大正5年12月 南座 鴈治郎の盛綱陣屋と幸四郎の大森彦七 | 栢莚の徒然なるままに

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今回はこのブログ初となる南座の筋書を紹介したいと思います。

 

大正5年12月 南座

 

演目:

一、井筒業平河内通
二、近江源氏先陣館
三、大森彦七
四、土屋主税
五、碁太平記白石噺
六、暹羅船
七、積恋雪関扉

 

私も色々な劇場の筋書を集めていますが昭和の南座はいざ知らず、明治、大正の南座はあまり見かけた事が無く、一度京都の古書市で大正時代の顔見世公演だけ集めた筋書集を見かけた事がありましたが価格が3万円越えしていて泣く泣く諦めて代わりに團蔵の佐倉義民伝の通しの番付を手に入れた事がありました。今回は他の筋書集に挟まる形で入っていた為に紹介する事が出来ました。

 

主な出演者一覧

 

本編に入る前にまず京都の劇場の状況について説明したいと思います。

令和に入っても京都では12月の顔見世公演が冬の風物詩になっている様に古くから歌舞伎が行われている場所で資料によれば江戸時代初期の元和年間には京都所司代の板倉勝重により7つの劇場が官許を受けたと資料にあるなど既に多数の劇場が作られていた事が伺えます。この事からも分かる様に江戸時代において歌舞伎の官許の劇場は江戸、京都、大阪と3つの地域に限られていた事などから歌舞伎の主要な市場として成立していた時期もありました。

 

しかし、年が下るにつれ歌舞伎の市場は次第に大阪の力が強くなっていった事から劇場は統廃合を経て江戸時代中期の四条河原には4つの劇場、即ち

 

・北座(北の芝居)

 

・南座(南の芝居)

 

・北東座(東の芝居)

 

・北西座(西の芝居)

 

に集約されました。しかし江戸後期の寛政6年の大火で西の芝居が、天保11年頃を最後に東の芝居が廃座となり、明治時代まで残ったのは北座と南座のみとなりました。そして北座も明治25年に四条通の拡張に伴い廃座となり、南座だけが残る事になりました。

 

明治時代の南座

その2

 

明治時代の南座の持ち主は幾度か替わり明治30年代は安田伝三郎が所有していましたが、明治39年に京都に本拠地を置いていた松竹に買収されて以降現在まで松竹の所有となっています。松竹は手に入れてから応急修繕を施した以外は暫くはそのままでしたが大正2年夏から南座を改築に着手し12月の顔見世公演に合わせて竣工させ、東京から二代目市川段四郎一門を呼んで初めて東西合同の顔見世公演を行うなどハード面でもソフト面でも改革を推し進めていきました。

また、これまで松竹は自身が京都に所有していた京都常磐座や京都明治座等といった劇場にも役者を割振っていましたが、南座の改築を機に大歌舞伎の役者は南座のみに出演する様になりこれらの劇場は旅回りや初代中村扇雀らの若手の公演用の劇場として使われていく事になります。

 

改築後の南座

 

さて、話をそろそろ本題に戻すと前年の大正4年は珍しく上方役者のみで顔見世を行ったのですが、大正5年は鴈治郎一門に加えて初めて松竹専属以外の役者である七代目松本幸四郎を迎えての顔見世となりました。

これは帝国劇場の筋書でも触れた様に相互出演協定に基づく交流の一環であり、以後昭和4年まで必ず帝国劇場の役者が出演する事となります。

さて僅か2ヶ月前の10月に浪花座で共演したばかりの幸四郎と鴈治郎ですが、今回は大阪からほど近い京都とあってか新作の暹羅船以外は全て違う演目を出し、幸四郎は大森彦七と積恋雪関扉を出し、福助が井筒業平河内通、芝雀が碁太平記白石噺を出した他、鴈治郎は暹羅船に玩辞楼十二曲に入れた大石主税と見物の投票で選ばれた近江源氏先陣館の計3つを出し物としました。

因みに幸四郎にとって南座に出演するのは明治45年6月に襲名披露の一環で出演して以来2度目の出演になりました。

 

