大正7年12月 新富座 仁左衛門、2度目の降板 | 栢莚の徒然なるままに

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今回は以前にちらっと触れた新富座の筋書を紹介したいと思います。

 

大正7年12月 新富座

 

演目:

一、天一坊大岡政談

二、名大島功譽強弓

三、松竹梅雪曙

 

12月の歌舞伎座を文楽に貸した関係で専属役者達は

 

・中車は襲名披露を兼ねて帝国劇場へ再び出演

 

・左團次も帝国劇場に出演(新富座との掛け持ち出演)

 

と2人が帝国劇場へと出演した以外は全員新富座に移って公演を開きました。

と…ここまでは普通でした。そう、6月の新富座の最後に話した一件が起きたのが他ならぬこの公演でした。それは11月公演終了後すぐさまこの公演の稽古に入った半ばの気温の良い晩秋のある日、歌右衛門と羽左衛門が折角の好天にと稽古をズル休みしてしまい大磯へと日帰り旅行に出かけたのでした。

しかし、そのズル休みがある意味生真面目な仁左衛門の耳に入ったのもつかの間、いつもの癇癪玉が半年ぶりに炸裂してしまい、

 

こんな芝居断る!

 

と病気と称してまたもや初日を前に降板してしまいました。慌てて松竹側が2度目の捜索をするも既に仁左衛門は養子の千代之助を連れて逐電してしまいました。しかし、既に6月で1度経験済みの専属役者達は慌てる事もなく仁左衛門の持ち役であった大岡越前守を歌右衛門が引き受ける事で無事納まり6月と違って帝国劇場の中車に泣きつく事なく舞台を開きました。

 

参考までに6月にドタキャンした時の筋書

 

主な配役一覧

 

配役にもある様に専属役者の他に8月から再び東京に滞在している雀右衛門が一座に加わり、その代わり前回紹介した中座に松蔦が出演しています。

 

天一坊大岡政談

 
一番目の天一坊大岡政談は四月大歌舞伎で上演された事でも記憶に新しい大岡政談物の1つで享保13年に天一坊改行と名乗る山伏が時の将軍徳川吉宗の御落胤と称して浪人を集めて徒党を組むなどの行為を行い捕らえられて死刑となったという実際に起きた事件を同時代に生きた大岡越前が裁いた物として描いた時代物の演目となります。
当然設定を盛りまくる歌舞伎がただの詐称事件だけで済む筈がなく、明治8年1月に河竹黙阿弥によって書かれた時には天一坊の前歴を平気で人を殺し強盗をする感応院の修験者の法澤として彼が赤川大膳、常楽院天忠、山内伊賀亮と謀を巡らして経歴や証拠と主張する品々を調達し徳川天一坊に成りすまし、一度は弁舌巧みに大岡越前の詰問を躱して大岡を切腹寸前にまで追い込むものの、家臣の働きにより証拠という物の偽造の証拠を掴み天一坊の悪事を見事に暴くというTVドラマばりの勧善懲悪に徹した内容となっています。
因みにこの事件当時大岡忠相は確かに町奉行の職にありましたが事件が起こったのが品川宿(現在の南品川)であり御府内のギリギリ範囲外(南品川までが町奉行の管轄に入ったのは江戸時代後期になってから)であった為に管轄は勘定奉行(実際は部下の関東群代)の管轄となり大岡忠相は事件に関与していませんが、歌舞伎の世界ではよくあるなあなあの世界観で組み込まれてしまい大岡政談を代表するエピソードの1つとなっています。
 
さて、今回は大岡越前を歌右衛門、徳川天一坊と池田大助を羽左衛門、赤川大膳と吉田三五郎を猿之助、大岡忠右衛門を竹松、常楽院天忠を歌六、山内伊賀亮を左團次、平石次右衛門を段四郎、山内妻おさみと大岡妻小澤を雀右衛門がそれぞれ務めています。
劇評では演目そのものについては
 
旧劇イコオル(=)技芸といへる位である。今月の新富座の「天一坊大岡政談」の如き、その適例である。いふ迄もなくこの狂言は一口に小芝居向きであって、到底、我々の観賞の対象となるべき芝居ではない。
 
