演芸画報 大正10年1月号 東西の役者批評他 | 栢莚の徒然なるままに

栢莚の徒然なるままに

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今回から大正10年に入るに当たりまずは演芸画報を紹介したいと思います。

 

演芸画報 大正10年1月号

 

 

グラビアページの内、以下の劇場は個々の紹介記事に掲載したので省略します。

 

歌舞伎座の筋書 

 

帝国劇場の筋書 

 

南座の筋書 

 

それ以外の劇場の様子を紹介するとまず関東では横浜劇場では歌舞伎座に出れなかった

 

・市川三升

 

・中村傅九郎

 

・中村芝鶴

 

・市川小太夫

 

といった面々に角座から帰ってきた澤村源之助が一枚加わって構成された混成一座での公演となりました。

 

 三升の和藤内と芝鶴の錦祥女

 
かつて歌舞伎座で華々しく襲名した三升も気付けばその実力に見合った格の劇場へと回され不遇を囲っていました。
それでも他の劇場に移籍したり義弟の新之助と異なり小芝居に行かなかったのは市川宗家としてのプライドだったらしく何とか踏み止まったのは実直な彼らしくあります。
この後も彼は松竹の冷たい仕打ちに耐えつつしぶとく活動を続けて昭和に入ってから歌舞伎十八番の復活上演というライフワークを見つけて取り組んでいく事になります。
 
一方で大阪の浪花座もまた鴈治郎以外の面々、つまり延若の座頭公演という事で敵討天下茶屋聚の通しに我童と雀右衛門によるお七吉三が上演されました。
 
我童の吉三と雀右衛門のお七
 
延若の幸右衛門と雀右衛門のお吟
 
こちらはお馴染みとなった延若の通し物に珍しく我童と雀右衛門という二枚目&立女形役者も加わった事もあり、師走月の道頓堀は例年通り賑わったそうです。
 
さて、グラビアパートはここまでで今回は正月号とあって文字パートが非常にウェイトを占めていて今回は「役者同士の比較」がテーマで劇評家や役者同士で批評、コメントをしています。
戦後史観の影響が強い我々とすると戦前の役者同士の比較と言うと
 
・六代目尾上菊五郎と初代中村吉右衛門
 
・五代目中村歌右衛門と六代目尾上梅幸
 
・高砂屋四代目中村福助と中村魁車
 
・初代中村鴈治郎と二代目實川延若
 
といった組み合わせが浮かびますが、今回の特集では菊吉以外は全く比較されておらず当時の好劇家の人達がどういう役者を比べていたのかが分かる点では非常に新鮮且つ面白い物となっています。
まずは劇評家による役者比較となっていて初っ端は七代目松本幸四郎と初代中村吉右衛門の比較となっています。
 
幸四郎と吉右衛門について
 
我々からすると当代松本白鸚及び二代目中村吉右衛門の実祖父としての認識が強い2人ですが今回は「九代目市川團十郎から時代物及び荒事、活歴を受け継いだ両優」という視点で語られています。
 
まずこの文章を書いた高安月郊は團十郎について
 
團十郎からして元来古人の型を踏まず、自分の創意を主とした丈、その型を踏んでも、そのまま復元する事は他の人よりむづかしい。(中略)その点模する事も、伝へる事もむづかしいのは團十郎であらう。
 
と團十郎の芸の性質の難しさを解説した上でその点の両優について
 
幸四郎
 
この人は比較的最も多く團十郎の影響を受けたものであらう。(中略)弁慶、大森彦七、高時始めその十八番の多くから、活歴でもその役の多くを受次いでゐるのは、その感化とこの人の柄と相合うたからである。
 
幸四郎は殊に古典劇にはわざとか、自然か、(團十郎の)形式通りに行かぬ所がある。そこに純古典劇の人で無く、新作に生きて行かねばならぬ前途を示してゐる。」 
 
吉右衛門
 
團十郎の役を続々勤めて最も数多く受取った体だあるのは吉右衛門である。しかし、活歴よりも古典劇に長じたのは。そこが純團十郎系で無く、一面上方系である所、中村宗十郎の伝統は無いが、それと暗合した所が見えるのは、遺伝から幾分の上方性を含むのであらう。それで團十郎の豪放より、宗十郎の沈鬱に近い、それで團十郎が嫌ひ、宗十郎が得意の盛綱に長じたのである。(中略)この両面のある所に多くの未来がある。
 
今までのままで行った所で古典劇の維持者として円熟するのは確かであるが、それ丈ではまだまだそのある前途を狭めてしまふ様なものである。
 
とそれぞれ幸四郎は新作と歌舞伎十八番、吉右衛門は古典とそれぞれ受け継ぎ、それぞれの欠点があると指摘した上で
 
幸四郎
 
自分に適当な作物を得る事は総ての役者の第一の急務であるが、それも唯その柄、その今までの芸風に適当な位では為にならぬ。努力の張合があり、それで自分にも今まで展びなかった長所を展ばす様なのが好いのである。この人はまた時に風変りの役に成功したが、そこにも未来がある。
 