新作には優しく解説が付いてる南座の筋書

 

また、南座では大正時代には早くも昼の部、夜の部のニ部制を導入しているのが特徴として挙げられます。その為、筋書には丁寧にも主要地域への国鉄、私鉄の時刻表が掲載されています。

 
時刻表
 

 

井筒業平河内通

 

さて、昼の部序幕の井筒業平河内通は以前に歌舞伎座の筋書で紹介した様に近松門左衛門が書いた原作ではなく榎本虎彦が手を加えた演目の方となっています。今回は歌舞伎座で歌右衛門が演じた生駒の前を在原業平との二役で福助、紅梅に芝雀、井筒姫を新升と若手主体の演目であるのが分かります。歌舞伎座の時はあまり評判が良くなかった演目でしたが今回もその例に漏れずイマイチだった様で劇評でもこの演目については詳しく触れられていません。

 

生駒の前の福助と芝雀の紅梅

 

 

近江源氏先陣館

 

続いて昼の部の中幕は一般投票で選ばれた近江源氏先陣館が上演されました。

明治42年に鴈治郎が歌舞伎座に上京した際にも演じた様に鴈治郎の得意役の1つであり、大阪では前に紹介した1年前の斎入引退公演以来、京都では明治42年の顔見世以来7年ぶりの上演でした。因みに今回は上演時間の都合からなのか中盤の注進受けはカットされた短縮版だったそうです。

今回は鴈治郎の盛綱に加えて幸四郎が和田兵衛で付き合っている他、微妙に梅玉、篝火に巌笑、時政に璃珏、孫八に魁車と正に顔見世の名に恥じない名題役者勢ぞろいの配役となっています。

劇評でもまず鴈治郎の盛綱について

 

柄で人を呑んでしまう

 

天下一品の賛辞も過賞ではない

 

と腹芸を重視した末広屋(中村宗十郎)の型を踏襲した型とそのニンで羽左衛門の様式美の極致とは異なる盛綱像を演じて称賛されています。

しかし、彼以外の脇はというと三婆の一つ微妙を務めた梅玉は

 

情愛深かったが、武家の後室としてはやはり璃珏に(役を)持っていきたい

 

と時政役で出ていた名脇役である四代目嵐璃珏が優れていたと評価されています。

 

それでも梅玉は評価されただけまだ良い方で篝火を務めた巌笑と早瀬を務めた新升に至っては

 

こんな取り合わせ止めてもらいたい

 

と取りつく島もない厳しい評価をされています。

 

大森彦七

 

そして同じ中幕には幸四郎の出し物の大森彦七も上演されました。

以前に浪花座で羽左衛門が出した時は福助が千早姫を務めましたが今回は芝雀が務めています。

劇評ではまず演目について

 

踊り手の少ない上方で所作事に飢えている私たちにとっては実際嬉しい出し物

 

と肯定的に評価しています。

確かに今まで紹介してきた浪花座の筋書などを振り返っても明治時代の上方役者の舞踊と言えば初期には二代目尾上多見蔵がいたものの、彼の没後は初代市川斎入が思い浮かぶ以外はこれといって所作事に秀でていると言える役者はおらず、若手では鴈治郎の長男の林長三郎と斎入の長男の二代目右團次がいる位でした。

その為、浪花座の所作事は大抵この2人が主で「見飽きた」という声もある位でした。

段四郎親子がよく大阪や京都に行く背景にはこうした踊れる役者の枯渇も一因でした。

その点、段四郎とは異なる踊りに秀でた幸四郎の評価は悪いものではなく、無論

 

「(お世辞を言う様な時の)顔付きをしたのは堪らなく嫌でした

 

という批判される箇所もありましたが、

 

極め付き

 

偽狂乱になってからは息もつかせぬ面白さ

 

と全体的には非常に高評価されています。

しかし、こちらも脇になると話は別で千早姫を務めた芝雀は

 

歌右衛門に比べると美しさと気品は及ばぬ

 

と歌舞伎座で演じた歌右衛門に比べると劣る部分があったらしく、また道後近信を務めた魁車も

 

呼吸が合わず

 

