演芸画報 大正9年5月号 初代中村又五郎追悼号 | 栢莚の徒然なるままに

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今回はまた演芸画報を紹介したいと思います。

 

演芸画報 大正9年5月号

 
5月号という事で東京で行っていた歌舞伎座、帝国劇場、市村座については個々に紹介したので今回は省略します。
 
 
 
という訳でそれ以外の劇場について触れると大阪ではそれまで2ヶ月に渡り大々的な杮落し公演を行った中座の公演が終わり、曽我廼家を招いて箸休めの公演を打ち、浪花座に右團次、多見蔵、璃寛という面子で七代目市川蝦十郎の襲名披露公演を打ちました。
 
蝦十郎の松下嘉兵衛と多見蔵の真柴久吉
 
彼はこの時51歳で世代で言うと幸四郎の1つ年上とベテランと言って差し支えない人でした。一応七代目團蔵一門にいた事から五代目市川滝十郎を名乗り、道頓堀にも顔は出すものの、専ら活動の場は京都、神戸、名古屋といった場所が多く地方でも長らく活動する小芝居畑の役者でした。それだけに経験は豊富で右團次、璃寛辺りとは何度も共演した仲であり、今回の襲名にも顔を揃える事になりました。
この後彼はその技量を買われて鴈治郎一座に入り大正12年に一座の敵役を一手に引き受けていた中村林左衛門が廃業するとその後釜になり敵役を引き受ける様になりました。しかし、それも束の間で昭和4年10月に中座に出演中に倒れそのまま60歳の若さで亡くなりました。
 
この様に大阪でやっている歌舞伎公演はこの浪花座だけで、他の役者はどうしていたかと言うと花見客を巡る決戦月である東京とは違い大阪は5月が節目の月とあって皆巡業に出かけており、鴈治郎一行は
 
・神戸→岡山→徳島
 
と中国、四国地方を廻り、延若と雀右衛門は名古屋に新たに出来た港座の杮落し公演に出ていました。
 
吉野山で宙乗りを披露する林長三郎
 
延若の合邦と雀右衛門の玉手御前
 
余談ですが鴈治郎一行が出ていた徳島は何故か興行税が他県の10倍以上高いという謎の法律もあって四国を巡業する役者も徳島だけは避けるという不毛地帯であり、そんな所へあの鴈治郎が遂に乗り込むという事で四国ではちょっとした話題になったそうです。
 
グラビアパートはここまでしておいて文字パートに移ると一番割合を占めるのが3月19日に36歳の若さで急逝した初代中村又五郎の追悼ページとなります。
 
又五郎についてはこちらもご覧下さい

 

 

 

この頃の小芝居の筋書を持っていない為、あまり紹介して来ませんでしたが、役の不満から左團次一座を抜けてまで公演劇場に行き座頭として思う存分腕を振るえた事もあり浅草界隈での又五郎は活躍は著しく、リンク先にもある様に松竹がその人気に対抗して吾妻座を作り訥子をぶつけたり、御国座を買収して源之助を送り込む等して躍起になっていた程でした。
基本的に彼は上方育ちとあって鴈治郎が得意とする上方の世話物において本領を発揮して下にも画像がありますが二代目左團次をして
 
又五郎が亀屋忠兵衛を演じ、私が槌屋治右衛門、毎日見てゐますと、又五郎が鴈治郎の真似か、鴈治郎が又五郎の真似てゐるのか分からないぢゃないかと、宿へ帰って家内と好く話し合った事もありました。」(追悼文より抜粋)
 
と言わしめる程の腕前でした。
その一方で彼は公園劇場に移って以降も左團次が得意とした箕輪の心中、貞任宗任、白虎隊など綺堂が書いた新作物を主演で演じた他、翻案物や他の作者が書いた新作にも手を出す等、大阪にいた時代には鴈治郎をも上回る麒麟児と呼ばれていただけの事はある新進性を見せていて今回綺堂が書いた追悼文の中の中でも彼と最後に会った際にも
 
その時にも彼は何か新作を書いてくれと繰り返していってゐた。」(追悼文より抜粋)
 
と頻りに新作の上演を望むなど最後まで上演意欲は活発であった事が分かります。
その為か今回の追悼号には彼が左團次一座に長らくいた事もあるとはいえ役者の中では唯一左團次が追悼文を寄せた他、岡本綺堂、木村錦花、川尻清譚が追悼文を寄せる等、彼の幅広い交友関係が窺えます。
 
