今回の筋書紹介からいよいよ大正時代に入ります。
まずは歌舞伎座の筋書を紹介したいと思います。
大正2年1月 歌舞伎座
演目:
一、菅原伝授手習鑑
二、御牛
三、梅浪花生玉心中
四、戻駕色相肩
前回紹介した明治44年1月の歌舞伎座から丸2年が経過しましたがまずその間に歌舞伎座に起こった出来事について説明したいと思います。まず明治44年についてですが3月に帝国劇場が開場した事は書きましたが、その後帝国劇場は歌舞伎公演では松竹から俳優を借りるなどして七代目松本幸四郎襲名公演を華々しく行い、専属女優を前面に出した女優劇や日本初となるオペラ公演やシェークスピアの全編上演、短期公演では二代目市川左團次の自由劇場が行われるなど中には失敗もありましたが常に話題性を集めこの頃尤も勢いがありました。
それに対して歌舞伎座は漸く芽の出てきた若手の市村座を抱えつつ創建から四半世紀以上が経過し老朽化が懸念されていた建物を新築の帝国劇場に対抗する為に全面改修を実施して現在の歌舞伎座の原型となる純和風様式の建物に変えて五代目中村歌右衛門襲名公演を行うなど負けじと公演を開いていました。
そして松竹はというと買収した新富座と本郷座を歌舞伎と曾我廼家劇、新派のそれぞれ根城にして公演を行う一方で市村座の回でも書きましたが44年8月には歌舞伎座の買収未遂事件を起こすなどまだまだ勢力拡大を続ける気が満々でした。
こうして三者両すくみのまま明治44年が過ぎ年が明けて明治45年になると歌舞伎座は他の2座に比べて以前から抱えていた以下に挙げる弱点を徐々に露呈し始める事になります。
①公演数
田村成義は古き良き江戸時代から明治時代にかけての歌舞伎の風習を守る興行師であったのは市村座の回でも触れましたが、それは公演に対する考え方も同じで基本的に彼は「入りの悪い月は無理して芝居を打たない」というポリシーの持ち主で見物の入りが見込める1月、3月、5月、9月、11月辺りに公演を隔月で打つスタイルを維持していました。
しかし、帝国劇場はそんな旧来じみた慣習を無視してほぼ毎月公演を打つと新たな公演スタイルを打ち出し、松竹も帝国劇場とは別の理由で帝国劇場より早くこの毎月開催のスタイルを京都や大阪で導入して行っていました。
こんな事が可能なのは
帝国劇場…歌舞伎、女優公演の2本立て+オペラ公演などの短期公演
松竹…歌舞伎、新派、曾我廼家劇の3本立て
など自前で幾つもの演劇ジャンルを抱えて見物が飽きない様に月ごとに打つ内容を変える事が出来たからでした。
それに対して田村率いる歌舞伎座はかつてと異なり歌舞伎界の象徴的な劇場となっているが故に歌舞伎以外のジャンルを上演するという選択肢がなく、使える俳優も歌舞伎座と市村座の若手のみと限られていました。
しかし、田村は興行師としての意地なのかライバルの2座に対抗しようと45年には無理して1~4月まで当時和解して俳優の貸し借りをしていた松竹から尾上卯三郎や片岡我童を借りたり、市村座の若手を出演させたり、福地桜痴の七回忌追善という名目で演目全てを福地の作品で統一するなどして様々な工夫を凝らして4ヶ月連続で公演を行いました。
これで大入りであれば良かったのですが結果はというと2月の市村座の若手芝居と4月公演が辛うじて利益が出た以外は不入りという結果に終わりました。更に1ヶ月明けた6月公演もこれまた不入りとこれまで打つ芝居がほぼほぼ当たるからこそ歌舞伎座で好き勝手ふるまうことが出来た田村の威厳も揺らぎ始め買収未遂事件の時に買い戻した株式の購入資金の返済も重くのしかかるなど苦境に陥り始めました。
②劇場の仕組み
新規に開場した帝国劇場や既存の劇場を買収しそれまで劇場に巣くっていた既得権益層を全て追い払うといった形で中間搾取者が殆どいない松竹に比べて歌舞伎座は旧来の既得権益層の改革がまだなされておらず、2座に比べて収益構造が弱いのが特徴的でした。
上記の不入り続きを受けて他の株主などから収益構造の改革を迫られた結果、田村は渋々出方や芝居茶屋といった旧弊の改革を始めるもこれらの既得権益層は上述の買収未遂事件に時に株の買戻しに必要な資金を提供していた連中でもあった事から流石の田村も強く出る事が出来ずに芝居茶屋を歌舞伎座が買収して管理下に置く以外は中途半端に終わってしまいました。
因みに第二期歌舞伎座俊興により新たに食堂を新設したり、開演時間をベルで知らせる、出方への祝儀を廃止したりするなどある程度までは改革を進める事に成功していました。
③役者の数