吉右衛門
 
伝統が両系からあるのは、それを無駄にせず、その束縛から解脱して、その気韻を捉へ、昔の形式上の調和より、新しい気分の一致を出すに好からう。
 
と幸四郎には團十郎から受け継いだ芸に収まらず師の独創性を活かした彼に合った新作を、吉右衛門には極めつつある古典芸から離れて心理描写に重きを置いた新作に挑むべきだとそれぞれアドバイスを行っています。
結論から言えば、幸四郎の完全新作は結局生まれず、吉右衛門もこの大正10年には幾つかの現代劇や新作物に挑戦をしたりもしましたが古典物を上回る成績を上げる事は出来ずに失敗に終わり、僅かに二条城の清正と言った清正物の新作が後世に残った程度で終わりました。
しかし、両優にとって息子(吉右衛門にとっては娘婿)に当たる八代目幸四郎が文楽と歌舞伎の融合した新作である日向島を上演したり後に松竹を離れて東宝での演劇にも幾つか挑戦した事や孫の当代白鸚がミュージカルスターと歌舞伎役者の両立を実現しているなど当人たちの子孫が具現化した事を考えるとこのアドバイスはかなり良い線に行っているのでは?と言える物だと思えます。
 
三津五郎と猿之助について
 
続いて舞踊役者の枠と言う事でこの当時現役バリバリの中堅であった三津五郎と猿之助を取り上げています。
この2名は共に長命だった事もあり戦後も長らく活動し三津五郎は歌舞伎舞踊で人間国宝に、猿之助は日本芸術院会員をそれぞれ務める等位人臣を極めた事は有名ですが、その一方で三津五郎は守田家のに人間でありながら市村座、歌舞伎座時代を通じて舞踊枠に押し込められ、猿之助は2度に渡る松竹脱退もあり左團次一座に身を置いていたものの長らく不遇で地方巡業や海外公演などで気焔を吐くなど戦前はその実力に見合った待遇をされていた訳ではない2人でした。
そんな2人の当時の評価はどうだったかと言うと
 
三津五郎
 
立派な一個の既製品であるからだ。既製品であるといふ事は、即ち未来に期待される点がないといへれば、心機一転して局面を展開せねばならない。如何にもそつがない。為る事も上手なれば一々行渡って整ってゐる。同時に型に嵌ってゐる。
 
猿之助
 
彼れは所謂俳優中尤も近代人であるからだ、真面目に悶えてゐるからだ。(中略)なまじ知識があるのでその知識に自身がわづらひさる点があるかもしれない。(中略)彼の芸は真摯であるけれども余裕に乏しい。強いけれども直線過ぎる。しかし、その芸の根底には何時も真面目な或る物がかくれてゐる。それが彼の生命である。
 
と舞踊のスタイルは真逆で芸風や柄に関しても全く異なるものの、根底の部分で馬鹿真面目であり、それが故に三津五郎は若くしてある点にまで行き付いてしまっている事、猿之助に関しては従来の歌舞伎舞踊では彼の長所を活かし切れないだろうと指摘しています。
またこの指摘では三津五郎の生まれながらの欠点と言える体格的な弱点と端から見れば恵まれた体格を持つ猿之助の弱点についても触れていて
 
素質に欠点はないが、あの小さな体格とあの声量の乏しい声、そこに弱点がある。
 
第一あの体格が可哀さうだ。もう一二寸上背を延ばしてやりたい。そして背の割には肥り過ぎてゐる。画面とか形とか、恰好とか型とかを重んずる純技巧的芸術の方面では如何にも持前に損な点がある。
 
とそれぞれの肉体的欠点についても指摘しそれが故に三津五郎は時代世話を問わず古典演目では実力の割に過小評価され、猿之助に至っては時代物、世話物は言わずもがな古典舞踊でも菊五郎などに比べて不利であるとしています。
その上で2人に対してのアドバイスもあり、
 
三津五郎
 
あの覚え込んだ楷書をどうほぐして、どう自由な自己流を作り出すかといふ点にある
 
猿之助
 
比較的歌舞伎役者として弱点を取ってゐる猿之助は、有るが儘の人間としてその長所を発展するだらうと思ふ。僕は彼の体格を見ると、調子の悪い身体の小さかった世話劇の名人小團次を連想する。(中略)若しそれ、名優小團次が黙阿弥を得て世話劇を開拓したやうな機運に廻り合ったら、否その機運を作り得たら、その短所は悉く長所になるだらう。
 
と三津五郎には菊五郎の様な型破りの芸を薦め、猿之助には新作物に活路を見出せば欠点がひっくり返って長所になるとしています。この指摘に対して三津五郎はその愚直な性格もあってついぞその様な真似はせず終生楷書の踊りに徹し、それがそのまま舞踊の名人として名を馳せましたが、一方で猿之助はその指摘通り自身の身体にあった新作舞踊である黒塚を始め小鍛冶、悪太郎と言った現代でも澤瀉屋一門に伝わる演目を残した他、普通の演目でも研辰の討たれや坊ちゃんといった現代劇、時代劇を問わず自分に合った演目を作り出した事で二代目市川左團次の後継者ポジションを獲得した事から見てもこの指摘は決して的外れな指摘では無かった事が見て取れます。
 
