヶ枝として働いていた所、景時が現れて一の谷の戦いの為に梅ヶ枝に預けていた鎧を取りに伺いますが、既に鎧は質屋に入れてありました。その為、万事休すとなった梅ヶ枝が掛川の小夜の中山峠にある観音寺の釣鐘の言い伝えにある「鐘をつくと現世で大金持ちになるが、死んだ後来世で地獄に落ちる」を思い出して質代欲しさに思わず手水鉢を無間の鐘になぞらえて打つと客として訪れていた延寿が息子の為に三百両を投げて与える…

という内容です。

 

劇評では

 

米吉の梅ヶ枝は人形振りは未し(いまだし、時期尚早)だが、顔作りが良いので昔このような良い女形がいたのではないかと思わせてくれる

 

と全体に未熟な部分はあるものの、一定の評価をされています。

それに対して人形遣い役の九蔵は「人形(役の米吉)が人形なので人形遣いも大差ない」とあっさり切り捨てられています。

 

この頃はまだ市村座では八代目尾上芙雀や四代目河原崎国太郎などの先輩女形がいた事もあって主に娘方として活躍しており、後年の名女形として活躍するのはまだまだ先の事ですが、既にその片鱗をうかがわせていたようです。

 

 

⑧鈴ヶ森

こちらは有名な御存知鈴ヶ森です。

次の⑨と共に原作の浮世柄比翼稲妻からの見取になっています。

この鈴ヶ森は権八の立ち廻りと長兵衛の出会いだけのシンプルな場でありそれだけに権八と長兵衛を演じる役者の腕次第で良くも悪くもなる難しい演目で市村座では看板役者の菊五郎と吉右衛門が大正5年11月に演じて大当たりした事があります。

主役の長兵衛と権八を演じるのは四代目市川九蔵と今回出演している六代目市川門之助の養子の四代目市川男寅です。

この当時男寅は父門之助の手元を離れて若手主体の市村座に加入し立役や女形問わず様々な端役を演じていました。

そんな中急に権八という大役を演じる事になりましたが、今までの修業の成果が出たのか

 

男寅は柔らか味を持っていながら形を崩さないのは大出来

 

と絶賛される出来栄えでした。

対して無間の鐘では酷評された九蔵も

 

九蔵は襲名狂言の時の不味さを考えれば勉強の怖さ、修行の怖さが表れていて立派に年配を保っていた

 

とこちらも進歩があったと評価されています。

因みにこの二人は共に戦後まで生き延び長命を保ちましたが、歩んだ道は対照的でした。

男寅の方は翌大正3年に養父門之助を亡くしたものの菊五郎の庇護の元で市村座で順調に出世し、四代目市川男女蔵を襲名して菊五郎の相手役を務めるまでに出世して戦後は大名跡の三代目市川左團次を襲名するなど功成り名遂げました。

対して九蔵の方はというと大正前期は歌舞伎座にも出演していたものの、大正時代半ばに浅草の根岸興行部の公園劇場が出来るとそこに引き抜かれて看板役者として活動しましたが上手く行かずに脱退して浅草を中心に活動を続けるも芽が一向に出ずに松竹に出戻りして松竹が浅草に作った御国座などに出演するなどいつの間にか小芝居に定着してしまいました。

関東大震災によって小芝居の劇場が壊滅的打撃を受けると伝手を頼って父七代目團蔵を崇拝する初代中村吉右衛門一座に客分として加入しました。吉右衛門存命時には崇拝する團蔵の実子として丁重に扱われ昭和18年には八代目市川團蔵を襲名しそれなりの役も演じていましたが、後ろ盾であった吉右衛門の死後はすっかり零落して役が回って来なくなり昭和41年4月に歌舞伎座で引退公演に出演した後、瀬戸内海で投身自殺を図って亡くなりました。

 

互いに実力者であった父を持ち、菊吉の庇護を受けながらも全く違う役者人生を歩んだ事を考えながら筋書を見ると感慨深いものがあります。

 

鈴ヶ森と鞘当

 

⑨廓鞘当

これも有名な歌舞伎十八番の一つ、不破です。

残念ながらこの演目だけは批評が乗っておらずどんな様子だったかは分かりませんが不破数右衛門を片岡仁引、名古屋山三を尾上梅雄が務めています。二人ともあまり聞いた事無い名前かと思いますが、仁引の方は後に二代目片岡左衛門を襲名し大正時代末期に歌舞伎界から映画界に転身して敵役として初期の映画界において大活躍した人物です。

梅雄は後に舞踊界に転身し、六代目尾上菊五郎の振付師を務め六代目藤間勘十郎を襲名して藤間流宗家の座にまで上り詰めた人です。

戦後歌舞伎を知っている方には「藤間紫の前夫」と言えばピンとくる方も多いかと思います。

そんな出自も経歴もまるで違う二人が同じ舞台で共演していたというのは花形歌舞伎ならではの醍醐味と言えます。

 

因みにこの後東京座がどうなったか気になると思われますがこの公演を最後に大歌舞伎の役者は出演する事は無くなり、大正5年1月の映画界で活躍していた片岡松之助の公演を最後に廃座となってしまいました。一時は歌舞伎座を凌ぐ勢いがあった劇場としては思えない程の侘しい最後となりました。

 

今では1月の浅草歌舞伎や8月の納涼歌舞伎などきちんと若手主体の舞台がありますが、戦前はこれらの役割を小芝居の劇場で開く形で担っていたという側面があったのがお分かりいただけると思います。この後関東大震災で小芝居が急激に衰退していくと昭和時代には戦前は新宿第一劇場、戦後は東横ホールなど形を変えて若手の勉強芝居は綿々と現代に至るまで継続して受け継がれています。

昭和の新宿第一劇場の筋書も持ってますのでまた後程改めて昭和時代の青年歌舞伎の様子を紹介したいと思います。