演芸画報 大正9年4月号 続 中座の杮落とし他 | 栢莚の徒然なるままに

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今回は再び演芸画報を紹介したいと思います。

 

演芸画報 大正9年4月号

 
まず紹介する前に3月の役者たちの動静について触れたいと思います。まず歌舞伎座は4月公演を前に本公演をするのはよくないと判断したのか2月に浪花座で公演をしていた三頭目ら新派を呼び寄せての公演となりました。
 
海島昇と河合武雄
 
そして歌舞伎役者達は何処へ行ったかと言うと
 
歌右衛門、羽左衛門、中車…帝国劇場の梅幸と共に京都・南座に出演
 
左團次、段四郎…新富座で帝国劇場から幸四郎を借りて公演
 
と松竹の主だった役者はこの様に恒例のバラバラでの活動となり、残りの二座の役者も
 
市村座…恒例の帝国劇場への引越公演で松助と共演
 
宗十郎一家…地方巡業
 
宗之助…神戸日本劇場に出演
 
といった具合にこちらもまたそれぞれの活動に勤しんでいました。
 
珍しく単独で神戸日本劇場に出演していた宗之助
 
さて、今号で最もページが割かれているのは前月号に引き続き特集されている中座の杮落とし公演でした。
 

舞台側から見た中座の客席

 
前月号には締め切りの都合で写真が盛綱陣屋しか間に合わなかった為か今回はそれ以外の演目の写真がこれでもかと言わんばかりに掲載されています。
 

鴈治郎のだんまり

 

延若の梶原景秀と雀右衛門の梅ヶ枝

 
長三郎と右團次の三番叟
 
鴈治郎の坂東十郎兵衛と福助のお弓
 
また、グラビアパートだけでなく、文字ページにもふんだんにページが割かれていて楽屋訪問の記事では鴈治郎や延若、福助、右團次にインタビューしていて
 
楳茂都はんの三番叟の評判がよろしおまんね
 
「(阿波十郎兵衛について)受てばかり居る役で難かしおます、初め大森(痴雪)さんが書いて来やはった時は彦助(卯三郎)の殺しがおまへなんだのや、しかしあれでも殺して貰らはんと心持ばっかりで芝居が仕難いので頼みましたのや、魁車の用右衛門と多見蔵の祖上がいい役だす
 
と鴈治郎が演目についての評価や新作の脚色に口を出していたという裏話をあっぴろげに語っていたりしたかと思えば
 
「(飾ってある床の間の掛け軸の作者について)誰ですか
 

楳茂都の師匠だす

 

楳茂都のと言ふとあの舞の師匠の…

 

さうだす

 

へへン、巧いものですな

 

ちょっと失礼(と言って出て行ってしまう)」

 

上機嫌な方なのかたった三言でインタビューを強制終了してしまう高砂屋福助の様子もリアルに収録されており普段見れない楽屋裏の話は非常に面白い物があります。

 

中座の楽屋裏を特集した記事

 
一方であまりに役者が多すぎる為か、楽屋不足だったらしく個部屋なのは鴈治郎と梅玉だけ(但し鴈治郎は息子2人がセット)で残りは
 
延若、新升…相部屋
 
福助、璃寛…相部屋
 
市蔵、嵐吉三郎…相部屋
 
魁車、巌笑…相部屋
 
雀右衛門、卯三郎…相部屋
 
右團次、多見蔵…相部屋
 
と立派な幹部役者すら皆相部屋という扱いで特に右團次の多見蔵の部屋は本来は楽屋では無かったらしく
 
少し押し込められたと言ふかたちです
 
と右團次が不満を述べていたりもするなどこの当時の右團次と多見蔵の扱いが透けて見えたりもします。
それはさておき、この画像に上げた舞台裏訪問記の記事以外にも「中座の開場式に招かれて」と「芝居見たまま」、「阿波十郎兵衛芸評」と合計に30Pに渡り特集され普段の5倍以上のページが割かれている事から見ても如何に劇界における関心が高かったのが分かります。
 
一方で帝国劇場幹部であった幸四郎は東京では以前に紹介した大正7年2月の歌舞伎座以来2度目となる松竹に借り出され、明治35年5月以来17年ぶりとなる新富座へ出演していました。
 
参考までに歌舞伎座の筋書

 

