大正7年5月 地方巡業 鴈治郎の中国、九州巡業(二の替り) | 栢莚の徒然なるままに

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今回は非常に珍しい地方巡業の筋書を紹介したいと思います。

 

大正7年5月 地方巡業

 

 

演目:

一、箱根霊験躄仇討

二、碁盤太平記

三、あかね染

四、歌仙彩

 

前にも紹介した事のある地方巡業の筋書です。何だかんか言いながらも松竹大谷図書館や演劇博物館には豊富に残っている大劇場の筋書に比べて地方劇場の筋書、特に大正時代の巡業の筋書が残っているのは稀であり、残っているのはほぼ運次第となります。(大劇場の筋書に比べて発行部数が少ない事もさることながら戦前の主要地方都市は原子力爆弾の被害を受けた広島、長崎を始め太平洋戦争中に幾重にも渡り空襲を受けた為に資料の残存度合いは新聞も含めて極めて低くなっています。)因みに今回の巡業は松竹百年史にも掲載されていませんし、筋書も松竹大谷図書館と演劇博物館には所蔵されていませんので恐らく今回が情報、筋書含め日本で初公開と思われます。

 

主な配役一覧

 

 

画像を見てもお分かり頂ける様に今回の巡業は初代中村鴈治郎一門による巡業で記録によると中国、九州地方を廻ったらしく

 

・岡山

 

・下関

 

・小倉

 

・博多

 

・中津

 

・別府

 

・長崎

 

で巡業で行われていた事が確認されています。

余談ですが今回は中国、九州地方の巡業ですが、どうも松竹による巡業には地方によって一定のパターンがあったらしく、例を挙げると

 

東海地方の巡業の場合

 

・最初名古屋で本番稽古も兼ねた1週間前後の公演で幕を開ける

・その後岐阜→刈谷→豊橋→岡崎辺りで公演した後に浜松→静岡と順番に巡業する

or

・あるいは四日市→伊勢→津→松坂と順番に巡業する

 

中国、九州地方の巡業の場合

 

・最初博多で本番稽古も兼ねた1週間前後の公演で幕を開ける

・久留米or佐賀→長崎と順番に西九州を巡業する

or

・飯塚or直方→小倉と順番に東九州を巡業する

・その後大分、熊本、宮崎、鹿児島を順番に巡業する(逆に博多の後にすぐ行く場合もありその時は小倉や長崎は後で回る)

・そして九州地方を終えると今度は下関を振り出しに中国地方に入り萩、宇部辺りから徳山→岩国→広島→呉→岡山の様な順番で回る。(広島と岡山は大抵どの巡業でも入るが後はスケジュール次第によってはあったり無かったりする)

 

今回の場合、通常の中国、九州地方の巡業ルートとは異なるパターンで中国地方を先に巡業した後に九州を訪れて巡業した模様です。

またそれ以外にこの巡業の注目すべきなのは松竹自らが主催となって企画した巡業である所です。

 

前に紹介した戦前の地方巡業の仕組みについて

 

上記リンク先でも書きましたがこの頃の巡業と言うと招聘先は専ら地方の事業家、地方の興行主やあるいは興行会社が主であり松竹は基本的に巡業には消極的な姿勢でした。その背景にはまだ東京、大阪、京都を股にかけての劇場経営が忙しくとても個々の役者の地方巡業にまで手を広げられる余裕が会社に無かったという物理的限界がありました。しかし、この大正7年頃には東京の大谷は歌舞伎座などの経営も安定し、既に進出していた横浜に大正9年に横浜劇場という直営劇場を建てたり、浅草に吾妻座や御国座を作るなど新興遊興地などへの参入などもし始める程に余裕が生まれていました。対して大阪の白井も最後まで粘っていた弁天座の買収が完了して道頓堀五座全ての劇場を傘下に置くなどこちらも余裕が生まれていましたが、道頓堀以外の主要なマーケットである神戸も大正6年に神戸中央劇場を建設して既に進出済みでこれ以上京阪神界隈で新たな劇場買収などの余地が少ない事から白井が次に本腰入れて手掛けるようになったのが地方進出と地方巡業でした。既に大正3年の頃には九州劇場の建設に関与するなど早くから進出への布石を打っていた白井でしたが大劇場とは違い当たるか外れるかが未知数のリスクの高い巡業を手掛ける上で彼がテストケースとして選んだのが外れる可能性が限りなく少ないであろう鴈治郎の巡業でした。この松竹主導の地方巡業は調べてみると大正5年辺りから鴈治郎の巡業などで行われていた形跡があり、松竹がこれまで他人任せだった巡業事業を本格的に手掛ける過渡期でありました。

