大正2年2月 新富座 三代目阪東壽三郎襲名披露&市川八百蔵の松竹移籍 | 栢莚の徒然なるままに

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今回は再び新富座の筋書を紹介したいと思います。

 

大正2年2月新富座

 

演目:

一、菅公        
二、菅原伝授手習鑑        
三、椀久末松山        
四、伊達娘恋緋鹿子

 

タイトルにも書いたように團門四天王の一人、市川八百蔵が松竹移籍後に初めて新富座に出演した公演となります。

前に紹介した中車芸話で書いたように明治45年11月の歌舞伎座における酷い仕打ちに激怒した八百蔵は公演終了後に辞表を出して松竹に移籍しました。当時の12月は東京では殆ど芝居が開いていなかったので名古屋にある末広座に出演した後、大正2年1月に初めて松竹の劇場である本郷座に出演して一足早く松竹に移籍していた二代目市川左團次と共演しました。

そして今回は前年の11月に襲名した三代目阪東壽三郎の東京での襲名披露を兼ねて大阪から定期的に新富座に出演する初代中村鴈治郎との共演になりました。

 

本編に入る前にまず二代目市川左團次が何故松竹に移籍したのかについて説明したいと思います。

初代左團次の死後、弱冠24歳で後を継いだ彼は父親の一座を率いて苦心惨憺しながら公演を続け父の三回忌に当たる明治39年9月に二代目左團次を襲名しました。そして襲名公演の収益を使ってすぐに渡欧し欧州の演劇を学びに行きそこで先進的な欧州の演劇をつぶさに学んできた彼はそれを日本でも実行しようと考え帰国後に早速取り掛かりました。

 

彼が行った改革は大きく分けてソフト面とハード面の2つでソフト面は女優の登用海外の作品を改作せず翻訳劇として上演する事であり、ハード面は芝居茶屋の廃止切符での座席販売と前売り出方の廃止などいずれも後に帝国劇場が実践した数々の改革そのものでした。この改革は結果から言うとソフト面では成功しましたが、ハード面では失敗に終わりました

ハード面失敗の最大の原因は言うまでもなく既得権益層である茶屋と出方の反発であり、その怒りぶりは凄まじく帰国後初の興行では暴漢を雇って上演中に大騒ぎし舞台を滅茶苦茶にするなどと言った妨害行為を行い警察が出動する騒ぎを起こした結果、危害を恐れて観客の足が遠のいてしまい公演は大失敗に終わり、興行主任であった松居松葉は責任を取って明治座を去るという結果に終わりました。

その後大阪から十一歳目片岡仁左衛門や市川高麗蔵を相手役に迎えて公演を続けていましたが、上記の失敗から芝居の改革という理想が挫折した左團次は何かと負担ばかり大きい明治座の座主の仕事に次第に嫌気がさし始めました。一方で役者としては作家の小山内薫と出会い翻訳劇の上演で意気投合した事で明治42年11月に有楽座で始めた短期公演の自由劇場は芸術性を絶賛された上に興行的にも成功するなど収穫は大きく左團次は明治45年までに6回に渡り有楽座と帝国劇場でこの自由劇場を断続的に開催しました。

そんな事もあって明治45年の5月公演が終わると新派の伊井蓉峰が明治座を買い取りたいという申し出があり、左團次は喜び勇んで明治座を売却してしまい役者専業となりました。フリーとなった彼は今までの流れから行けば自由劇場を開催している関係もあって帝国劇場に専属してもおかしくなかったのですが松竹を選びました。

 