新富座では左團次一座と段四郎との共演になりました。2人とは上記の歌舞伎座でのめ組の喧嘩では共演こそしていましたが左團次とは兎も角、段四郎との顔合わせは僅かだったのに対して今回は魁平家物語、閻魔小兵衛、紅葉狩の3つの演目で左團次、段四郎とそれぞれたっぷり共演する事になりました。
 
以前紹介した紅葉狩で左團次と幸四郎が共演した明治座の筋書 

 

 
幸四郎の戸隠の鬼女と左團次の平惟持、段四郎の戸隠山人
 
左團次の閻魔小兵衛、幸四郎の浮世伊之助
 
余談ですが普段は所属する会社が異なる事もあり東京での共演がなく、地方巡業でもそれぞれ一座の座頭という事で忙しく働いている為に共演は皆無に等しい2人でしたがこの時の共演で意気投合したのか、この年の9月に左團次が一座を引き連れて東北、北海道巡業をした時には直前まで一座を率いて中国、九州巡業を終えたばかりの幸四郎が単独で加入して仲良く共演するというかなり珍しい事が起こりました。
一方段四郎は他の2人が出ないお染久松色読販で若い壽美蔵、松蔦に付き合って久作を演じていました。
 
壽美蔵の久松、段四郎の久作、松蔦のお染
 
既に老境に差し掛かっていながらも壮健に舞台を務めていた段四郎ですが流石に役の面では老け役が多くなってきており、翌月の歌舞伎座公演でも得意とした弁慶を辞退して羽左衛門に譲る等、寄る年波に考慮しつつも元気に晩年の2年間を過ごす事になります。
 
そして帝国劇場では菊次郎と国太郎を失って以来となる恒例の市村座の引越公演が行われていました。
 
こちらの演目は
 
清正誠忠録
三人片輪
塩原多助
 
といずれも菊吉双方が既に何度も演じた事がある演目ばかりとなりました。
 
菊五郎の唖次郎作と三津五郎の躄太郎助と東蔵の船岡主馬
 
吉右衛門の加藤清正
 
それだけに双方共に手馴れている事もあり、安定の出来だったそうですがここで注目すべきなのが菊次郎、国太郎の穴を埋めるべく米升を使っていたのは既に書きましたが新たに菊五郎は男女蔵をお花、吉右衛門は時蔵を楓にそれぞれに起用している点です。
男女蔵が菊五郎の相手役を務められる様になるのはもう少し後の昭和に入ってからですがそれまで菊次郎の陰で娘役に甘んじてた時蔵が吉右衛門の相手役に抜擢されたのは大きな変化でした。当時の演芸画報には田村壽二郎の話として歌舞伎座における新富座や明治座、帝国劇場における有楽座の様に何処かの劇場を買収して支店を作る構想があったと記しています。もし実現していれば時蔵や男女蔵が市村座で菊吉の相手役をしつつ掛け持ちで主役として出て出し物を出すのでは?とも噂されていてかなり現実味を帯びた話だったそうです。
しかし、その話が実現するには残された時間はあまりに短かく既に菊五郎と吉右衛門、三津五郎の間には配役面等の不満による埋めがたい不和が生じていて田村成義が体調を崩し始めた8月には吉右衛門が三津五郎の元を訪れて脱退を打ち明けており、この公演の丁度1年後の引越公演直前に吉右衛門は市村座に辞表を叩き付けています。大袈裟に言えばこの大正9年は「市村座、最後の1年」とも言うべき年になりました。
 
この様にグラビアページはかなり充実していますが文字のページも中々面白い記事が揃っていて今回は2つばかり紹介したいと思います。
1つ目はシリーズ物で以前に私がツイッターで投稿した十三代目我童の出生に関する記事の元ネタでもある歌舞伎役者の妻を特集していた物になります。
今回は帝国劇場の幹部である宗十郎と梅幸の夫人を取り上げています。
 