松蔦と宗十郎について
 
枠をはみ出た方が良いとアドバイスがあった猿之助と三津五郎とは対照的に自重を求められたのが次に紹介する宗十郎と松蔦でした。
宗十郎については戦後の書物類には専ら「古風な芸が合わず評価が低かった」とありますが当時はどの様に見られていたのかと言うと
 
その役者放れして居る所に、必らず持味が無くてはならぬ宗十郎は、何うも味ひが薄いやうである。自然から彼の芸風は遠ざかって行くやうである。態とらしい芸、巧む芸に走って、彼は頭で芝居することが、如何にも難いらしく見えるのである。
 
これからの芝居は頭の芝居に進んでいく。所作の芝居ではなくって、考えの芝居である。宗十郎が、若し頭を等閑に附するが如きと在ったとしたら、悲しい哉、宗十郎は芝居国の落伍者の中に算へられはせまいか。殊に帝劇の舞台に於いて、宗十郎の芸風が、他の幹部俳優に対して、仕勝手が悪い様に見える。自分から一歩譲って居る風がある、思ひ切って芝居をせぬやうにも見える。但し思ひ切って芝居をされると、随分当てられる。その中庸こそ頭の運用である。
 
と芸が前近代じみて時流に合って居ないのでこのまま行くと取り残される可能性があるという後年言われていた事と正に寸分違わない評価をされているのが分かります。
しかし、宗十郎の芸風その物については
 
宗十郎ほど役者らしい役者はない。物事が大ざっぱで、門弟に情が深く、話は解り易く、テキパキして、あの人の調子のネトネトとは、全然の相違で、江戸時代の役者の俤がある。そしてお世辞がよく腰が低く、愛嬌がある。あの人の温顔に接してゐると、ツイ同化されて、駄目を出そうと楽屋に行っても、それを言ひそびれて了ふといった。
 
ときちんとその芸の独特さ、面白さ、性格の良さは認めておりそれだけに彼が急に写実に走っても今の地位さえ失う可能性があるから何とか踏みとどまって欲しいとすら書かれています。余談ですが、宗十郎は中央の舞台でスポットライトが浴びられない分、地方巡業ではかなり精を出していてその様子については以前に1度紹介しましたが昭和に入ってもその姿勢は変わらず普段大歌舞伎の役者が絶対に来てくれない様な樺太にまで赴いて芝居をする等、その古風な芸風が地方では根強い人気を持っていたのも事実で彼が再評価された矢先に巡業先の姫路で急死したのは有名ですが彼をきちんと評価してくれる地方の見物の前で死ねたというのはある意味彼にとっては幸せな最期だったのではないかと思えてしまいます。
宗十郎の地方巡業については最近筋書を複数冊手に入れましたのでまた改めて紹介したいと思います。
対して一見すると特に自重するような事がない様に見える松蔦ですが彼については
 
私は、松蔦がふけて行きつつある殊に、轉た寂寞を禁ずる事が出来ないのである。(中略)私は世間の人は何と言はうとも、当代娘形の一人者としては、松蔦を推薦するのである。その松蔦に、薹が立って来た様に見えるのだから、私をして少なからず失望させて居るのである。あの年で薹が立つ、それは余りに早くはあるまいか。余りに早くはあるまいか。余りに娘形としての、彼の生命の短い事を痛嘆せずには居ら(れ)ない。
 
と加齢による美しさの衰えを最近作って誤魔化そうとしている事を指摘されています。他の役者であればそこは芸の力で補えるという所ですが、松蔦の場合は新歌舞伎の演目が多くその魔術が使えない事が大きく影響していると指摘しています。
そして丁度これからというのに親の歌右衛門に比べ色気のない慶ちゃん福助、普段の芸は兎も角、たまに娘役をやらせると驚く位色気のある宗十郎に比べて松蔦が色気を取り戻そうと技巧に走っている点を嘆いています。
この事に直接関係あるかは分かりませんが、左團次の新作物もこの大正後期から徐々に岡本綺堂や鬼太郎といった面々から女性の人物をあまり出さない真山青果へと傾倒していく事になり、総じて松蔦の活躍の場もヒット作の再演などに限られていく事となり、これまで松蔦の独壇場だった左團次一座も三代目坂東秀調や昭和に入り再び戻って来た四代目澤村源之助といった先輩や同年代の女形役者が再び一座に入ったり二代目中村芝鶴、二代目市川莚若、片岡千代麿といった次世代の女形役者が段々頭角を現していく事になります。
 