と慣れない舞踊に息が合わず不評でした。

原因としては明らかに舞踊の経験が少ない上方の役者と舞踊の名取である幸四郎が組んだが故に上手い下手がくっきり出る形になったのは明白で劇評にも

 

近頃よくやる上方(役者)の中に東京(の役者)を1枚加えるのは考えた方が良い

 

と書かれる程でした。

 

土屋主税

 

昼の部の大切は玩辞楼十二曲の一つである土屋主税です。当代の鴈治郎があまりかけない為に今の人には馴染みが薄い演目ですが、この演目は初代中村吉右衛門と当代の吉右衛門の得意役である松浦の太鼓を明治40年に渡辺露亭が鴈治郎の為に書き換えた演目となっています。尤も書き換えたと言っても松浦静山が土屋主税に変わっている関係で

 

・大高源吾を馬鹿にするのが其角と落合其月という細川家の家来になっている

 

・お園は源吾の妹ではなく、勝田新左衛門の妹となっている

 

以外は殆ど同じで要するに鴈治郎に松浦の太鼓の様な三枚目の役割をさせないようにしてるのが分かります。

今回は土屋主税を鴈治郎、大高源吾を魁車、其角を梅玉、お園を福助が務めています。

こちらも残念ながら劇評には書かれておらず詳細がどうだったのかは不明ですが、その代わり1つ裏話として12月14日は丁度赤穂浪士の討ち入りの日とあって連日大入りに気を良くした鴈治郎は出演者、裏方全員に蕎麦を振舞ったそうです。

 

碁太平記白石噺

 

夜の部の序幕に上演されたのは碁太平記白石噺です。

内容としては父親を殺された宮城野としのぶの姉妹が親の仇を討つ仇討ち物の話で今回は妹のしのぶが離ればなれになっていた姉宮城野と開会し仇討ちを誓う通称揚屋の場です。

以前に五代目菊五郎の七回忌追善でも上演された演目ですが今回は巌笑が宮城野、芝雀がしのぶを務めています。

こちらは劇評には僅かに

 

巌笑の白石噺だから(見ない)」

 

とあまりに辛辣な評価をされています。

ここまで書かれるとどうだったのかは気になってしまいます。

 

暹羅船

 

夜の部の中幕である暹羅船は前に浪花座で紹介したので詳細は省略させて頂きます。

 

積恋雪関扉

 

夜の部の大切は幸四郎の出し物の積恋雪関扉でした。

今も時折上演される為に馴染みのある方もいらっしゃるかと思いますが元々は重重人重小町桜という演目の二番目の切にあたる部分が見取りとして独立した演目となっています。

今回は大伴黒主に幸四郎、墨染に福助、宗貞を巌笑が務めています。何かと酷く言われる巌笑ですがこちらは幸四郎がいた事もあってか劇評でも

 

幸四郎の黒主は目覚ましく良かった

 

と書かれるのみで残りの上方勢は触れられていないですが幸四郎の大車輪のお陰なのか受けは悪くなかった模様です。

 

幸四郎の大伴黒主、福助の墨染

 

この様に劇評が盛綱陣屋と大森彦七しか詳細が書かれておらず今一つ詳細が掴みにくいですが入りの方はと言うと鴈治郎の盛綱陣屋の前評判と京都の人にとっては久しぶりの幸四郎出演とあって近年無比の盛況と言われる程の大入りとなり、16日間の予定が急遽3日間日延べする程となりました。

この空前の大入りに松竹と幸四郎は互いに手応えを感じた為、翌大正6年から昭和17年までの26年間の内、大正9年、12年、13年を除く実に23年もの間幸四郎は南座の顔見世の常連となる事になりました。

また鴈治郎も幸四郎との相性が抜群に合う事を確認し大正12年に関東大震災で出演する劇場を失った幸四郎を大阪に迎えその後帝国劇場が復興するまでの半年間あまり地方巡業を含め6ヶ月間も行動を共にするなど八百蔵、段四郎に並ぶ第3の共演相手としてその存在を認めるなど幸四郎にとっては実りの大きい南座初出演となりました。