と若干小芝居への差別意識が垣間見えますが、あまりに単純な勧善懲悪の芝居がつまらないとしながらも続けて
 
しかし、それが羽左衛門の天一坊の場合では不思議に面白い。馬鹿馬鹿しいと思ひながらも、つい羽左衛門の晴々とした、明るい賑かな技芸に釣り込まれてしまふ。
 
と少し粗がある位の演目が羽左衛門の天真爛漫な技芸と不思議と調和して大歌舞伎の演目に耐え得る物に変わると評価しています。
そして愚劇を変えた功労者である羽左衛門について更に
 
元より羽左衛門には、かういふ天一坊の如き、単純な陽気な狂言が最もよく当嵌まっている。所謂江戸子型の標本羽左衛門には、かういふ分りのいい一本筋のものに限る。(中略)ここに於てか、講釈種の簡明を極めた天一坊がうまいわけである。部分的にいっても、二幕目の常楽院の身の素性を打明ける件の如き、網代問答の如き、あの風貌と共に少しの不足もない。この人の長所ともいふべき、悠々として落つき払った物腰格好も、天一坊の如き役には打ってつけである。唯、大詰の白洲の場で、羽左衛門の天一坊は、舌へ蹴落とされてから、愈々白状してしまふと自分で手を後へ廻してゐる。これは去年(大正6年3月の明治座での)の我童もさうしてゐた。併し、「尾上菊五郎傳」の中にある、故菊五郎の羽左衛門が家橘時代のこの役に対する批評を読むと、そこを非難してゐる。即ち、天一坊が自分で後へ手を廻すのは形が悪い。あれは誰か出てゐる役人が手を持って無理に後へねぢ廻すやうにすべきであるといふのである。(中略)二役の池田大助はいかにも引締った巧な出来である。天一坊と早替わりで出るといふやうに、全体が懸命であった事が、偶々、あれ迄の上出来を招いたのであらう。
 
と伯父五代目菊五郎に指摘された欠点以外は上出来で二役の池田大助含めて高評価されました。
対して羽左衛門と共に行った軽率な振舞い故に仁左衛門の代わりに大岡越前を演じた歌右衛門は正反対に
 
歌右衛門の越前守の失敗に至ってはここで呶々(どど)する迄もない。今月の世間の嘲笑の的になった事も、畢竟、かういふ役を甘んじて引き受けた罪の致す所である。
 
と全く箸にも棒にもかからない出来だったらしく、それもこれも6月の時とは違い自分の身から出た錆だから仕方ないので批評するまでもないと歌右衛門からしてみれば最大級の屈辱的な評価をされています。
 

明暗を分けた歌右衛門の大岡越前守と羽左衛門の天一坊

 

羽左衛門の法澤

 
一方2人以外の役者はと言うとこれまた2人と同じく出来不出来がはっきり分かれまず出来の良い組では段四郎、鶴蔵、左團次、市蔵が挙げられそれぞれ
 
段四郎の治右衛門は、紀州調べの場が老巧である。おくぼ婆から事実の真相を知って、思はず目に涙を浮かべて喜ぶ科など、さらさらと軽く演じてゐながらも、見物ははっと胸を打たれる。蓋し、枯淡な技量の然らしむる所であらう。
 
鶴蔵のおくぼも亦巧である。「一向に存じませぬ」の白を繰り返す技巧は、「黄門記」の大家が「天の恵み」を繰り返す事と同巧異曲である。而もかういふ黙阿弥の技巧は、依然として相当に効果を収めてゐる。
 
左團次の伊賀亮と、亀蔵のお霜と、市蔵の久助とは共に立派な出来である。殊に市蔵の久助の如き、かういふ役所はこの人が最もうまい。
 
と評価されています。一方不出来だったのが猿之助と歌六で
 
猿之助の三五郎は、余りあせり過ぎて悪い。二役大膳の方を取ろ。
 
歌六の天忠は全然滑稽である。この役だけは偶然にも、去年の九團次がうまかった。九團次があの虎のやうな顔を光らせて、酒を飲んでゐる姿は、いかにも田舎の悪僧らしくもあり、黙阿弥式の人物であった。
 
と猿之助は二役の赤川大膳は評価されているものの、吉田三五郎は不評で、歌六に至っては最晩年という事を差し引いても小芝居役者であった二代目九團次に劣るとかなり酷評されています。
 
二代目市川九團次についてはこちらをご覧ください

 