 
今でこそ梨園の妻と言えば故坂田藤十郎夫人の扇千景や中村芝翫夫人の三田寛子、片岡愛之助夫人の藤原紀香の様にメディアに注目される人も少なくありませんが、約100年前の大正時代にはそんな事は皆無であり、そういう意味では普段語られない役者稼業の苦労などを記したこのシリーズは貴重な証言集にもなっています。
さて、今回の宗十郎夫人のちか子は帝国劇場の杮落し公演や高助と田之助の襲名披露公演で触れた様に三代目澤村田之助の娘であり、芸以外には無頓着な夫に変わり子育てと劇場との給金交渉やタニマチ作りと裏方全般を行いそれでいて四方八方敵だらけだった父親とは違ってどこにも敵を作らず、毎月の公演で実に3000枚近くのチケットを売りさばいていたという稀に見る賢婦人でした。
これまでブログでは芸や配役面等で中々思うようにはいかない宗十郎について散々触れてきましたが、そんな宗十郎が幹部としていられた背景にはちか子夫人の劇場への絶大なる献身があったのは言うまでもありませんでした。
それだけに宗十郎も頭が上がらないばかりか金銭関係の全てを任せていた為に浮気すると毎月夫人から貰っていた小遣いを減額されるというペナルティーが存在したらしく小学生の子供みたいな宗十郎と母親みたいなちか子の関係性についても触れられています。
そんなちか子夫人ですが大正14年に帝国劇場の客席でのタニマチの接待中に倒れて死去してしまうという最期を迎えました。
その後宗十郎は帝国劇場の女優であった河村菊江と再婚しますが彼女にちか子夫人ほどのタニマチを築く力は無論のこと維持する力もなく、宗十郎が帝国劇場末期には小芝居の劇場に貸し出されたり、帝国劇場買収後に松竹の中で微妙な扱いを受けた事を鑑みるに如何にちか子夫人の影響力の大きかったのかが窺えます。
 
 
そして記事の中ではもう1人、梅幸の夫人であるふじ夫人についても取り上げています。ふじ夫人はちか子夫人と違って梅幸が金銭関係にはシビアであった為にそういった女将さん業には関与せず夫のライバルであった歌右衛門夫人のたま子夫人同様に上流階級の夫人の様な生活をしていました。しかし、そんなふじ夫人も旦那の酒と女遊びにはとても喧しかったらしく、梅幸が脳溢血で倒れてからは私生活でも飲酒については厳禁となり、梅幸があの手この手を使って夫人の目を盗んで酒を飲もうとしていた話は有名な他、女遊びに関しては女好きの羽左衛門と巡業の時には同行して夫の浮気を旅館から監視していたらしく、梅幸も朝帰りが出来ずにそのまま劇場に入って行ってしまったという逸話が載せられています。そんなふじ夫人は宗十郎とは正反対に丑之助と泰次郎という2人の息子に先立たれ、その上昭和9年には夫の梅幸にも先立たれるという悲劇に見舞われます。
夫の死後に夫人は甥っ子に当たる七代目梅幸に
 
「(女遊びを誤魔化そうとする梅幸の小細工は)ほんとに憎らしかったが、いま考えると、死ぬとわかっていればもっと好きなことをやらせればよかった」(七代目尾上梅幸 梅と菊)
 
と厳し過ぎた事を後悔していると発言しています。彼女の不幸は更に続き、最後の肉親である孫の八代目榮三郎にも先立たれ、自宅は戦争の空襲で焼失し、止む無く義弟菊五郎の家に居候しますがその菊五郎にも昭和24年に先立たれ梅幸の名跡を譲った縁で七代目梅幸に老後の面倒を見てもらい亡くなるという淋しい最期となりました。
ただ、自身の血縁は全滅したとはいえ音羽屋は今尚劇界の主流を占めているのに対して紀伊国屋は國矢と宗之助を除き誰も現役では残っておらず風前の灯火になっている事を考えると複雑な気持ちになる物があります。
 
そして最後にもう1つこの前新演芸で触れた未来の中堅特集の対になる子役評判記について触れたいと思います。
こちらは文字通り大正中期に子役として活躍していた役者たちを特集しており、
 
・四代目坂東玉三郎(十四代目守田勘彌)
 
・片岡千代麿(五代目澤村源之助)
 
・二代目中村玉太郎
 
・尾上斧男
 
・三代目中村政治郎(高砂屋五代目中村福助)
 
・片岡一(十三代目片岡我童)
 
・中村福呂
 
・中村雁之助
 
・實川延宝
 
・五代目澤村源平(八代目澤村宗十郎)
 
・二代目市川團子(三代目市川段四郎)
 