更に①で書いたように当時の歌舞伎座では役者の数に限りがありました。かつて大河内輝武が社長であった頃は売れっ子役者全てが歌舞伎座の専属であった事から自由に座組で芝居を組めましたがこの頃は既に梅幸、幸四郎、宗十郎、松助が帝国劇場に移籍し、44年には大阪の4つある劇場の内3つが松竹の傘下に入り上方歌舞伎の役者の殆どを松竹に抑えられ更には明治座を売却した左團次が松竹に移籍するなどした結果、歌舞伎座の主な役者たちは
歌右衛門…立女形、たまに立役
仁左衛門…立役
羽左衛門…二枚目
段四郎…舞踊、立役
八百蔵…敵役
門之助…花車
とほぼ固定しそれぞれの配役に対する不満や演目のマンネリが深刻化しつつありました。
そういった事態を打開すべく田村は上述の様に松竹と全面的に提携するという奇策に出て7月、9月の新富座に市村座の菊吉を、10月の本郷座に八百蔵を貸す代わりに歌舞伎座に上方の役者を借りるなどして松竹側との融和関係を深めていました。しかし11月の歌舞伎座公演を最後に八百蔵が長年の飼い殺し状態に限界が来てしまい脱退し松竹に移籍するなど田村はさらに苦しい状況に追い込まれていました。
主な配役一覧
そんな出来事を経て行われたのが今回の1月公演ですが基本的に旧来の一座に加えて松竹から再度卯三郎が加入しています。
菅原伝授手習鑑は寺子屋ではなく加茂堤と道明寺を演じています。本来なら2つの間に筆法伝授の段がありますがこれは昭和18年に復活するまで長らく絶えていた為、今回は上演されませんでした。
上の配役一覧にもある様に桜丸の羽左衛門と宿禰太郎の仁左衛門は兎も角、鉛毒により歩行に支障がある歌右衛門は序幕のみ出る桜丸女房八重に加えて動きが少ない役どころである事から比較的演じやすい主演の菅相丞を務め、女形ではない段四郎が覚寿を務める珍しい配役でした。歌右衛門の菅相丞は
「適役と言うほどではないが気品の高い役は持って来い(なので良かった)」
と一応合格点はクリアしていたそうです。
歌右衛門の菅相丞
続く御牛と梅浪花生玉心中は新作で前者は和泉流の「牛盗人」を題材にした時代物、後者は近松門左衛門の晩年の作品の生玉心中を題材にした世話物です。
どちらも歌右衛門が女形を務め前者は仁左衛門主役、後者は羽左衛門主役とそれぞれの出し物に付き合う形を取っています。
前者は「御所の牛を盗んだ者を訴えると褒美は望みしだい」という高札を見て、牛を盗んだ者の息子が父を訴えて、褒美に父の命ごいをして許されるという単純な狂言を盗人役の仁左衛門が思い入れたっぷりに演じて独壇場だったそうで劇評でも千代之助(十三代目片岡仁左衛門)の演技が悪目立ちしている批判があった以外は特になく平凡な一幕だったそうです。
後者について歌右衛門が世話物狂言に出るのは非常に珍しいですが、やはりこれには世話物狂言で相手役を務められる梅幸の不在が大きく影響を及ぼしているのが分かります。
また、梅幸だけに限らずこの時の歌舞伎座の座組は女形不足が深刻であり歌右衛門を除く女形は幹部俳優では門之助のみであり、上記の通り三婆と呼ばれる女形の難役である覚寿を本来なら立役が本役の段四郎が加役で務めているのもそれが原因でもあります。
特に若女形の不足は深刻でこの問題を補填する為に歌舞伎座に入ったばかりの河原崎国太郎が大役の刈谷姫を演じれるほどでした。
そんな女形不足を補う為に歌右衛門が柄にない世話女房役のおさかを務めましたが劇評は厳しく
「品位がありすぎてとても二十の遊女には見えない、玉に瑕」
と彼の高尚な芸風が逆に仇となり不評でした。
更に卯三郎の
「(世話物なのに何故か写実風に演じて)独りよがりで芝居をぶち壊している」
という暴走があったにも関わらず相手役の羽左衛門が
「江戸っ子を放たれて柔らかみがある」
演技で何とか一人で舞台を引き締めたそうです。
羽左衛門の嘉平次と歌右衛門のお玉
大切の戻駕色相肩は上記の二演目同様に舞踊が得意な段四郎が主演の演目です。
こちらは舞踊に腕のある段四郎が実力を遺憾なく発揮して大変好評だったようです。
この様に不得手なジャンルにも挑戦するなどした役者側の奮闘に加えて正月公演もあり更には入場料を値下げをした甲斐もあって久しぶりに、そして田村時代最後の大入りとなり8000円(現在の貨幣価値に換算して約2400万円)ほどの利益が出ました。
この後続く3月公演は松竹から新派を借りて本格的に提携公演を行いますがその時は不入りとなりました。
とはいえ、一時は「贅六野郎」とまで松竹を罵った田村が今度は松竹から役者を借りて公演を行うようになるなどそれまでの両者の険悪な関係を知る人にとってはそれこそ芝居をしている様に思えるほどのこの時には友好関係を築いていました。
続く4月公演の筋書も持っていますので続きは改めて書きたいと思います。