この移籍理由については左團次自伝には書かれていませんが、信憑性に疑問符は付くものの1951年に脇屋光伸と城戸四郎が書いた「大谷竹次郎演劇六十年」には詳細が記されていてそれによると岡鬼太郎を介して当初は帝国劇場への交渉はしたそうですがあまり気のいい返事が貰えなかったそうです。理由としては短期公演であれば問題の無い帝国劇場も専属となれば梅幸・幸四郎・宗十郎といった幹部連中の中に入る事となり、明治座時代と異なり思うような役や演目が出来ない可能性が高く、そこにきて松竹と言えば上方歌舞伎の俳優はあらかた傘下にあるものの東京の劇界では専属は新派しかいない関係もあり東京の歌舞伎役者で最初に移籍すればすれば一番乗りの特権で自由に好きな舞台が出来るといった思惑があったそうで、岡鬼太郎から話を受けた松竹側の非常に熱意のある返事もあった事もあり松竹を選んだそうです。

因みに完全な偶然ですが、この前の月の公演から新たに新富座には食堂が設けられ、左團次が明治座時代に果たせなかった課題の一つであった芝居茶屋の分離化に成功する等劇場改革が進んでいました。

 

食堂の案内図

 

 

さて左團次の話はここら辺にして本編に入っていきたいと思います。

 

主な配役一覧

 

菅公 

 

菅原道真…鴈治郎

在原直興…長三郎(二代目林又一郎)

在原善友…福助

曽根の翁…梅玉

たみの…芝雀

多紀彦…三代目阪東壽三郎

阿古丸…扇雀(二代目中村鴈治郎)

      
菅原伝授手習鑑 

 

松王丸…八百蔵

桜丸・千代…福助

武部源蔵…鴈治郎

戸浪…成太郎

梅王丸・下男三助…左團次

杉王丸…鴈童

涎くり与太郎…長三郎

春藤玄蕃…梅玉

藤原時平公・園生の前…壽三郎

金棒引…箱登羅

菅秀才…市川介六(中村松若)

小太郎…扇雀


椀久末松山

椀屋久兵衞…鴈治郎

松山太夫…芝雀

喜之助・但馬主善…八百蔵

金三郎…壽三郎       
嘉右衛門…成太郎

おせい…鴈童

定之進…箱登羅

寿徳斎…林座衛門

およし…梅玉

 

伊達娘恋緋鹿子

八百屋お七…芝雀

吉三郎…福助

お梶…成太郎

釜屋武兵衛…林左衛門

彌作…鴈童

八百屋久兵衛…八百蔵

 

菅原道真物が2つも並ぶという一見すると?という疑問を拭えない感じがしますがどうやら1月の歌舞伎座で加茂堤と道明寺を上演した事を意識してか今回上演する寺子屋の前に一幕付け加えるに当たって全く同じでは芸がないと判断してか新作で補填したようです。

因みに松嶋屋の片岡十二集の中にも同名の作品がありますがこれとは全く別の作品です。

時系列上で言えば道明寺と車引の中間に位置していて配流中の道真に起きた出来事を描いていますが、ただ単純に歌舞伎座の歌右衛門に対抗して鴈治郎に道真公を演じさせたというだけが目的なので特筆すべき所はありませんが、公演中鴈治郎が胃腸の調子が悪いという事で数日間この幕のみ福助が代役で道真公を務めた事があり、38歳と主役を務めるにはやや若く流石に鴈治郎ほどの威厳は無かったものの気品を求められるこの役をそれなりに演じきったのをたまたま観劇した三島霜川に「品位も(意)気込も申し分ない代わり役だった」と高評価されています。

 

鴈治郎の菅原道真

 

車曳と寺子屋

 

続く菅原伝授手習鑑は今でも定番である車曳と寺子屋のセット上演です。

車曳は主として今回の主役である三代目阪東壽三郎の襲名披露狂言を兼ねた一幕になっています。

壽三郎務める藤原時平に八百蔵の松王丸、左團次の梅王丸、福助の桜丸が付き合うという豪華な狂言となっています。

この時壽三郎はこの時27歳の若さでした。僅か3歳で先代の二代目壽三郎と死別して以来独力で活動を続け、東京で修行したり新派にも出演するなどしてきた苦労人です。御曹司の息子でありながら親の庇護なく独力で這い上がってきた上に芸幅も広いという点では前にも紹介した二代目實川延若に通じる所がありますが芸風は全くの正反対で上方和事の保守本流を行く粘っこい芸風の延若に対して新歌舞伎などの新作を得意とするあっさりとした芸風の持ち主でした。そんな芸風が肌に合ったのか一時期左團次一座に所属していた事がありその縁もあって左團次が共演して花を添えるという形となりました。

