明治42年11月 市村座 初期二長町時代 | 栢莚の徒然なるままに

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今回は久しぶりに歌舞伎座以外の筋書を紹介したいと思います。

 

明治42年11月 市村座

 

演目:

一、十二月十四日
二、本朝廿四孝
三、水天宮利生深川
四、勢獅子

 

明治41年から始まった俗に「二長町時代」と言われる市村座の筋書です。

 

二長町というのは現在の東京都台東区1丁目及び2丁目に跨っている地域であり明治25年11月にそれまで浅草猿若町にあった市村座(通称猿若町市村座)が火事で焼失した為にこの地に引っ越して新たに建てられた事によりそれまでの市村座と区別してこの市村座を「二長町市村座」と呼んだのがきっかけです。
 
現在の凸版印刷本店の位置にあった在りし日の市村座(明治43年)
 
同じ角度から見た令和2年現在の市村座跡
 
市村座跡に建つ碑
 
新開場の時には初代市川左團次が出演するなど大劇場の格式を保ってましたが、時代を経るにつれて徐々に格が落ち始めて初代中村吉右衛門が初舞台を踏んだ明治30年3月の時には既に中流の劇場になっていました。
そうして明治38年7月に劇場側に請われて初めて六代目尾上菊五郎と初代中村吉右衛門が市村座に出演した頃には芸格が低すぎて大芝居には出演できないが激しい大立廻りを得意とした事から「猛優訥子」の異名で知られた七代目澤村訥子が座頭として長期間出演するなどいわゆる小芝居(三流)の劇場にまで落ちていました。
僅か13年でかつて江戸三座の一角を占めた劇場とは思えない凋落ぶりですがこれには地理的な問題が大きな要因を占めてました。今でこそ市村座のあった場所はJR秋葉原駅から徒歩8分と都内有数のターミナル駅からほど近い一等地に位置しますが開場した明治25年前後の秋葉原の様子はこんな感じでした。
 
明治21年ごろの秋葉原(が現在のおおよその位置)
 
開場した頃の明治25年は2年前にようやく秋葉原駅が開業したばかり(しかも貨物駅で旅客営業は無し)の良く言えば郊外悪く言えば場末といってもいい未開発地域でした。
その為、市村座に行くには上野駅か新橋駅から歩くしかなく、最寄りの上野駅からでさえ徒歩20分かかる不便な場所に位置していました。その後も明治37年にようやく両国駅が開業しましたが秋葉原駅周辺一帯はまだ鉄道空白地帯が続いており既に路面電車の築地線が開通し経済の中心地銀座にほど近い歌舞伎座や新富座、かつての中村座と市村座があり古くから芝居町として栄えた人形町にほど近い明治座と比べると客足が鈍くなるのは当然と言えば当然でした。
 
今回の公演があった明治42年ごろの市村座周辺の地図(陸軍参謀本部発行1/1000地図より抜粋)
付近に全く鉄道が無いのが分かるかと思います。
 
この交通網問題は初期の二町長市村座最大の悩みの種であり、今回の公演の約1年後の明治43年9月に待望の路面電車である和泉橋線(現在の地下鉄日比谷線の一部)が開通して徒歩5分の最寄り駅である松永町駅(後の和泉橋駅)が開業した事で両国駅と上野駅へのアクセスが繋がり漸く解消し、市村座は「電車開通記念劇」と銘打って公演を開くほどの喜びぶりでした。

路面電車和泉橋線開通後の大正5年ごろの市村座周辺の地図(陸軍参謀本部発行1/1000地図より抜粋)
松永町駅が出来た事でアクセスが改善した事が分かります。
現在の松永町駅跡 奥に続く道筋に市村座があります
 
さて一部の戦前派鉄オタにしか分からない話はここら辺でお終いにしたいと思います。
その後、明治38年12月、明治39年11月と散発的に菊吉の両優が出演した後、明治40年11月から七代目坂東三津五郎を座頭に置いて、中村駒助(後の六代目大谷友右衛門)、十三代目守田勘彌ら若手中心の公演、今でいう花形歌舞伎の劇場として再スタートしました。
しかし、上述の交通網問題もあり公演成績は赤字続きで早くも行き詰まり当時の市村座の持ち主である長谷川という人物が明治41年に当時の歌舞伎座に売却した事で同年11月から田村成義が事実上の座主になり菊五郎と吉右衛門が加入した事で後の二長町時代の面子が揃う事になりました。
 
本編に入る前にもう少し市村座の事に付いて解説したいと思います。
まず二長町市村座の公演の演目は基本的に
 
一番目…新作もしくは時代物
中幕…時代物(一番目が時代物だとたまに無い時もある)
二幕目…世話物
大切…舞踊
 
と古き江戸末期からの歌舞伎公演の様式を守って分かれていて概ね一番目や中幕が吉右衛門主演、二番目と大切が菊五郎主演といった具合に分かれていました。
 
そしてこの頃の座組は大まかに
六代目尾上菊五郎…世話物舞踊主演
初代中村吉右衛門…時代物主演
七代目坂東三津五郎…舞踊主演脇役
十三代目守田勘彌…和事脇役
中村駒助、六代目尾上榮三郎(六代目坂東彦三郎)…実悪脇役
七代目市川雷蔵(七代目市川中車の元養子)、四代目尾上紋三郎(二代目尾上幸蔵の息子)…その他脇役
八代目尾上芙雀(三代目尾上菊次郎)…立女形
二代目中村米吉(三代目中村時蔵)…娘方
四代目尾上菊三郎…花車方(老女役)
三代目市川新十郎、二代目中村翫助(五代目歌右衛門の弟子、三代目尾上鯉三郎の実父)…老け役脇役など
 