そしてまだこの頃は松竹合名社名義での公演でしたが次第に会社組織の分業化を推し進めた事により大正後期には「松竹巡業部」という専門部署が誕生し巡業を手掛ける様になります。

 

松竹合名社名義の証拠

 

因みにこの筋書は記録によるとどうも二の替り(巡業などで日程の後半あるいは最初の演目の次に上演する2回目の演目)の筋書だったらしく最初は

 

・宗行卿

 

・盛綱陣屋

 

・摂州合邦辻

 

・封印切

 

・曽我の対面

 

を掛けていたそうです。

つまりこの巡業にはもう1つ筋書が存在する事になりますが流石に持っていないので今回は紹介出来ません。

因みに以前紹介した巡業の筋書は昔ながらの絵本筋書形式でしたが今回は東京形式の筋書になっていてきちんと後半には役者の楽屋話が掲載されています。

 

楽屋話 文末にやはり…

 

 

安定のミツワ石鹼の広告(笑)

 
さて、地方巡業では日程の関係もあり初日に観劇して新聞に劇評を載せるのが普通である為かどうしても二の替りである今回の演目の劇評はありませんが簡単な演目紹介に入りたいと思います。
 

箱根霊験躄仇討

 
一番目の箱根霊験躄仇討は司馬芝叟によって書かれ享和元年8月に文楽で初演され、僅か1ヶ月後には歌舞伎化された時代物の演目です。
内容としては佐藤剛助(後に滝口上野)に殺された兄飯沼三平の敵を討つ飯沼勝五郎の仇討物ですが、現行の歌舞伎ではどちらかと言うと勝五郎の妻初花が病気で足が不自由な夫の為に上野に襲い掛かるも返り討ちに遭い殺され幽霊になり、夫の足を治して仇討を支えるという実質的に初花の孝女ぶりが主題の内容となっています。
近年では平成30年1月に歌舞伎座で上演され私も観劇した事があります。
 
しかしながら、今回は現代でも度々上演される箱根滝の段だけではなく、珍しくその前の段に当たる九十九屋敷出立の段も上演されています。この段は勝五郎と初花が結婚する経緯を描いていて三千助と身分を偽り九十九家に潜む勝五郎とその彼に心を寄せるも身分違いに適わぬ初花の苦悩を描きつつ、その一方で初花の父九十九新左衛門が滝口からの娘との結婚話を断ったのを根に持たれて殿様に讒言され奴三千助(勝五郎)を討ち取れと命じられるも武士の意地として断固として命令を拒否し、三千助の正体を知った上で2人を結婚させて主家への言い訳に切腹するという内容です。
この段があると続く箱根滝の段がより分かりやすくなるのですが、戦後一度も上演された事の無い幻の段となっています。
 
今回は飯沼勝五郎を福助、初花と奴閏平実は高村半平太を魁車、九十九新左衛門を璃珏、奴筆助を梅玉、滝口上野を市川市蔵がそれぞれ務めています。
 
地方新聞には詳しい劇評も載ってるっぽいですが、今回はそこまで詳しく調べきれなかったのでどんな感じだったのかまでは分かりません。
ただ、本筋とは全く関係ないですが長崎で観劇した人のレポが新演芸に寄せられていてそれによるとどうにもこの演目の受けが悪かったようです。というのも、九州ではその時吉右衛門と勘彌が一足早く巡業で回っていて本来なら盛綱陣屋を出す予定であったものの、それでは鴈治郎たちと被ってしまう為に引っ込めご機嫌斜めな吉右衛門を宥める為に九代目團十郎が使用していた小道具を市川宗家から借りて熊谷陣屋の陣門、組討を出していてその時の「馬」が余りに立派だったのに対して今回出てくる馬がショボく、現地の人曰く
 
田舎芝居だと思ってバカにしてやがる!
 