 

左團次の梅王丸

 

しかし、あっさりとした芸風故にスケールの大きさと古怪さが求められる時平の役は荷が重すぎたらしく、

 

見てくれだけではそんな見窄らしいものではなかった。けれども壽三郎という役者にはまだ威力とか位というものが備わっていない。位どころか貫目とか、鰭という奴さえついてない。時平が悪かったのは元より当然である。」(三島霜川、役者芸風記)

 

と手厳しい評価となっています。

彼は襲名後も鴈治郎の影に隠れて地道な活動を続け、鴈治郎の死後は延若・梅玉・魁車の三巨頭に後塵を拝して漸く主役の座に躍り出るようなるのは戦後から死去するまでの僅か10年弱でした。彼については今後も何度も触れますのでまた後日書きたいと思います。

 

続いて寺子屋では近年あまり上演されない小太郎が源蔵の寺子屋に入門する件である寺入りが上演されています。

この場面は文字通り千代が小太郎を連れて寺子屋に入学させるというだけの件ですが、忠義の為に可愛い我が子に死を求めるという究極の選択に動揺を隠せない母千代とこれが今生の別れとなる母子の別れに終始運命を悟って動揺しない小太郎がこの場面だけ思わず年相応の子供らしさを垣間見せるという非常に重要な場面が含まれているだけにこれから寺子屋を上演する際には是非この件を復活させてほしいです。

それはさておき、今回松王丸を演じるのは八百蔵で鴈治郎の武部源蔵と梅玉の春藤玄審、成太郎の戸浪、福助の千代と八百蔵以外全員上方勢という中での演技であり、唯一の東京勢である八百蔵が浮いてしまわないか心配されたそうですが明治39年以降6年近くに渡って飼い殺し状態が続いた鬱憤を晴らせる格好の場で気力も充実し、かつて二代目尾上多見蔵に上方演目を仕込まれた事もあって後述の中車型を披露して鴈治郎相手に「堅実にして堂々たる演技で正に團菊没後最初の大寺子屋」と劇評で大絶賛されるほどの熱演ぶりで見物を唸らせる出来栄えだったそうです。

 

 

松王丸の首実検の型については様々な型が知られていますが、八百蔵は大阪にいる時に旧師二代目尾上多見蔵の実子尾上和市が発案し多見蔵経由で教わったという中車型という独自の型で演じていて蓋に左手で手をつくような独特の形を取るのが特徴です。これは松王丸の左側にいる藤原時平側の人間である春藤玄審に菅秀才と偽っている我が子の首を見て自分が動揺する様子が見えないようにするのと源蔵の様子を伺う為の工夫だそうです。

 

昭和2年に演じた時の中車の松王丸

 

鴈治郎の武部源蔵

 

他の配役に関しては松王丸も務められる鴈治郎の得意役である武部源蔵は無論の事、福助の千代役は「いかにも母らしい母の気持ちを出し得る」と好評でした。この共演後鴈治郎は中車を評価して度々共演相手に指名するようになり大正4年から脳梗塞で倒れる昭和6年まで概ね年に1回は大阪の舞台に出演するようになり、二代目中村梅玉の死後は彼の持ち役の多くをを引き継ぐ事になりました。

 

中幕の椀久末松山は岡村柿紅も同名の作品を書いていますが、鴈治郎の方は渡辺霞亭が書き下ろした作品で玩辞楼十二曲にも選ばれている彼の得意役の一つでした。

 

鴈治郎の久兵衛

 