・尾上泰次郎
 
・市川金太郎(十一代目市川團十郎)
 
の13名について取り上げています。
 
 
 
 
 
 
 
 
世代としては新演芸で紹介した戦後歌舞伎を牽引した6人組の層が中心となっていますが6人組の中では團十郎のみが入っていて、一応同世代の勘彌や十三代目我童、段四郎は勘定の内に入れられていますが、それ以外は取り上げられていません。
これには「既にこの頃子役として活躍していた」という縛りがあり、

・二代目又五郎(大正10年初舞台)
 
・七代目梅幸(大正10年初舞台)
 
・十七代目羽左衛門(大正10年初舞台)
 
・六代目歌右衛門(大正11年初舞台)
 
・初代白鸚(大正13年初舞台)
 
これら6人組の主力世代は初舞台が遅かった関係で入っていない為です。
(因みに既に子役で出演していた勘三郎、八代目三津五郎は締め切りの都合で取り上げなかったと書かれていて二代目松緑については兄團十郎のページ内で触れられている為か勘定に入ってません)
この人数から見て分かる様に子役とは言え実に層が厚く、競争が激しい世代であった事が分かります。中堅世代と同じくこの世代においても尾上泰次郎は若くして急逝した以外にも
 
・中村玉太郎
 
・尾上斧男
 
の2人は大成する事のないまま子役で廃業しましたが、その一方で途中で小芝居へと身を転じた中村雁之助もいたり、寒さに耐えかねて小便を洩らしながらも演技に集中した事を延若に褒められた逸話を持つ實川延宝は昭和5年に實川芦鳩を襲名するも世襲がはびこる歌舞伎界に見切りをつけて以前に紹介した中村福呂と同じく映画界へ進出しました。この世代は例え修行が苦しくとも小芝居役者になる以外は廃業する他に現状を脱する手段がなかった中堅世代との大きな違いとして昭和に入り押し寄せた映画界の大流行に乗じて映画俳優に転身する者が出て来たというのが挙げられます。
残念ながら後年の同じように映画界へ進出し大スターとなった嵐寛壽郎や片岡千恵蔵、長谷川一夫、市川右太衛門たちや映画界の衰退後にTV界に転身しその名を轟かせた中村錦之助、大川橋蔵、市川雷蔵の世代と違ってこの世代の役者は映画界の苛烈な競争に敗れて大成する事はありませんでしたが後続の若手役者達に一つの道を示した事は大きな功績の1つと言えます。
シリアスな話はここまでにして話の内容を見ると畏まった中堅たちの話とは違ってそこは子供、実に無邪気なエピソードが並んでいて
 
・地方巡業で夜遅くまで上演したので舞台上で居眠りしてしまった(玉三郎)
 
・セリフを全く覚えないばかりか舞台上で失禁した(延宝)
 
・他の子役に苛められて泣いていたが、スパルタな猿之助の教育で泣くのを我慢して顔を出したら褒められた(團子)
 
・舞台で役があると張りき過ぎて楽屋で大暴れする為、首になってしょげた(泰次郎)
 
・長男故に暴れん坊で父親が弁慶ばりに大目玉で睨むと怖くて大泣きした(金太郎)
 
といった思わず見てて頬が緩む様な話が載っています。
その一方で赤ん坊だった頃の金太郎を朝方に幸四郎があやしていたという話や源平が兄田之助の鏡台を欲しがって一悶着の末に貰ったたが「貰う以上はいつまでも他人様に眉を書いてもらう様な役者ではダメだ」と父宗十郎に厳しく諫めれた話があると思えば我童や福助の出自に関するシリアスな話や我童の心の性の問題もさらっと書かれていて当時の劇界の大らかさと言うか役者のプライバシーの無さを物語る部分もあります。
役者の中には戦後に入り自伝を書く人も増えその中で過去の失敗話を書く人もいますが、多くは記憶にある物だったりあまり表に出せない為かお蔵入りした話も多くありますが今回の様に過去の雑誌にはそういった知られざるネタも沢山掲載されていて昔の歌舞伎役者には興味なくても我々が直接目にする事が出来た役者の子供時代の昔話などが載っているという点でも今の歌舞伎好きの人にも十分楽しめる内容が多くあります。
もしそういった話に興味がある方がいましたら是非手に取って読んで見ると面白いか思います。