岡本綺堂の追悼文
 
そんな又五郎ですが公園劇場に出演する様になってから働きづめだった事もあり盲腸になったり、鉛毒になるなど健康を崩す事もあり万全とは言えない中で出演を続けていましたが盲腸の手術の経過が良くなかった事が原因で傷口からウイルスに感染したらしくしかも従来の癖で睡眠もロクに取らない生活が祟り3月公演の最中に発病してとうとう倒れて人事不省となり3月19日に死去しました。死ぬ直前には子供芝居時代に覇を競った盟友である初代中村吉右衛門を枕元に呼んで6歳になる長男幸雄の世話を依頼し、吉右衛門はそれを快諾し幸雄は翌大正10年1月、市村座で親の名跡を引き継ぎ二代目中村又五郎として初舞台を踏む事となります。
 
左團次の追悼文
 
余談ですが上記画像で左團次も書いている通り大正6年に旗揚げ以降、一緒に引き抜いた九蔵や権十郎は既に引き抜き返されその上看板役者でもある又五郎が亡くなった事により公園劇場は運営上かなりの打撃を受けました。その為、又五郎の後釜探しに躍起になった結果、当時赤坂の演技座にいたタイプは全く異なる六代目坂東彦三郎を引き抜いて座頭に据えました。この後彦三郎は大正11年10月に市村座に復帰するまでの間、浅草で活躍する事となります。
 
又五郎の追悼に次いで大きくページを割かれているのが二代目市川猿之助の特集になります。
 
DNAの濃さが分かる彼の若かりし日の写真
 
内容としては簡単な経歴紹介から始まり彼の時代物、舞踊、新作のそれぞれの面から彼の魅力を語るという形を取っており30代という若手から徐々に脱皮しつつある頃の彼への当時の評価が分かり後年のイメージさながらも部分もあれば違う部分もあるなど非常に読み応えがあります。
特に舞踊に関しては当時売出中であった慶ちゃん福助よりも評価が高く菊五郎、三津五郎と比較して
 
君の舞踊を菊五郎、三津五郎両君と比較するに菊五郎君のやうな皮肉なものでも三津五郎君のやうに殊に形と動きとが均整されてゐる点よりも寧ろ溌溂たる運動美、勇躍美に特徴を持って居る。菊五郎君が智の踊であり、三津五郎君が情の踊であるなら、君は意思の踊である。従って『勢獅子』や『連獅子』や『三社祭』『鳥羽絵』や『傘の一本足』のやうなものは殊に佳作であるが、『二面』や『忠信』や『保名』の如き多少の情味を要する舞踊になると丸味を欠く場合がないでもない。
 
と彼の舞踊における長所と短所を述べていて、後年彼がその俊敏性に特化して手掛けた黒塚や悪太郎、小鍛冶といった六代目のとは異なる新作舞踊の道に進んだのも納得出来る物があります。
そんな猿之助ですが彼は大正11年には父段四郎が亡くなった事を契機にそれまでの歌舞伎座でのポジションを侵食される様になり春秋座の立ち上げから松竹脱退と若い頃の父親そっくりな破天荒な役者生活を送る事になる事はこの時は本人を含め誰も想像もしていませんでした。
 
さて、最後にちょっとだけ触れておきたいのがこれから先のネタバレ(?)にもなる演芸画報の誌面の変遷と劇界の変化にも繋がるものです。見れば一目瞭然ですが巻末に値上げのお願いのページが載っていてそれまでの定価の80銭(現代価格で約1,100円)から次回号から1円(現代価格で約1,480円)になる胸が記されています。
 
値上げのお願い
 
これは歌舞伎座の時にも少し触れましたが大正9年は大戦景気の終焉とそれに伴う反動不況が起こり世間一般的には主要工業品の価格暴落による会社の倒産が相次ぐ一方、紙などは逆にインフレとなりそれが演芸画報にも影響を及ぼす事になりました。
世界恐慌や金融恐慌、震災恐慌に比べるとインパクトが少なくあまり報じられませんがこれまで戦争成金等で急成長してきた新興企業の衰退が財閥系企業の成長に繋がりその財閥系企業が金融恐慌、世界恐慌で苦況に陥った事でそれら恩恵を大なり小なり受けてきた歌舞伎界も打撃を受ける事になります。
そういう意味も含めてこれまでこの世の春を謳歌してきた歌舞伎界は徐々に不況の荒波に呑み込まれて行く事になるきっかけがこの時だったと言えます。
 
本来だったらもっとグラビアページを紹介したい所でしたが生憎東京の3座を既に紹介してしまった関係であまりヴォリュームが少ない記事になってしまいましたが次の6月号も持っていますのでそちらはグラビアたっぷりに紹介したいと思います。