魁車と我童について
 
そして、ここでようやく上方役者にもスポットが当てられ始め第1号は当時脂の乗った中堅だった魁車と我童が取り上げられています。この2人と言えば片や飼い殺しに近い状態、片や勝ち組と言える鴈治郎一座にはいるものの、一座の中では常に福助に押され中々良い役には恵まれないなど、待遇に天と地の差はあれどある意味現状に不満を覚えていたとも言える2名ですが、今回は「新作演目への対応力」をテーマに比べられており
 
我童
 
我童の演る事は伝統的の意味にもまだ甚だ完全でないものかも知れない。どうかすると宛然上の空に見えるほどお坊ちゃん染みる事もある。しかし演ることが固まってゐないだけ今後「へへののもへの(古い歌舞伎の型の暗喩)」から脱却し易く新局面に走るにも素質を持ってゐる。とりわけ新旧「朝顔日記」や「石童丸」(寅彦氏)の田毎姫ー脚本の新味は別としてーなどに特有の濃厚さのある事も、乃至「八幡祭」(大伍氏)の美代吉や「一切経由来」(痴雪氏)の女主人公などいふ方面の二番目畑の芸妓にも、福助、魁車とは別の領分があり、この方向に今度行くべき途が暗示されてゐる。男性の方面では「桐一葉」の大野修理など無難の方、八郎兵衛型の二枚目等にはまだ穴が多いが、始終ワキ役に慣れた福助等が心になると舞台が寂しいに反し我童は「松平長七郎」(痴雪)の様に一人で演る芝居にも向く様でここにも一方面ある。
 
魁車
 
関西方で一番早く嘱目されたのは魁車であるが此人は我童等と違ひ既に充分伝統的に訓練され、完成されてゐるだけに時に魁車らしくない事を演る。
 
と意外な事に新作に関する点に関しては鴈治郎の新作物で経験豊かな魁車より我童の方に軍配が上がると書かれています。
これについては以前ちょろっとブログに触れましたが我童は当時の新聞小説の大ヒット作である「生さぬ仲」を浪花座で初演して2ヶ月連続の大ヒットを記録しており、新歌舞伎に留まらず新派物にも何度か挑戦していた魁車よりも実は実績があったりしました。
また、文中でも触れている様に鴈治郎一座にいるが故に鴈治郎の脇役に押し込められている魁車と飼い殺し状態故に一座を率いて座頭で各地を巡業する事が多い我童の主役経験数の差がこんな所でも意外な結果を齎してもいました。
しかし、この後の事になると結果は真逆になり鴈治郎の死により束縛から解き放たれた魁車は道頓堀では延若、福助と女形で付き合いながらも巡業では自身が座頭となり左團次物の新歌舞伎を演じたり新作物にも挑戦するなどアグレッシブに活動したのに対して我童は東京に移籍して梅幸の後釜として羽左衛門の相手役に収まってしまうと自身の得意役の新朝顔日記や歌右衛門との付き合いで桐一葉を演じたりする以外は新作への挑戦をパタリと止めてしまいました。これについては我童の不遇ぶりを考えると安住の地位に就きたくなる彼の気持ちは分からなくもないですし一度その地位に成った以上敢えてリスクを冒してまで新作を挑む必要が無かったのも分かりますので一概に堕落したとまでは言えませんが、指摘とは正反対の結果になってしまったのは皮肉と言えます。
 
延若と高砂屋福助について
 
上方勢については魁車と我童と同世代の高砂屋福助は延若と比べられており、一見すると真逆な2人ですが書き手はこの2人の抱えている弱点について筆法鋭く語っていて
 
高砂屋福助
 
この人は延若のやうに広い芸の範囲を持ってゐませんが狭くして深い芸の持主です、この福助の将来はどうだろうかといへば近頃気遣ひなのはこの人の芸の潤いひがだんだんと減じて来たことです。この人の芸に伴ふ一種の淋しみが次第に色濃くなって来ました。又この人の女形は干からびて来ました。寧ろ一種の二枚目又は立役の方が引立って見えます。(中略)あまり考へ深い知恵負けの為に足の一歩一歩が縮み勝ちで持てる力が圧縮しす仕舞って自ら早く老いなければ好いがと思はれるのです。
 
延若
 
延若の短所をいへば我仏尊しで自ら顧るといふことをしない、余りに自分の力を信じすぎてゐる、これらの弊は自惚れの雲で向上の一路を覆って仕舞ふ。又達者な芸に慣れて深味といふものがなく概念的な上滑りの芸に傾いて行く、何をさせても相当に見られる代はりに何れにもうまいと肯かれる真実が欠けてゐる。ー延若の将来は気の毒です。
 