と思われてしまったそうです。無論、鴈治郎側にその意図は無かった様ですがこういった運の要素も影響するのが巡業ならではと言えます。
 

碁盤太平記

 

中幕の碁盤太平記は以前にも紹介した玩辞楼十二曲の内の1つです。

 

前回紹介した南座の筋書 

 

今回は大星由良之助を鴈治郎、力彌を長三郎、おいしを市川市蔵、千壽を梅玉がそれぞれ務めています。

主要な役は南座の時と比べて雀右衛門が演じたおいしを市蔵が代わっている以外はほぼ同じ配役となっているのが分かります。

本来であればおいしの役なら福助と魁車という格好の役者が揃っているにも関わらずわざわざ立役が本役の市蔵に加役で演じているのは謎ですがもしかしたら前幕の滝口や次のあかね染の忠六といった敵役や憎まれ役を引き受ける交換条件にこの演目で花を持たせたのかも知れません。

こちらも寄稿文の中に言及が無いので今一つ出来が不明ですが、鴈治郎の得意役なだけに悪くは無かったとは推測されます。

 

あかね染

 
二番目のあかね染は前に紹介した玩辞楼十二曲の内の1つである新作心中物です。
 
初演の浪花座の筋書 

 

新富座で再演した時の筋書

 

 

今回は半七を鴈治郎、遊女美濃屋三勝を福助、半七の女房お園を魁車、堤与惣右衛門を梅玉、母おきたを璃珏は初演そのままで、変わっているのが浪花座では延若、新富座では壽三郎が演じた忠六を上記の通り市川市蔵が務めています。
延若、壽三郎とどちらかと言えば脂の乗った若い役者が演じている役を当時50歳の市蔵が務めるのは通常の公演ではあまり考えられにくいですがこれも福助と魁車がそれぞれ持ち役を務めている関係で若い役を演じれる役者がいないが故の地方巡業ならではの配役と言えます。逆を言えば
 
・立敵
 
・立女形
 
・敵役
 
と演目ごとに全くニンの異なる役をそれぞれ演じきる市蔵の芸幅の広さが伺え、これに加えて巡業の前半では封印切で得意役の丹波屋八右衛門まで演じており如何に彼が鴈治郎一座の中で重きを置いていたのかが見て取れます。
そして劇評についても下関で観劇した人が
 
鴈の梅忠に半七、梅の合邦が殊に宜しく
 
と僅か一言ですが触れていて鴈治郎が評価されているのが分かります。
 
因みにこの演目は舞台写真も撮影されています。

 

鴈治郎の半七と福助の三勝

 
この様にこちらの演目は評判が良かった事が分かります。
 
歌仙彩
 
こちらは本の一言ですが唯一下関で観劇した感想が載っていて
 
長三郎、福助の所作も達者に踊りました。
 
と評価されています。
 
さて気になる結果ですが
 
・岡山では5日間満員売り切れ
 
・下関も4日間満員売り切れ
 
・大分も4日間満員売り切れ
 
・長崎に至っては8日間満員売り切れ

 

と毎年半年以上は巡業に費やしている事だけあって何処の地域も大抵は一度訪れている鴈治郎だけに知名度も抜群で記録にある限り何処も満員大入りとなりました。

因みに鴈治郎が寄せた手記によれば5月28日に小倉での千秋楽の公演中に近くの遊郭で火事が起き劇場近くまで火が迫り見物客は狭い劇場を我先に逃げようとする為に大混乱となったそうです。この緊急事態に対し鴈治郎は

 

お客の出切るまでは、決して逃げてはいけない。

 

と役者、スタッフに厳命し客を全員避難させた後に逃げたそうですが、火の手が迫り時間が無く歌仙彩に出る予定だった役者とあかね染の出演者は白粉すら落とせずに劇場から逃げた為に目撃した地元の人達は驚いてしまいちょっとした騒ぎになったそうです。

 

この様なトラブルはあれど行く先々で好結果を残して手応えを掴んだ白井は次第に巡業と地方主要都市への劇場建設を合わせて行う様になり、大正9年には大阪から遠く離れた九州・博多の地に大博劇場を建設するなど事業の拡大化を推し進める事になります。

今回はそんな黎明期の松竹の巡業事業の様子が分かる筋書と言えると思います。