という感じで決まっていました。この後紋三郎と雷蔵が途中で脱退するものの大正7年までの11年間に渡りこの座組が維持され続けました。
更にこの11月公演は従来の一座に加えて吉右衛門の父である三代目中村歌六が上置きとして加入しています。
元々は最初に加入した同年7月の市村座が空前の大入りを記録したのがきっかけであり、9月には養子の二代目中村時蔵を亡くした事もあって実子で家の後継者となった吉右衛門への芸の継承という意味合いもあったのか明治45年まで引き続き市村座に出演する様になります。
これらの事を踏まえて主な配役を見てみたいと思います。
 
十二月十四日
大石内蔵助・土屋主税…吉右衛門
二代目紀伊国屋文左衛門・神崎与五郎…菊五郎
大高源吾…三津五郎
清水一角・寺坂吉右衛門…駒助
武林唯七…榮三郎
上杉綱憲…紋三郎
大石主税…雷蔵
吉田忠左衛門…新十郎
小林平八郎…翫助
吉良義央・室井其角…歌六
 
本朝二十四孝
八重垣姫…菊五郎
武田勝頼…吉右衛門
白須賀六郎…三津五郎
原小文治…勘彌
濡衣…芙雀
上杉謙信…歌六
 
水天宮利生深川
筆屋幸兵衛…菊五郎
巡査…吉右衛門
車夫三五郎…榮三郎
金貸し…新十郎
お雪…雷蔵
お霜…米吉
 
勢獅子
鳶頭…菊五郎
鳶頭…三津五郎
鳶…榮三郎、勘彌、駒助、紋三郎
 
十二月十四日は配役でも分かる様に忠臣蔵を題材にした新作です。
吉良家討ち入りの日の吉良家側と浪士側を一日の動きを相互に描く実録風の作品らしく歌六が吉良義央を、吉右衛門が大石内蔵助を初役で務めました。吉右衛門の内蔵助自体は演技、風格共に良かったものの肝心の作品自体が「筋が冗漫」という出来栄えだった事もあってあまり評価が良くなかったようです。
 
吉右衛門の大石内蔵助

菊五郎の紀伊国屋文左衛門

続いて本朝二十四孝では菊五郎の八重垣姫に吉右衛門の武田勝頼という若手時代ならではの配役で流石にニンの差が出たらしく、
この舞台を見た鏑木清方は
 
今度の菊五郎と菊次郎の二人は、蓮葉な姫と若い腰元とでの仕草がまだうら若い女同士という事をよく現はして、この方が如何にも自然に思われ、いままで見たなかで、今度初めて本文の若い女同士という事が浮かばれた。ああいう綺麗なものは、皺へ白粉を塗って見せられるよりも自然に近く見られて恋の感じが強かったが、しかし技芸という点は別です。
 
と述べるなど一部演出の不出来を指摘されてますが菊五郎はおおむね好評でした。
因みにこの菊次郎というのは濡衣を務めていた市村座時代の菊五郎の女房役者の尾上芙雀であり、時代物、世話物を問わず市村座の立女形の座を務め大正8年に急逝さえしなければそのまま菊五郎一座の立女形として戦前の歌舞伎座でも大役を演じたであろうと言われた「未完の女形」といえる役者です。
一方時代物とは言え二枚目役という全くニンに無い役を柄にもない役をよくあれだけやった」と慰められるほど吉右衛門は不評と明暗を分ける形となりました。
 
本朝二十四孝の場面
上方歌舞伎の筋書では役者を識別するのに家紋を使ってましたが市村座では丁寧に人物に役名が振られてます。
 
二番目の水天宮利生深川は今では殆ど上演されない「散切物」の演目の中で唯一再演を重ねる代表作の1つで、菊五郎は演じるに当たって筆屋が実家の家の下女に取材したり精神病院を何度も訪れて主人公筆屋幸兵衛の発狂シーンを研究しただけに「近頃で(は中々)の出来」とこれも高評価でした。
そして大切の勢獅子は「無類の出来」と手放しで称賛されているなどこの公演では菊五郎の独り勝ちの体を成していました。
とは言え、この時の公演成績は大入りだった7月に比べると寂しい数字だったそうです。
その後路面電車も開通した事で懸案の交通アクセスも改善し菊五郎、吉右衛門は市村座で修行を重ねていくに連れ漸く人気が開花して大正時代に入ると菊吉と呼ばれる一時代を築きます。そんな2人の若き日の鎬を削った修行時代の一端が伺えます。