と延若は器用が故に器用貧乏に、福助は常に一歩引き過ぎな為に芸が委縮していると心配されています。
ただ、これに関しては結論から言うと杞憂に終わりました。まず延若は昭和に入って脳梗塞を起こし巡業先で一時左半身不随に陥るもリハビリで奇跡的に復帰し、以後体の不自由もあり松竹から無理やり押し付けられた鴈治郎の得意役を除いてはあまり冒険する様な役はこの頃に比べると控え目にはなり、自然と芸幅を抑える様になっていきました。
対する福助も昭和10年の鴈治郎の死と自身の梅玉襲名もあり、菊吉からも相手役に望まれる一方で道頓堀でも自身が主役となってこれまで手掛けなかった政岡や定高といったこれまで演じてこなかった新たな役に挑むなど幅を広げていい塩梅に円熟していく形となりその代わり先ほど述べた魁車が延若に代わって新作を担うなど奇妙な三角関係にも似た構図が出来上がる事となります。
 
右團次と長三郎について
 
最後に上方の舞踊枠と言う事で市川右團次と林長三郎で締めくくられています。これまで何度かブログで書きましたが上方の舞踊軽視とそれに伴う舞踊役者の払底は既にこの頃から深刻化しておりその事にも触れつつ2人について
 
右團次
 
今の右團次は(大阪人の好みに合った派手な所作事を得意とした初代市川齊入の)その芸風を継いだ筈です。年が若いのと、経験が足りないのとで、舞台に旨味は出ませんが、先代の舞踊に現はれた佳所は比較的よく出します。然しそれが果たして将来に生きた声明を与へるか何かは疑問です。(中略)今の右團次は舞踊以外に何物かを得やうとして、確と得る物を見出し得ない失望に悶えて居るやうです。舞台の長所は受け継いでも居ても、夫れを杖にして将来の地盤を踏んで立つことは難しからうと思はれます。
 
長三郎
 
所作事役者としては右團次と共に大阪劇壇の双璧と呼ばれて居ます。殊にその繊細と、軽妙と柔みとに於ては、右團次よりも優れた技巧をもって居ます。彼の舞踊は天才といっても可いと思ひます。
 
と齊入の舞踊は受け継いだものの、それ以外の時代物、世話物、新作と言った面では生来の吃音もあって伸び悩んでしまっている右團次に対して中村勘五郎の厳しい教えもあって若くして舞踊においては第一人者となり、鴈治郎のコピーからは脱しつつある長三郎は100点満点の正反対の評価を下しています。
事実、右團次はこの後鴈治郎の死により漸くお鉢が回ってくるかと思った矢先の昭和13年に急逝した事で大成する事無く終わり、一方長三郎は右團次亡き後は上方歌舞伎の舞踊枠をほぼ独占し、息子の林敏夫に先立たれる逆縁こそあったものの、孫の与一の成長を見届けつつ壊滅の危機に瀕していた上方歌舞伎の窮状とは無縁に元弟子の長谷川一夫に呼ばれて東宝の舞台に上がったり、宝塚で義太夫の研究会を主宰するなど後進を育てるなど踊り手の名手として過ごした事を考えると渡辺霞亭のこの指摘は可なり正鵠を射ているのが分かります。
 
そしてここまでで識者による寄稿は終わり次のページからは役者同士のコメントページとなります。
まずトップバッターはXでも紹介した五代目中村歌右衛門と二代目中村梅玉です。
 
火花を散らす歌右衛門と梅玉の相互評

 
この2人はかつて若かりし売れっ子時代に共に「中村福助」の名跡を名乗っていた事や歌右衛門襲名騒動において対立関係にあった事、更には息子の福助襲名を巡り互いに意地を貫き通した結果、共演NGであった時期もあるなど歌右衛門と鴈治郎以上にピりついた関係でもありました。
 
歌右衛門襲名騒動についてはこちら 


 
そんな2人にコメントを求めた演芸画報も中々骨がありますが案の定2人のコメントは
 
歌右衛門
私は人の噂めいた事は嫌ひです。人の噂や善悪をするくらゐ行けない事はありません。
 
と歌右衛門は事実上のノーコメント回答をしており、対して梅玉も
 
この頃は尚更に重味がついて成程歌右衛門として技芸院員長として立派な方だなと思っています。
 
と一見すると穏やかなコメントを寄せていますが福助時代の事の際には歌右衛門を「新駒屋」と書いて成駒屋の分家扱いをしており、言葉の裏では過去の因縁を決して忘れてはいない梅玉の思いが伝わって来るものがあります。
この2人の関係については高砂屋の遺族が所有する高砂屋文書を今年中に順次公開するので楽しみにお待ち下さい。
 
珍しい吉右衛門と魁車の相互評
 
そして次に登場するのがこれまた珍しい組み合わせである中村吉右衛門と中村魁車です。2人は文中にある様に吉右衛門が初舞台を踏んでまだ間もない明治33年11月に吉右衛門が中座に行った際にあったと思われる程度で殆ど面識すらない2人でした。
(因みに当の本人たちの記憶には無いようですが実は羽左衛門襲名披露となった明治35年10月の歌舞伎座で同座しています)
それだけにコメントも
 