この様に出来不出来がかなりはっきり分かれる形となりましたが冒頭にも書いた様に羽左衛門が演目にもたらした影響はかなり大きく、続く中幕の出来と比べても今期の公演で一番の出来となったそうです。

 

名大島功譽強弓

 
中幕の名大島功譽強弓は六幕通しの天一坊大岡政談の間に挟み込まれる形で上演された明治21年に古河新水が九代目市川團十郎に当て込んで珍説弓張月を基に書いた活歴物の演目となります。古河新水って誰?と思う方もいるかも知れませんがこれはペンネームであり、何を隠そう今回の新富座の元座主である十二代目守田勘彌本人です。彼は座主として歌舞伎界に名のを残す程の有名人ですが、一方で黙阿弥に弟子入りしてこのペンネームで幾つか演目を書いていたりします。(古河という名前は黙阿弥自身が最晩年に古河黙阿弥と名乗っていた為にその時期に弟子入りした勘彌は河竹ではなく古河の名前を与えられています)
内容としては保元の乱に破れて伊豆大島に流された為朝が現地で子供を設けるなど一見大人しくしている振りをしながら実は懲りずに反乱の狼煙を挙げる機会を伺い、遂に機が熟したとして立ち上がり手始めに平家側の手先である船を自慢の剛弓で射るという話になっています。
今回は鎮西八幡為朝を歌右衛門、鬼夜叉を段四郎、息子為頼を團子、朝雅を玉太郎、側女簓江を雀右衛門がそれぞれ務めています。
さて気になる十二代目守田勘彌の作品の出来ですが、劇評には
 
活歴仕立ての愚劇である。
 
と冒頭からバッサリ切り捨てられています。
そして役者についても
 
歌右衛門の為朝の如き、あの不自由な肉体を以てして、強弓を引かうとするのである。到底、成功し得る筈がない。寧ろ段四郎の鬼夜叉と雀右衛門の簓江とが、兎も角役を仕生かしてゐる。
 
と気品と豪力を兼ね備えた九代目團十郎の様な役者ならいざ知らず、気品こそあれど豪力では團十郎にはるかに劣り、加えて既に鉛毒で手が痙攣し満足な動きが出来ない歌右衛門に弓を射る荒武者の為朝を演じさせた事も既に無理があるとこれまた酷評されています。この公演では珍しく歌右衛門が立役のみを演じているのが大きな特徴でしたが結果としては大正6年3月以来ではないかという位の大失敗回となりました。
 

歌右衛門の鎮西八幡為朝と段四郎の鬼夜叉

 

参考までに大正6年3月の歌舞伎座の筋書

 

 

 

この様に作も役者も今一つな結果もあり見物の反応も芳しくなかったそうです。

 

松竹梅雪曙

 
大切の松竹梅雪曙は以前に大正2年の新富座で紹介した様に一番目と同じ河竹黙阿弥が八百屋お七の話を元に描いた世話物の演目となります。
 
参考までに雀右衛門が八百屋お七を演じた大正2年の新富座の筋書

 

今回は八百屋お七を福助、伝吉を羽左衛門、八尾屋久兵衛を段四郎、丁稚彌作を八百蔵、下女おすぎを雀右衛門がそれぞれ務めています。前回は雀右衛門の人形振が評判を呼びましたが、今回の福助はというと

 

大切の「八百屋お七」では、福助の抜けるやうな美しさをいへば足りる。

 

と着実に若女形として経験を積んでいる福助は良かったそうですがそれ以外は特筆する事も無かったのかたった1行余りであっさり片付けられています。

 

雀右衛門の下女おすぎと福助の八百屋お七

 
因みに完全な余談ですがこの公演から福助は父歌右衛門から独立して初めて自分の楽屋を持つ事を許されたそうです。
これは福助が1人の若女形として独立した事を意味していて亡くなるまでの16年余り短いながらも時分の花を咲かせていく事となります。
 
さて、結果としては中幕こそ悲惨な結果になりましたが、一番目の羽左衛門及び二番目の福助共に出来は悪くなかった事から帝国劇場は元より珍しく12月に市村座が開いていた事影響してか大入りとまでは行かなかったものの餅搗芝居としては十分な入りで二度目の仁左衛門の降板があったにも関わらず十分な成績を収めました。
そして、大正4年から続く大戦景気の勢いに支えられて時代は大正8年へと入っていく事になります。