この久兵衛の役は後半酒に溺れて発狂する場面があるのですが、当の鴈治郎は下戸で全く酒が飲めずどうしたら酒乱を表現できるか悩みぬいた末に酒好きの役者を自宅に招いて、好きなだけ飲ませてその役者が泥酔のあまり家中の物をひっくり返す様子をつぶさに観察して役の参考にしたという逸話が伝えられています。

実際の人物を観察して仕草や行動ぶりを役作りに生かす方法は奇しくも水天宮利生深川で六代目が発狂するシーンがある筆屋幸兵衛を演じるに当たって取ったやり方と同じで芸風は異なれど役に対するアプローチは似通るというのが非常に興味深いです。

また嘉右衛門役の成太郎は女形が本役の彼の立役における当たり役の一つで上記の鴈治郎の久兵衛を相手に困惑する番頭役を上手く務めたらしく何かと自己主張が強い芸風の彼が鴈治郎を立てつつ上手く立ち回る様子は劇通を唸らせる出来栄えだったそうです。

 

そして大切の伊達娘恋緋鹿子は有名な八百屋お七を題材にした演目です。

この作品は吉三郎との恋に落ちたお七が彼の危機を救う為に振袖姿で火の見櫓に登って半鐘を打つ(当時火事でもないのに半鐘を打つのは重罪でした)場面、通称「火の見櫓の場」が有名ですがこの時のお七は幕末の名優四代目市川小團次が取り入れた浄瑠璃の様に再現する為に後ろに黒子が付いてあたかも人形の様に演じる所謂人形振りをやるのが定番であり、今回芝雀も人形振りで演じています。

人形振りと聞くと一見すると演技らしい演技もせず人形の真似事をすれば良いという楽そうな役に見えますが実際は指先一つとっても浄瑠璃の人形の動きそっくりに演じないと不自然さが目立ってしまうという高度な技力を要する芸です。

 

人形浄瑠璃の火の見櫓の場

 

歌舞伎の火の見櫓の場の人形振り

 

芝雀は明治座の回でも説明しましたが、声が低く悪声で台詞回しに癖があるのと芸風が粘っこいのが特徴ですが、人形振りでは悪声で台詞を言う必要がなく、しつこい言われた芸風も

 

 

他の人がやるととても嫌味になる所をこの方ですと、それが如何にも可愛いらしく、キュッ、キュッ、キュッと体を人形のように曲げて極るのですが、そこに何とも言えぬ色気が溢れていました」(二代目實川延若、延若芸話)

 

と何処となく愛嬌がある芸風に様変わりしたそうです。

そして吉三郎役の福助の好演もあって鴈治郎の演目に負けず劣らずの人気を誇ったようです。

 

この様に各演目ともに役者の得意演目を並べ芸力を遺憾なく発揮できただけでなく、若手の襲名披露に加えて鴈治郎と八百蔵の共演という話題性もてんこ盛りとあって目と鼻の先にある歌舞伎座の苦境とは正反対に大入りを記録したそうです。

 

この公演が終わって僅か5ヶ月後には松竹が歌舞伎座を買収してしまう為、左團次と八百蔵の二枚看板の時代は僅か半年で終わりを迎えますが松竹に移籍した事でそれまで役者と座主の二束草鞋の活動に悩まされていた左團次は父初代左團次の為に様々な新作を書き下ろした黙阿弥がいた様に自由劇場以来の盟友小山内薫に加えて真山青果や岡本綺堂のブレーンに恵まれるようになった事で左團次の為に書き下ろされた数々の新歌舞伎の作品を演じる事で父と勝らぬも劣らぬ名優としての地位を確立し、それまで役不足で燻っていた八百蔵は数々の大役を演じる事でバイプレイヤーの地位を確立し晩年までその座を保ち続ける事になるなど両優のその後の役者人生に大きな影響を与える事になりました。そういう意味では今回の興行は2人にとって大きな分岐点に当たる公演だと言えると思います。