吉右衛門
 
僕にはあの人を何ともいふ事が出来ないぢゃないか
 
魁車
 
就いてはどんなのか私には批評出来ません。
 
と互いが互いにノーコメントとなっており、これには私も選ぶ相手を間違えていたのでは?と思わざるを得ません。
何なら次の次で菊五郎と我童が出てきますが菊五郎と吉右衛門、魁車と我童であれば読者がそそる様なコメントもあったであろうに人選ミスとしか言いようがありません。
 
幸四郎と小團次の相互評
 
続いては松本幸四郎と市川小團次になります。この2人は共に舞踊という得意な領域が共通している他、幸四郎が左團次一座に身を寄せていた明治42~44年に幾度も共演している事もあって吉右衛門と魁車の様な有様にはならず
 
幸四郎
 
たまには一寸そそっかしい事もありますが、誰にでも誠に親切な好い方といふのは、小團次さんの事でせう。
小團次
 
踊は申すまでもなく、市川家の荒事と云ったら、同門を褒めるではりませんが、今の處あの人の上に出るものはありますまいとは世間で許してゐる事と存じます。
 
と互いが互いに評価するというようやくこの企画に相応しいコメントが出ました。
余談ですが小團次は幸四郎の夫人が相次いで先立たれた事を慮っていますが他ならぬこの年の暮れに小團次は息子の米升に先立たれ自身も後を追う様に翌大正11年5月6日に73歳で亡くなってしまいます。
 
更に珍しい菊五郎と我童の相互評
 
幸四郎と小團次でようやく企画らしいコメントが出た所で又もや変な組み合わせとなったのが尾上菊五郎と片岡我童です。
この2人は文中では菊五郎から1回しか共演していないと言われていますがその実、明治45年4月と6月に2度ほど共演はしているので吉右衛門と魁車ほど疎遠では無いにせよ、殆ど顔馴染みの無い2人であり、そのせいかコメントも
 
菊五郎
 
舞台で一緒になったのはそれ(6月公演の大山詣)だけのことだから何うと云ふ事も出来ませんが
 
我童
 
快活なお方で舞台も非常に派手な方です。どうしてもあのやうになければなるまいと思ひます。
 
と菊五郎は例によってノーコメントですが、我童の方が菊五郎の環境や明朗快活な性格を羨ましがっているのは非常に興味深いコメントだと言えます。
余談ですが、この2名はこの後も全く顔を合わせる機会が無く、我童が女形不足で東京に移籍した後も何故か中々共演しなかった事もあり次に共演するのは前回の共演から24年が経った昭和10年4月公演まで待たねばなりませんでした。
所属の違いが昭和に入ってまであった事を考慮しても鴈治郎と仁左衛門の29年に次ぐこの数字を見るとこの2人の水の合わなさが背景にあったのは言うまでもありません。
 
東西モテ男対決と言える羽左衛門と延若の相互評
 
そして再び企画の面白さが出て来る様な組み合わせとなったのが東の二枚目役者、西の世話物役者と言える羽左衛門と延若でした。こちらは吉右衛門と魁車、菊五郎と我童と異なり延若自身が何度も東京の舞台に顔を出している事もあり
 
羽左衛門
 
何しろ器用な人です。謂って見れば旧に依らず新に依らずなんの役にでも間に合って爺いさんの役でも乗るといふ調法な努力家です。それにすぐ見たことえおすぐ演るといふ達者さには感服の外ありません。
 
延若
 
非常に心安いし、さうしていつもいろいろな事を話合ふし、舞台は例の通りいたってブチ度胸のある人だし、何んだか私と息が合ふ位のとにろで堪忍してくれまいかといふ
 
と双方ともにきちんと相手について言及しています。ただお世辞でもきちんと延若を褒めてる羽左衛門に対し延若はかなり気を遣っているのが窺え芸の大きさからは想像もつかない繊細さが見て取れます。

1度しか共演してない梅幸と雀右衛門の相互評
 
この羽左衛門と延若の様なコメントが続けば良かったのですがそうは上手くいかずまたも1度しか共演した事の無い尾上梅幸と中村雀右衛門の組み合わせになると
 
梅幸
 
今の方の舞台も見た事はあり、一度だけは(共演)した事はありませうが、折悪く逢はないので染々と打溶けて話をした事はないのです。
 
と案の定、梅幸はお定まりのコメントを出しています。ただ、それでも歌右衛門の様な完全な塩対応ではなく
 
野崎村のお光などに就いても、あの方に聞きたいと思っているのです。それに又あの方は人形(振り)の事を能く知ってゐられるとのことで、東京の人は悲しいかな人形を知りませんから是も折があったらお聞きしたいのです。
 
と雀右衛門が得意としたお光や人形振りについていつか聞きたいとコメントしており、年下の雀右衛門への細やかな配慮と謙虚な梅幸の人柄が窺う事が出来ます。
対して雀右衛門も
 
雀右衛門
 
何と言うても梅幸さんは、二番目の女形の唯一人でおますな。とてもとても私なぞあの真似は出来ませぬ。
 
と謙虚に応えており、互いに我慢が先立つ女形役者の宿命なのか歌右衛門と梅玉の様にはなりませんでした。
 
おしゃべりVs無口の宗十郎と高砂屋福助の相互評
 
そんなこんなで折り返しを迎えたこの企画の次の組み合わせはある意味対極に位置する高砂屋福助と澤村宗十郎でした。
上にも書いた様に片や1日無言でも無口の変人と片や1日中話している様な明朗なおしゃべりという真反対の2人ですが南座の筋書で触れた通り、この頃共演の回数が増えてきた事もあり全く知らない仲ではない2名が何を語ったかというと
 
宗十郎
 
自分としては人様の批評をするほどの見識がありませんから出来ませんけれど、舞台上は大変無事な方で、わたくし自身よりは東京向の役者と思ひます。
 
と後の梅玉襲名後の東京と大阪を股にかけての活躍を予言する様な示唆に富んだ発言をしており、対する福助も
 
高砂屋福助
 
宗十郎さんはあんまり舞台でおつきあひした事が御座いません。(中略)他に是といふものをやった事が無いのでマアマア宗十郎さんの多くを識らないというても良いくらいです。しかし、あの方が源平時代に大阪でうんとたたき上げた腕前で、その後東京へ行かれたのですから、東京の舞台もよくのみ込んで居られます。それで東西に通じてゐられる却々型物もよくしって居られます。
 
と福助も福助でよく知らないと前置きしながら宗十郎の芸の広さを評価しており、一番地雷っぽい組み合わせながら蓋を開ければ意外と示唆に富んだ発言もあり充実した物となっています。
 
東西きっての踊り手の猿之助と長三郎の相互評
 
そして舞踊役者としては長三郎と猿之助というこれまた珍しい組み合わせとなりました。これまでの面子と違って互いの父親である段四郎と鴈治郎が定期的に共演していた事もあって双方とも面識があるだけにコメントも
 
猿之助
 
踊に就いても却々の勉強家で、かう云ふ話があります。上方で舌出し三番を演ると云ふので教はりに内の段四郎の所へわざわざ出京し、一瞬間泊り掛けで稽古をして貰ったことがありました。その時僕はまだ千束町の内にゐた時分ですから枕を並べて一緒に寝たものでした。
 
と舌出し三番叟を長三郎が教わりに来た時のエピソードを懐かしく話せば長三郎もまた
 
長三郎
 
京都の顔見世の時二人とも「ある妓」があったと思召せ、處が妙に二人とも権九郎になって仕舞ったのです。サァ二人とも怒るまい事か、祇園のカフェーへ飛び込んで常から二人ともあまり酒を呑まないのが。「(ペパーミントを作る為)ペパミンとサイダーを持って来い」と至極中ッ腹であふるあふるたうたう二人ともグデングデンになって仕舞ひました。
 
と惚れた女を巡るしょうもない争いを語るなどきちんと双方の青春の思い出話を出して懐かしんでおりこの辺が妙な損得利害が絡まない若手ならではの面白味があり東西の役者の知られざる交流が分かります。
 
殆ど共演はないものの新作好きで並べられた左團次と勘彌の相互評
 
そして畑は微妙に違いますが共に新作を好むという点では共通している左團次と勘彌といういかにも企画向けの2人が登場しました。勘彌と左團次は勘彌の実父である十二代目勘彌と左團次の実父である初代左團次は因縁浅からぬ仲でしたが息子同志となると十二代目の死後に勘彌が先代左團次に引き取られ一時期同座したものの、勘彌が市村座に参加した事もあって成人してからは共演は九代目の三回忌追善公演の際に同座した以外は共演はおろか会うのも皆無に近い有様でした。
  
その為か
 
左團次
 
わたしは小さい頃から知ってゐて、同じに踊の師匠へも通ったものですが、どっちかと云うへば年が相違ふので、三津五郎さんの方が多く知ってゐる訳です。
 
勘彌
 
高橋さんと一緒になったのは子供の時分だけです。(中略)それゆえ未だに高橋さんとたまたまお逢ひしても、「兄さん」と口癖のやうに出るのです。失敬な。(中略)わたくしとしては高橋さんの気性が大好きで、あの方の不断からの底力のある精神を持たれるのが、芝居の上に出てきますから、それが尊くもあり慕はしくもあるのです。
 
と左團次は勘彌にそれ程思い出がないと切ないコメントですが、勘彌は年下と言う事もあり新劇好きとして左團次をパイオニアとして尊敬していると書いており一方的に勘彌が左團次への尊敬の意を表すこれまでにない形のコメントになっています。
 
御曹司対談と言える慶ちゃん福助と扇雀の相互評
 
そしてここでは若手にもページが割かれていて父親同士が激しく火花を散らしたものの、今回は企画の都合上実現しなかった代わりに息子同志でと言う事で慶ちゃん福助と中村扇雀がコメントを出しており
 
慶ちゃん福助
 
不断逢った事はありませんから、あの方の何事も云ひ切ることは出来ないのです。」
 
とまるで親が代筆したかの様なノーコメントですが扇雀の方は一応きちんと触れていて
 
扇雀
 
「(し)かし品のよい将来のある方だといつもいつも敬服して居ります。もしもあの方とゆくゆく一つの劇場で打てるやうな事が出来たら嬉しからうと思うて居ります。
 
と将来の共演に含みを持たせたコメントしています。結論から言うとこの2人のサシの共演は福助の急逝もあってとうとう実現しませんでしたが扇雀と言えば福助の弟である六代目歌右衛門との戦後の共演ばかりが注目されますが実は年齢で言えば兄の慶ちゃん福助と同年代(扇雀が福助の2歳下)であり、もし福助が急逝さえしなければもっと共演していた事は確実であり、もなく歌右衛門との共演が絶賛されている以上福助とのサシの共演が実現していれば戦前及び戦後の歌舞伎も大きく様相を異にしていたと思われます。
 
東西きっての踊り手その2 三津五郎と右團次の相互評
 
そして舞踊枠その2として登場したのが坂東三津五郎と市川右團次でした。
しかし、市村座と上方の組み合わせは吉右衛門と魁車、菊五郎と我童の結果を見ればわかる様にこの2人は全く共演した事が無かったらしく
 
三津五郎
 
あの方に初めてお目に掛かったのは、もう余程以前東京へ来られ明治座で「日蓮記」が出た(明治41年10月)のを見物に参って部屋を訪ねた時でした。(中略)そんな訳ですから只の一度も一座した事はありませんし、掛け離れてゐるので深く附合する場合もないのです。
 
右團次
 
三津五郎さんを始めて観ましたのは、あの一行は大阪に来られた時、一番目天目山、それから土蜘に御所五郎蔵のあった時(明治38年8月、角座)でした。
 
と双方が初めて会ったと記憶している年月すら異なっている程で双方共にノーコメント状態でこの市村座と上方の組み合わせは全て失敗となってしまいました。因みにこの2人はこの後も本当に共演する事無いまま先に右團次が亡くなっており、三津五郎の活躍ぶりも含めて全く異なる役者人生を送る事になります。
 
宿年のライバルである鴈治郎と仁左衛門の相互評
 
そして長きに渡った相互評の最後を飾るのは積年のライバルである中村鴈治郎と片岡仁左衛門でした。
この2人と言えば明治29年の忠臣蔵の一件以来、互いの贔屓筋も巻き込んでの対立が続き歌右衛門襲名騒動でも対立した事もあり最後の共演から四半世紀が経っても共演が実現していませんでしたが、2人のコメントでは
 
仁左衛門
 
此の間兄の未亡人葬式に久々に会ひましたら「きっとお尋ねします」と相変らずお世辞の好い事でした。
 
鴈治郎
 
あの人とは此間我童さんの隠居の死なれた葬式の時久しぶりに逢いました。
 
少し前に亡くなった十代目片岡仁左衛門未亡人の葬式で久しぶりに顔を合わせた事が語られており、待ち望まれる共演について
 
仁左衛門
 
その書き出し役者も少しですが立って来ましたから。然らばもう好い加減に私と一緒になったらきっと儲けさせるし儲かることは受け合ひます。たとへば「沼津」を出すとしてもわたしは重兵衛を演らうとはいはない。どこまでも平作で行きます。
 
鴈治郎
 
あんまり一座して親しく芝居をした事が全く少なう御座います。近いうちに一度一座して活躍して見たいと思うています。
 
と遠慮会釈のない率直な言葉はあるものの意外にも仁左衛門の方が強く共演を望んでいた事が分かります。
この2人の共演に前向きな姿勢もあり仁左衛門の言葉通り伊賀越道中双六の沼津で2年後の大正12年に遂に実現する事になります。
この様に奇想天外なコメントや指摘が続出した今回の企画でしたが、冒頭にも書いた通り後世の我々が知らない面白い組み合わせやヤラセ無しの塩対応まであり実に面白い企画だったと言えます。
 
最後にちょっとした笑い話ですが、この頃の演芸画報は売り上げ部数はピークを迎えており、特に正月号は月の中でも一番売り上げが大きい月だっただけに〆切を間に合わせる為に編集部も印刷所も必死だったのか校正チェックまで気が回らなかったのか下記の画像を見ると分かる様に印刷ミスで上下逆様に印刷されているページがあります。
 
4Pに渡り上下逆様になったページ
 
我々が目にしやすい復刻版ではこういったミスは修正されて出されてしまっているだけにオリジナル本を持つ人間だけが楽しめる醍醐味でもあります。(因みに今まで書いてきませんでしたが耳が残ったままだったり明らかにページが欠落してしまって居る等印刷ミスは結構多くみられるのが演芸画報の特徴の1つでもあります)
 
これまで紹介してきた大正9年と違って大正10年分はあまり数は多くないものの所有していますので次は3月号を紹介したいと思います。